───彼の言葉はいつだって、俺にとってなによりの正義だった。

憧れるものは誰にだってきっとあり、自分も例外には至らなかった。

前も後ろも向いて生きるということ。

下も上も見て歩くという生き方。

そんな不器用さの全てが俺の導であって、俺の世界の全てだった。

憧れたものがあって、届かなかった理想があって、壊れてしまった現実があった。

いつしか懐かしむことも思い返すことも忘れた自分と、

置き去りにされたいくつもの思い出。

元気に笑っていた自分と、泣くことも出来なかった自分。

いくら頑張ってみても、もう昔を取り戻すことなんて出来やしなかった。


───あれからいくつもの月日が流れた。

34年という時間は長い。

得たものがあって、その残骸によって記憶の奥底に沈んだものがあった。

届けたかった言葉も叫びたかった悲鳴も全部埋もれ、やがて記憶の奥底に消えていった。

……それでも時々に思う。


今の俺は───

広かった、あの大きな背中に───

微笑みかけることが出来るだろうか───……













───幕間/欠けたままの感情の行方───
───初めて夕焼けを仰いだのはいつだっただろう。 大きな誰かに背負われて、広い朱に興奮したのを覚えてる。 広く、大きな空。 手を伸ばしたけれど届かないそれを、僕はいつだって眺めていた。 視線を降ろせば広い背中。 僕はこの背中が好きで、彼が散歩に行くと言った時は決まって付いてまわり、 そうしてみては負ぶってくれと我がままを言った。 彼の背は僕なんかよりもよっぽど高くて、その上から見る景色はまるで別の景色に見えた。 立ったままじゃ見えなかった遠くの木々と、その坂の先にあった雑踏。 彼は僕を背負ったままで、楽しそうにするでもなく、 けれど嫌そうにするでもなく町並みを眺めていた。 誰よりもぶっきらぼうで、笑うことなんてしない人。 だけど僕は彼のことが大好きだった。 ───僕は彼……父親の笑顔を見たことがない。 日々を普通に暮らしては、家族との日常だけを糧にして生きる生き物。 それが、僕の“父親”という存在だった。 日々の暮らしの半分以上が仕事。 朝から外に出ては、夜にならないと帰ってこないその人を、僕はいつだって心配していた。 時々思った。 彼は外に出たあと、いつか帰ってこなくなってしまうんじゃないかって。 だから僕は夜が来ても、誰が寝てもその人が帰ってくるまで起きていた。 そして、彼が帰ってきたときには……重くて仕方が無い瞼を一生懸命に持ち上げて、 彼に“おかえりなさい”を届けた。 彼はやっぱり無愛想だったけど、ただなにも言わずに頭を撫でてくれた。 ───彼は僕にとって最大の正義だった。 周りの人は愛想の悪い人だと言ったけれど、そんなことは気にならなかった。 だって彼は家を守ってくれていた。 母親はいつだってそんな夫を誇らしげにしていたし、 当時の僕には当然そんなことをする力なんてなかった。  だから憧れた。 その人はその大きな体で僕らの家を守ってくれていた。 たまの休みの日も散歩をする程度の無趣味な人。 だけど、後をついてまわる僕を鬱陶しくするわけでもなく、 おんぶをせがめば負ぶってくれた。 会話らしい会話なんてなかった。 それでも僕は、父親の背から眺める景色が一番好きだった。 タバコを吸わないけど、職場から引っ張ってきてしまったタバコの匂いのする服。 適当に切られた髪はお世辞にも整っていると言えないもの。 それでもそれは間違いなく、僕の父親の匂いであり、僕の父親の姿だった。  ねぇ。父さんはどうして仕事以外なにもしないの? ふと聞いたことがある。 小さな子供だった僕は、少しでも父親のことが知りたくてそんなことを訊いた。 けど、返ってくる言葉は『知らん』。それだけだった。  かーさんが言ってた。父さんは家を守ってくれてるんだって。 追求する代わりに言ったのがそれだった。 かーさんには“内緒よ?”って言われてたけど、言わずにはいられなかった。 けど、返ってくる言葉は『家族を守るのは当たり前だ』って言葉だけ。 それでも、それをすることすら出来なかった当時の僕には、 その姿がまるで英雄のように見えた。  覚えとけ。人ってのはな、側に自分を信じてくれる人が居ないとすぐ折れる。 父親がそう言った。 その言葉の意味がよく解らなかった。  大多数の人間に行動するための糧が必要なんだとしたら、俺の糧ってのは家族だ。 続けて言う父親。 でもやっぱり僕には意味が解らない。  守りたいものがあるってのはいいことだ。つまんなくったって生きようって思える。 そう言う父親に、僕は“父さんはつまらないの?”と訊き返した。  知らん。 やっぱり父さんは酷くぶっきらぼうにそう答えた。 その目がどこを見ているのかは、背に居る僕からは解らなかった。 でも、父さんはいつだって遠くを見ていた。 父さんが歩く道が黄昏の陽に包まれる時、僕は一緒に遠くの夕焼けを見た。 思わず“きれいだなー”って言葉が出た。 でも父さんは“そうか?よく解らん”と言うだけ。 面倒くさがってるわけでもなく、そういう喋り方しか出来ない父さん。 だけどそんな父さんが大好きだった。  人間、必ずどこかには辿り着く。  それが生だったとしても死だったとしても、信念だけは曲げない生き方をしろ。 ───そんな言葉を聞くことになるまでは。 父さんは目の前で殺された。 直前に僕に言った言葉は血に塗れて、 大きかった背中が、暖かかった背中が冷たくなっていった。  …………。 ───彼はいつだって、僕の中では絶対の正義だった。 僕は一度たりとも、彼に勝てたことがなかった。 足の速さも、腕相撲も、ご飯を食べる速さでも、歌の上手さでも。 同じ形で飛ばした紙飛行機でさえ、彼の先を飛ぶことは無かった。 ぶっきらぼうで無愛想で、だけど家族を愛していた僕の英雄。 最後の最後までぶっきらぼうな言葉で僕に遺言を残した父親という存在。 ───その、最後の表情が……今でも思い出せないでいる───…… ……。 再会を果たしたのはいつだっただろう。 30なんて年は実際とは裏腹に曖昧で。 久しぶりに見た彼は随分と小さく、蠢いていた。 その時になってみても思い出せない父の顔。 最後の瞬間はどんな顔だったのか。 俺になにを残したかったのかを、いつだって聞き返したかった。 そうすれば、その時に……いや。 ずっとずっと届けたかった言葉を、彼に届けられると思ったから。  ……死ね でも、その全ては彼の本当の最後となった言葉に掻き消された。 凶々しく蠢く父親は、俺に向かって何度も死ねと呟いた。 英雄は、息子の死を望む亡者に成り下がり─── けれど俺は、それにそこまでの嫌悪も悲しみも抱きはしなかった。 ……ただ安心したのだ。 いつまでも、死に直面しようが“信念”を曲げなかった彼のその姿に。 ───涙さえ流して安堵した。 “俺が死ねば、彼の家族が生きていられた世界が創られる”。 その願いの先を、彼は選んでくれたのだから。 彼は亡者になろうが信念は曲げなかった。 だから───俺は“朧月”ではなく“晦”である必要があって─── だから……───……だから…… …………。 気づけば涙は止まらなかった。 救いたかったものは塵と化し、叶えてあげたかった願いは亡者とともに消え去った。 俺は心の中にあった記憶から、自分が彼の息子であった記憶を懸命に押し込めて、 隠し、忘れるように頑張った。 じゃなきゃ、彼が蘇らせたいと願った“家族”や、貫こうとした“信念”が浮かばれない。 叶えられるべき願いを断ち切った張本人が“家族”だとするなら、 彼はきっと悲しむだろうから。 だから俺は朧月であることも晦であることもやめようと、“家族”を避けるようになった。 ……周りからは当然のように反対の言葉。 それでも我がままを通すことで、俺は心を閉じ込めたまま日常を生きていった。 いつしか、彼に届けたかった言葉も忘れ、最後に見た彼の表情も思い出せないままに…… ただいつまでも、心の奥底で泣き叫びながら生きてきた。 ……あれから、いくつもの時間が流れた。 僕の目の前にはもうあの背中は無く、 ただあの頃の父さんと同じ視線を、今の僕は眺めている。 遠くを見れば眺めることの出来る木々と、坂の先にある雑踏。 あの日、父の背の上で見た景色を今、僕は涙のままに眺めていた。 空にはあの日と同じ夕焼け。 空に向けて飛ばした竹トンボも、丘の上から飛ばした紙飛行機も、 息を吹きかけて飛ばしたタンポポの種も……今では遠い昔の記憶の中を飛んでいる。 自分の子供に竹トンボを教えたり、同じ丘の上で紙飛行機を飛ばしたり、 飛ばしたタンポポの種に一喜一憂する子供を眺めては、胸を小さく痛めていた。 その痛みの理由すらももう解らなくなって、ただ訳も解らず黄昏の下で涙した。 何を望んで、何を叶えてほしかったのか。 どうすればもう一度、あの背中の上から景色を眺めることが出来たのか。 ───解らないことだらけの人生。 だけど、自然と生きることだけを選んできた。  つまらなくたって生きようって思える。 それはいったい、誰が誰に向けて言ってくれた言葉だったのか。 それが解らなくても、今───僕は確かに生きていた。 偽りの家族に蹴られる毎日の中でも、 親友って呼べる人に出会って笑うことの出来た日々の中でも、 義理だけど、やっと出来た家族に死なれてしまった時でも、 ずっと……その言葉だけが胸の中に生き残ってくれていた。 前だけ向いて生きるなんてことは出来ない。 後ろを向いて、歩けない人を守ってあげたいと─── 上を向いて我慢するだけじゃなく、泣きたい時には思い切り泣きたいと─── そう教えてくれた誰かが、自分には確かに居たのだ。 不器用で、人に好かれるような人じゃなかった彼。 ぶっきらぼうで、およそ協調性ってものがまるでなかったその人。 ───だけど家族からは愛される人だった。 家族のために生きて、家族の存在にこそ救われていた彼。 あの日見た背中は、今も僕の中で広く大きく、あの頃の景色を思い出させてくれた。 小さかった自分が、父さんよりも少しだけ高い景色を見れた、あの頃の記憶を。 ……消えない過去なんて無い。 忘れたいと思っても、取り返しがつかないから過去であり、 その全てが今の自分を作った証だからこそ過去なのだと。 彼は自分の生き方を一度も後悔することなく、その理想の果てに死んでいった。 けれど、その瞬間に導を無くした存在はどうしたらよかったんだろう。 全てが凍りつく時、僕は精々生きられる程度の感情以外を全て壊してしまった。 その全てが届けたかった思いとともに心の瓦礫に埋もれたまま、 ただ静かに色褪せていっていた。 ひとりじゃきっと乗り越えられなかった。 感情を失うほどの悲しみが僕を襲い、記憶を履き違えるくらいの絶望が僕を包んだ。 気づけば僕は十六夜の苗字を持って、親と名乗る人に殴られる日々を繰り返していた。 心の中の悲鳴は誰にも届かない。 けれど、ただひとりその悲鳴が届いた少年に、僕の心はようやく救われた。 相変わらず殴られたけど、それでも彼と一緒の時間を過ごせることのほうが嬉しかった。 けど同時に……悲しみを忘れようとした心は、 大切だった筈のものまでどんどんと記憶の底へ埋めていってしまった。 届けたかった言葉も、 最後に見せてくれた『      』も、すべてが思い出せなくなっていた。 頭を撫でてくれた感触も、 表情を崩しもしなかったけど、どこか楽しそうだった竹トンボを飛ばした瞬間も─── 全部、全て忘れていった。 そうして気づけば時は巡り、景色も空気も変わってしまったこの街で。 ふと思い出した風景に涙している自分が居た。 そして泣きながら思うのだ。 あの頃の、彼の背中で見上げた朱は、いったいどれだけ澄んだ朱だったのだろう、と。 生きた時間の分だけ埋もれてしまった記憶のカケラ。 心の中で、もう風化してしまっている部分もあるだろう、悲しみしか残っていない記憶。 思い返すことは、もっと彼と一緒の時間を過ごしたかったという思いのみで─── それ以上、記憶のピースが合わさることは無かった。 彼と飛ばした竹トンボはどこまで飛んだのだろう。 一緒に投げた紙飛行機は、どこまで飛んでいったのだろう。 彼が風に乗せたタンポポの種は、何処かで芽吹いてくれただろうか。 そして───  笑わない彼は、僕との時間を楽しんでいてくれたのだろうか───…… 今となっては全てが解らないままで。 僕の心は、今もカケラのままで泣き続けている……─── Next Menu back