───無気力。 日々、その言葉が付き纏うこの世界。 いや、世界に付き纏うのではなく、それはぼくらに憑いていると言った方が近しい。 当然自分もまた───無気力だった。 何に対して何を抱き、何を思っているのか。 それすらも希薄になりつつある自分が見上げるこの世界。 与えられるのは嫌だと思いながらも、自分からは何もしようとはしない矛盾。 そんな『自分』という厄介な荷物を背負いながら、いつだって生きてきた。 ───たとえば。 自分が自分である実証はどこにあるのかと、誰かが言った。 その後すぐに『冗談だけどな』と笑って、誰かは雑踏の中に姿を消した。 だけど俺はひとりで『たしかに』と呟いて頷いた。 でもそれは考えても無意味だと思う。 ああ、もっとも───考えること自体を放棄しない限りは、 それは『無意味』とは言いきれない訳だけど。 考えること自体に意味を問うのなら、考えること自体が意味なのだから。 それなのにその意味を問われたって答えようがない。 その問いこそが正に無意味だ。 ───無気力。 周りの連中から、どうしてか浮いた存在だと思う自分。 意識レベルで俺はこいつらを自分の景色に入れたくないのかもしれない。 それは何故だろう。 そう頭の中に訊いてみると、自分の脳は『自分を汚染されたくないから』と答えた。 確かに周りは自分を変えるが、変わらないままで居られる人なんて元より存在しない。 いや、出来る筈がない。 変わらない限り、いつまでも自分達は幼児のままなのだから。 だけど俺は……こんなつまらない世界、退屈な世界に先を見ること自体に呆れ始めていた。 そんな俺が体験した、ひと夏の物語。 それは、友人のひとことから全てが始まる─── ───陽炎の夏───
───……。 俊也 「……はぁ」 息を吐いた。 級友と別れてからの帰路を辿りながら。 俊也 「……明日から夏休み───どうするかな」 やかましい景色の中で騒音に掻き消された溜め息をもう一度吐く。 雑踏は絶え間無い。 こんな音をこの歳になるまでずっと聞いてきた。 いい加減うんざりだ。 やかましいだけの世界なんて望んじゃいない。 俊也 「旅行ってのもアリだな。静かなところに行くとか」 どうせ行くわけもないのに考えだけは働かせていた。 毎度こうだ。 行くかな、だけで行くことはない。 家でだらだらとした生活を続け、気付けば無気力が付き纏っていた。 俊也 「───」 ドアノブを回すと案の定、鍵がかかっていた。 まったく、また仕事か。 ……いや、食わせてもらってる分際でこの言葉は愚者の極みだな。 ───早く独立したいな。 頼らなくても生きていけるようになってみたいものだ。 俺に宛てられた親のメモを握り潰しながら、冷めた夕食を眺める。 どうやら朝、出掛けて行ったきりで帰らないつもりらしい。 念のために留守電を聞いてみれば、やれ忙しいだの出張がどうのと。 思いつく限りの言い訳をされているようで気分が悪くなった。 俊也 「……仕事だから帰れません、でまとめてみろってんだ……」 言い訳を聞きたいわけじゃないんだ、遠回しに言わないでもらいたい。 逆にムカツいてくる。 俊也 「でも、離婚とかになったら面倒なんだろうな。     よくありそうなパターンの家族だもんな、ウチって」 独り言を呟いて、俺は冷めきったご飯を温めもせずに食べた。 温めても温めなくても味は大して変わらないことを知っているからだ。 いつからだったかな、こんな生活が始まったのは。 ……そう、あれは小学の時だった。 俺が友達との遊びを終えて帰ってくると、両親は声を上げながら喜んでいた。 『昇進』と言っていたのを憶えている。 つまりは親父の働きが認められたんだ。 喜ぶべきことだっていうのはふたりを見ても明らかだったし、事実、俺は嬉しかった。 昇進がどうのこうのの問題じゃない。 ふたりが笑っている事実がとても嬉しかった。 ───ところが、この昇進はこの家族を明らかに崩壊させた。 出張に次ぐ出張、昇進からの責任の重さとストレス。 親父は精神的にも肉体的にも疲れていた。 明らかな働きすぎだった。 子供の俺から見ても、親父はやつれていっていた。 だけど親父の帰りが遅くても、おふくろは夕飯を作って待っていた。 最初は親父も喜んでいた。 仕事が長引いてて飯どころじゃなかったと言って、 おふくろの作った料理を食べていたものだ。 ところが数週間経ったある日、それは起こった。 親父は追い詰められていたんだ。 責任とストレスと上下関係に。 親父が昇進した部位は上と下から迫られるような仕事だったから。 親父だって悪気があったわけじゃない。 いつだって嬉しかった筈だった。 だけど─── 『こんな冷めたメシが食えるかっ!お前!俺が誰のために働いてると思ってる!?』 限界が訪れた。 それはあまりにも最悪なタイミングで訪れてしまった。 親父はおふくろの作った料理を払いのけ、母さんに向かって怒鳴った。 それでも母さんは謝りながら料理を作り直した。 でも、それさえも親父は払った。 『作りなおせばいいってもんじゃないだろう!俺の好きなものも解らないのか!?』 そう叫んで、母さんを殴った。 平手なんて生易しいものじゃない。 拳でだ。 俺は訳が解らないままに親父の足にしがみつき、その行為を止めようとした。 じゃれ付きたかったわけじゃない。 俺はただ、母を殴る父を。 そんな親父を見ていられなかったんだと思う。 泣きながらおふくろを殴る親父が、どうしようもないほどにちっぽけに見えたから。 あの大きかった背中が、もう俺の世界には存在しなかったから。 それが悲しくて、俺は親父の足にしがみつきながら、大声で……涙した。 ───それからは語るほどの価値もない。 翌日の朝、親父はとても情けない顔をしていた。 母さんは顔に包帯を巻いて、台所に立っていた。 昨夜、俺の叫ぶような泣き声を聞いた親父は正気に戻った。 床で倒れるおふくろは顔が腫れていて、 俺はその人を母だと認識するのに時間が要るほどだった。 一緒の部屋に、同じ状況の中に居たというのにだ。 親父はおふくろを車に乗せて病院へと走った。 幸い、親父には医者の知り合いが居て、その人に電話で呼びかけたんだ。 ……結論から言うと、母さんの傷は消えないらしかった。 大部分は消えてくれるらしいけど、消えてくれない部分もあると。 それでも母は親父を愛していた。 だから親父に仕返しをするようなことはしなかった。 ……いや、そういう人じゃあなかったんだ、基本的に。 だけど─── 懲りることを知らなかった親父は腐っていき、 おふくろはついに耐えられなくなってしまった。 酒やギャンブルなんて当然、朝帰りまでする親父をとうとう信じられなくなったのだ。 アルコールやギャンブルに逃げなきゃ親父が自分の心に潰れてしまうことくらい、 きっとおふくろが一番解ってた。 だからおふくろは耐えられなくなった心を、針のようなちっぽけな支えで持ちなおした。 でももう、そんなことも全てが夢の中だったことに、ぼくらは気付いていた。 ───俺が中学2年になる頃、親父が再び昇進した。 どんな仕事をしているのかなんて想像もつかない。 だけどその昇進をよそに、親父は家庭をかえりみなくなってしまった。 おふくろはそれでも夜食を作って待っていたけど、親父は帰ってこなかった。 次の日も、また次の日も。 帰ってくるとすれば一週間に1度くらいのものだった。 しかも帰ってくればきまって、おふくろに暴力を振るった。 俺は耐えきれなくなって親父に殴りかかった。 でも、俺の拳はおふくろ頬を捉えた。 ……訳が解らなかった。 どうして、と訪ねると───おふくろは微笑みながら、 『父さんきっと疲れてるのよ。解ってあげて』とやさしく言った。 俺はその時の母を尊敬するし、きっと一生忘れない。 ───けれど現実は残酷だ。 あんなにひたむきなおふくろだったけど、ついに芯が折れてしまった。 親父が愛人と居るのを見てしまったのだ。 何かの間違いだと言う母に対し、父は開き直って全てを暴露した。 ……それからの母さんを───俺は滲んだ世界でずっと眺めていた。 ───世界は続いている。 終わりだと思った現状はまだ続いていて、離婚には至っていない。 その原因が自分にあることも知っている。 どちらかが引き取らなければならないのだ。 俺というお荷物を。 俺自身ももう嫌だった。 こんなふざけた暮らしなんて要らないとさえ思った。 俊也 「………」 食器を片付けて自分の部屋に行く。 何度見ても殺風景な部屋。 幼い頃からあまり豊かとは言えなかった家庭において、 俺が買ってもらったのはせいぜい学校に必要なものと服くらいだった。 俺の通う学校はバイトが禁止されていて、自分で買うこともままならなかった。 その集大成がこの部屋だ。 まったく笑ってしまう。 俺の手元にあるのはせいぜい携帯電話くらいだ。 ……少しは暮らしが楽になったかと思えば家庭崩壊だって? ははっ、どうかしてるぜこの世界。 何かに当たらなきゃ我慢出来なくなる……。 それでも耐えてられるのは、ここで俺までが折れたら、それこそ家庭が崩壊するからだ。 今の状況でさえいっぱいいっぱいのおふくろだ。 もし俺が非行にでも走れば無茶するに決まってる。 俺はそんな無責任なことはしない。 俺は───俺はあの親父とは違うのだから。 俊也 「でも……な。どうしようもないのかよ、この状況……」 わがままなんて言わない。 ただひとつ、昔のあの時代を─── 裕福じゃなくても、楽しかったあの時代を返してくれ─── ───小さく呟いて、ガラにもなく涙を流した。 胸の中から溢れかえるように出てくる嗚咽が視界を滲ませる。 だけど、俺はそれに感情を委ねるようなことはしない。 無理矢理に涙を拭って、嗚咽を殺す。 弱くあっちゃいけない。 強くなれ、どんな状況でも下を向かないように。 いつか親父とおふくろが別れることになっても、しっかり前を見ろ。 希望を、ただ信じよう。 不幸だけじゃないって俺が信じなきゃ、誰が幸せを信じさせてくれる……。 俊也 「───っ」 ごんっ! 怒りと悲しみを右手に込めて、床を殴った。 自分で制御する加減を知らない衝撃に、拳の薄皮が剥げる。 どうしようもない感情が頭を埋め尽くそうとする瞬間、俺は頭を掻きむしった。 ───そんな時だった。 状況に似合わない電話の音が階下から鳴り響く。 幸い、それで少しは黒い気持ちが消えてくれた。 ───。 俊也 「もしもし───あ、タツか」 松風竜太───通称タツ。 一駅先の家から学校に通う俺の友人だ。 俊也 「なに、どうかしたか?」 竜太 『いやさー、どうしてっかなーってな。どうせおふくろさんとか居ないんだろ?』 俊也 「ま、いつものことさ」 竜太 『そうだけどさ。お前これから暇か?あ、つってもさ、明日からのことだけど』 俊也 「明日?なんか約束してたか?」 竜太 『んにゃ、約束なんてしてないぞ。俺が約束を交わすのは女とだけだ』 俊也 「……相変わらず女ひっかけてんのか」 竜太 『女の尻追っかけんのは俺の趣味だ』 ───ちなみにこいつは俺の知る中では一番の女泣かせだ。 って言ってもナンパなヤツってだけで、泣かせてた場面なんて見たことがないが。 俺の知る限りじゃあ学校の女生徒の大半はこいつとデートしたことがある筈だ。 俊也 「それで?明日になにかあるのか?」 竜太 『察しが悪いなぁ、誘ってんのよ?俺』 俊也 「俺にその趣味はないが」 竜太 『当たりめぇだ馬鹿!俺にだってそんな趣味あるか!』 俊也 「だったらキレる前に詳しく話してくれよ。     いきなり怒られたってワケ解らないだろ?」 竜太 『……明日から夏休み終了までさ、俺とナンパな青春過ごさねぇ?』 俊也 「………はい?」 竜太 『男の俺が言うのもなんだけどトシって結構顔いいからな。俺には負けるけど。     そんなわけでどうだ?ちったぁ女ッケつけてみろよ』 俊也 「……ウチの事情知ってるだろ?そんなことやってられる心境じゃないっつの」 竜太 『寂しいやつだなぁ。よし解った、なんならウチに来い。     またゲームで盛り上がろうぜ。なんなら泊まり込みもいいぞ』 俊也 「……迷惑かからないか?」 竜太 『男同士でな〜に遠慮してんだよお前。     前から言おうと思ってたんだけどよ、     お前ってもうちょっとサバサバしてもいいと思うぞ?』 俊也 「そうかな……」 竜太 『そうかな、じゃなくてそうするんだよ。     もういい決定!今からウチに来い!着替え用意してる暇あったら来い!     書置きしてる暇があったら来い!さっさと来い!     俺が男の在り方を叩き込んでやる!』 俊也 「今からっ!?お、おい勝手に」 竜太 『じゃあな!来いよ!』 『がちゃんっ!』 俊也 「うっ」 乱暴に受話器を置いたらしく、耳に響いた。 少し呆れながら自分も受話器を置く。 俊也 「……はぁ」 自分のサイフを開けて、溜め息を吐く。 人に見せられるほど入っちゃいない。 でも……いいよな、たまには。 おふくろには悪いけど、少しくらい羽を伸ばさせてもらおう。 そもそもおふくろにしたって材料を買って来てくれる程度で、 たまにしかメシを作ってくれない。 その『たまに』が今日だっただけだ。 今度の帰りはいつになるか解らない。 親父にしたってそうだ。 だったら───誰も困りはしないだろう。 俊也 「……よし、夏休みはタツの家で遊ぶ、と。     適当にメモでも残しておけばいいだろ。タツの家に泊まります、と」 簡潔に書いたメモをテーブルの上に置き、その上に適当な重りを乗せる。 俊也 「準備完了、と。     あとは着替え───って、また向こうが勝手に用意するんだろうな……」 タツの家は、言ってしまえばブルジョワジィなのだ。 そんなあいつと俺がどうして友達なのかは───ガキの頃からの腐れ縁なのだ。 何故か不思議とウマが合う。 俊也 「着替えを用意してる暇があったら、か。よし、行ってやろうじゃないか!」 俺は学生服のままである程度の荷物を持って家を出た。 もちろん鍵を閉めるのは忘れちゃいない。 あとは駅まで行って───なんだ、結構いい時間じゃないか。 ちょっと走れば余裕だな。 走るにはこの陽光が問題だけど。 ───。 そして電車に揺られる。 外を流れる景色は電車の早さとは違い、幾分緩やかに見える。 俊也 「……やばい、ねむい……」 景色を眺めるのは嫌いじゃないが、どうも見ていると眠たくなってしまう。 ……いいや、どうせ人が動けば起きるだろう。 こんなに人が居るんだ、大丈夫大丈夫……───ぐぅ。 ──────…………。 俊也 「───オウ」 第一声はそれだった。 なんともマヌケな声だったのが記憶に新しい。 ───早い話が、気がつけばよく解らない場所に居た。 おそらく車掌さんに起こされたりなんかして、 寝ぼけながら駅に降り立ったのだろう。 ふと目が覚めれば終電は遥か彼方に霞み、俺は駅で呆然と立ち尽くしていた。 その場に立っていたって電車が来るわけでもない。 こうして、俺は知らない場所を歩いていた。 気付けば陽は登り、俺の背中をジリジリと焼いていた。 そんな状況でも俺は、本気でここは何処なんだとか悩む。 俊也 「……はぁ」 今日だけで出た溜め息は数え切れない。 どこをどう迷ったかと言えば、 頭の中に残る道筋を記憶通りに辿っただけなのだ。 俊也 「う〜ん…」 やっぱり『ここは何処なのだ』と考える。 が……解らん。 大体にしてここが何処だか解ってもそれから何がどうなるというわけでもない。 それにしても、どうしたものかな。 記憶が示す通りに歩いて来たけど……ここは何処なんだ? 結局そこに当たる。 見渡す限り、緑が広がった場所。 街と呼ぶよりは、村と呼ぶ方がしっくりする。 来た道を振り向いても、地平線のように広がった田畑が広がっているだけだった。 俊也 「………」 いよいよもって、身に危険を感じる。 こんなことなら駅で一晩過ごして翌朝一番の電車で帰るんだった。 あー、疲れた……。 俊也 「まいったな……運動不足かな」 考えてみれば移動手段は自転車や車ばかりで、 自分で歩くことなど長らく行っていなかった。 だけどここまで歩いた自分を誉めてやりたくもあった。 ……歩いた所為で道に迷ったことは敢えて伏せるが。 なんにせよ、休める場所を見つけたいな。 足がガクガクだ。 体全体(特に足)が休憩信号を送っている。 何時間歩いたかは分からないが、頭もぼ〜っとしてきてる。 しかし、見渡す限りに田畑を目の前に、俺は溜め息を吐かざるをえない。 俊也 「……よし、あそこの木の下で休むか」 目に映る大木に向かい、重い足を動かす。 あそこで休むって言ってるんだから根性見せろお前達! 自分の足に向かってそんな愚痴が頭の中によぎる。 そんなことを考えたところで足は回復しない。 それは解っているがやはり腹立たしい。 俊也 「親不孝な足だ……」 だからつい、そんな言葉が漏れた。 俊也 「ふう……」 ようやく木の幹に寄り掛かり、息を吐く。 枝や葉が影となり、暑い陽射しからから俺を守ってくれた。 静かに吹く風。 こんなことを言うのは変かもしれないが、その風は清らかだった。 どう現せばいいのか迷うが、今までこんなにやさしい風を受けたことはない。 なんというか……そう。 空気が澄んでいるんだ。 排気ガスやタバコの煙。 そんな物からの汚れを知らない空気。 風が吹くたびに安心感を覚える。 その所為か、俺はいつの間にか寝てしまっていた。 どこまでも澄んだ青空を目に焼き付けながら……。 ──────……声が聞こえていた。 子供の声だったのを憶えている。 目に映る景色はいつも同じで、それでも好きと言える景色だった。 どこまでも蒼く澄んでいる空。 どこまでも続いていそうな緑と田畑。 どこから流れているのかも解らないけど、綺麗に澄んだ水の流れる小川。 耳に届く蝉の鳴き声。 森が風を受けて奏でる自然の演奏。 それに合わせて、鳥が歌う緑色の景色。 数人の子供が小川で遊んでいた。 水をかけあったり、虫をみつけては、子供達の笑い声が季節に響いていた。 ……澄んだ空。 そんな蒼を見ていたら、子供の頃に戻れるんじゃないだろうか。 そんな想いが溢れた。 勉強だとか、将来のことだとか。 そんなことを考えず、ただ純粋に笑っていられたあの頃。 大人になるってことは、自分を捨てることなのだろうか。 俺はいつまでも子供でいたかったんじゃなかったのか? 乗り物に頼らず、自分の足で駆け回っていたあの頃。 服が汚れてしまっても、それが楽しかった蒼い季節。 それなのに、今の自分はどうだろう。 乗り物ばかりに頼り、歩くことを忘れてしまった自分。 服が汚れてしまえば、愚痴をこぼしたりして怒って。 人に言われるままに動いて、家に帰れば特に目的もなくぼ〜っとして。 住んでいる場所にある緑なんて、数えられる程度だった。 どこにでもあるような日常を生きていた。 だけど、それに満足する自分は存在していなかった。 だから俺は……この広い緑を見た時、懐かしい気持ちが溢れた。 緑色の景色を自分の足で歩み、空を見て苦笑していた。 季節がめぐるにつれ、心の奥底に仕舞われていった大切な物。 それを童心と呼ぶとしたなら。 俺はもう、それを取り戻すことは出来ないのだろう。 汚れることを嫌っている人は子供には戻れないんだ。 そんな簡単なことが、今ではとても難しいことだった。 そんなことを考えている時点で、俺はもう子供には戻れないのだろう。 楽しかった想い出もいつかは色あせてしまう。 憶えていた想い出も時が経ってしまえば断片が欠け、 それは別の想い出と化すのだろう。 人と人が話す想い出が同じ内容であっても、小さな出来事やひとつの景色が違うように。 人の記憶なんて、いい加減な物なのだろう。 たとえ、それが鮮明な記憶であったとしても…… ───……カコッ……。 俊也 「………?」 妙な音を耳に、目を開ける。 ……と、目に映る天井。 俊也 「………?」 あれ……?天井……? 確か俺……あの木の下で寝たんじゃなかったっけ……。 目覚めたばかりの思考を回転させる。 ───軽快な音を脳裏に浮かべながら、俺は結論に辿り着いた。 そうか、全部夢だったんだ。 なんだ、そうか……。 結論に辿り着けば疑問など残らない。 もう少し寝るかなぁ。 そう思い、目を閉じた時だった。 ……ひやっ……と、額に冷たいものを感じた。 俊也 「………?」 うっすらと目を開ける。 すると目に映る景色。 女の子が俺の額に濡れタオルを掛けていた。 俊也 「………」 ……待て。 なんなんだ、この状況は。 俺は病気なのか? これは介抱してもらっている状態なのか? ………………解らない。 うっすらと見た少女の瞳。 なんというか、悲しみに溢れているような───そんな目だった。 ……しばらくすると少女はその場を去り、俺だけが残された。 俊也 「……どうしたもんかな、この状況」 悩む。 さらに悩む。 俊也 「───そうかっ」 さっきの女の子は幻覚! どうせ寝ぼけてたんだろう。 見知らぬ天井を眺めながら、納得した。 俊也 「…………………………………………ん?」 どうして見知らぬ天井なんだ? というか……ここは何処だ。 体を起こし、周囲を見渡す。 そこには変わった風景が広がっていた。 風景とは言っても、ちゃんと家の中だ。 だが、俺が住んでいたそれとは随分とかけ離れていた。 なんと言うか……そう、木造なのだ。 木造なら何処にでもあるだろうが、なんて言葉は言えたものじゃない。 本当に『木、一色』なのだ。 木のみで造られている。 そりゃあ、布団は木で出来てはいないが。 例えるなら、時代劇などである長屋……と言うか……。 ……カコッ。 俊也 「ん?」 さっきの音だ。 なんだろう。 音のする場所を探してみる。 俊也 「あ……」 カコッ……。 音のする場所。 それは小さな風鈴だった。 もっとも、そう呼んでいいのか悩むほどに不格好だが。 ガラス細工ではなく、木細工だったのだ。 かなり薄く仕上げられている。 そう思うと、不格好という言葉を訂正したくなった。 だけど、これでは風鈴ではなく木魚だ。 これでポクポク鳴れば、俺は笑っていただろう。 木造の家を眺めながら、そう思った。 ───気になって外に出て確認したが、瓦は無かった。 その屋根はワラで出来ているようだった。 ……雨が降ったら大変そうだな。 それが感想だった。 それに腐るのは早いんじゃないかな。 まあ、それにしても……どうしたものか。 大体、何故に俺はこんな所に居るんだ? 考えれば考えるほど、頭が痛くなる。 既に帰り道は解析不能。 不安が溢れてくる。 でもまあ、家があるなら人も居るんだろう。 さっきの少女の顔が頭に浮かぶ。 少し動いてみよう。 そう思い、動くことにした。 そして、人はすぐに見つかった。 それに家もそう多くはないが、存在している。 ……どれも先ほどの家と造りは同じだが。 俺は発見した人に話し掛けてみた。 俊也 「すみません、あの……」 俺の声に気づいたのか、俺に向き直る女の人。 なんというか、『お姉さん』といった印象を覚える。 女の人「……ああ、目が覚めた?」 俺の顔を見ると、納得したように頷く。 ちなみに俺は理解不能の状況。 俊也 「あの、ここは……」 とりあえず現在地を知りたかったので、そう切り出す。 いや、切り出したのだが─── 女の人「あなた、木の下で倒れてたんだって?」 俊也 「……へ?」 目の前の人に切り出された言葉に、疑問を感じる。 倒れてた? 俺は休んでただけだが…。 しかも、今の口調から察するに第一発見者はこの人ではないようだ。 ……って、何を探偵みたいにまとめてるんだ俺は。 俊也 「あ、えぇと……それってどういう……」 女の人「ホラ、あの娘があなたを運んできたのよ」 人の話を聞こうとしない人だった。 だが、一応は指を差した方向を見てみる。 その方向には女の子が居た。 なにやら薪を持っている。 俊也 「あ……」 さっきの女の子だ。 女の人「日射病になりかけだったあなたを運んできてくれたの」 俊也 「に、日射病?あの俺、ただ休んでただけ」 女の人「夏純、さっきの人が目を覚ましたよ!」 その声に振り向く少女……というか話を聞いてくれ。 ふと、目が合った。 途端、女の子は薪をその場に置いて駆けて来た。 一直線に俺に向かってきている。 パタパタと走ってきて、そしてズシャアッ!とコケた。 しかしすぐに起き上がり、はたはたと砂を払い、照れるように笑った。 俺と同い年あたりだろうか。 それにしては幼さが見てとれた。 俊也 「………」 少女 「………」 しばし見つめ合う。 俊也 「………」 少女 「………」 尚も見つめ合う。 俊也 「……あのさ」 しかし、そのままという訳にもいかなかった。 俊也 「ここ、何処?」 まず知りたかったことを訊いてみる。 少女 「………」 しかし少女は、俺を見つめるだけだった。 そして、申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。 女の人「この場所に名前なんてないよ」 どうしたものかと思案していると、女の人が話出した。 俊也 「いや、この場所じゃなくて……」 女の人「いいからまず聞いて。あなた、街から来た人でしょう?」 俊也 「はあ、まあ……」 女の人「そして、現在地を知りたい。そうね?」 俊也 「おっしゃるとおりで」 女の人「この場所……村って言った方がいいかな。ここには名前なんてないんだよ」 俊也 「……はい?」 名前が無い……? 女の人「政治やらなにやらから縁を切った村なんだよ。     だから、地図に載ってなければ、名前も……ね」 ち、地図に載ってない……!? 女の人「帰るんなら案内するわよ?」 女の人は微笑んだ。 俊也 「あ、道を教えてもらえれば……」 女の人「それは止めておいた方がいいわね」 即答で返される。 俊也 「え……どうして」 女の人「絶対に迷うから」 子供か俺はっ!……って、あ……。 俊也 「……いえ、もう少しここに居させてもらいます」 女の人「そう?……うん、それがいいわ」 子供……か。 自分の言葉になにを動揺してるんだか……。 俊也 「で、どうして迷うと?」 女の人「道が複雑なのよ。どこもかしこも田畑でしょう?」 なるほど、理解できた。 あの木に辿り着くまでのことを思い浮かべれば分かる。 同じ景色ばかりだ、あれでは迷うだろう。 女の人「まあ、ゆっくりしていってよ。悪い場所じゃない筈だから」 俊也 「はい……」 女の人「それと、その丁寧な言葉は禁止。あたしのことは姐さんと呼ぶこと」 俊也 「あ、姐さん……?」 女の人「本名は佐知子だけどね、まあ好きなように呼んでいいよ。     それと、この子は夏純」 ポン、と少女の頭に手を乗せて紹介する。 俊也 「かすみ?」 佐知子「そう、夏純」 それを合図にペコリと頭を下げる少女。 その表情は嬉しそうだった。 俊也 「……妹さんで?」 佐知子「あら、違うわよ」 俊也 「……ん、まあいいか。俺は朝月 俊也。よろしく」 佐知子「あさづき としや?」 俊也 「はい」 佐知子「丁寧語は無し!」 俊也 「あ、う、うん……」 恥ずかしい気持ちになりつつも、俺は『うん』と言った。 ……どうして恥ずかしいのだろうか。 子供の頃は自然と口から出た言葉なのにな……。 佐知子「俊也、ねぇ……」 そんな考えを余所に、何か考え込む姐さん。 佐知子「まあ……俊也なんて名前、どこにでもあるわね」 自己解決出来たようだ。 佐知子「ごめんなさいね、じゃあわたしはやりたいことがあるから」 去ってゆく姐さん。 結果的に俺と夏純は取り残される形となった。 夏純はまだ、俺の顔を見ている。 俊也 「……なにか付いてるか?」 言ってみる。 すると、首を横に振る。 俊也 「あ、そういえばキミが俺をここに……?」 訊いてみる。 すると、拗ねたような顔で俺を見る。 でも、コクリと頷く。 ……どうして拗ねるんだ? 俊也 「じゃあ、えっと……キミ」 拗ねた表情が少し増す。 俊也 「………」 夏純 「………」 もしかして……。 俊也 「キミ……」 夏純 「………………」 じと〜〜〜っとした目で睨んでくる。 ……どうやら、名前で呼ばれないのが不愉快らしい。 といってもなぁ。 初対面の娘をいきなり名前で呼ぶのは抵抗が……。 ……ああ、名字で呼べばいいじゃないか。 って、名字など知らん。 俊也 「……………………………か、夏純……さん?」 夏純 「……………」 『夏純』という言葉に顔を綻ばすが、『さん』が付け足された途端、睨んでくる。 俊也 「…………」 夏純 「…………」 この目……本気だ。 呼び捨てで呼んでくれないと睨み続けるです。 ……と、そういった決意のようなものを感じる。 俊也 「……あ〜えっと……か、夏純……」 暫く間があった。 後で『さん』を付ける気なんじゃないかと警戒しているのだろう。 が、すぐにパァッと笑顔になり、飛び付いてきた。 俺はそれを素早く避けた。 防衛本能というやつだ。 結果、夏純は大地に沈んだ。 なんという恐ろしきオナゴぞ。 穏やかな雰囲気で油断させておいて、 スイング式DDTを仕掛けようと襲いかかって来るとは。 倒れた夏純を見ながら、その勢いの強さに間合いを取る。 一瞬の跳躍でここまで飛ぶとは。 しばらく様子を見ていると、夏純が起き上がった。 ハタハタと砂を払う。 その目には涙が溜まっている。 ……詳しく言えば、少々しゃくりあげている。 涙の溜まった瞳で俺に向き直る。 なにか怒鳴られたりするんじゃないかと思ったが、 夏純は少し後ろに下がるだけだった。 俊也 「………?」 なんのつもりだろう。 そんなことを考えたころには夏純は実行していた。 俺目掛けて大激走。 後ろに下がったのは助走の為だったのだ。 そして一定距離に達すると、飛びかかってくる。 俊也 「うわっ!」 俺はまたしても避けた。 結果、夏純が先ほどより尚、大地に激しく沈んだ。 今度は着地点も考えたようだ。 草むらに倒れる様を見て、そう思えた。 というか、何をしたいんだこの娘は。 夏純 「………」 ギロリ。 明らかに睨んでくる。 俊也 「なにをやりたいんだ、キミは……」 そう言うと、首を横に振る。 俊也 「……名前で呼べ……って?」 コクリ。 頷く。 俊也 「それならさ、夏純も喋ってくれないか?どうにもこう、テンポが……」 俺はそう言った。 悪気があったわけじゃない。 そう思ったからそう言っただけ。 だけど、少女は顔を伏せてしまった。 夏純 「………」 口が開く。 だけど、そこから言葉は発せられなかった。 俊也 「……もしかして……喋れない、のか?」 夏純 「………」 コクリ、と頷く。 俊也 「……悪い、知らなかったから……」 夏純 「………」 諦めにも似た表情で、首を横に振る。 そんな少女の態度が胸に痛かった。 夏純 「………」 夏純が俺の手を引く。 俊也 「どうした?」 ぐいぐいと引っ張る。 俊也 「何処かに行くのか?」 コクリと頷く。 俊也 「解ったから、そんなに引っ張らないでくれ」 そう言うと、いたずらっぽい表情で首を横に振る。 イヤ、だそうだ。 俊也 「……ふぅ、何処に行くんだ?」 楽しそうに笑う少女を前に、俺も久しぶりに笑っていた。 変わった少女だった。 ……しかし、なにか違和感を感じていた。 さっき俺を介抱してくれていた少女。 それは間違い無くこの子なんだが。 どうにもこう、印象というものが違った。 あの悲しそうな表情は気のせいだったのだろうか。 Next Menu back