29/「いつでも正解を出せる存在なんて居ないけど、それが正解だと自分が信じていれば、それはきっと正解なのだ」というケース29

 人間、慣れているつもりでも急なことには弱いもので。
 魏のみんなとは散々としたキスも、当然そういった雰囲気の中でするものだと確信していた俺にとって、周泰との突然のキスはとてもとても驚くべき出来事だった。
 と、城壁の上の硬い石畳で正座をしながら考えてみる。どうしてこんな場所でとツッコみたいところだが、硬い場所でなければ罰にならんと言われたからで。

「お前には客としての意識がないのかっ! 聞けば真名を許そうとした明命にとととっとと突如接吻をしたとかなんとか! お前の言う友というのは真名を許した途端に唇まで奪うとっ……はっ!? ま、まさかそうして、雪蓮姉さまや冥琳の唇まで……!」

 見上げる先には孫権さん。この一ヶ月で、もう何度こうして怒られたか。
 や……だからね? 見上げる先で胸の下で腕を組むの、やめてください。絶景すぎてもう……じゃなくて。
 でも、なんだろう。少しずつ、ほんの少しずつ扱いが柔らかくなっている事実に、少しだけ頬が緩む。
 “貴様”だった呼び方も“お前”に変わり、たまにだけど話に夢中になると、言葉使いが王家の者としてではなく少女然としたものになることがある。
 それを聞ける瞬間が、この怒られている時の癒しでもあったりするわけで。

「聞いているのか北郷っ!」
「ああ、大丈夫。聞いてる」
「ならば言い訳の一つでも述べてみせろ! こうして座らせられ、一方的に言葉を突きつけられれば言いたいことの一つでも出てくるだろう!」
「事実だから言い訳はないよ。あ、でも雪蓮と冥琳とはそんなことにはなってないから、それは安心してほしい」

 胸に行きそうになる目を意思で正し、孫権の目を真っ直ぐに見上げて言う。
 対する孫権は……解決しない事態に頭を掻き毟るような面持ちで、震える息を吐いたのちに……ふと、静かに言った。

「お前は…………私と話す時は、随分と冷静に話すのだな」
「?」

 自分に言われるべき言葉かどうかが理解できず、言葉の意味が一瞬……文字通り解らなかった。
 冷静? ……冷静だろうか。こうしている今も、何気に自分の中の獣と戦っていたりするのだが……強いて言うなら、どちらかが熱くなってしまった状況での会話は、どちらかが冷静でなければ纏まらない。
 春蘭が熱くなれば秋蘭が落ち着かせて、春蘭と秋蘭が熱くなれば華琳が落ち着かせる……そういった状況を近くで見れば、嫌でもそういったことが身に着くってものだ。
 ……まあその、自分が冷静な状態で居られる状況なら、の話ではあるが。

「言いたいことは解る。どちらも熱くなっては、交わす会話も実りにならん。だが、そこでただ只管(ひたすら)に冷静でいられては、熱くなっている私が愚か者のようではないか……」

 俺の目から視線をずらし、拗ねるような声でそんなことを言う。
 だからといって「よし解った」と熱くなるわけにもいかず……俺はどうすれば目の前の人が笑ってくれるのかを考えてみた。
 思えば思春と合計したところで、笑っている顔を見たことなど数えるほど…………も、あっただろうか。

「怒ってもらえるって、大事なことだよ。褒められてばっかりじゃ見えないことっていっぱいあるからさ。見るところをちゃんと見て怒ってくれてるなら、俺はそれが嬉しいって思える。だから、孫権は愚かなんかじゃないよ」
「う…………それだ。お前はいつもそうやって、拍子もなしに人を褒める。お前が呉に来てから、私の調子は狂わされ続けている」
「調子?」

 調子……いや、身に覚えがないんだが。
 お、俺……なにかやらかしたか? 考えてみるが、思い当たる節が………………どうしよう。いろいろあって、どれが原因だか解らない。
 と、首を傾げていると、孫権は大きく息を吐いてから寂しげに俺を見下ろした。

「私は……少なからずお前に嫉妬している。孫家の未来を思い、姉さまの傍で呉のためにと気を張ってきた。だがその実、私に出来たことなど限られている」
「孫権……?」
「……見ろ、北郷。眼下に広がる町を、そこで生きる民を。皆、私などよりもお前に信頼を寄せている。口で呉のためとどれだけ並べようと、実行に移せなければそれは虚言と変わらない。私は……私には、お前のように民の怒りや悲しみを我が身で受け止める勇気がなかったのだ」

 口を開こうとする。それは違うと。
 けど、そうするより早く孫権が言葉を発していた。

「違わないのだ、北郷。“お前”を見てきたからこそ解る。将ではなく警備隊長という身分でありながら、曹操の、魏の信頼を受けているお前が……かつての敵国で出来ることなど高が知れる、すぐに馬脚を現すと踏んでいた。だが……お前は僅かばかりの信頼に応えるだけでなく、民を笑顔にしてみせた。……私には出来なかったことだ」
「………」
「私はお前が嫌いだった。自分に持っていないものを持っていて、それを姉さまに認められていることが悔しかった……そう、嫉妬していたのだ。そんなことをしている暇があるのなら、自分に出来ることを探せばよかったというのに、それすらせずに───」

 さあ、と流れる風が、孫権の長く綺麗な髪を揺らす。
 城壁から城下を眺める孫権の顔は見えないけど……その背が語っている。自分には足りないものが多すぎると。

「なぁ、孫権。孫権は本当に探そうともしなかったのか?」
「なに……?」

 そんな顔が振り向く。表情はキリッとした顔だったけど、振り向く一瞬にだけ見えた悲しげな顔を、見ないフリなんて出来そうにない。

「雪蓮が言ってた。必要なのは将や王じゃなく、それ以外のなにかだって。だから雪蓮は俺に天の御遣いとしての在り方を望んだし、実際になんとかなってくれた。でも、その間に孫権が何もしようとしなかっただなんて思えない」
「なっ……なにを根拠にっ……」
「孫権が約束通り俺を見ててくれたなら、俺だって孫権のことを見てた。真面目でやさしくて、雪蓮や冥琳にも負けないくらいに孫呉の未来を思って頑張ってただろ。たしかにお互い、年中見てることなんて出来なかったけどさ、それでも一月だ。怒られながらでも注意されながらでも、言葉の中に見えてくる意思って、あると思う」
「う……っ……」

 思ったことを素直に真っ直ぐに伝える。……まあその、正座したままで。
 人っていうのは案外“見ている”もので、無意識であろうと印象に残るものは印象に残っていたりする。
 たとえば退屈な毎日を送る中、つまらないテレビドラマを見ながらでも好きな歌が流れたりすれば、“○○○のドラマで○○○の音楽が流れていた”と記憶できるように。
 他の内容は覚えていないのに、その音楽が鳴った部分だけは鮮明に覚えている。不思議だけど、それが印象ってものである。
 俺にとっての孫権のソレは、民のためと口にしないながらも仕事を決してサボらない在り方だった。どっかの誰かさんとは大違いである。
 おそらく今日も、どこぞの木の上で酒でも飲んでいるんだろう。それか町のじいちゃんと話をしてるか。
 時々、孫権が王になったほうがいいんじゃなかろうかと本気で思ったりもする始末だ。もちろん雪蓮には雪蓮のいいところ、いっぱいあるけど。

「俺が持っているものを孫権が持ってないなら、俺が持ってないものを孫権が持ってるよ。自分だけじゃ出来ないことを成そうとするなら、自分に持ってないものを持っている人と手を繋げばいい。……俺は魏の人間だけどさ、手を伸ばしてくれるなら喜んで繋ぐよ。国に返していきたい気持ちに、他国だからって考えは関係ないと思うから。なにより、自分がこうしたいって始めたことで誰かが笑ってくれるのってさ、うん……凄くさ、嬉しいんだ」
「北郷……お前は……」
「な、孫権。自分では出来ないことだ、なんて思う必要なんてないんだよ。雪蓮は孫権や冥琳や陸遜が政治を纏めてくれるから民と王との堺を削っていけるし、俺だってみんなが俺に自由をくれたから親父たちを笑顔にするために動ける。それはさ、誰かが欠けてちゃできないことなんだ。思春の権利剥奪はいろいろと不都合が出たかもしれないけど、誰も文句を言わずにそれが穴にならないように庇ってる。将だけじゃ足らないなら、水兵のみんなが、それでも足らないなら民のみんなが国を善くしようと頑張ってる。それはさ、そもそも“孫呉”って国がなければ出来ないことで、雪蓮や孫権やシャオは何よりも先に、一番大事なことをやってくれてたんだ。……だからさ、孫権が落ち込むことなんてない。全然ないんだよ」
「っ……」

 息を飲む音がする。俺を見下ろす瞳には困惑が混ざっていて、俺の言葉を真っ直ぐに受け止められない理由があるのだろう……一度頭を振ると、今度こそ「それは違う」と口にした。

「孫呉は母が……孫文台が生んだ国だ。そこに私の意思は関係ない。私はただ“娘だから”孫家に居るだけだ。名に負けないため、そして孫呉の宿願を果たすため、姉を追い母を追い…………見ろ。辿り着いたのが今の私だ。私でなくともこなせることを坦々とこなし、いざとなれば一歩を踏み出す気概も出せない。……こんな私にでも……北郷、お前は一番大事なことをしてきたと言えるのか?」
「言える」

 考える必要なんてない。真っ直ぐにそのままの言葉を発した。
 
「娘だから孫家に居るだけじゃない。親が成した大業を大切に思って、孫文台の娘としての責任の重さから逃げずにここまで来たんじゃないか。たとえ王になるのが雪蓮だって決まっていたとしても、その妹になにも圧し掛からないわけじゃない。そこから逃げなかっただけで、親の意思を貫こうとしただけで、孫権は自分にしか出来ないことをやっていられてるじゃないか」
「………」

 驚きの顔のままに、孫権は俺を見下ろす。身動きひとつもとらず、真っ直ぐに。
 俺も真っ直ぐに見上げながら、これ以上自分を追い詰めないようにと砕けて笑ってみせた。

「過去のことは起きたことだし、過去に手を伸ばしても繋げる手はないよ。残念だけどさ。でもほら、笑顔でいてくれる人たちに手を伸ばして、もっと笑顔を増やすことは今でも出来ることだろ? だったらさ、“今出来ること”に手を伸ばすことから始めないか? にこっと笑ってさ、賑やかさに身を投じるだけでも見つかるもの、きっとあるよ」

 祭さんは“仲良くするだけで悪事を働く者が居なくなるわけでもない”って言った。
 それはたしかにそうだけど、町に笑顔が増えた今なら、受け取り方も多少は変わってくれているはずだ。
 悪事を働く人が居なくなるわけじゃない。だけど一人でも悪事を働かないで、笑顔を尊いものだって思ってくれたなら、そこにはちゃんと意味がある。
 騒ぎを起こす人が全て居なくなるわけじゃない。ないけど、同時に笑顔が溢れる中で少しでも“こんなのもいいな”って思ってくれたら……それを想像するだけで嬉しいから。

「俺や……たぶん孫権も、まだまだ教わる立場にある。教わった上で、自分がどう受け取るか、考えるかも学ばなきゃいけない、そんな立場だ。だからさ、よかったら俺と───」
「それはだめだ」
「あらっ!?」

 伸ばそうとした手が、膝から持ち上がるより早く却下された。
 思わずがくりとくるが、改めて見上げる孫権の顔は……笑顔だった。

「……本当に困った男だな、お前は。認めなければならない部分がまた増えてしまったではないか」
「……え? 認めてくれてたの? 俺のこと」
「あっ……と……当然だろうっ、見ていてやると言ったこと、よもや忘れたかっ」
「いや、それは覚えてるけど」

 見ていてくれたからって、認めることにイコールするわけじゃないから……そ、そっか。少しずつだけど、ちゃんと認めてくれた部分、増えてたんだ。
 それで呼び方も貴様からお前に昇格していてくれたなら、なんというかうん……むず痒いけど嬉しいような。

「だが、私はお前と手は繋げない……───そんな顔をするな、嫌いだからではない。言ったろう、“嫌いだった”と。お前は呉の……いや、皆の笑顔のために動いている。将も兵も民も関係ない、ただ人のために動いている。そんな者を嫌えるはずがないだろう」
「そ……そっか」

 そういった意味の“嫌いではない”って意味だってことは解っているんだが、こう真正面から言われると……困った、照れる。
 ……って、照れてる場合か。じゃあどうして手を……理由があるんだよな、そりゃもちろんだ。理由もなく手を繋ぐことを拒まれたんだとしたら…………ちょっと……いやかなり……うん、いや……すごくショックだ……。

「……? なにを俯いているのかは知らないが、きちんと私の目を見て構えてほしい。私はお前のそういったところも、その……認めているのだから」
「…………う、ぐっ……《かぁぁっ……!》」

 言いたい放題言った代償ですか!? なにやら恥ずかしいことを正面から言われた気がする! 認めてくれたのが嫌とかそんな話じゃなくて、こう……だめだ頭が熱くて表現出来ない!

「……え、えっとその……あ、ありがとう。意外だったけど、嬉しいよ」
「《かぁあっ……!》う、うるさいっ、私は嘘は言っていない!」

 こちらも恐らく赤くなりながら言葉を返すと、孫権も真っ直ぐに言葉をぶつけられるのに慣れていないのか、息を飲むのと同時に真っ赤っかになった。
 そんな時だ。俺と彼女は案外、何処か似ているのかもしれない……そう思ったのは。
 まだまだ勉強しなくちゃいけないことが多くて、だっていうのに目指す場所は無駄に高いところで。
 諦めたくないから目指しているのに、目指す場所の高さに戸惑っている。
 そんな……小さな弱さを、彼女の中に見た気がした。そしてそれはおそらく、彼女から見た俺の弱さも。

「……孫権。訊いてもいいかな。どうして手を繋げないのか」
「───解っているだろう?」

 だから、そんな言葉が返ってくるんじゃないかって……どこかで予想が出来ていた。
 どうしてと問いかけることもなく、たったそれだけで胸の中で納得出来てしまったんだ。

「私とお前はどこか似ている。未熟なところも、誰かに教えを請い、学ばなければいけないことも。どこから手をつければいいのかも解らず、だというのに理想だけは高く持っている」
「……うん」
「けれど……私はお前が羨ましい。誰にでも手を伸ばせ、請いたい教えを真っ直ぐに教えてくれと願えるお前が。雪蓮姉さまの妹だからと、孫文台の娘だからと、小蓮の姉だからと気を張っては、何を成すべきかが私には見えない」

 言いながら天を仰ぐ。まるで広大に続く空を自分の状況に重ね、手を伸ばしても何処にも辿り着けない未来を思うように。
 空に伸ばされた手が何もない空気を掴むと、孫権は視線を下ろした手に落として……自虐と寂しさを混ぜた表情で小さく笑った。

「私はまだまだ未熟だ。手を繋ぎ、力にはなってやりたいが……その“力”が見いだせていない」
「孫権、それはっ」
「解っている。未熟だからこそ手を繋ぎ、支え合っていくべきだと。だが私は……きっと甘えてしまう。今、雪蓮姉さまの……孫伯符の妹であることに甘えているように」
「………」

 目を逸らし、呟くように言う孫権。
 そんな姿を見ると、ふと思い出すのはじいちゃんの姿。

(……そっか)

 いつかの自分はこんな顔をしていたのかもしれない。
 魏に、この世界に帰ることばかりを考えていた俺に、じいちゃんが言ってくれた言葉があった。

「孫権。シャオにも言ったことだけどさ、無理に背伸びすること、ないと思う」
「なに?」

 逸らされていた視線が俺へと戻る。
 その目は……まるで道に迷った子供だった。
 なるほど、こんな顔をしてれば、じいちゃんも言わずにはいられなかったに違いない。

「この世界は怖いよ。一人で無理して立とうとしても、一人じゃあ出来ないことが大半だ。そんな中で自分は大人だ、なんでも出来るって言うのは怖いことだし、自分の虚勢で誰かに迷惑がかかるのはもっと怖い」
「……ああ、そうだな」
「いつかさ、俺はシャオに“大人ってなんだろうな”って言った。ははっ、そのことで孫権に怒られるだなんて、夢にも思わなかったけど」
「うっ……あのときのことはっ……その……」

 気まずく思ったのか、孫権は顔を赤くして俯く。
 そんな姿に俺は逆に頬を緩めて、一度大きく深呼吸をしてから言葉を続けた。

「俺さ、大人になるってもっと大きなことかと思ってたよ。大きくなって、じいちゃんみたいに武道を伝えていくとか、結婚して子供を作って、教え導くこととか……そんなふうに」
「違うの? それはとても立派なことじゃない」
(あ)

 きょとんと返すその言葉が、いつの間にか砕けていた。
 歳相応の言葉で返すその顔は真実歳相応で、目をぱちくりとさせて本当に疑問に思ってるって顔が……その、可愛いって思えた。

「うん、違わない。でも、立派なのと大人になるのとじゃあやっぱり意味が違うんだ。子供でも立派なやつはきっと居る。じゃあ大人ってなんなのかなって考えて……考えてみたけど答えらしい答えなんて出なくてさ。大人に聞いてみたら、そんなことを訊いてくるうちは子供だって断言されたよ」
「……そうなの。貴方もまだ知ら……あ、おほんっ! お、お前もまだ知らないのか……」
「………」
「な、なんだっ」
「い、いやっ……」

 困った……この娘、すごく可愛い。思わず笑ってしまう自分を抑えられない。

「ははっ、でもさ。解らないうちはそれでいいって思えたのはよかったって思うよ。大人っていうのはなりたくてなるものじゃなく、自然になるものだって」
「北郷……」
「国のために生きて、自分のために生きて、誰かのために生きて……そんな自分をいつか昔話として誰かに話せる時が来たら……きっと、それが自分が大人になったときなんだって。自分はこんな壁にぶつかって、だけど自分の周りには助けてくれる人が居たからやってこれたよ、って……自分の子供でも町ではしゃぐ子供でもいい。誰かに伝えられる日が来たら……その時の自分はきっと笑顔であるようにさ、諦めずに頑張ってみるのも面白いんじゃないかな」

 俺はじいちゃんの言葉から、守ること、守られることの意味をほんの少しだけ知ることが出来たから。
 そこからどう学んでいくかが俺に出来ることなら、次は学べたことを誰かに広めることが出来るまでを頑張っていこう。

「まずは自分のために動いてみないか? 誰かのためって重く考えるんじゃなく、自分のために動いてみて……今度はその“自分のため”が“誰かのため”になる行動を選んでみる。自分がやりたいことで誰かが笑ってくれるって……そんなに嬉しいこと、他にないよ」
「…………そうか。だからお前は手を繋ぐのだな」
「え…………そうなのかな。俺はただ、俺には出来ないことのほうが多いから、それを支える人、自分にも支えられる人が欲しくて……あれ? なんか矛盾してるな、うーん……」
「…………ぷっ、く───ふふふふっ……! な、なんだそれは、まるで言っていることが滅茶苦茶じゃないか」
(あ……笑顔)

 俺を見下ろしながらくっくっと笑う孫権は……困った、やっぱり可愛かった。
 そんな笑顔を、偶然とはいえ俺が引き出せたことも嬉しかったけど……なにより、俺に向けて笑顔を見せてくれたことが嬉しい。

「じゃあ俺もまだまだ子供なのかも。実際に教わることのほうが多いんだから、無理して大人だって言っても仕方ないけど」
「……そうだな。私もまだ……今はまだ、もう少しだけ子供の自分を自覚していよう。……そしていつか、自分にも守れるものが出来たときが───」
「ん。きっと、大人になれたときだ」

 孫権が屈むことで、二人、同じ目線で頷き合う。

「北郷。これからもお前を見ていていいだろうか。私は……自分の視界をもっと広げてみたい。今の自分では見れないものも、お前を通してなら見える気がする」

 事実、今までがそうだったのだと続ける孫権。
 そんな彼女に、俺は静かに右手を差し伸べた。

「……い、いや、北郷。つい先ほども言ったが私は───」
「甘えられるのは子供の特権だよ。甘えられるうちに甘えておかないとさ……相手が居なくなってからじゃあ甘えられもしない」
「…………それは、母さまのことを言っているの?」
「違うよ。俺は孫文台がどんな人かも知らないし、甘えさせてくれるような人なのかも知らないから軽口なんて言えない。けどさ、片意地張って過ごして、いつの間にか大人になってたらさ、甘えたかったな〜なんて思っても誰も相手にしてくれないだろ?」

 にこやかに言ってみる。対する孫権は、「仕方の無い人……」と苦笑と溜め息を漏らした。

「貴方の考えはまるで子供ね。それなのに、不思議と不快にはならない」
「はは……実際、考え方が子供なんだよ。俺さ、行動力って童心から来てると思うんだ。興味から始まって好奇心で動いて、楽しければ笑って悲しければ泣く。俺はそんなことが出来る自分のまま大人になりたいし、そのいい例がこの国には居るから……目指すのが楽しみになってきた」
「……祭と雪蓮姉さまね。あの二人を手本になんて、貴方は相当の度胸持ちか無謀かのどちらかよ」
「まだ“誰のことか”も言ってないのに、祭さんと雪蓮を挙げる孫権もね」
「っ! あ、ち、違うわっ、今のは───あ、おほんっ! 違うっ、今のは言葉のあやというものでだな……わ、笑うなぁっ!!」

 腰を落ち着けて話してみれば、こんなにも楽しい。
 俺が伸ばした手は繋がれることはなく、いつの間にか俺も下ろしていたけど───うん、今はいい。彼女にも彼女なりの進み方があるし、俺にも俺の進み方があるのだから。
 そうして一頻り笑って、何を言っても無駄だと悟るや否や、同じく微笑をこぼして笑い始めた孫権を前に、言葉を紡ぐ。ライバル宣言じゃないけど、お互いがお互いへの勇気になるようにと。

「なぁ孫権。今度三国のみんながどこかの国に集まるような日が来るまでにさ、どっちの方が国に貢献できるかを勝負しないか?」
「勝負? 国への貢献を勝敗の対象にするのは感心しないぞ」
「もちろんそういう意味じゃなくて、俺達の気持ちの問題。焦る必要はそりゃあないけど、自分以外の誰かが自分よりも頑張ってるかもって思えば“出来ること探し”にも気合いが入るだろ? 勝負っていうのはあくまで意識的なきっかけで、それを糧に自分がどこまで頑張れるかを試してみないか?」
「………」

 再びにこやかに。孫権はきょとんとした顔で俺を見ていたけど、「そんな気概があってもいいかもしれない」と呟くと、俺に「立ち上がり姿勢を正し、左手を構えろ」と告げた。

「?」

 その意味も解らないままに、とりあえず左手を見下ろしたあとに「こう?」と軽く肩あたりの高さまで挙げてみると、孫権は右拳を構えた。
 ……子供みたいな考えかもしれない。けど、まだまだ自分たちが子供だっていうなら、それもいいと思えた。そんな自分だから、孫権がなにをしようとしているのかが反射的に解って、軽く構えた左掌に力を込めた───途端、《ぱぁんっ!》といい音が鳴って、俺と孫権の掌と拳が合わさった。

「私達がまだまだ未熟ならば、私達は二人でようやく一人前だ。いや、そこまでにも辿り着けていないかもしれない。特に私は……つくづく傍に思春が居なければ駄目な存在なのだなと痛感している。頼り切っていたのだと。姉さまもそれを見越して、お前に思春を付かせたのかもしれない」
「雪蓮が? …………」

 頭の中に、にこーと笑う女性が浮かんだ。結論としては……うん、それはないんじゃないかなぁという結果になった。

「私達はまだまだ様々な人に支えられ、守られて生きている。だがそれを当然のことと受け止めず、その中でどれだけ努力出来るかが“今自分に出来ること”だと……お前と話していて思った」
「ああ」
「私の“(ほこ)”はお前に預けよう。これから私が進む道に“人を殺めるための戈”は必要ない……いや、必要が無くなるように努力をする。そのための覚悟をお前に預けよう」
「……ああ、預かった」
「そして……我が右手を武とし、お前の左手を文として───ともに知識を求め、この地、この国、この大陸からこそ学んでいこう。お前が言うように、そこから得た全てを以って、いつかこの国に返していくために」

 視線が交差する。
 逸らすこともなく赤くなることもなく、ただ真っ直ぐに、意思と覚悟を分け合うように。
 そして、その覚悟の意として彼女は告げる。

「……北郷……いや、一刀。貴方に私の真名を預けるわ。未熟な者同士、私を支え、貴方を支えさせてくれる?」
「もちろん。受け止めた覚悟に誓うよ。その……れ、れ……蓮華」
「ふふっ……ええ。頼むわね、一刀」

 手を繋がない代わりに、お互いを高め、支え、競い合うことの誓いを。
 初めて呼ぶ恋人の名前に躊躇するみたいな心境だが、なんとか口にした真名と、口にされた自分の名前を自分の中で反芻して頷いた。

(はは……頑張る理由がまた増えたな。……やれやれ、もっともっと頑張らないと)

 やがて離れる拳に俺も手を下ろしながら、これからのことを思って……苦笑ではなく笑ってみせた。
 突然笑う俺を見て、蓮華が「どうしたの」と声をかけてくる。

「あ、ああいや、これからのこと考えて、ちょっと。苦笑が出そうになったけどさ、笑うなら笑顔だろ? 目指す場所が濁らないようにさ」
「───……ええ、そうね」

 言ってから蓮華も笑う。
 大きな声でではないものの、静かに笑う笑顔は綺麗であり可愛くもあり……───って落ち着け俺、事実は事実だけどいちいちときめいたりだな……!

「それじゃあ一刀? 支え合うその一歩として、私の剣術鍛錬を手伝ってくれる?」
「落ち着け落ち着───へ? 鍛錬?」

 急に言われた言葉に、今度は俺がきょとんとした。
 ……はて。彼女はつい今しがた、“戈”は俺に預けると……あれ?

「あ、あのー……蓮華? 蓮華は戈を俺に預けるって───」
「? それは人を殺めるための、でしょう? 民を守るための自身の研磨は今こそ必要だって、一刀なら解ると思ったのだけど……」
「あ、あーあーあー! ソウ、ソウデスネ!?」

 根本的な間違いをしてしまった。
 そっか、殺すためじゃなくて守るため……なるほど、うん。

「あ……けど俺、そんなに強くないぞ? 俺だってまだまだ祭さんや思春や周泰に教わってるくらいだし」
「その三人に教えられている者が、いつまでも弱いわけがないわ。それに……一人より二人のほうが競い合えるし支え合える。そうでしょう?」
「う……」

 うっすらとピンク色に染まる頬を見て、思わず息を飲む。
 困った、可愛い───じゃなくて! 修行、修行な!? 己の研磨! いい言葉! 
 けど待ってください蓮華さん! 貴女性格変わってませんか!?

「……? ……おかしい? 今の私は」
「おかっ……いやいやいやっ! でも随分と変わったなぁとは……じゃなくてあぁあっ……!!」
「ふふっ、構わん。自分でも驚いている。自分にもこんな、誰かに甘えるという行為が出来るとは……夢にも思っていなかった」
「ウェ?」

 変な声が出た。甘え……甘える? エ? 誰に……俺に!?

「な、なに? 甘えられるうちに甘えろと言ったのは貴方でしょう?」
「やっ……そーだけど……」

 ころころと変わる口調に、どうしても頬が緩んでしまう。
 そ、そっか、甘えて……甘え……甘ァッ!? 雪蓮や祭さんや冥琳や陸遜じゃなくて俺!? 俺なのか!?
 や、うん……嬉しい、嬉しいぞ? 俺に甘えてくれるなんて思いもしなかったし。
 そりゃあお互いの現状を話し合って、弱いところも曝け出して、普段は言わない弱音を吐き合ったりもしたけど…………あれ? そうすると逆に、俺も蓮華以外にはあまり弱いところを見せたくないような……あ、あれぇ……?
 いや待て、俺はたしかに甘えられるうちに〜とか言ったぞ? 言ったけどそれは、手を繋げる人と素直に話し合う〜とか支え合う〜とか寄りかかる〜とか、そういった意味で合って……マテ、何処でなにを間違えた。

「?」
「………」

 穏やかな笑みが目の前にありました。
 それを見たら、いろいろぐるぐると考えるのが馬鹿らしくなった。
 だって……笑顔を前に難しい顔して悩むなんて、無粋もいいところだもんな。
 けどその前にっ!

「ごめん蓮華、その前にさ」
「解っているわ。明命のことね?」

 はいと言わざるをえない。
 事故……と言ったら相手に失礼とはいえ、偶然であることは確かで。
 いや、なにも言うな。こんなときに偶然なんてない、あるのは必然だ〜なんて言おうものなら、どこぞのU子さんであろうと今だけは許したくない。

「……支えると言ったのなら、私も行くべき……よね」
「あ、いや……ごめん、一人で行かせてほしい」
「そう? 力を貸してほしくなったらいつでも言って。私に出来ることなら、喜んで力を貸すわ。ただ今回のことはさすがに、事が事なだけあって支えるのは無理そうだけど」
「………」

 物事ってものには、どうしようもなく“反動”ってのがつくものなんだろうか。
 あれだけ一線引かれていたっていうのにこの態度…………人の感情って不思議だ。

(でも……)

 解る気もする。
 蓮華は俺を“見ている”と言ってくれて、その実しっかりと見ていてくれた。
 そんな蓮華を俺も見ていて、お互い話し合ったことなんて僅かだっていうのに、俺達はお互いのことを多少は知っていた。
 知人以上で友達未満……そんな関係を続けてきて、いい所も悪いところも、苦笑するところもおかしいところも見つけて───ここでこうして意見や弱音を吐き合った。
 そう。やっぱりきっかけなんてものは、何処にでもごろごろと転がっているものなのだ。
 ただ“それ”をソレと気づけず、掴めないままに流していってしまうだけ。
 お互い、見ているばかりじゃなくさっさと話し合っていればとも思う。
 しかしながら、ずっと見ていたからこそじっくりと解り合える会話を成立させられた。
 たとえばこれが初見のときで、急にじっくり話し合いなんて始めて、俺達は寄りかかり、支え合う関係に至れただろうか。……って、考えるまでもなく無理だよな。
 距離をとっていた時間は無駄なんかじゃなく、目の前の笑顔はそんな時間があったからこそのものだ。
 そう思うことにして、蓮華に軽く挨拶をして歩きだす。

「事が事なだけあって、かぁ……」

 キスだもんなぁ……それも、おそらくファースト。だめだ、考え始めたら止まらない上にヘコんできた。
 ラッキ〜ッ、とかそんな次元の話じゃない……これは相当に辛いぞ。あんな……あんないい子のファーストを、よりにもよって事故まがいに俺が奪ってしまうなんて……!
 な、ななな泣いていたりするんだろうか。それともショックで寝込んでいたりとか……!

「いや。悩むよりもまず話してみないとな」

 考えるとループする。
 まずは突貫して……そ、そう、当たって砕ける精神で。ゴー・フォーブローク! ヘイテリー、ゴー・フォー・ブロークヨ!!
 ……などと。せめて頭の中だけは賑やかにして、城壁のから下方へ続く石段を降りていく。
 さて、どうなることやら……。



30/勇気をお出し……

 周泰の部屋の前に立ち、まずはノック───……返事なし。
 ならば声をかける───……返事なし。

「フゥォオオハハハハハ……! 万策尽きたわ……!」

 今……全てが終わった。少し老人チックに。
 などと心の中で僅かな救いを求めている場合ではなく……そっか、居ないのか。

「そ、それじゃあ仕方ないかー! あっはははははー! なんて言うかばかーっ!」

 まずい! 探さないと!
 何処かで監視!? いやそもそも仕事がなかったから猫と戯れてたんじゃないのか!?
 ととと年頃の少女の気持ちはきっと繊細! 俺なんかとのキスでショックを受けて、ままままさか自害なんてことは……!!
 いやまず落ち着け俺! 焦るとろくなことにならないって、今まで散々学んできたじゃないか! 冷静に冷静に〜〜……まずは周泰を探して、謝っ……謝る?

   事故とはいえっ、接吻してもうしわけないっ!

 ……マテ、それはなんだかいろいろと地雷臭が……。
 少しは学ぼう、北郷一刀。それはなんだか……そう、今まで鍛えてきた我が身と精神が危険だと叫んでいる。
 だったら───そう、むしろ褒めるかたちで。

   周泰…………キミの唇はまるでお猫様のように温かく。

     そして、肉球のように柔らかかった……!

 って何処のキザ男だぁあっ!! しかも違う! なにか違う! 褒めてるのか笑い者にしたいのか解らないだろこれ!

(あ、でも周泰は猫が好きみたいだし、これはこれで褒めに……? いや無理だろ。よし次)

 こんなことを考えながら、建業を歩いた。
 時々、というかしょっちゅう声に出ていたらしく、いろいろな人に微笑ましい顔で見られていたということを知るのは……もう少しあとの話だったりする。


───……。


 ……と、散々と歩き回ったりしたわけだが。

「居ない」

 街を駆けずり回り、城を徘徊し、城壁の一番高い場所でフーアムアイを叫んでみても、周泰は見つからない。
 城に居ない、町に居ないなら…………あ、もしかして川か?
 ポムと手を打つ俺は、それなら見つからないはずだと城壁の上で頷いて、再び走り出す。
 石段を降りて石畳を駆けて通路を駆けて庭を駆けて、かつて周々と善々に襲われたと勘違いしたあの場へ───!

「あぁ〜、一刀さ〜ん」
「!!《ジュザザァアッ!!》」

 ……と、走っていたのだが。
 突如として聞こえた、どこか間延びした声に構え取りつつ止まった。

「…………あの〜、一刀さん……? 近頃の一刀さん、私と話をするとき、妙に構えていませんかぁ?」
「や……だって」

 少し前のことを思い出してみる。
 あれはそう、俺が民と殴り合い、華琳から罰報告が来て、思春と友達になった次の日のこと。
 冥琳と民との交流についてを話しているときのことだ。

  魏に操を立てているのなら、穏には気をつけろ。

   特に、書物整理など“書物に関すること”を頼まれた際は悉く断れ。

 念を押されて「いいな」と真顔で言われた日には……怖くて近寄れなくもなるってもんだ。
 そりゃあ話し合いのときとかは普通にしていたが、こうしてプライベートのときに会うのはとてもまずいのではなかろうか。
 だって……命令されたら断れないし。

「だって、なんですかー?」
「イエナニモ。あー、僕周泰のこと探さなきゃいけないからコレデ《がしぃっ!》な、なにをなさるか! 拙者、急いでいると───!」

 そそくさと逃げようとしたら捕まった。
 振り向いた先にある笑顔がとても怖かったです、はい。

「むー、用があったから呼びとめたんですよぅ? それなのにそんな、慌てて逃げようとすることないじゃないですかぁ〜」
「…………」

 むう。たしかに今の態度はない。
 気を付けろと言われたのが書類というか書物系のことであるなら、それ以外のことだったら構える必要などないわけで───よし。

「ごめん。それで、呼びとめた理由っていうのは?」
「はい〜、実は書物《がしぃっ!》待ってください〜〜! 急に何処に行く気ですかぁ〜〜っ!!」
「いやもうほんと離してください! そういえば俺、とてもとても大事な用があったんです! ていうかね、冗談抜きで周泰探さなきゃいけないから! 書物のことは他の誰かにお願いして! ね!?」

 書物と聞いた途端に逃げ出そうとした俺の腕を、さらにぎゅっと掴んでくる陸遜!
 なんてこった! この人、何気に握力あるぞ! 振り払って逃げられない!

「他のことなら聞けるけど書物だけは駄目! 他の人から陸遜が書物関連のことを頼んだら、断固として断れって言われてるんだよ!」
「え……ふえぇえええ〜〜っ!!?」

 考えてもみよう。誰かが冗談混じりに笑いながら“気をつけろよ〜”って言うくらいならいい。まだ“ああ、ちょっと気にかけとくだけでいいか”ってくらいで受け取れる。
 しかしだ……冥琳だ。あの冥琳が真顔で「悉く断れ」と言ったのだ。……自殺行為だろどう考えても!
 泣きそうな顔で困惑する陸遜には悪いが、こればっかりは頷けな───……あ、あれ? あの、陸遜さん? その笑いはいったい───

「だったらいいですよぅ……私も命令、使っちゃいますから……」
「《サァッ……!》……!!」

 血の気が引く音を聞いた気がした。
 体中がニゲロニゲロと信号を発しているのに、ぎゅっと握られた腕が俺の逃走を許してくれない。
 本気を出せば振り払えるんだが、理由はどうあれ助けを求めている人を振り払うことなんて出来そうになかった。
 ……ああ……俺の馬鹿……。


───……。


 そうして辿り着いたのは一つの倉。中々に大きく、そこに書物がごっさりと仕舞われているらしい。
 物置き代わりにしているとは言うが……物置き? この大きさで? ……昔の人ってやっぱり解らない。
 一家に一つあるような物置きとはそもそも規模が違うぞ。そりゃ、国の物置きなんだから当然かもしれないけどさ。

「倉に行くのは久しぶりなんですよぉ〜。楽しみで楽しみで、どうしましょう〜!」
「楽しいって、いいことだよなっ! ジャア僕ハコレデ」
「だめですー! だめですよぅ〜!」

 逃げ出そうとしたらあっさり捕まった。
 「一緒に倉に来てください」というのが命令だったなら、もう逃げていいはずなんだけど。
 それでも俺の腕を咄嗟に掴んだ陸遜は、心細そうな顔を左右に振るう。
 ……この体でこの子供っぽさ……なんとかなりませんか神様。

「それで、俺はなにをすれば? 掃除か?」
「いえ……いえ! 一刀さんはただ、私が正気を保っていられるように止めてくれれば……!」
「正気?」

 ハテ。なにやらいっつもぽやんとしている陸遜の目に、燃え盛る意思が見受けられるのですが。

「その……実はですね? 私、本が好きなんです」
「本が? へえ、いいことじゃないか。……あ、もしかして正気を保っていられるようにって、本に夢中になりすぎないようにってこと?」
「うう、その……似たようなもの、なんですけど。こ、ここここのたび私、陸伯言はっ……じゃじゃ弱点を克服しようと思いましてっ!」
「おおっ!?」

 どーん! と思わず背景あたりに擬音が出そうなくらい、張られた胸の迫力が……ああいやげふっげふんっ!

「でで、ですからっ……ンッ……はぁ……一刀さん、にぃ……」
「…………?」

 アレ? なんだか陸遜の様子が……ヘン。ヘンだな、うん。
 急に顔を赤くして、もじもじしだして……あ、あれー、なんだろ。背筋のほうからギチギチと寒気にも似たなにかが……!
 逃げろ、逃げないと危険だと叫んでいる……! や、でもな、正気を保っていられるように〜って頼まれてるし───あ、そうか。既に正気を保とうと戦ってるから辛そうなんだな?

「陸遜、正気を保たせるにはどうすればいいんだ? 叩けば直るか?」
「た、叩くなんてぇ……一刀さんはぁ、そういうのが趣味なんですかぁ〜……?《デゲシッ!!》きゃぴぃっ!?」

 大変失礼なことを言い出したので、遠慮せずに頭頂に手刀を落としておいた。

「そーかそーか、俺がそういった趣味の男に見えるかー。大丈夫だぞー陸遜。こう見えても俺は、Sッ気たっぷりの華琳のもとでこの世界を学んだ男だ。陸遜が本の虫から卒業できるまで、いくらでも頭を叩いてやる」
「ふぇえっ!? え、えと、そのー、それは私の頭が保たないんじゃあ……」
「大丈夫! 俺もこの一ヶ月の中、様々な欲望と戦いながら生活してるんだ! こんな痛さがなんだ! 痛い思いをしたくないなら制御すればいいんだ! こんな近くに己の欲求と戦う仲間が居たなんて……! 幸せの蒼い鳥はいつだって近くに居るものなんだな! よし! オーバーマンズブートキャンプへようこそ! そうだ! 我々は出来る!」
「え……ぇえええっ!?」

 感動の瞬間であった。
 俺はこれから孤独に欲望と戦っていかなければならないのかと思っていたのに、ここに己の欲望というか欲求を克服するために戦う人が居た。
 あれだ、どこか異郷の地にて、かけがえのない同志を見つけた……そんな心境。実際にちょっと前までは右も左も知らない土地だったわけで、あながち間違いなわけでもなく。さらには自分の弱点を自ら克服しようとする姿に心打たれた。
 誰にも努力するところを見せず、影で努力するのもいいが───こうして自分の弱点を認めて、協力を求めるなんて誰にでも出来ることじゃないだろう。
 ああ、協力しようじゃないか! 俺に出来ることならなんでもしよう! さあ、特訓の始まりだ!


───……。


 と、意気込んだまではよかったんだが。

「《しゅぅううう……》…………」
「あ、あー……陸遜〜……?」

 しばらくして、頭から煙を出して机に突っ伏し、動かなくなる陸遜が発見されたという。
 いや、俺が手刀を落としすぎた所為だろうけど。
 や、だってさ。弱点っていうか……妙なんだもんな。目をとろんとさせて、艶っぽくなって。
 物置きって言われるだけあっていろいろ置いてある中で、少し古ぼけた机に座らせていたんだが……大好きな本に囲まれて、酔っ払いでもしたんだろうか。次第にとろんとした目、どころではなくガタガタと震え出して、謎の奇声を発したかと思うと俺に飛びかかり───ええと、まあその。日々の鍛錬の賜物か、うっかり放ったカウンターチョップが見事にクリーンヒットし、現在に至る。

「………」
「《しゅぅううう……》…………」

 いやしかし、突っ伏して気絶……机で寝ると、目覚めた時には体がぎしりと軋むもんだが、これはなんというか……天然クッション状態?
 大変な主張をなさっておられる双丘様が、陸遜の顔面に机の跡が付かないように守っていらっしゃる。
 ……目に毒だ、精神統一をしよう。

「しかしまあ……あれだ」

 彼女はここで産まれ変わろうとした。新たなる陸伯言として。
 それはとても素晴らしいことだが、志半ばで気絶。ううむ、起こしてやりたいんだが、生憎と目のやり場に困る状況。なんだかんだで俺も我慢しているだけであって、克服出来てるわけじゃないから。

「こうしよう」

 毒の中で産まれる、もしくは生まれるモノは、その毒に対して抗体を持っていると聞く。必ずしもそうであるとは限らないが、多少なりとも耐性はあるわけだ。
 ならば大好きな本に囲まれ、その中で目覚めた彼女の中にもきっと、抗体、または耐性が出来ているかもしれない。

「グッジョブ素晴らしい。もしまた特訓したくなったら、いつでも呼んでくれ。また次回に会おう」

 相手が気絶中でスリーツーワンビクトリーを言えないのは残念だけど、小さく手を振ってから倉を出た。

「…………」

 ……いい天気だった。
 長い間、陸遜と倉で戦う時間に追われ……空がこんなにも蒼いものだということを忘れ───ってそれはどうでもいい。

「……よし」

 昼の眩しさを目にしたら、思考が一度リセットされた。
 ならばと走り出して、探すは周泰の姿。
 町にも居ない、城にも居ないなら……まず一番に浮かぶのが離れた場所にある川だ。
 海……あれで河って呼ぶのはウソな気もするが、海兵の皆さんの方には居ないと思った。
 あんなことのあとで、すき好んで人が集まる場所には行かないだろう……ってそう思えるんだったらどうして真っ先に川に行かない俺ぇええ……!!


───……。


 流れる水の音が鮮明に聞こえてくる頃には、そこに居る一人の少女を発見できた。
 川を見るわけでもなく、恐らくは半分あたりを地中に埋めているであろう岩に背を預け、膝を抱えるようにして座っていた。
 普段なら気配ですぐに気づかれるんだろうが、周泰の意識は思いの外内側に沈んでいるようで、たとえ俺が隣に立ってみせても、気づく様子を見せなかった。

「………」
「………」

 そう。気づいた様子もなく、ただ膝の上の先に見える地面を眺める周泰。
 そんな彼女の隣に腰をかけてもまだ、周泰は視線を動かすことなく俯いていた。

「はぁ…………」

 溜め息。次いで、傍にあった小石をシュパァンッ!と川に投げた。
 ベドォッ!と水に落ちた音とは思えない音が鳴り、少し先の水面に魚が浮かび、流されていった。

(………)

 偶然なんだろうけど、流れていく魚へと静かに十字を切った。エイメン。

「…………はぁ……」

 で、再度溜め息。
 十字を切った動作にさえ気づかず、ず〜〜〜んと重苦しい雰囲気を肩に乗せ、さらにさらにと肩を落とす。

「………」

 覚えておくのだぞ一刀。見守ることもまた強さよ。……などと、言われたこともないことをじいちゃん的に心の中で囁いてみた。
 ああ、もちろん意味なんてないぞ。意味なんかないが、落ち込んでいる人の傍っていうのはこう、喉が渇くもんだ。それも、原因が自分にあるなら余計だ。

「はぁ……」

 さらに溜め息を吐いて、もう一度拾った石を川へと投げた。…………魚が流れていった。なにか魚に恨みでもあるんじゃあなかろうか。というか、石で魚を仕留めるとか、どこの達人だ周泰よ。
 さて、どう声をかけたものか───落ち込んでいる人を励ますのは、正直勇気が要る行為だ。
 原因である俺だから、ってわけじゃない。励まし、背中を押してやるだけなら誰にだって出来るけど、それじゃあただの応援だ。
 言葉を交わし、納得してもらって立ち上がらせるのは、自分の意見や知識を押し付けて納得してもらうものだからだ。
 全ての人が自分と同じ意見を持っているわけじゃない。同じ意見だって思っていても、深い部分では違うものだ。
 そんな意見をぶつけ合って、譲り合えるか合えないか。そういった行動を、この一ヶ月で何度も民としてきた。
 時には殴られ、時には泣かれ。時には罵声を浴びせられ、それでも手を伸ばし続けて……手を握ってくれた人と、手を払い除けた人。嫌悪を抱く人や、警戒する人……様々だった。

「………」

 叩かれた手は痛くて、罵声が聞こえるたびに胸が痛くて、泣かれるたびにただただ辛くて。
 自分が目指すものがどれだけ人の心を抉るのか、痛みを思い出させているのかを、ある日に俺は知った。
 自分がそうしたいって思うことばかりに真っ直ぐになって、相手のことを本気で思えてやれていたのかと疑問に思った。
 ……そう。まるで、罵声を浴びせられるたびに、自分が全てを殺してきてしまったと思えるような感覚。
 泣きながら俺へと叫ぶ民を前に、俺はその人の大事な人を自分が殺してしまった、と……そんな風にさえ思ってしまったんだ。
 だって仕方ない。その罵声は、その人の大事な人を殺した誰かではなく、間違い無く俺に向けられていたのだから。
 親父たちに殴られた時ももちろん痛かった。けど、その時はまだ完全に解っていなかったんだ。人殺しへと向けられる視線、言葉、恨み。それが、どれほど胸を抉るものなのかを。
 戦いだったのだから仕方ない……そんなもの、待っている人には関係がないのだから。
 亡くしてしまえば辛いのは誰だって同じなんだ。
 ───そんなことを、周泰の悲しげな顔を見ていたら思い出した。

「……はぁ」

 もう一度吐き出された溜め息を耳に、俺も小さく溜め息を吐く。
 ……結局、手を繋げた人と繋げない人は存在して、繋げた人のため、繋げない人のために出来ることを今も探している最中だ。
 国のため民のためと駆け回っては、喜びもされ恨まれもする。

  そんなことをしてなにになる

 いつか、一人の老人に言われたことだ。戦で息子もその妻も、孫までもを失った老人だという。
 目には世の未来を目指す光もなく、ただ生きていられているから生きている……そんな、希望を持たない老人が俺に向けて言った言葉。
 伸ばした手を掴んでくれた人でもあり、その上で「それは無理だ」と言った人でもある。
 辛いだけの過去に笑顔を……そう思い駆けた俺はその時、“辛いだけの過去”のままにしたい人を初めて見た。

 辛い思い出のほうが鮮明に覚えていられるから。こんなおいぼれでも、いつまでも涙を流してやれるからと、その人は言った。
 全ての人を笑顔にするなぞ無理なことであり、それをするならば誰かが笑顔を翳らせなければならない。誰かが幸せになる分、誰かが不幸にならなければならない。世界は平等には出来ておらず、誰かの笑顔の裏には、必ず誰かの涙がある。
 そういった世界だからこそ誰かが勝ち誰かが負け、自分の家族は死に、どこかの家族は生き残った。
 そんな当然のことを、ただ静かに聞かされ───それでも伸ばした手を老人は拒まず、小さく握ってくれた。

「無理、か……」

 繋がれた手はとてもざらざらしていて、冷たかった。
 終始笑むこともなく怒る様子も見せずに別れた老人は、今なにをしているだろう。そう考えてみて、右の掌で顔を覆う。
 なにもしていない、ただ生きている。そんなことが簡単に想像できてしまった。
 恐らく、何をしても何を言っても彼が笑むことはない。そうも思えてしまった。
 自ら命を絶つことはしない。長生きをしている分、命を大切さを知っているからだ。ただ生きて、ただ死んでゆく。
 そう。いずれ食べる物も無くなり、弱り果て、死んでゆく。それはとても自然なことで、それを助けるならば全てを助ける覚悟をしなければいけない。
 だって、知っているだろう?

  “働かざる者食うべからず”

 弱るだけで助けてくれる人が居るならば、人は何もしない弱った存在に成り下がっていくだけだ。
 だから働く。生きるために、食べるために。そういったことが出来ない家族の居ない老人は、ただ生きてただ死を待つしかない。
 それを助けるならば、次に現れる、もしくは別の場所に居る弱った存在も助けなければいけない。
 助けなければ、ただ信頼が崩れるだけだ。

  “そいつはよくて何故自分は”

 人は差別を嫌う。
 誰かが別の誰かを救ってくれるなら、自分も助けてほしいと手を伸ばす。
 そんな伸ばされた手に、俺は果たして自分の手を伸ばさずにいられるだろうか。伸ばした上で、助けきることが出来るのだろうか。

「………」

 華琳が劉備……桃香に言った言葉を思い出す。
 あなたはやさしすぎる。王になるべきではなかった。
 全てを救おうとする彼女を、華琳はそう言って力で捻じ伏せた。
 だったらこんなことを考えている俺も、いつかは華琳に捻じ伏せられるんだろうか。
 貴方は八方美人すぎるわ。天の御遣いになんかなるべきじゃなかったのよ。ザグシャー、って。

「怖っ!!」
「はぅわっ!?」
「ゲェーーーッ!! しまった!!」

 シリアスな思考を置き換えてみただけで、あっさりと恐怖に屈してしまった俺の悲鳴で、隣に居た周泰がさすがに気づいた。
 いや、しまったって思うことなんて本当はないはずなんだ、もともと話し掛けるつもりだったんだし、うん。

「ふへっ……は、ふっ……!? か、かかかかずとっ……さま……!?《きゅむ》ひゃぁうんっ!?」

 けどまあとりあえず。暗い気持ちになっていた自分に喝を入れると、逃がさないためにも周泰の手を取り、きゅっと握る。
 それにより周泰が顔を真っ赤にして目を泳がせまくり、さらには呂蒙……亞莎のようにあわあわとどもりまくっていたが、どれも気にしない。
 ……老人はいろいろなことを思い出させてくれた。ただ救いたい、ただ手を繋ぎたいって思うだけじゃあ駄目なこと。善意だけで動いても、それが全ての人のためになるとは限らないこと。本当にいろいろだ。

 だからといって、自分がやる行動の根本が変わるのかといえばそうじゃない。
 俺は結局手を伸ばすだろうし、困っている人を見かけたら黙っていられないだろう。それにより誰かに偽善的だと言われようが、それが北郷一刀のやりたいことだというのなら───貫かなきゃウソ……なんだよな。
 この国や魏や蜀、この大陸の全てを笑顔にすることが俺の望みじゃない。国に返すという言葉はその実、ひどく曖昧なものかもしれないけど、返したい感謝や返したい謝罪はきっと、この胸の中に、自分が知っているよりもたくさんある。

 それでもいつかは感謝だけを。
 巡りゆく時節の中で同じ夢を描いてきた。そんな過去をいつか振り返って、全てのものにありがとうと言える未来を“今”として迎えられたなら、俺はきっと国に返していけてるんだと思うから。その“今”を、宝物と思えるだろうから。
 だから、今はそれでいい。無理だと言われることも、手が繋がったというのに無力だと実感してしまうことも、全て受け入れる。
 いつか俺がその“今”に辿り着くまで、どこまで自分が頑張れているのか───大切なのはそこなのだから。




ネタ曝し  *というケース29  ハヤテのごとくのサブタイトルでありそうな言葉運び  *偶然なんてない、あるのは必然だ  U子さん。xxxHOLICより、壱原侑子の台詞。  必然、運命よりも偶然派な作者は、時々戸惑ったりもします。  *ヘイテリー、ゴー・フォー・ブロークヨ!!  キン肉マンニ世より、テリースピリッツ。  当たって砕けろの精神は本当に素晴らしいけど、恋愛ごとだと砕けた時は本当に砕ける気がする。  *フーアムアイ  我是誰と書く。ジャッキーチェン主演、我是誰より。  “私は誰ですか”という意味らしい。  見晴らしのいい高い場所で、両の握り拳を天高く振り上げ、軽く前後に振りながら叫んでください。  フーーーーアーーームアーーーーイ!!  *スリーツーワンビクトリー  ビリーズブートキャンプのラストにて、皆様が叫ぶ言葉。  毎回ビリー隊長に絡まれる娘さんが少し可哀想になる。  編集中に寝落ちしたらしいです。  起きてみれば何者かにパソの電源落とされ、編集中の作業がパー……。  ありがとう、いつも見守っていてくれて。でも僕今ちょっと泣きたいです。  仕事までに修正とネタ曝しとをやっていこうと思ってますが、さすがに全部は無理そうです。 Next Top Back