幕間/日々の合間に

 時間は流れる。
 さっさと行ってさっさと帰ってきなさいと言われたにも係わらず、その実てんで帰れる様子もなく。
 気づけば一週間、二週間と軽く過ぎ……やがて呉に来て一ヶ月も過ぎようとする頃には、ようやく呉で起きる騒ぎも減ったと思えるくらいになった。
 雪蓮や孫権は精力的に民との交流を望み、民の声を聞いた上で、より豊かに過ごしやすくなるような国を作る……いや、作っていこうと口にし、実行に移していった。
 離れた町に行く際には必ずと言っていいほどに俺が同行を命じられ、俺もそれには喜んで同意。 様々な町を回り、民と会話をして、少しずつだけど笑顔を増やしていった。

「んー……冥琳、もっとこう……民も将も楽しめる娯楽を作ったらどうかな」
「娯楽か。ふむ……資金面はどうする気だ? 娯楽と言っても、たびたび出せるものではないぞ」
「賭博場……はまずいよな。もっと明るいのがいい。子供も大人ものんびり楽しく……う、うーん……争いから離れるため、だから……喧嘩に近いものは却下として、えー、あー、おー……何か、何か無いか何かぁああ……!! …………あの、諸葛亮、鳳統? なんで俺のこと見て目を輝かせてるんだ?」
「はうあぁっ!? えとえとはうぁああっ……!!」
「あぅっ……な、ななななんでもないですぅう……!!」
「悩み苦しんでる男なんて見てても楽しくないだろ? それより一緒に考えてくれるとありがたいんだけど……」
「ひゃ、ひゃいっ!」
「考えますっ……!」

 様々な町を回っては、どちらかというと子供たちに捕まって遊んでくれとせがまれるばかりの俺。
 その後方で、仕方の無い……といつものように溜め息を漏らすのは思春だった。

「一刀っ、国の一大事よっ! 手伝って!」
「ああもう今度はなんだよ! 馬の子でも産まれたかっ!? 作物の収穫が間に合ってないのか!?」
「両方っ! それが終わったらちょっと遠くの町まで行くからっ! いいお酒が出来たそうだから、祭連れて飲みに行くわよっ!」
「なんだってーーーっ!!? ひっ……人使い荒いぞ雪蓮! ていうかそういうのって普通、お酒送ってくれたりとかするんじゃないのか!?」
「だって届くまで待ってられないもん、私も祭も。あっはははは、命令だから一緒に行こっ? ほらほらーっ♪」
「それは命令じゃなくてお願いだろっ! どこまで酒好きで……ってこらっ、引っ張るなぁあーーーっ!!」
「あ、そうそう一刀っ、華琳がね、無理矢理じゃないなら構わないって許可くれたわよ〜♪」
「とわっとと……へ? 許可? なんの?」
「“本当に本気なら”一刀に手、出していいって。今や一刀は、“魏の一刀”じゃなくて“同盟国みんなの一刀”ってこと」
「へぇっ!? え、あ……な、なななっ……華琳さぁああああーーーーーーーーーーんっ!!!!」

 日々に休まる日なんて無く、ほぼフル回転で走り回る日常が続いている。
 だっていうのに嬉しいらしく、疲れた体もむしろ心地がいいと笑い飛ばせる毎日を送っている。

「よっし本日の手伝い終了ぉっ! 呂蒙〜! 約束通りごま団子作りしよう〜!」
「一刀様っ、その前にお猫様の子供を見に行く約束ですっ!」
「だったらごま団子を食べながら猫の観察だ! 呂蒙、こっちは準備出来てるぞ〜!」
「は、はい〜! すす、すぐに用意しますっ!」

 朝起きて軽く運動。食事をして町の人たちの手伝いをして、日が落ち始めれば軍師たちと集まって、学校の話やこれからのことについての話。
 三日ごとの鍛錬もまだ続けていて、祭さん、思春、周泰にしごかれる日々。
 結局……氣の強化を祭さんに教わったあの日、いつの間にか傷が塞がりかけていたのは、俺の氣の絶対量が増えたからだと教えられた。
 氣ってやつは体内を巡るもので、扱いによっては傷を塞いだりも出来るそうで……そんなものは漫画やアニメの中だけだと思っていたのに、実際に自分の傷が塞がったなら信じないわけにもいかなかった。

「あぅぁああ〜ぅうんんん……!!! こ、子猫様……可愛すぎますですぅう……!!」
「ううぅ……ごまが少し焦げてしまいました……」
「大丈夫大丈夫、全然美味しいよ。周泰〜、食べないと無くなるぞ〜?」

 諸葛亮や鳳統は情報があらかた固まると一度蜀に戻って、それらを自国で纏めると、しばらくしてからまた訪れることを繰り返していた。
 学校を建てているとも言っていたし、一応順調に事は進んでいるらしい。

「冥琳、風邪か? 最近よく咳をしてるみたいだけど」
「…………ただの寝不足だろう。気にするな、北郷」

 気になることも幾つかあったけど、日常は普通に流れていた。
 ……さて。
 今日はそんな、いい加減に呉で暮らすのも慣れてきた、とある日の話だ。



26/長い一日のきっかけ、なんてもの

 ザッ……

「今なら……今なら撃てる気がする」

 いい天気だった。
 陽光の下、中庭で“すぅっ……”と息を吸った俺は、フランチェスカの制服の上だけを脱いだ状態で、ゆっくりと構えを取る。
 魏から呉に落ち着き、既に一ヶ月。
 呉の将にしごかれて得たものは知識や経験だけでなく、氣に寄るものが多かった。
 一ヶ月かけて、ようやく掌全体に気を集められる程度っていうのは情けない話だが、今はそれだけで十分なのだ。

「《ごくっ……》ふぅ……よしっ!」

 運動時の水分補給にと常備している竹筒 (竹の水筒)を軽く飲んでリラックスしてから、重心を下に、足を大きく広げ、両手は自分の右腰に揃え、半開きに。
 皆様ご存知、子供の頃からアレを知っている人ならきっと一度は真似たアレを今、実現させるため……!

「かぁあ…………めぇええ…………はぁあ…………めぇえ…………!!」

 放出系はまだ習っていない。習っていないが、いないからこそ成功した喜びも高まるというもの。
 ならばこそ、この素晴らしき蒼天に届けよ我が氣! これは子供達の夢を込めた光! 今なお夢見る大人達の希望だぁーーーっ!!

「あ、一刀〜っ♪ あのねぇ、今、祭が───」
「波ぁああっキャーーーーーーッ!!?」

 いざ両手を突き出し、思いの全てを空に! ……ってところでシャオが中庭へ参上!
 途端に子供達や成長した大人達の夢と希望は、恥ずかしさに邪魔された俺の手の中で見事に霧散!
 俺はすぐに姿勢を正すと、顔が赤くなるのを感じつつもわざとらしい口笛を吹き、そわそわと視線を彷徨わせた。

「……むふん? ねぇ一刀〜? 今なにやってたの〜?」
「イヤベツニナナナナニモシテナイヨ!?」

 大人って……恥ずかしがりだね。
 でもね、解ってくれシャオ。一人かめはめ波はね? 決して誰かに見られちゃあいけないんだよ……。
 だからそんな、ニヤリと笑った興味津々顔で近づかないで? ね?

「えー? 今おかしな構えしてたでしょー。ほらぁ、言ってみなさいって〜!」
「いやほんとっ……なんでもないから! それよりなに!? 祭さんがどうしたって!?」
「むー……。えっとね、祭がねぇ、一刀にお酒買ってきてほしいって。大きな甕の」
「いや、それって───」
「断ったら“命令じゃ”って伝えておいてくれ〜だって」
「………」

 あの人は本当に、俺に酒を買わせに行くのが好きだ。これで何回目だっけか。
 ほぼ毎日がばがば飲んで、よくもまあ飽きないもんだ。いったいいくらの給料を貰っているんだろうか……気になるところである。
 ……それ以前に王の妹君に言伝頼まんでくださいお願いですから。

「代金は?」
「もらってあるよー。はいこれ」

 ぢゃらりと代金を渡され、一応確認を……ん、よし。
 誰にともなく頷いて、中庭横の通路の欄干にかけておいた制服の上着を着ると、いざと歩き出す。
 ……と、突然背中にぶつかり、首に手を回して抱き付いてくる少女が一人。言うまでもなく、シャオである。

「シャオ?」
「えへー、シャオが一緒に行ってあげるね?」
「あ、結構です。シャオと一緒に行くと、甕とか無事に持って来れそうにないから」
「一刀ってば照れちゃって〜♪ じゃあ今日はずぅっと手、繋いでてあげるね? 一刀、手を繋がれるの好きでしょ?」
「あの……シャオさん? 片手ずっと塞がれてて、どうやって甕を持ち帰れと?」

 片手か? 片手でやれと? い、いやぁああ……そりゃあ今の自分なら多分、いやきっと、出来るには出来ると思うが……。
 けどもし、つるっと滑ってゴシャアと割れば、酒屋の旦那や祭さんに申し訳が……ていうか祭さんに殺される。

「これってでぇとだよね?」
「強制同行をそう呼ぶならね……」

 埒空かずして歩を進める。
 俺の左腕にはシャオがぶらさがるような勢いで抱きついており、嬉しいかどうかで喩える以前に歩きづらい。
 そりゃあその、まだ成熟しきっていないが、たしかに存在するこのやわらかさに少しトキメキを感じないでもないが……い、いやいや落ち着け……!
 こんなことをやってたんじゃあ、今日の夜なんて地獄だ。
 思春と同じ部屋で寝るようになってからというもの、極力煩悩抹殺に励んできた俺じゃないか……耐えろ、耐えるんだ……!
 今さら言うことじゃないけど、しみじみと言おう。禁欲って……大変だ……。

(華琳のヤツ……絶対に俺が自分から手を出さないって解ってて許可したんだろうなぁ……)

 少しはこっちの苦労も考えてほしい。
 ……いや、考えた上で苛めてるんだろうね、うん、解ってる。


───……。


 そんなこんなで建業の町を歩く。
 賑やかな喧噪に囲まれて、今や沈んだ空気を見せないそこは、人々の笑顔の集まる場所。
 当然、悲しみの全てが無くなったわけではないけれど、そんな悲しみも一緒にひっくるめて、笑える国になってくれればと願っている。
 笑ってはほしいけど、悲しみを捨ててほしいわけでもない。“悲しい”も抱いた上で、“楽しい”の中で笑ってくれるなら、きっとそれが一番の笑顔になってくれるだろうから。

「おお一刀っ、今日も手伝いか?」

 町を歩けば誰にも彼にも声をかけられ、その誰もが笑顔だという事実に自分の顔も綻ぶのを感じる。

「手伝いっていうよりはお遣いかな。酒を買ってきてくれって祭さんが」
「おお、あの方か。出来ればご自分で来てくださればなぁ……子供達が会いたい会いたいってごねるんだよ」
「はは、祭さん子供に好かれてるからね」

 一人に手を振って別れれば、少し歩いた先で誰かに捕まる。
 自分のペースで進めない状況に、シャオは少し不満そうだったけど、そもそも酒を買いにきたのだからあまり拗ねられても困る。
 ともあれ酒屋で酒を買うと、大きな甕をぐっ……と持ち上げ、歩いてゆく。
 その大きさを見てか、さすがにシャオも腕を解放してくれて、お陰で助かった。
 ……なにが助かったって……まあその、アチラのほうが。やわらかかったなぁ…………じゃなくてっ!
 そんな考えをあっさり見破ってか、隣を歩きつつ俺を見上げる顔が盛大にニヤケていた。妖艶というかなんというか……実年齢よりよっぽど大人だよこの子。

「は、はは……なんにせよ、これを祭さんに届ければお遣いは終了っと。で……今日の予定は───」
「シャオとぉ……で・ぇ・と♪」
「んー……悪い、シャオ。もう今日の予定埋まってるんだ」
「えーーー……? じゃあ命令。一刀は今日、シャオとず〜っと一緒に居ること」
「………」

 俺に死ねと?

「あのー……シャオさん? 以前そうやって、予定があるのに命令だ〜って言って連れまわして、孫権に大目玉食らったの、忘れた?」
「お姉ちゃんのことなんか今はいーのー! でぇと中に他の女のことを考えるなんて、だめなんだからねっ!?」
(……思春)
(……諦めろ)

 気配を消してついてきてくれている思春にそっと声をかけるも、返ってくる言葉は無情。
 ん……それでもいつもありがとう、見守ってくれていて。それだけでもう嬉しいよ俺……。

「じゃ、じゃあまずは祭さんにこれ届けないとなっ。城、城に戻ろ〜」
「……一刀、何か企んでる?」
「…………イエベツニ?」
「あー! 目、逸らしたー!」
「いやこれはっ……て、天に伝わる技法、“散眼”といってだなっ! けけけ決して眼を逸らしたわけではっ……!」
「ふーんだ、どうせ城に戻って、誰かにべつの命令してもらえば〜とか思ってたんでしょー!」
「《だらだらだらだら……!》イ、イエェ……? ベベベベツニソンナ……! モ、戻リマショ? ホラ、酒届ケナイト祭サン怒ルシ……!」
「んふっ、いいよー? 祭にお酒届けたら、問答無用で走って城から出るからねー?」
「…………ワーイ……」

 ニーチェは言った。神は死んだと。



27/そして波乱の一日へ

 祭さんの部屋の前まで行くと、まずはノック。
 しかし返事はなく、どうやらまだ仕事中か放浪中かのどちらからしい。
 仕方も無しに探しに行こうと踵を返すのだが、シャオは俺の服をぎゅっと掴むと、天使の笑顔で床を二回ほど指差した。
 ……よーするに甕はここに置いていけ、ってことらしい。なるほどー、合理的ダナー……祭さんのばか。
 部屋に居なかった祭さんに、せめてもの悪態と心の涙を零しつつ、俺はシャオに引かれるままに町へと繰り出した。
 途中で誰かがご光臨なさってくれることを切に願ったのだが、こんな時に限って呉の将の誰とも擦れ違わないのは、どういった陰謀だったんだろうなぁ……。

「…………」

 そんなわけで始まった波乱の一日。
 シャオに連れられ、というか右腕にしがみつかれながらのったのったと歩く建業の町は、先ほどまでの輝かしさから一変、恐怖の町に変わっている気さえした。
 約束があったのにそれをすっぽかして他の女性と歩く……これほど怖いものが他にあるだろうか。
 もしそのすっぽかした相手が華琳だったりしたらと考えると、首のあたりがやけに寒くて仕方ない。だっていうのに、命じられればそれに死力を尽くさなければいけない可哀想な俺……誰か助けて。
 や、けど大丈夫。どっかの誰かが言っていた。“どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある”と。……それを見つけられないから、困難に飲み込まれてばっかりなんだろうけど。

「───《すぅぅう……ビシィッ!》んっ!」

 だが死力を尽くさなければ、民の罪を担うことにはなりはしない。
 自分が全てを負うと覚悟を決めたならば、それを貫かなければ次の覚悟も怠けるだけだ。
 気合一発、だらりだらりと歩かせていた体に喝を入れて、キッとシャオを見下ろすと言った。

「よしシャオ! 今から思いっきりデート───あ」
「…………《ごしゃり》」

 弾ける笑顔 (ヤケクソともいう)で、シャオとともに駆け出そうとした俺の前に、本当になんの冗談なのか、ごま団子の材料をゴシャアと落とす呂蒙さん。
 ……はい、これからごま団子クッキングの予定がしっかり入っていました。ごめんなさいセルバン……そ、そう、セルバンテスだセルバンテス! じゃなくてっ! ごめんなさいセルバンテス! 救いの無い運命はたしかにここにあった! 何度目か忘れたけど俺もう泣いていい!?

「……そそ、そう……ですよね、一刀様は、一刀様は…………〜〜〜っ《ダッ》」

 さらには考え事をしているうちに、顔を長い袖で覆って走り出してしまう呂蒙。
 気の利いたフォローくらいしろっ! と自分に悪態をつきながら走り出そうとするが、それをシャオが引き止めようと───するのは予測済みだっ!

「《しぱぁんっ!》ふひゃんっ!?」

 シャオに軽く足払い。
 浮いた体を素早く抱きかかえ、足に氣を溜めて駆け出す! その途中で落ちていたごま団子の材料を片手で器用に拾いきると、そのまま呂蒙を追って走るっ!
 死力を尽くせとは言われたが、誰かが悲しむ命令に死力なんて尽くせるもんかっ!

「か、一刀ー!? 今日は───」
「死力なら尽くすからっ! だけど誰かが悲しむのはだめだっ! 尽くすのもデートも一番最後っ! 命令は守るから、誰かが悲しむ結果だけは勘弁してくれ!」
「…………ぶー」

 雪蓮のように口を尖らせ、拗ねるシャオだが……お姫様抱っこが気に入ったのか、すぐに上機嫌になる気まぐれお嬢様。
 ああもうまったく……どうしてこの国の王の血族はこう、自由奔放なんだ。俺が言えた義理じゃないかもしれないけどさ。
 孫権くらいなもんだよな、いっつもキリッとしてて真面目なのって。

「っ……何処に行ったんだ……?」

 すぐに追いかけたつもりが、呂蒙の姿は人波に消えるようにして見えなくなっていた。
 この天気だ、町は別の場所から来る商人や旅人で賑わっており、その中からひとつ背の低い呂蒙を探すのは中々に無茶があった。
 けど、見つけてやらなきゃいけない。命令だからって理由で悲しませるのってやるせないし辛いし……なにより、手を繋いでくれた友達が悲しんだままなんてのは嫌だ。

「すいませんっ! ごめんっ! と、通してくれっ!」

 知り合いの町人や見知らぬ人に謝りながら、人垣を進みゆく。
 ああ本当に……いい天気だと思ってかめはめ波を撃とうしてから、なんだってこんな事態になってしまうんだろう。
 嘆いたって事は終わらないが、嘆きたくもなる。

「シャオっ、どっちに行ったか解るかっ? 雪蓮譲りの勘でこう、ピピンとっ」
「んう? んー……たぶんあっち」
「あっちだなっ!?」

 指差された方向に躊躇いもせずに方向転換。
 いわゆる人通りの少ない裏通りへと突っ込むように走り───その先で、蹲るように座りこんでいる少女を発見した───!

「あぅぁぅぁぁあ〜〜〜……♪ モフモフ最高です〜〜〜……♪」

 ………………周泰だった。
 うん……とりあえず、訊いておいてなんだけど……シャオの勘は当てにならないと覚えておこう。
 けど丁度良かった、せっかくのモフモフお猫様タイムのようだが、呂蒙を探すのを手伝って───

「《ばりっ!》あいたっ!?」
「あ」

 いざ話し掛けようとした途端、猫は「ええ加減にせぇやオルラァッ!」といった風情で周泰の手を引っ掻いて周泰の手から逃れるや、ゴシャーと物凄い速度で走り……視界から完全に消え失せた。
 逃げる時の猫って、どうしてあんなに速いんだろうな。っと、暢気に考えてる余裕なんてなかった。

「周泰、大丈夫か?」
「はぅわっ!? かかっ、かかか一刀様っ!? ど、どうして一刀様が……」
「えと……ごめん、急いでてあまりのんびり話してる余裕がないんだけど───」

 でもせめてと、お姫様状態で俺の首に抱き付いていたシャオを地面に下ろし、不満を口にする彼女を華麗にスルーしつつポケットを探ると、取り出したハンカチを引き裂いた。
 周泰はそんな俺の行動がよく解っていないようで、急に近寄ってきて自分の手を取った俺を前に困惑するばかりだ。

「あ、あの、一刀様……?」
「じっとしててくれな───んっ」
「───あぅあぁっ!!?」

 手にある小さいけれど痛々しい傷口に口をつけ、滲む血と傷口を舐める。舌だけ出して舐めとるのではなく、唾液が空気に触れないように唇を密着させて、やさしくやさしく。
 それが終わるとさらに取り出した常備用竹水筒でハンカチの切れ端を軽く湿らせ、ポンポンポンと叩くように傷口を拭い、水筒の残りの水を傷口にのみかかるようにかけていく。途端に周泰が驚きの声をあげたが、今は続きを。
 傷口周りについた水を軽く拭った時点で用済みになったハンカチの切れ端をポケットに突っ込み、残りのハンカチを包帯代わりにして、傷口に巻いて……よし。

「あ……」
「これでよし、と。ごめんな、軟膏とかがあればよかったんだけど、最近鍛錬の方で生傷だらけだったもんだから、使い切っちゃってて」
「ぁ……ぅ……」
「城に戻ればあると思うけど……ごめん、今ちょっと急いでて戻ってる暇がないんだ」
「あ、い、いえ、それは……大丈夫……です」
「ん……ほんと、ごめんな」

 傷が早く治りますようにと、手をやさしく撫でてやる。
 そんなに深いものじゃないけど、傷は傷だ。痕が残ったりしなければいいけど───……っと、そうだ、呂蒙。

「なぁ周泰、呂蒙を見かけなかったか?」
「…………《ぽーー……》」
「……? 周泰? …………あ、わ、悪いっ」

 今さらながら、撫でっぱなしの手に気づいた。
 周泰は顔を赤くして俯いたままで、自分の手が解放されると……その手を胸に抱くようにしてさらに俯く。
 ……う、うおおしまった……! 考えてみれば、怪我してるからって女の子の手に唇つけて、血を舐めたりして……! い、いや、けどなっ!? よく“ツバつけときゃ治る”とか言うけど、あれって口つけて直接やらないと意味がないって何処かで聞いた気がしたからっ! ちちち違う! 断じて違うっ! 邪な気持ちとか全然ないぞっ!? 指にツバ付けて拭ったりなんかしたら、逆に傷口を化膿させることになるからであって……あぁあああっ!!
 あ、でも真っ赤になって俯く周泰って可愛い……じゃなくてだなぁっ!! ととととにかく《グイイィッ!!》あだぁっ!!?

「いだっ! いだだだっ! ちょ、シャオ!? 耳っ! 耳がっ……あだだだだ!!」
「もー! いつまで変な空気出してるのー!? シャオとのでぇとを後回しにしたんだから、用が済んだらさっさと行くのぉっ!」
「わか、解った解りました! 解りましたから耳引っ張るのやめてくれっていだだだだぁああっ!!」
「………《ぽかん》」

 急に耳を引っ張られてキャーと叫ぶ俺を見て、周泰はきょとんとした顔をしていた。
 そんな彼女に要点だけを明確化した今の現状を話すと、すぐに呂蒙を探すのを手伝ってくれると言ってくれた。
 走り出してしまった理由を訊くより早く頷いてくれる周泰を見て、やっぱり友達っていいなって……そう思える。
 赤くなった顔をぶんぶんと振るいつつ走りだす周泰を見送ると、俺もシャオを抱えて走───…………待て。

「……一緒に行くよりも別々に探したほうが早くないか?」
「ヤ」

 即答だった。


───……。


 そんなわけで呂蒙を探して建業を走り回る時間が始まり───

「呂蒙ー!? 呂蒙ーーーっ!!」
「ああ一刀? どうしたの、そんなに慌てて」
「あっ……とと、おふくろっ、実は───」

 地を駆け店を巡り、親父に呼び止められ、表通り裏通りを駆け抜け、町人たちに呼び止められ、さらに駆け、呼び止められ、呼び止められ、呼び止められ……その度にどうしたのどうしたのと訊かれ───また走り、また呼び止められ───

「んもーーーっ!! 一刀ってばいったいどれだけ呉の人たちに手を出したのー!? さっきから呼び止められて走ってで、シャオ疲れたよ〜〜っ!!」
「誤解されるような言い方するなぁあーーーーっ!! それだけ信頼があるってことなんだからいいことじゃないか!!」

 途中、シャオがキレた。
 ちなみに疲れたとか仰っておられるが、走っているのは俺だけである。

「それにみんなも見つけたら教えてくれるって言ってるんだから、感謝以外にすることなんてあるもんかっ!」
「ぶ〜〜っ! 一刀って本当、町人にばっかりやさしいんだから〜!」
「……はぁ。あのね、シャオ。俺はやさしくしたくもない相手を抱きかかえて、町を走り回ったりなんか絶対にしないぞ?」
「…………」

 何気ない言葉を発しながら走る。
 途端にシャオがなにも言わなくなったんだが……ハテ、と思いお姫様抱っこ継続中のお嬢様の顔を覗いてみると、なんだかとろける笑顔と妖艶さを混ぜたような、とても華琳チックな笑みを浮かべたシャオが……!
 うあ……なんだか今ものすごく、シャオのことを下ろしたくなってきたかも……! もちろんそれはしないわけだが……そうした途端に首に巻きついてくるシャオの腕が、もう離さないって意思を存分に放っていた。

「えっへへぇ〜〜♪ ねぇ一刀〜〜」
「───! あっ……呂蒙見つけた! 急ぐぞシャオ!」
「《グンッ!》へぁぅっ!? 〜〜〜もーーーっ!」

 人ごみに紛れて、微かだけど赤い……キョンシーのような帽子が見えた。
 数瞬だったから呂蒙かどうかなんて確信は持てないけど、手掛かりが無いよりはマシってもんだ。
 グッと足に力を込めて速度を上げる俺に、どうしてかシャオがぷんすかと怒っていたけど、今はごめん、追わせてくれ。


───……。


 気づかれたのかそうでないのか、途中で再び視認したキョンシーハット(?)は駆け出し、人通りが少ない場所までを走るとそれが呂蒙であることを確信する。
 あれだけ騒いでいれば、目が悪かろうが気づかれるってもんだが……それでも今、ようやく追いついて───

(……あ、猫)

 ───人通りが少ないことに安心しきっていたのかもしれない。
 呂蒙と俺の間にある距離の隙間にひょいと現れた猫が居た。
 当然このまま走ればすぐに逃げるか、俺が飛び越えるかをしていた筈なのだが。

「お猫様っ!」
「へっ……? あ、だぁあわぁあああっ!!?」

 困ったことってのは重なるもんだって、どれだけ理解すれば気が済むんだろうなぁ。
 猫を追ってシュザッと参上なされた周泰を、猫の小さな体を飛び越えようと準備していた俺が飛びこせるはずもなく。
 肩に手をついて跳び箱の要領で飛ぼう! とも思ったが、俺の両手に小蓮さん。
 きっと途中で呂蒙を発見して、すぐさま追ってきたんだろうけど……途中で猫を見つけてしまったんだろうなぁ。
 とろける笑顔に「勘弁してください」とツッコミを入れつつ、俺は周泰との激突を果た───さなかった。

「へっ?」
「呆けるな、さっさと行け」

 衝突に備えて硬直していた体が、最初に踏みしめるはずだった大地に落ち着くや、声がする。
 即座に状況を理解して、周泰を進行路からどかしてくれた思春に感謝しながら走る。
 ……って、腕も軽い……と思ったら、シャオも居なかった。

「ふあっ!? 思春殿っ!? い、いえあのここここれはっ……!」
「言い訳は聞かん。代わりに別のことを話し合おうか。……まさか、呉国の将たるお方が庶人の話を聞かんとは言わんだろう?」
「しし思春殿、なんだか公瑾様みたいで───あぅあぁーーーーっ!!」
「ちょっと思春〜っ! シャオは一刀と〜〜っ!」
「ご容赦を。あのままでは追いつくのに時間が───」

 遠ざかる声に苦笑をもらしながら、今は一直線に。
 氣を込め、身を振るい、自分が出せる全速力で駆け───やがて通りを抜け、景色が開けたところで───ようやく、その手を掴ん───だぁああああっ!!?

「ふえ……っ!? ひゃっ……ひゃぁああーーーっ!!」
「呂蒙っ!!」

 通りを抜けた先は坂になっていた。
 そこまで急斜面じゃないにしても、平面を走るつもりでいた体は急な差についていけず、あっさりとバランスを崩して……というか、止まろうとした呂蒙を俺が勢いよく掴んだために、俺が巻き込む形で転がり落ちていった。
 当然すぐに呂蒙を腕に掻き抱き、来たる衝撃を彼女に受けさせないために身を捻って自分を下にして。
 転がってるんだから、完全に守ることなんて出来やしないが……やがて転がり終えて、仰向けに倒れた自分の上に呂蒙を抱き締めた形のまま、とりあえずの安堵を吐いた。

「呂蒙……呂蒙? 大丈夫か?」
「ふ……ぁ……あ、は、はい……大丈───ひゃうっ!?」

 片方だけの眼鏡越しの瞳に、俺の顔が映る……と、呂蒙の顔は瞬間沸騰したかのように真っ赤に染まり、慌てて離れようとするんだが───
 
「は、ふっ……? あ、あれっ……動けなっ……あれ……!?」

 ……なにやら腰でも抜けたらしく、動けないでいた。
 涙目でわたわたとして、どうしようかと戸惑うたびに俺と目が合って真っ赤になる。
 人の顔なんてよっぽど親密でもなければ間近で見つめ合えるものじゃないだろうけど、こう何度も逸らされると切ない気分になるな……。

「落ち着いて、呂蒙。ゆっくり下ろすから、あまり慌てな───……」
「……? か、一刀様? どど、どうされましたか……?」
「……ごめん。俺も腰……抜けたみたい……」
「え……?」

 腰が抜ける……あまりに驚いたり慌てたりすると、脳が体に正確な信号を送らなくなるために起こる現象……だったっけ。
 まさか坂道から転がり落ちただけでこんなことになるなんて、思いもしなかった。

「ぷっ……ふ、くふふっ……あっはっはっはっは!!」
「え? え……? か、一刀……様?」
「い、いやごめっ……あっはははははは!!」

 他のことが考えられなくなるほど、呂蒙を守ることで頭がいっぱいだったって……受け取っていいんだろうか。
 そんな答えに行き着いたら可笑しくなって、気づけば声をあげて笑っていた。
 急に笑い出す俺に、呂蒙は戸惑いと慌てた風情を混ぜた顔で呼びかけるけど……だめだ、無駄にツボに入ったらしい。
 呂蒙の呼びかけにも途切れ途切れにしか返せなくて、俺はしばらくそうして笑い続けていた。



28/接吻という名のスイッチ

 …………。ツボに入った笑いも終わりを迎え、いい加減体も動くだろう頃になっても、離れるタイミングを無くしたままに寝そべっている俺と呂蒙。
 仰向けに倒れる俺の上に寝そべる形で、呂蒙は顔を赤くしたまま俺の顔を見ては逸らしを繰り返していた。
 そんな呂蒙に、俺は……言い訳になるだろうけど、事の経緯を話すことにした。

「呂蒙、まずはごめん。呂蒙との約束があったのにシャオと───」
「っ……い、いえ、いえっ……! 一刀様が謝るようなことは、何もないんですっ……! その……本当は、わ、解っているんです……一刀様は約束を違えるようなお方ではありませんから……そ、その、尚香様に命じられてのこと、だったのだと……」
「呂蒙……」
「それなのにわたし、わたし、はっ……。一刀様が、約束を破らないと知っているのに……わ、わたしはっ……勝手に裏切られた気分になって、悲しんで……」

 顔を長い袖で隠し、目をきゅっと瞑りながら……まるで全て自分が悪いかのように語る。
 まるで懺悔だ。呂蒙は何も悪くないのに、どうしてこんな……罪を吐き出すような……。

「一刀様という人としてだけじゃない……私は“友達”を信じきれなかったんです……。何よりも自分が許せなくて……すみっ……すみませっ……! わた、わたしはっ……こんなわたしでは、一刀様の友達としてっ……!」
「………」

 黙って聞いている理由なんてなかった。
 もっと早くにそれは違うって否定してあげればよかったんだろうけど───……全部を聞いてからじゃなくちゃ、何を言っても届かないと思ったから。
 だから、手を伸ばすなら今で……安心させてやるならこの時にこそ。
 客観的に見ればほんの些細なこと。それでも彼女にとってはとても辛かったのだろう事実をしっかりと受け止めた上で、頭を撫でて……やさしく微笑みかけた。

「あ……か、一刀……様……?」
「勝手なんかじゃないし、友達だよ。それと……ありがとう、呂蒙。繋いだ手のこと、そこまで大事に思ってくれて」
「そ、そんなっ、わた、わたしはっ……!《ぽふんっ》わぷっ……!?」
「こっちこそ、本当にごめんな。どんな理由があっても、呂蒙を悲しませたことに変わりはないよな」

 何かを言おうとする呂蒙の顔を、彼女が被っていた帽子で覆う。
 突然のことにわたわたと帽子を被り直し、改めて俺を見る呂蒙に、俺は続く言葉を言ってやる。

「こんな俺でも……まだ友達だって言ってくれるか?」

 卑怯な言い方かもしれない。
 罪の意識を利用するみたいで本当は嫌だけど、こうでもしないと彼女は自分を責めることをやめてくれない気がしたから。

「と、ととっ当然、ですっ! わたひっ……わたしのほうこそ、一刀様の友達でいられるのか……いていいのかっ……!」
「………」

 今まで散々と逸らされていた目が、真っ直ぐに俺の目を映す。
 不安なのか、涙さえ滲ませている彼女の瞳に自分の顔が映っていることが、どうしてか嬉しい。そうと解るほどの距離で、俺と呂蒙は言葉を発していた。

「わたし……解らなくなっていたんです……。一刀様に目のことを褒めていただいて、手を繋いで……お友達になって。それだけでとても嬉しくて、楽しくて……。一刀様が呉にいらしてから、手を繋いでから、世界が広がった気がしました」
「世界が?」

 世界が広がって見える……それは普通、喜びと一緒に聞ける言葉だと思ってた。
 だというのに呂蒙の目は涙に滲んだままで、その涙もやがてこぼれ落ちそうになるほど溜まってきていた。

「一緒にお話をしたり、天の国の学校についてを教わったり、足りない知識を分け合ったり……とても、とても楽しくて、嬉しくて……でも、でも……」

 伝えたいことがあるのに上手く動いてくれない喉に、自分自身が悲しむみたいにきゅうっと目を閉じて……拍子、涙がこぼれ、俺の頬を濡らした。

「わたしは……今日のことだけではありません、一刀様が思春さんを真名で呼び始めたとき……自分で自分が解らなくなるくらい、悲しい、寂しいと感じてしまいました……」
「え……?」
「思春さんが仰っていました……友になったから真名を預けただけだ、と……。で、ですが、でしたらっ、わたしは……一刀様に友達だと言われ、わ、わたしの目を真っ直ぐに見て微笑んでくださった一刀様を、口では信じていると言っているのに真名を預けていないわたしはっ……いったいなんなのかとっ……」
「…………呂蒙……」

 何かのきっかけ、なんてものは……本当に、自分の預かり知らない物事から起きるものだ。
 けどたとえ知っていたとしても、俺に何が出来たのだろう。
 真名を預けてくれた思春に“畏れ多い”と言って断り、自分から伸ばした手を拒絶すればよかったのか?
 俺から“仲良くなったんだし真名を預けて”なんて図々しいことを言えばよかったのか?
 “そうと解っていても回避出来ないこと”はどうしようもなく存在する。ああ、それは解ってる。
 問題なのは、“それ”が起こってしまったあとに“自分が動けるか否か”なんだから。
 だから……北郷一刀。今ここで動けない、動かないなんていうのは……人として、男としてウソだろ?
 目の前で、俺とのことのために泣いてさえくれる人が居る。
 ……俺の手は魏を守るためにある───それは確かだけど、目の前で泣いている人の涙も拭ってやれない俺が、いったい何を国に返していけるんだろう。
 目の前で困っている人の全てを助けるだなんてこと、俺一人で出来るなんて思ってないけど……それでも。伸ばせば届いて、届けば助けられる人が居るのなら、伸ばしたいって思うんだ。

「な、呂蒙」
「…………?」

 声をかける。ひどくやさしい気持ちのままに出した声は、自分でも驚くくらいにやさしいもので。
 そんな声に反応して俺の目を見る呂蒙の滲んでいた涙を、指でやさしく拭ってやる。
 ハンカチでも……と思ったが、周泰の治療のために使ってしまった。

「俺さ、嬉しいよ。本当に、そんなに大切なこととして受け取ってくれて」

 俺の胸の上で、まるで猫が体勢を低くする格好のように折りたたまれている呂蒙の手を、そっと握る。
 友達として、そんなにも悩んでくれてありがとうって思いを込めて。

「でも、焦らないでほしいんだ。“誰かが預けたから自分も預けたい”じゃなくて……うん。呂蒙が俺に真名を預けたいって……預けてもいいって思ってくれたときにそうしてくれたほうが、俺はすごく嬉しいよ」
「一刀様……で、でも、だって……」
「もっと“自分”を持って。俺は誰かに言われたから預ける真名や、誰かが預けたから自分も預ける真名じゃない……呂蒙が俺に預けたくて、呼ぶことを許してくれた真名で呼びたいよ」
「え、あ……ふええっ……!?」
「だからさ。焦らないで。せっかく友達になったんだから、もっとお互いを知って、仲良くなってから……呂蒙が預けてもいいって思った時に、預けてほし《きゅっ》……い?」

 言葉の途中、真っ赤だけど強い意思に溢れた目が俺の目を真っ直ぐに覗き、やさしく包んでいた手にはその意思の表れか、強いと思えるくらいの力が込められた。
 「……呂蒙?」と疑問を込めた視線を送ってみるけど、呂蒙はさらにさらにと顔を赤くして……やがて、言葉を発した。

「あっ……あー、しぇっ……!」
「……え?」
「亞莎……亞莎と、呼んでくださひっ、か、一刀様っ……」

 喉を通らず、詰まってしまった息を吐き出すかのように言う呂蒙。
 つい今、焦らないでいいと言ったばかりなのにどうして……と口にするより先に、涙に滲んでいるけど真っ直ぐな瞳が俺の目の奥を覗いていた。
 そこから受け取れるのは真っ直ぐな意思。
 言われたからとか、誰かが許したからとかではなく、自分が自分として預けたいと思ったから……そう思わせてくれる、強い意思がこもった視線だった。

「………」

 口ではどもってしまっていたけど、目は口ほどにモノを言うとはよく言う。
 握られた手にさらなる力が込められたとき、俺は自然に微笑んで、彼女の真名を口にしていた。
 いいのか? とは訊かず、真っ直ぐに見つめ返し、空いている手で彼女の頭をやさしく撫でて。

「……これからもよろしく───亞莎」
「っ………………は、はいっ!」

 真名を呼んでから、一呼吸も二呼吸もおいてからの返事。たった二言を噛まないよう、きちんと返事できるように何度も心の中で繰り返したのだろうか。
 赤くした顔を再び隠そうとする手が俺の手を掴んだままだということも忘れ、彼女はまるで俺の手に頬を摺り寄せるようにし───それに気づいた途端に余計に顔を赤くして慌てた。
 そんな彼女の頭をさらにさらにとやさしく撫でて、落ち着いてと何度でも口にする。
 慌てる人を見ると逆に冷静になれることもあるだろうけど、冷静というよりはやさしい気持ちになれた。
 口足らずながらも精一杯に伝えようとしてくれた彼女を見たからだろうか。
 それなら逃げる前に話を聞いてほしかったな〜とは思うけど、人間そんなに器用には生きられないし、不器用がどうとかの問題じゃない。
 不測の事態を前にしても、心身ともに冷静で居られる人間を俺は知らない。
 知らないからこそ、逃げはしたけど……今こうしてきちんと話し合ってくれた彼女の勇気に感謝を。

「……うん」

 泣き笑いの眩しい笑顔を僅かな眼下に。
 吐いた息とともに真っ直ぐに戻した視線が、大きく広がる蒼を映す。
 そんな蒼が、ふといつかのように遮られ……誰かが自分を見下ろしていることに気づく。

「かっ、かか一刀様っ」

 いやに真剣な目をした、けれど顔は赤い周泰だった。
 頭部の少し先に立って俺を見下ろす彼女は、何度か深呼吸をしながら手に巻いたハンカチをにもう片方の手を重ねると、急に身を屈め、吐いた息が互いの顔をに触れるほどの間近で俺を見た。

「しゅ……う、たい?」

 そんな彼女に「どうした?」と投げかけるも、周泰は「あぅぁう」と目を回し始め、一向に話は進まなかった。
 えぇと……これはいったいどういった状況なのか。

(ていうかな、呂蒙……じゃなかった、亞莎を腹に乗せたままで真面目な話をするのって、どうにもおかしな気が…………あれ?)

 ふと、腹というか胸というか、そこにきしりと圧し掛かる重み。
 周泰が目を回しているなかでチラリと見てみれば、頭を撫でられながら穏やかな寝息をたてている亞莎……って、えぇえっ!? ね、寝るか!? この状況で寝れるのか!?
 かっ……仮にも男の上で、こんなにも穏やかな顔で…………あれ? もしかして俺、男として見られてない?
 や、そりゃあ友達になろうって言って手を伸ばしたんだから、そのほうがむしろ付き合いやすくもあるかもしれないし、血迷って手を出す確率だって十分に減ってくれるわけだが……手放しで喜べないのはどうしてだろうなぁ。

「………」

 そうは思うものの、そんな預けられた体の重みがくすぐったい俺を、どうかお許しください華琳様。
 と、心の中で盛大な溜め息を吐き、苦笑をもらした丁度その時。

「話は済んだか」
「ん……? ああ、思春」

 頬を膨らませているシャオを連れ、俺の頭部の左横に立つ思春。
 済んだには済んだんだが、今の状況がよく解らない俺は、どう説明したものかと思案する。
 しかしながらまあ……なんだ。女性を寝転がりながら胸に抱き、頭を撫でている彼女は眠っていて、そんな俺の目の前ではもじもじと顔を赤くしてなにかを言おうとしている周泰。
 こんな状況、他人の視点で見れば何事かってもんだ。いやむしろ……亞莎には悪いけど、状況を改める必要がございませんか? これ。

「あ、い、いやっ、これはだなっ」

 思考がそこに行き着けば行動は速いものだ。
 出来るだけ眠っている亞莎を揺らさないよう、少しきつめに抱き締めたままに体を起こした。
 いや、起こそうとした。
 しかし、やっぱり人生っていうのは無情なものであり、嫌なタイミングっていうやつは重なるもんなのさ、と心の中の自分が呟いた気がした。

「あ、あああのっ! 一刀様っ! 私も、私も真名で呼《むちゅっ!》ふぐっ!?」
「んむっ!?」
「あ」
「───」

 上半身を起こそうとした俺と、座った状態でペコリと頭を下げた周泰との口が、その……重なった。
 微かに《がちっ》という音が鳴って、それが互いの歯と歯が小さくぶつかる音だということに気づくまで、随分と時間がかかった。
 つまり……それだけ俺と周泰は硬直していたわけだ。………………唇と唇を重ね合わせたまま。
 お辞儀する瞬間はきゅっと閉ざされていた目も、口の違和感に気づいた瞬間に見開かれていた。当然俺もそんな調子であり、俺と周泰は───

「あぅあぁあああーーーーーーっ!!!」
「うわっ、う、うわわわぅわぁあーーーーーっ!!」
「あぅあぅあぅあぁあーーーーっ!!」
「うわっ、うわっ、うわぁあーーーーーっ!!!!」
「はぅぅあぁあーーーーーーっ!!!」

 互いの顔の熱さが最高潮に達するや、喉の許すかぎりに叫び続けた。
 もうこうなってしまえば胸に抱いた眠っている亞莎を気遣うことなど出来るはずもなく。
 心の準備も出来ないままに起こった出来事を前に、俺も慌てるだけ慌て、叫ぶだけ叫ぶしか自分を保つ方法が見いだせなかった。




ネタ曝しです。  ◆かめはめ波  みんな知ってるドラゴンボールです。  一人かめはめ波は恥ずかしいものです。  ◆散眼  グラップラー刃牙より、愚地独歩VS範馬勇次郎戦にて。 亞莎と明命の回でございます。 じっくり書くと本当に長くなって大変です。 Next Top Back