───いつか駆け抜けた春に咲く花の物語。
 季節がめぐるのは早くて、だけどそれが嫌だと思ったことはなかった。
 ゆっくり流れている筈だけど、早く感じる時の流れ。
 それはその時間がどれだけ楽しかったかが解るからだ。
 朝露に霞む公園を歩き、石の階段を登り。
 そして目の前にある大きな桜の木を見上げる。
 綺麗な景色はいつ眺めても綺麗で。
 だけど、いつまでもその景色が続くことはなかった。





01/幸せを届けし災厄をもたらす者のコト

-_-/穂岸遥一郎

 ひとり暮らし───そんな言葉に憧れた。
 そのためにしてきたことは数えられるほどしかないが、それでも頑張ったつもりだ。
 主に勉強。家庭教師や塾通い、憶えることは大半憶えた。そんなわけで今日から高校生になるわけだが……ただの高校生ではないのだ。

  “ひとり暮らしの高校生”。

 そう……わざわざ実家から遠く離れた高校を受験、それに合格したのだ。
 ついに夢だったひとり暮らしが実現する。
 もちろん楽しいことばかりじゃないということは、十二分に理解している。
 けれど、炊事からなにまで勉強、特訓した俺に恐いものなどない───と、思いたい。
 なんにせよ、これから大変だ。

「───」

 アスファルトを踏み締め、とある家を見上げる。金持ちの叔父が買ったという家だ。買ったはいいけど使ってないとかで、俺が借りてもいいことになった。なんという幸運。
 了承を得るのは困難かと思いきや、簡単にOKが出た。叔父は“使ってないんだから”と言い、両真は……、まあ、どうでもいい。

「ふう……」

 荷物から鍵を取り出して玄関ドアを開ける。
 この行動だけでも一人暮らしという言葉が嫌でも頭に染み入ってくる。嫌じゃないけどね。

「よっ……と……」

 扉を開けて中に入ると、独特のホコリっぽさが鼻につく。
 まずは何をいたしましょう。掃除でしょう。
 呼吸を止めつつ家の中に上がって、窓という窓を全開にし、最初にすることは掃除だった。
 ハタキ片手に西から東へ南から北へ、天井にくっついた埃をまずは落としてゆく。天井を先に掃除しないと二度手間だもんなぁ。

「ゲッホゲホゴホッ!」

 ハタキで落とす埃の量も結構なものだ。さすが、長いあいだ人が住んでいなかっただけのことはある。

「あー……」

 悩みながらも掃除をする。
 マスクでもあればよかったんだけど、生憎とここに来る前に送った俺の荷物が届くのは明日だ。それは調べておいたから間違いはない。間違いはないからこそ、今日は家では何も食べられない。
 この家には食器が無い。無かった。ものの見事に。もちろんそれは一足先に叔父から聞いてはあったから、荷物の中に食器を入れておいたりもしたのだが……届くのはやっぱり明日なわけで。。

「とほほ……」

 届くまでは家で料理も作れないわけだから、空腹を忘れるために今日は早めに寝よう。それが得策だ。
 あぁ、あと何かバイトでもしないと。お金なんて無くなるのはアッという間だ。

「うん、いい感じだ」

 ひとり暮らしを実感させるような言葉に感動する。
 ああ、幸せだ。俺……幸せ噛み締めてるよ……などという考えをめぐらせながらも掃除を続けた。

「あ……しまった」

 天井や壁から落とした埃を一箇所に集めた時。ふと、あることに気づいた。

「チリトリ……」

 塵取りが無いのだ。
 ホコリだけ集めてもなぁ……箒は何故かあったんだが…何故?

「……まあいいや」

 えっと、確かバッグの中に紙が……あったあった。これをこうして折って……と。はい出来上がり。

「折り紙知識って、結構馬鹿に出来ないな……」

 箒を上手く使い、カラのゴミ箱に入れる。
 と言っても、紙で作った陳腐なゴミ箱だけど。

「これでよし、と……」

 今日の目的の掃除を終わらせて、適当に入った部屋のベッドの骨組に倒れこむ。折り畳み式の通気性に優れたスノコみたいなベッドだ。直に寝ると実に寝辛い。布団も明日届く予定。
 なにからなにまで勝負は明日か。長い一日になりそうだなぁ……。
 んー───………


───……。


 ───……ん?

「あ……寝ちゃったか……」

 少しボウっとした頭で辺りを見渡すと、すっかり暗くなった部屋。
 骨組みから体を起こして、一応の自分の部屋として指定した場所から出ていく。
 廊下は……うん、真っ暗だった。いっそ薄気味悪いくらいだ。

「暗いな……今何時だ?」

 持っていた腕時計を見る。うん、暗くて見えない。
 だったら、と時計についているスイッチを押して、ライトをつける───と、針は結構な位置を示していた。深夜である。
 ……まいった。眠気は全然、全く、これっぽっちも無い。
 あの時間から寝て、起きたのが深夜では……うん、今までにない熟睡と言える。きっと疲れていたんだろう。もしくは今日までを頑張りすぎて、緊張の糸がブチーンと千切れたとか。どちらにしろこれ以上寝るのは無理そうだ。
 そう判断して、仕方無くダイニングルームへ。
 冷蔵庫を開き、水分補給を───OH。

「ぐは……水も無いなんて……」

 冷蔵庫はカラでした。そりゃそうだ。むしろ冷蔵庫があること自体が奇跡だ。コンセントすらついてない状態だとしても、あることに感謝を。これも掃除しないと。ヘンな匂いするし。

「……仕方ない、カルキ入りの美味しい水(皮肉)で我慢するか」

 水道水の味はどうにも苦手だ。塩素が入っているから、うがいには最適とはいうが。
 背に腹は代えられるわけもなく、お台所のシンクの蛇口をお捻りあそばれた。いや落ち着こう、ちょっと落ち着こうか、自分。……、……よし、暗いからって動揺しない。

「ていうか水、出るのかな……あ、出た」

 水が止められているかと思いきや、水はあっさりと出た。
 しかし───

「……コップが無い」

 なんてことだ。
 水があるのにそれを受ける容器が無いとは。

「まあいいか……よっ」

 乗り出すように体を捻り、蛇口から出る水を飲んだ。うん、実にカルキだ。

「はぁ……これからどうするかなぁ」

 そこが一番の問題だった。
 本を見ようにも本は無く、ゲームも無い……いや、ゲーム自体をよく知らない。
 勉強づくめだったからなぁ。

「ん、いいや。散歩でもしよう」

 そう決めて玄関へ。靴を履き、ドアに手を掛けた───その時だった。
 ピンポ〜ンとドアチャイムが響く。

(こんな時間に客? いや、誰にもここのことなんて話してないし……もしや泥棒!? って、泥棒が堂々とチャイム鳴らすだろうか)

 よし解らん。解らないなら確かめてみるまでだと、ドアノブに手を伸ばして開けてみた。するとそこには……明らかに運送業の制服を着たおにーさん。

「どなたで?」
「すいません、お荷物ですけど」

 にも───へ? 荷物って……俺の?

「えぇと? 三波さん……ですよね?」

 男が紙を取り出し、確認をする。
 三波は叔父の名字だ。
 ここは叔父の家だから当然だが。

「は、はぁ……」
「じゃあ、ここにハンコかサインを」
「………」

 夜中に届くものなのか?
 そう考えてみたが、差し出された紙は確かに俺宛の荷物確認票だった。
 それを見ている内に、ドカドカと荷物が運ばれる。

「えと、じゃあ……」

 ポン、と叔父に借りていたハンコを押す。

「……確かに。それでは」

 印を確認すると、去っていく運送業の人を見送る。
 ボケ〜っと眺めつつ、車が完全に見えなくなると、ハッとしてドアを閉めた。

「………」

 そして改めて荷物を確認。確認票だけがホンモノで、中身が違うとか……ないよな?

「ん〜……」

 ひとつひとつ、きっちりと確認していく。あれもあるこれもある、それもあってこれもある……うん。

「───よかった、ちゃんと俺が送った物だ」

 ひと安心。じゃあ、早速配置に───マテ。

「………」

 動こうとした俺の目に、見覚えのない箱が映る。

「……? なんだ、これ……」

 じっくりと見てみる。
 宛先は……あれ? ここだ。
 叔父が送ったものだろうか。
 あ、もしかして必要なものを揃えてくれたとか?
 試しに持ち上げてみる。

「……う?」

 中々に……重い。豪華食器一式セット! とかいって滅茶苦茶重かったらどうしようとか思っていたんだが、本気で力を込めれば持ち上がるくらいのものだった。ガチャガチャとはならないから、食器とかではないだろう。

「……?」

 疑問を抱き、ベリベリと箱を開けてみた。
 そして中身を………………中身を……。

「……………………………………わあ」

 どうしよう。
 ええと………………どうしよう。
 正直な話をしよう……何故こんなことになったのかがそもそも解らない。
 中身のソレを見た俺は、とにかく混乱した。混乱するなっていうのが無茶だ。

(い……いや、とりあえず落ち着こう。えぇと、深呼吸深呼吸…………よし)

 心を落ち着かせてから、ダンボールの中のソレに、ポン……と触れてみた。

「………………」

 まいった。
 幻覚であることを願ったのに。
 はっきり言ってしまえば、箱の中にはナマモノが入っていた。
 『ケ』が入ればナマケモノだが、それはどうでもいい。うん、つくづくどうでもいい。

「…………《すぅ……》」

 で、俺がそんな混乱状況に陥っている中で、箱の中のソレは……うっすらと目を開けたのだ。
 虚ろげな瞳に俺が映った。目をこすった後、大きくあくびをするソレ。
 そうすると改めて俺の顔をパチクリと見た。

「………」
「………」

 訪れる沈黙。
 その後、目を閉じて就寝───って!

「寝るなぁあああっ!!」

 ナマモノの肩を掴み、がっくんがっくんと揺する。この物体はいったいなにを考えてるんだと言わんばかりに、目が回ろうが構わずに。

「ひやぁぇえええぇぇぇ……」

 ナマモノが唸った……おお、くらくらしている。
 しばらくしてようやく落ち着いた中のそれ───少女は、俺を見て涙を流した。

「えぐぅ……いじめられたです……」

 いじめた憶えなど全然無いのだが、ナマモノはそう語る。

「サクラはただ、おねむしてただけなのにぃ……」

 いつまでも|生物《ナマモノ》として見るのは可哀相だろうか。
 とりあえずサクラという名前らしいし、認識としてはそっちで。

「キミ、どうして箱に収納されて送られてきたの」
「……それは、神様が───ふややっ! ななななんでもないです!」
「神様?」
「です。神様はサクラに言いました。幸せな人と暮らし、幸せを集めろと……!」
「……キミさ、よく間抜けって言われない?」
「ふやっ!? ……え……と……そ、そんなこと……ないです?」

 どうやら言われてるらしい。

「で、俺の幸せを狙ってると?」
「ハイ♪ そです。……ふや? どうして知ってるです?」

 ヤバイぞこの娘。天然だ。
 ぽやぽやしている少女を前に、軽く眩暈を覚えた。
 新手の勧誘かなにかなんだろうか。神とか言ってたよな……宗教?
 いやまあ今はそれはそれとして置いておこう。

「やっぱり間抜けって言われるだろ、キミ」
「です。……え? わやや……言われないです……」

 思いきり頷かれてから否定されてもなぁ。
 どうやら『間抜け』は気にしているらしい。

「それで……どうするんだい? これから」
「なにです?」
「いや、なにです? と言われても」
「えと、住むです」
「何処に?」
「ここです」
「………………箱の中?」
「……せまいです」
「つまり、この家に住むと?」
「です」
「却下します」
「神様に言われたです。ここに住んで、幸せを少しずつ集めろと。だからこうして箱に紛れて……はやや!?」

 説明していた少女が、素っ頓狂な声をあげた。
 どうしよう、反応速度が一手遅い感じの少女だ……意思疎通が難しそうだと思った俺は悪くないと信じたい。

「却下です?」
「却下です」

 ああ却下だとも。気づくの遅いって。

「ど……どしてです?」
「俺はひとり暮らしがしたくてここに来たんだ。その幸せを潰されてたまるか」
「だから、その幸せをサクラがササッと貰って」
「いくな《ズビシ》」
「はうぅ……」

 つい言葉の途中でツッコミを入れてしまう。こう、腕を突き出しても手の甲を相手に向けて
 自分でも無茶を言っていることくらいは解るのか、サクラは微妙に困った顔をして俯きだしている。

「さあ、箱の国にお帰り……」

 しかしやっぱりそれとこれとは別なわけで。
 ソッと、極めて優しく、小さな体の箱入り娘を外へと運んだ。

「……凍えるです」
「あのねぇ……もう春なんだ。そんな凍えるほどの風なんて《びゅごぉおおおおおっ!!》……吹くんだなぁ」

 家に戻り、バタン。と、ドアを閉める。
 何も見なかった……そう信じるんだ。あれは幻覚かなんかに違いない。

「さっ……! さ〜む〜い〜で〜すぅううぅぅ……!!」

 フウと額に滲んだ嫌な汗を拭っている最中の俺の耳に、絶望的でいて、だけど余裕がありそうな間延びした声が届く。

「…………」

 ドアを開ける。
 すると雷鳴が轟き、大雨が降り始めた。

「死ぬです……!」

 その真っ只中で、箱に入ったままのピンク色の髪の少女。……染めているんだろうか。それとも地の色? だとするととんでもないな。
 髪の毛を紫色に染めていたお年寄りに、脳内で“グレートハンマーヘッド”というあだ名をつけた日を、どうしてか無駄に思い出した。

「キミ、不幸の伝導師?」

 荷物を漁って見みつけた傘を差しながら問いかける。
 玄関前ということもあって、届きはしないと……そう信じてみるも、無駄だった。強い風に乗った雨が容赦無く少女の体を打ちまくっていた。いや、ほんと不幸の伝道師かなんかですか? こうまで横殴り豪雨なんて初めて見るんだが。

「違うです……」

 雨にうたれたその顔は、雨粒と涙に濡れていた。涙なのか雨粒なのかも実際には見分けられないものの、なんとなくで。
 どちらにしろこのままにするわけにもいかない。ほうっておいても目覚めが悪いからだ。溜め息ひとつ、サクラを後ろから抱き上げ、家に入った。

「………」

 ……世の人々よ。世の中には女性を持ち上げた時に“軽いな”なんて言ったり思ったりするものがあったりするね?
 俺は勉強ばっかりしていたからアニメとかゲームのことはあまり知らない。漫画だってそれほど読めていない。……けれど。全く読まなかったわけじゃないんだ。
 その中にはラブコメ的なものもあったんだけど……ハッキリ言おう。
 人間一人が軽くてたまるか!
 赤子ならまだしも、子供だろうと立派に重いわ!

「……?」

 俺を見上げるサクラの顔には困惑が見てとれた。
 これはあれだろうか。重いなら下ろしてくれとかそういうことを気にしての表情───

「平気……です? サクラを中に入れて……」

 ───なんてことはありませんでした。
 確かに大事なことだけどさ。大事なことだけどさぁ!
 ツッコミでも入れてくれようとは思ったが、今はさっさと話を進めるべきだろう。
 じゃ、話し合うためにも少女を床に下ろして、と。よし。
 改めて、脅えるように、それでも希望にすがるような瞳を見つめ返し、言う。

「仕方無いだろ? あのままにしておくわけにもいかないし」
「……やさしいです」

 少女が俺を見上げて、嬉しそうに微笑んだ。
 そんな少女に待ったをかけて、思ったことを口にする。
 「優しかったら最初から招いてるよ」と。少女はその言葉にふるふると首を横に振って、「それは違うです」と返してきた。

 違う? 違うって……?

「知らない人が来たら追い払うのが普通です。だけど、それでも迎えることはやさしさか打算がないと無理です」
「うー……」

サクラが言うことは的を突いていると思う。
だが。
そう言われて“そうザマスか”と頷いてみせる奴など、俺は見たこともないし、自分でもする気はない。

「どうかしたです?」

 疑問系の、ポカンとした表情が俺を見上げる。
 能天気そうでいいなぁこの子。

「あのな? 人には反発精神ってものがあって、優しいとか言われると非常に恥ずかしいんだよ。思わず逆のことをしたくなる。説明しておいてそういうことをする馬鹿はそうそう居ないとは思うけど」
「はやぁ……そなんですか……」

 それならば、といった顔でなにやら考え込み、パッと顔を上げる。
 出てきた言葉は

「外道《ディシィッ!》ふきゃっ!?」

 言われた瞬間にデコピンが炸裂した。誰が外道か、誰が。

「えぐぅ……殴られたです……」
「あのなぁ、ストレートで解りやすいことだが、それじゃあ反発するどころか激怒するぞ」
「難しいです……」
「お前が間抜けなだけだ」
「です。……あぅうっ、間抜けじゃないですぅっ」

 意外と正直で結構。……じゃなくて。

「まぁいいけどさ。それで……やっぱり住むのかい?」
「住むです」
「……はぁ」

 結局、夢は夢でしかないのか。
 頭の中で嘆きながら、リビングに辿り着く。
 追い出してしまえば後は楽だ。とっても楽だ。
 けれど、もしそうして翌日に冷たくなって発見されましたなんて情報を知ってしまったら、早くもご近所様に忘れることの出来ないほどの知名度を提供することになる。
 そんな一人暮らしなんて地獄以外のなにものでもないだろう。

「えっとさ、ひとつ言っておくけど」
「なにです?」

 てほてほとリビングまでついてきたちっこい少女に言葉を投げる。少女……少女ね、なるほど、的を射ている。実に少女だ。ただし幼女とまではいかないと思う。うん、住まわせることで幼女趣味の変態とか思われたりしないよな?
 別の意味でご近所様に知名度をご提供することにならなければいいんだけど。

「キミが住むことで俺の幸せは無くなるんだぞ?」
「はや? どしてです?」
「俺はひとり暮らしが幸せだったんだ。ようするにふたり暮らしになるとしたらキミの望んでいる幸せは得られない」
「……どしてです?」
「………」

 人の話をちゃんと聞いているのだろうか、この娘は。

「俺は、ひとりで暮らすことが、この上ない望みであり、幸せだったのっ」

 区切るように、それでもハッキリと言ってやる。
 噛み砕いた言い回しにパチクリと目を瞬かせたピンクヘッドさんはしかし、「だいじょぶです」とキッパリと返す。
 それに根拠があるのかは、また別の問題だ。

「サクラが幸せにしてあげまです」

 “あげまです”って何だ。いろいろツッコミたい。あとそれ質問の答えとは微妙に違う。いや、いいのか?

「キミが? どうやって」
「えっと……」

 考える。というか、いつまで俺は震える少女をそのままでいさせる気だ。

「あぁうん、それは一旦保留。とりあえず風呂に入ってこい。このままだと風邪をひく。話はそれからだ」
「だいじょぶです」
「なにが」
「えっと……《ゴソゴソ……スチャッ》」

 懐から妙な機械を取り出した少女が、それを腕に装着してひとつのボタンを押す。
 するとどうだろう。突如として少女の体が薄い光を帯びて、気がつけば少女の服や髪に付いていた水滴は消えて、服も乾いていた。

「……です」

 なにが“です”なんだ。

「これでだいじょぶです」
「…………」

 いやいや待とう。え? 今……え? 何を……?
 かっ……乾いた? 服が? 瞬時に? 光で?

「……ちょっ……と待て……!? なななにっ……ん、ごほんっ! ……なにをしたんだ?」

 頭の中の常識が非常識と戦っている。どもりつつもなんとか謎を言葉にしてみると、少女の口からついに謎の答えが───!

「はうぅん、やっぱり服は乾いてるのが一番です」

 だから人の話を聞きなさい。

「なんの話でしたです?」
「今、何をしたんだ?」
「ボタンを押したです」

 一目瞭然だったが、正論だ。さて、考えよう。こういうヤツに手際良く結論を出させるにはどういう質問がいいんだ?

「……そのボタンを押すと服が乾くのか?」

 よし、これは的を突いていて、答えるのは簡単だろう。

「ボタン? 別に外れてませんです」
「………」

 別に服のボタンが外れてるぞ、なんて言ってないだろう。そもそも貴様の服はポンチョみたいな形で、ボタンっぽいのも見当たらない。
 まいったぞ、こいつ……理屈で言える程の天然じゃない……。
 いや、これはこの少女なりのジョークなのかもしれない。

「………」
「?」

 ゴクリ。なんとなく息を飲んだ。
 何故だか、この少女は確実にボケだと確信した。
 くっ、どうする……。って、どうするもなにも、家に住むそうじゃないか。

「あぁ……どうしたものかなぁ……」
「なにです?」
「……ここに、住むんだよな?」
「です」

 まいった。少女は本気らしい。

「……で、ここに住んで何をする気だ?」

 その質問は“幸せを集めるです”で返された。
 幸せ? なんのために? って、どうやってそんなものを集めるんだ。
 黙っていると、少女が続けた。

「えっと、この機械で吸い取るです」
「この機械って……この腕の?」
「です」

 言って、微笑む。
 なんでもこの機械は、天界でこの仕事を任された者だけに渡されるという。“この仕事”というのは多分、目の前の少女が言う、幸せ集めのことだろう。
 ……大丈夫、ツッコんだら負けだ。天界ってなんだーとか言っちゃだめだぞう、俺よ。

「……こんなものでどうやって」
「目には目を、です」

 少女……ああもう、サクラ、サクラでいい。サクラが機械についている謎のボタンを押す。
 ピッ。という音が鳴って、カタカタと音を立てている。
 どうやら試すつもりらしいけど……はて、こんなものでどうやって? 動作を確認出来ることはいいことだと納得できるものの……。
 だけど『目には目を』は関係無いと思う。

「|翡翠《ひすい》の結晶の部分に触ってみるです」
「これか?」
「です」

 言われるまま、おそるおそる、薄く光る翡翠の結晶に触ってみた───途端。

「ぐっ……!? ぅううぁああぅううつ!?」

 何かが俺の身体中から手の指先に集まって、その先から失われてゆく。
 嘔吐感にも似た気持ち悪さに襲われて、足も震えて、眩暈さえ出てきた頃。サクラの腕の機械から、ピピンッ、なんて暢気な音が響く。

「……幸せポイント、5です」

 なにか、大切な物を失った気がする。
 ああ、なんて寂しいんだ。

「あははは……俺はなんて不幸な奴なんだ……」

 突然に何もかもが辛くなる。
 え? 幸せの集め方? どうでもいいじゃないかそんなこと。そもそもここに居ること自体が不幸だったんだ……今さらなんだそんなもの……。

「うややややっ!? 吸い取り過ぎたですっ!」

 サクラがなにやら慌てている。
 でもいいや。俺には関係無い。
 儂ゃァもう疲れたんじゃ……なにもかもが……めんどい。

「えっと……っ!」

 目の前のピンクヘッドさんが力無く項垂れる俺の手を取って、翡翠に当てる。
 そうしながらなんとか機械を操作すると……再びの喪失感が到来。
 僅かに残っていた希望までもがズゴゴゴゴと吸われていく気配に、もはや嘔吐感すら働かなくなった。

「これでおっけ〜です。全部返したです」
「………《ぼてり》」
「うや?」

 少女の言葉とは裏腹に、足から崩れるようにして床に倒れた。
 なんだか、全てを抜き取られた気がしたのだ。ああ、なんだか考えるのも辛くなってきた……。
 ヒナ……今からそっちに行くからな……。俺、もうこの世界になんの希望も持てない……。

「きゃややぁーーーっ!! 押すボタン間違えましたですーーーっ!」

 身体が軽い。今なら“あの世”に簡単に行けそうな気がした。
 僕ァ地獄行きザマショウか。それともヘヴンズゲートが迎えてくれるのか? 本当に地獄に鬼は存在するのかな。
 ああ、そういえば小学生の頃の文集で、地獄の鬼にウエスタンラリアットをかましたいって書いて先生に怒られたっけ……。
 正直な心意気だったのになぁ。あの頃は随分とやんちゃだった。ヒナもまだ生きていて、俺も素直に馬鹿っぽくて…………ああ……どんなことがあったって、あの頃は楽しかったなぁ……。

「えっとえっと、こ、このボタンでしたです?《カチリ》」

 目の前の……誰だっけ。考えるのも辛い。えぇと、少女? が、ボタンを押しながら、俺の腕に翡翠を当てる。
 その途端、俺の着ていた服は光を纏い、|死装束《しにしょうぞく》へと変わった。

「ややややぁあああっ! 間違えたですっ!!」

 ありがとう。これで心置き無く死ぬことが出来るよ……。
 あれ? でも……俺、何の為にここに来たんだっけ……。
 ……あっははっ、解らないや……。
 おやすみ、世界のれで〜すあんどじぇんとるめん……。
 父さん、母さん、先立つ不幸の許可なんて取らないよ……俺は自分の意思で全てを諦めて、あの頃の自分のままで、ヒナのもとへ───

「こ、これですっ《カチッ》」

 体が絶望を受け入れて力を失ってゆくさなか、慌てた少女の声が耳に届いた。




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