33/説いて教えると書いて説教。教えになっていない言葉は説教とは言わない。

 で……次。陸遜の本の虫攻略の時間なわけだが。

「ねぇ一刀、大丈夫なの? 穏は冥琳に倉には入らせるな〜って言われてるよ?」

 何故かシャオは俺の右腕に貼りついたまま、離れようとしなかったりする。
 あれからお姫様抱っこで町中を歩き回ったり、服屋でシャオに似合う服を見立てたり(代金はシャオ持ち)、空気が綺麗な小川近くの草原で膝枕や腕枕をしてやったり、周々や善々と散歩に出かけたり……本当に、時間の許す限りに無茶な命令を言われ続けた。
 今はこうして陸遜との約束の時間だから落ち着いてくれているが、これがもし俺の自由な時間だったらと思うと……は、はは……大丈夫、忘れよう。

「特訓のためだから、冥琳には黙っていてくれると助かる」
「へー……これが初めてじゃないんだぁ。じゃあさっき穏があられもない格好で倉の中で発見されたのは一刀が原因なの?」
「いや違 《ヒタリ》違いますよ思春さんっ!!」

 頚動脈あたりに冷たい感触!! 居る! 気配は感じないけど振り向けばきっと居る!!
 思わず背筋を伸ばして絶叫する俺に、きょとんとした顔のシャオが口を開く。

「思春? ……どこに居るの?」
「あれ?」

 右腕をぎうー……と抱き締めた状態で、見上げてくる顔に逆に疑問。
 すぐ近くのシャオが気配を感じないとか、どれほど隠密に長けてるんだ……とも思うが、もしかしたら気の所為かもしれな───

「…………《ぼそり》」
「ヒィッ!?」

 居るっ! 絶対居る! 今“見ているぞ”って言った!!
 なのに姿は見えない! 怖っ!! 滅茶苦茶怖っ!!

「はぁ……どうなるんだろ、これから……」

 手を繋いだあの日は遠く、少しずつだけど確実に、民や兵、将といった呉の人たちとの交流関係は良好という方向へと進んでいる。
 にも係わらずこうして脅しめいたことを言われるのは…………

(まあ、いいか)

 違うって言葉、ちゃんと受け止めてくれたみたいだし。
 いや、そもそもあのとき近くに居てくれたんじゃないのか?
 四六時中、姿隠して近くに居ることなんて出来ないとは思うが……うん、やっぱりいいや。
 見ているぞ、ってことは、危険なときは止めてくれるってことだ。勝手に“信頼の証”として受け取っておこう。

「それで、その陸遜は……」

 倉までの道のり、べったりと引っ付いたままのシャオとともに歩み辛くも進んでいくわけだが、倉が見える位置にまで達しても陸遜の姿が見えない。
 ……変だな、倉の前で待ち合わせをしてたんだけど。と、首を傾げながら倉に近寄ったんだが。その歩みが途中で止まる。

「……聞こえた?」
「……ふぇ? んー……あ」

 俺の言葉に、シャオも気がつく。
 なにやら……なにやら倉の方から、ええと、なんだ、その……女性の艶のある声が……。なんだろう。俺の五体に宿る経験と知識が、今は倉に近寄るなと叫んでいる。叫びを無視すれば、マイサンに明日は無いと言うかのように。

「シャオ先生。逃げていいですか?」
「孫呉の旗の下に撤退の二文字はないのっ!」
「いやでも俺魏だし! ───うおお余計に撤退のニ文字が無さそうだ!」

 でも構わない、俺は逃げる。こういう時の悪い予感ってのは当たるものなんだ。
 そう、当たる、絶対に。そして、絶対に当たる予感から逃げることが出来ないことも、俺はよ〜く知っていた。
 知っていたからこそ、まずはシャオを片手で持ち上げ、その口をもう片方の手で塞ぐと……気配を殺してそろりと倉の中へと入り、陸遜を探す。
 途中、シャオが暴れようとするが、なんとか拝み倒して黙ってもらった。

(そう、待ち合わせをした。弱点克服を手伝ってくれと言われた。それは一秒でも刹那でも、その場に立ち合えば果たされる命令だということに───とてもしたい! 今すぐしたい!)

 ふと見つけた陸遜さん───は、大変なことになっていました。
 一言で唱えるならば、モザイク無しでは語れないというか───っつーか本に囲まれてなにやってんだアンタァアアーーーーーーッ!!!

「ふやぁあ〜〜〜ん……♪ ……あぁ、一刀さ───」
「あっ、やっ! ごめんっ! 覗くつもりじゃっ……あのっ……とととにかくごめんっ!!」

 勇気ある逃走! なんてことっ……女性の、しかも関係を持ったこともない人の自慰まがいの行為を見てしまうなんて! いやそれもそうだけど、なんだってあんなところであんなことを!? 待ち合わせしてたよな、俺!! それがどうしてあんなことに!? もしかして見せたかっ───いやいやいやいやそんな馬鹿な! 大体俺に見せてなにに───はっ!?

(……まさか)

 もしかして、だけど。……冥琳の言っていた言葉の意味って、これだったのか? そういえば初めて倉に行った時も、なにやら艶っぽい声を出していたような……うわぁ本気かっ!? そうなのか!? 本当にそうなのかっ!?
 うああ……な、なるほど……! 一途に魏を思うのなら、本と陸遜を合わせるべきではなかった……ってことか……! 今でも目を閉じれば、脳裏に陸遜の肢体がうぉおあぁあああああああ消えろ消えろ消えろぉおおおっ!! 今の俺にはそんなの、生き地獄でしかないからっ! これ以上眠れぬ夜をもたらさないでくれぇえーーーーっ!!
 俺は走った! 頭を振りながら走った! シャオの口を塞ぎっぱなしで走った! 何故ってそりゃ、あの場に居ること、なんて命令をさせないために!

「んー! んんー! んー!!」

 日々猛獣を身の内に宿している俺に、あんなところに踏みとどまれとか言われたら……! だめだ! 絶対ダメ! そんなこと言わない可能性のほうが高いだろうが、それでもだめ!
 忘れるんだ俺! 俺は何も見なかった! 見な───だぁあああっ! これからどんな顔して陸遜に会えばいいんだぁああっ!!

「んむー! ん、んー……! ん…………!」

 …………い、いやしかし、随分と立派なものをお持ちで───ってだからそうじゃないだろ俺ぇえっ!!
 落ち着け俺! 俺が愛するのは魏のみんな! それもどうかなって思うときがやっぱりあるけど、俺は魏を愛している!
 いくら一年と一ヶ月以上も獣を封印しているとはいえ、おかしなことをすれば俺の首……どころかマイサンが……!
 に、逃げといてよかった……! もしあの場に踏みとどまっていたら、理性を保てていた自信がない……!

「……、……」

 いいか北郷一刀……お前は試されているんだ。
 あの華琳が、いくら同盟国とはいえ他国の女性と関係を持つことを心から許可するはずがない。
 たしかに風が言うように絆が深まるかもって考えは出来るけど、そんな方法なんて今さら取ることもないはずだ。

   ザサァッ───

 ……と、考えながら突っ走っていたら、いつの間にか外れの小川に立っていた。
 走り方なんか考えもせずに体を動かしていたためか、息切れがひどいし汗も相当だった。
 加えてタオルなんかもシャオとのデート前に自室に置いてきてしまっているときた。
 汗を流すのは無理か───……ふぅ、と溜め息ついでに頬をコリッと掻いた途端、「ぷあぁあっはぁああっ!!!」と、今にも窒息してしまそうでしたと言わんばかりの呼吸音が聞こえた。

「……あれ? ど、どうしたんだシャオ。走ってもいないのにそんな、息切らして」
「はっ、は……! か、一刀がっ……もーーーーっ!! 一刀がシャオの口も鼻も塞ぐからでしょーーーっ!?」
「え? 俺? ……いや、俺は口だけを塞いで……」
「途中から鼻も塞いでたもん! 死んじゃうかと思ったんだからー!!」

 俺に小脇に抱えられつつ、ぱたぱたと暴れてみせるシャオ。
 人間一人を片手で持ち上げられるって……やっぱり、筋肉ついてきてるんだろうな。
 それとも氣が?

「じゃなくてっ! ごめんっ! 逃げるのに夢中で気づかなかった!」

 ひとまず小脇に抱えた尚香さんを地面に下ろし、土下座でもしかねないくらいに頭を下げ《がごぉっ!!》

「はぴうっ!!」
「あだぁっ!? ───…………ぐお」

 ……人間、焦ったら負けだという状況が視界と心にざっくりと刺さる瞬間だった。
 距離も測らず物凄い勢いで下げた頭はシャオの頭頂に……そう、激突という言葉が似合い過ぎるほどの鈍い音とともに直撃し、呉が誇る元気娘さんを一撃で気絶に導いた。

「………」

 そして訪れる“やっちまった”感。
 はは……そーだよなー……。落ち着こうとする人間って、まず落ち着けないよな……うん……。

「…………《カリ……》」

 頭をひと掻き、目を回しているシャオ背に抱えると、一度深呼吸をしてから歩き出す。
 何処へ、と言われれば、陸遜が今も悶えているであろう倉へ。
 あんな恐ろしい状況だったとはいえ、克服しようと頑張る人を放置して逃げるのは嫌だった。
 誓って言おう、彼女のあられもない姿が見たいからではない。
 大丈夫、大丈夫だ。理性を失わないために、こうしてシャオを背負っていくのだ。
 欲望なんかに負けるな俺……というか、本が好きなのは解るけど、何故淫らな方向に走るのだ、陸遜さん。

「ああいや……人の性癖に口出ししても、きっとろくなことにならないよな……」

 Sで女好きな覇王様が世に居るくらいだ、本で淫らになる女性が居たってなんら不思議は………………なぁ、及川……。ここで“ない”って言い切れない俺は弱い男か……?
 まあそれはともかく。陸遜は“克服したい”って言ってたんだ。
 そしてそれに協力するって言ったのは俺だ。……その過程でなにが起ころうが、途中で投げ出すのはあまりに無責任だろ。

(無責任か……今さらって気もするけど)

 俺が果たせる責任なんてものが、果たしてこの国に存在するのだろうか。
 息子役を買って出たくせに時がくれば帰ってしまう。手を伸ばしてくれればその手を掴むと豪語しても、離れていれば掴める手などありはしない。
 その場その場でしかいい方向に働かないような言葉を口にしては、一時的に人の心を軽くしているだけなんじゃないか。……そうやって、小さく考えた。

「……華琳だったらもっと上手くやるんだろうな」

 考えても仕方が無い。
 人間一人に出来ることは限られているし、この国での俺の立場はただの客だ。
 王としての発言力を持っているわけでもなければ、将並みの権力があるわけでもない。
 ついてくるのは天の御遣いって二つ名と、魏から来た客って肩書きだけ。
 それ以外は兵……もしくは民とそう変わらないのが俺だ。
 あとは……うん、町のみんなとは、ほぼ誰とでも肩を組んで笑い合えるような立ち位置。……あれ? これって客以前にただの町人なんじゃなかろうか。
 そんなことを思いながら森を抜け、小川をあとにする。
 やがて城に辿り着いて、内部を歩いてもざわざわとした頭の中はすっきりとしてくれない。

「一時的にしか心を動かせない言葉じゃあ、いつか親父たちの笑顔も崩れるのかなぁ……」

 だからだろうか。倉への道を通りすぎる途中、そんな言葉が思わずこぼれた。

「───ほう? ふふ、面白いことを言うな、北郷」

 で、そんなこぼれた言葉を耳にした人が居たわけで。
 つい、と視線を動かしてみれば、通路の先からこちらへと歩いてくる影一つ。

「倉に用事か? やめておけ、今は穏が居る」

 長い黒髪を揺らしながら俺に声をかける存在……冥琳が、紐で硬く結い纏められた本を手に小さく溜め息を吐く。

「冥琳……あ、や、陸遜が倉に居るのは知ってる。むしろさっき見ちゃったから」
「…………すまない、見苦しいものを見せたな」
「いえ、こちらとしても大変結構なものを《ヒタリ》ウソですごめんなさいっ!?」
「……北郷?」
「あっ! やっ! なななんでもないからっ!」

 だから落ち着けって俺……! 監視されてることを忘れるなぁああ……!!
 ………………うん、冷静、俺冷静。
 冥琳に物凄く変な目で見られているが、気にしない方向で。

「……あ、そういえばさっき、“面白いことを言うな”とか言ってたけど」
「うん? ああ、あれか。……なに、少々呆れていただけだ」

 呆れ? ……ハテ、呆れるようなことを言っただろうか。
 ……いや、言ったか。心当たりがないわけじゃない。

「北郷。お前は自分の言を“一時的にしか心を動かせない”ものと言ったな。たしかにお前の言の全てが民に届いたのかと言えば、断言としてそうだとは言ってやれない。だが───」
「だが……?」
「人は悲しみには弱いものだ。子を亡くし、心が凍てついた民も居ただろう。しかし、うわべだけの……それこそ一時しのぎの言葉なぞで笑顔を見せてやれるほど、人の心はやさしくなどない。どれだけ奇麗事を並べようと、それが民の心に届かなければ意味が無いだろう?」
「………そう、だけど」
「お前は、きちんと民の心へ届かせられる発言をしてみせた。その結果が民達の笑顔であり、我々の笑顔だ」

 冥琳はふっと小さく笑みながらそこまで言うと、一度区切りを挟んで……溜め息を吐いた。顔は一目で解るほどの苦笑顔だ。
 出来の悪い弟を見るような風情で、今にもやれやれって言いそうで───

「やれやれ、これでも褒めているんだ、少しは嬉しそうにしたらどうだ」

 ……本当に言われた。

「……? なんだ? 話をしている相手を前に口を開けて呆けるのは、天の国の礼儀か?」
「断言するけどそれはないよ、うん。たださ、褒められてるって実感が湧かなかっただけだから。むしろ冥琳に褒められるなんて思ってもみなかった」

 人を褒めるタイプには見えなかったからだ。
 そんな人が急に褒めていると言うんだ、驚きもするし呆けもする。
 そして、やっぱり───この世界を生きてきたみんなと自分とでは、考え方のそもそもが違うんだと思い知る。
 どれだけ褒められても不安は残るし、胸を張ってみせるには自分が成したことが見合っていない気がしたんだ。
 民に届いたとしても、その思いはいつまで民の心に残ってくれるのか。どれだけ経てば、民たちは俺の言葉を忘れてしまうのか。
 そんなことをうじうじと考えてしまうあたり、俺は将寄りというよりは民よりの人種なのだ。

「なぁ冥琳。俺は人に褒められるだけのことを、ちゃんと出来たかな」
「出来たか、というよりはこれからもしてほしいと願っている。お前の行動で民の笑顔が増えたのは事実だ。それによって騒ぎも確実に減り、今では届けられる報せに騒ぎについてのものが無いこともまた事実だ」
「でもさ、だからって今後ずっと騒ぎがないわけじゃないし……」
「ふむ。お前が魏に帰ることで悲しむ者や寂しがる者は当然出てくるだろうが……その者達が騒ぎを起こしてでもお前に会いたいと思うかどうかと言えば、そうでもないはずだ。……お前は既に、呉に来た理由を民に話したと聞いたが?」
「ああ、話した。驚いてたけど受け入れてくれたよ」
「ならば次は民が立ち上がる番だ。お前がやれる仕事は民に笑顔と手を差し伸べるまでだ。あとは民の心次第だろう。お前が居なければ立ち上がれないほどに弱いのであれば、立ち上がったところでなんの解決にもなりはしないだろう?」
「………」

 あまり俺が居すぎるのも、民のためにはならないって……そういうことだろうか。
 それは……そうかもしれない。自惚れみたいに感じるけど、依存しすぎて俺が居なくなるだけで親父達が笑えなくなる、なんて状況は嫌だ。
 そんなことにはなるわけがないって頭では解っていても、むしろ俺の方が依存してしまう。いつでも会いに来れるとはいっても、魏から呉への道は決して短くはない。
 俺にだって警備隊の仕事があるし、魏の民とだって話したいこと訊きたいこと、たくさんある。

(……補助輪、か)

 俺は、親父達が“息子”無しでも笑っていられるための補助輪だ。
 近すぎてもだめだし、離れすぎてもいけない。
 人の心を強くするのは、馴れ合いだけで出来るほど簡単じゃないんだ。

「お前が魏に戻ってからも、永劫騒ぎが起こらないとはもちろん断言は出来ない。だが、我々とてそれを黙って見ているつもりもない。お前がきっかけを作ってくれたのなら、私達はそれが崩れぬように支えていくだけだ」
「冥琳……」
「現実として、お前は“呉の騒ぎ”を鎮める手伝いを成し遂げた。雪蓮が頼んだことは、既に達成していると言っていい。……魏に帰りたい、蜀に行きたいと思ったなら、私達に遠慮はせずにここを発て。いつまでも呉に居るわけにもいかないのだろう?」
「………」

 あ……少しちくりとした。
 冥琳の言葉が、やることが終わったならさっさと出て行けってふうに聞こえたからだ。
 でも……違う。たった一ヶ月ちょいの仲だけど、冥琳は言いたいことはきっぱりと言うほうだと思っている。
 回りくどいとは言わないけど、今のは……やっぱり違うと思う。

「……ありがと、冥琳」
「うん? ……おかしなやつだな。私はお前に、出て行けと言っているんだぞ?」
「“好きな時に”でしょ? ……このまま依存して、仲良くなりすぎたら離れるのが嫌になる。多分、今の言葉は誰かが……いや、むしろ俺が言わなきゃいけないことだった。やることが終わったら帰る、いつまでもここには居られないって」
「……お前は。鋭いのか間が抜けているのか解らないな、まったく」

 言いながら、冥琳は俺の眉間に細い人差し指を押し付けた。

「……? 冥琳?」
「難しく考えるな。静かに受け取り、自分の思う通りに行動してみるといい。考えて考えてようやく出たものが間違いだと言うつもりはないが、お前は自然体で動くほうがよほどに似合っている」
「………そう、かな」

 眉間にシワでも寄っていたんだろうか。
 人差し指がやさしく動いて、俺の眉間をほぐす。

「……驚いたな。こうされることを嫌がると思ったが」
「まあ……以前だったら払い除けるか逃げるかしてたかも。でもさ、肩肘張ったり格好つけて無理するのは、もうやめたんだ。日本……天の国に帰った時、自分がどれだけ子供だったのかを教えてくれた人が居たから。自分じゃあ守れないうちは、守ってもらってもいいんだ、って。それは恥ずかしいことじゃなく、無理に守ろうとして守れないことのほうがよっぽど格好悪くて恥ずかしいんだって……そう、教えてくれた人が居た」
「そうか。その御仁は武の師にあたる人か?」
「えっと、そうなる……かな。俺のじいちゃん───祖父なんだけどさ。これまで生きてきて初めて、あの人が祖父でよかったって本気で思った。……勝手だよな、本当に。いろいろ世話にもなってきたはずなのに、世話になった気さえ持ってなかったんだ。それがこの世界から一度戻って、いろいろ考えて一年を過ごしたら……もう、感謝以外に言葉が無くなってたよ」

 本当に馬鹿な話だ。
 散々と稽古にも誘われていたのに向き合おうとせず、強制だけはしないじいちゃんからずっと逃げていた。
 父親に怒鳴られて渋々稽古をしたりして、多少は強くなった気で剣道を始めて……多少勝てたからって天狗になって、やがて……本物に出会って、愕然として。
 目標を見つけて稽古を乞ってみても、その差を埋めるためには、それこそ自分が怠けていた分以上に頑張らなきゃいけなくて。
 結局はなにもかもが半端な自分だけが残って、この世界を生きて、覚悟を知って───土下座して、強くなろうと決意して。
 そうして始めた鍛錬の中で、ようやく俺は稽古を強制しなかったじいちゃんの真意を知った。
 どれだけ嫌々にやろうが、本人に強くなろう、学ぼうとする意思がなければ意味がない。
 そんな薄っぺらな“覚悟”を、あの人は自分の孫に持ってほしくなかったのだ。
 自分の意思で強くなりたいと本気で思うまで、ずっと待っていてくれた。だからこそあの日、土下座した俺を嫌な顔せず迎えてくれたんだと……そう思う。

「俺は天でもこっちでも、いろんな人に迷惑かけてばっかりだからさ。迷惑を全然かけないようにっていうのは無理だと思うから、せめてかける迷惑を減らしていきたいなって思う。それに……漠然とだけど、それを続けた先に“国へ返す”って思いの答えがある気がするから」
「国に返す、か……。そういうところも気に入ったのだろうな、祭殿は」
「へ? なんでここで祭さん?」
「ふふっ、いや……なんでもないさ」

 ここに来て冥琳は、初めて楽しげな笑顔を見せた。
 ちょくちょくと咎めたり咎められたりの現場を目撃したりしてるんだけど……もしかして冥琳と祭さんって結構仲がよかったりするんだろうか。
 そうじゃなきゃ、今みたいな素直な笑顔、滅多に見れるものじゃ……というか。

「……可愛い《ぼそり》」
「っ……!? あ……北郷? 今の発言の意味を噛み砕いて説明してほしいのだが?」
「え? ───うわっ!?」

 え? ちょ、ちょっと待て!? 今俺なんて言った!? 頭の中で思ってただけのつもりだったのに、もしかして口に出てたか!?
 可愛い、って……うわわ可愛いって言ったのか俺!!

「ごっ、ごめんっ! 今の可愛いはそういう意味じゃ……そういう意味ってどういう意味だ!? え、えっと違くてっ……! あ、あー……いや冥琳が可愛くないってわけじゃなくて、むしろ今の笑顔がたまらなく可愛かったからつい口が滑ったっていうか、あああそうでもなくていやそうなんだけどっ! 普段は綺麗だとかそっちの言葉のほうが似合ってる冥琳なのに、今の無邪気な笑顔が物凄く印象強かったっていうか、だからその思わず可愛いって───! いやでもほんとウソとかじゃなくて本気でそう思ったことが口に出たわけで───」
「ま、待てっ、もういいっ! やめろ北郷っ……!」
「えぇ!? で、でも冥琳、説明してほしいって、眉間にシワよせながら……」
「説明を求めはしたが、そこまで丁寧に噛み砕けとは言ってないだろう……っ! 私が悪かった、頼むからもうやめてくれ……!」

 目を伏せた困り顔でそんなことを言う冥琳。
 ……もしかして、綺麗だとかは言われ慣れてても、可愛いとかは言われ慣れていないんだろうか。
 ちょっと納得。可愛いっていうより、本当に綺麗って言葉が似合う女性だ。きっと子供の頃から、こんなふうにピンと背筋を伸ばして寡黙で美麗な女の子だったに違いない。
 そんな冥琳を想像してみると…………

「……困った、本当に可愛い」
「かっ……!? 〜〜〜っ………………北郷? からかっているのなら、物解りが良くなるまでその背を白虎九尾で叩いてやってもいいんだぞ……!?」
「へっ!? うわっ、また口に出てた!?」

 思わず口を押さえる俺を、冥琳は少し赤くなった顔で睨んでいた。
 けど待ってくれ、たしかに口に出てたかもしれないが、ウソを言ったつもりはない。
 考えてもみてほしい。小さな体でたくさんの書物を運んで、亞莎のように頑張って勉強をする姿を。呉のため雪蓮のため、寝る間も惜しんで頑張る少女の姿を。
 プライドが高いから教えを乞うことはせず、書物から学んで孤高に生きる少女……いつしか空腹に顔をしかめるけど、知識を得ることを優先するが……ふと部屋の外に気配を感じ、出てみると……足下には暖かな湯気をたてるたくさんの青椒肉絲が……!
 少女は辺りを見渡すが、すでに人の気配はなく。どれだけ意地を張って見せても自分は誰かに支えられているんだと感じながら、少女は暖かな食事で今日も頑張る……───

「……《ほろり》」
「……なぜここで泣くんだ、お前は」
「へあっ!? あ、あー……うあー……」

 指摘されてみれば、たしかに泣いている俺。
 冥琳から見た俺は、果たしてどれほどの百面相をしてみせているんだろうかなぁ。

「……冥琳は子供の頃、どんな子だったんだ?」
「……お前がここに来てから今までで得た私の在り方を、そのまま小さくしてみればいい」
「…………《ほろり》」
「だから、何故泣く」
「い、いや、ついさっき得た想像からの印象が深すぎて」

 小さい頃から眼鏡をつけていたとは限らないし、裸眼のままで本を両手にてこてこ走り回る姿を思い浮かべて───違うよ!? ロリコンじゃないよ!?

「えっと。つまり冥琳は昔っから冥琳だったってことでいいのかな」
「……。当然のことを言われたはずなんだが、頷くのが戸惑われるな。それはどういった印象だ?」
「冷静沈着で慌てることをせず、キリッとしてて頭が冴えて、青椒肉絲が好きで雪蓮に振り回されてて───」
「後半が引っかかるが、概ねそういった感じ───」
「───で、祭さんが好き」
「───《ビキッ!》」

 …………直後。
 俺がその場で正座をさせられ、みっちりと説教まがいに祭さんとの仲の悪さを説かれたのは言うまでもない。



34/誤解、戸惑い、擦れ違い。それと結盟

 人を背負ったまま正座をするという初体験ののち、ようやく解放された俺は夕焼けの下……倉の一角にあった机でぐったりしている陸遜を覗き見た。
 ……一応……服は正してあるらしい。が、頭を抱えてうんうん唸っている。
 ちなみに。シャオは冥琳が溜め息を吐きながら抱えていってくれた。

「り、陸遜〜……?」
「!《がばっ!》」

 あ。顔起こした。
 ……なんかこっちに走ってきたな。揺れる胸が目に毒だ。
 だが大丈夫、逃げるな俺……マイサン、お前は俺が守る。だから反応は起こすな。

「かぁああずとさぁああああはははぁああ〜〜〜〜ん!!《がばーーーっ!!》」
「見える!《サッ》」
「ふえっ!? あわぁああーーーー《びたーーーん!!》はぶぅいっ!!?」

 走り寄ってきて、その勢いのままに涙目で飛びついてきた陸遜を紙一重の距離で避けてみせた。
 恐ろしい……! 抱きつかれていたら相棒が反応してしまうところだった……! ……陸遜は顔面から地面に転倒したけど。

「あー……だ、大丈夫か? 陸遜」
「よ、避けましたぁあ〜……今、思いきり避けましたねぇ、一刀さんんん〜……!!」

 顔を起こした陸遜は、どうやら本当に顔面をしこたま打ちつけたらしく、鼻血が……あーあーあー……。
 これはあれか。胸がクッションになるどころか支点になって、倒れる勢い+胸で弾んだ所為で首から先が加速されてゴシャアと……なぁ?
 そんな陸遜さんだったが、鼻血がこぼれるのも構わずに体を起こすと俺の手をきゅっと握って、

「あーああああのあのっ!? さっきのは違うんですよ!? さっきのはその、本を見ていたら体が疼いてしまってですねぇっ……!!」
「いや、うん……そういったことについては、さっき説教ついでに冥琳に聞いたから……。うん、人それぞれだもんな。それを克服しようとしてたんだから、むしろ手伝うべきだ」
「うぅ、解っていただけで幸いです……」

 しょんぼりと溜め息。
 しかし本で興奮ねぇ……人それぞれとはいえ、凄いもんだ。

「けどさ、本を見て興奮するっていうのは……その。克服できるものなのか?」
「大丈夫ですよぅ、戦も終わりましたし、こうして日々を書物に囲まれて過ごせば……う、うぷっ《ぶしゅっ!》」
「ああほらっ、鼻血鼻血っ! 鼻押さえてっ!」
「《むきゅっ》……ふあ……あ、治まりました……」
「………」

 なぁ稟……どうして遠方に来てまで、誰かの鼻血の心配しなくちゃいけないんだろうな、俺は。
 というか鼻血を噴くまで本に興奮する人なんて初めて見たぞ。しかも他人に鼻抓まれて鼻血を止める女性ときたもんだ……。

「あー……えっとその。どうして、って訊いていいか? 本に興奮するってことの時点でもう解らないんだけど、その興奮がどうして性欲に向かうのか」
「そ、そんなの解っていれば苦労しませんよぅう……」

 まったくだった。

「じゃあ解決法も解らないままってことか……げほんっ! えと、処理する以外」
「《かぁあ……》はいぃ……」

 倉で男女二人、顔を赤くして見つめ合う……激しく誤解される状況なのに、危機感もなにもあったもんじゃない。
 軽く引き受けた本の虫克服作戦がこんなことに繋がるなんてなぁ……。

「その欲求、睡眠や食欲に向けることはできないのか?」
「眠くはならないし食べたくもならないですよ〜……それに本を見るたびに食べてたら、太っちゃいますよぅ」
「………」

 どうしてだろう。その脂肪はたぶん、全部胸に行くと断言できそうな気がした。

「……こんな状況だから言うけど、その。俺だって日々性欲と戦って生きてる。今のところ俺だって勝ててるんだから、陸遜もやろうと思えば出来ると思うんだけど」
「…………無理です」
「へ?」

 黙ってはいたものの、考え込んでいたわけでもなかったように見える陸遜。
 そんな彼女の口が、きっぱりと“無理”を主張した。

「う〜……だってだって、こんなにも本があるんですよ? もう匂いとか雰囲気とか倉特有のしっとりした空気とかで、ンッ……わ、私の心はぁあ……!!」
「やっ! だ、だからっ! そこで我慢することが必要だって言ってるんだって! だめっ! 手を伸ばさない! 耐えるんだ! ていうか耐えてぇえええっ!!」
「やぁあ〜ですぅう〜〜……。我慢は体にぃい……毒なんですよぅう……?」
「俺にとっては目に毒だからっ! あ、あぁあもうとにかくっ! えぇと……これっ!」

 本を結わうために使うものなんだろうか。
 倉の入り口の脇に吊るされていた細めの紐を数本とると、キツくなりすぎず、しかし抜けないように陸遜の腕を後ろ手に縛っていく。

「な、なにするんですかぁ一刀さぁん……!」
「こうでもしないとすぐに欲望に負けるだろっ! いい、俺決めたからなっ。絶対に陸遜の性癖を治してみせる!」
「こ、これは性癖じゃなくてですねぇ……」

 異論は認めません。
 一度頼まれたことを投げ出すのは誰にでも出来ることだが、それを受け入れた上で困難に打ち勝つことこそ願われた者の務め。
 熱っぽく息を荒くする陸遜を前にするのは、正直辛いわけだが……ならば俺もさらなる自分の向上を目指して───ってこらこらこらぁっ!!

「ちょ、陸遜! 机の角でなにしようとしてるの! だっ……ああもう!」

 人が考え事をしているうちに陸遜は倉の机へと歩みより、あろうことか、……ごにょごにょ。
 ともかくそれを、無理矢理椅子に座らせることで阻止し、再びそんなことがないようにと椅子にしばりつけていく!

「やぁあ〜〜〜っ! やめてください一刀さんんん〜〜〜っ! 体が、体が熱いんですよぅ〜〜〜!」
「だからそれに耐えるための克服運動なんだって! そもそも陸遜のほうから俺を頼っておいて、やめてくださいとか言われると俺だけが悪いみたいに───」

 かたんっ。

「おや?」
「ふえ……?」

 嫌がる陸遜を椅子に縛り付けている最中、入り口付近から聞こえる物音。
 はて、と振り向いてみると、顔を真っ赤にした孔明さんと士元さんが……!

「いや違───」
「はわわわわわぁああーーーーーーーっ!!!」
「あわ、あわわわ……!!」

 う、と続ける間もなく絶叫。
 書物でも借りにきたのか、こんな状況で鉢合わせなんてどれだけツイてないんだと思いながらも、彼女等の視線がただ只管に、俺が持つ紐と泣きながらイヤイヤと叫ぶ陸遜に向けられれば……辿り着く答えなんてひとつに決まっているわけで。

「いやちょ、待って誤解だから待って! これは陸遜に頼まれて!」
「ひうっ……! い、い、いい、いえ、あの、その、あわわ……!」
「だだ、大丈夫です、その、人の趣味はいろいろ、ですから……」
「違う! そんなやさしい理解力が欲しいんじゃないんだってば! 聞いて! 頼むから聞いてお願い! 思春!? 思春居るんでしょ!? 説明してお願い! 俺はただ良かれと思って……!」
「だ、大丈夫ですっ、わわ私たち、誰にも言いませんからっ! ね、ねっ? 雛里ちゃんっ」
「あわわ……う、うん……言いません、言い、ません……!」
「言う言わないとかじゃないんだってばぁああっ! 違う本当に違うこれ俺の趣味とかそういうのじゃないって聞いてお願いだから聞いてくれお願いしますからぁあああっ!!」
「あ、の……大丈夫、です……。朱里ちゃんも……その、このあいだ、隠してたいやらしいご本を詠さんに見つけられて」
「雛里ちゃんっ!? どどどどうしてそれを言っちゃうの!?」
「ふえ……? で、でも一刀さん、困ってたから……」
「それでもだよぅっ! ちち違いますよ一刀さんっ! あ、あれはお勉強っ、お勉強のためにっ……!」

 …………散々慌ててた自分が、急激に落ち着いていくのを感じた。
 うん、目の前でここまで、いっそ自分よりも慌てられたら逆に冷静にもなるよね。
 ああ、さようなら、知将諸葛孔明……貴女のイメージは今死んだ。とはいえ、それが軽蔑に向かうかっていったら否だけど。

「うん、とりあえず呼び方はそのまま一刀さんでいいから。それより二人とも、落ち着いて」
「おちついてましゅっ!《がりっ!》…………〜〜〜っ……!!」

 あ、噛んだ。

「だ、大丈夫か、孔明……。ただでさえ舌がもつれやすいんだから、そんな力一杯喋ったら舌噛むぞ……ってもう遅いか」
「うぅう……うぅうう……お勉強……お勉強のため、なんですよぅ……?」

 そして、噛んでなお必死だった。
 ついさっきまでの俺も、きっとこんな感じだったんだろう。
 俯いて、痛さからか羞恥からか顔を真っ赤にして目を滲ませている彼女。
 そんな孔明の頭を、ちょこんと乗った帽子ごとふわりと撫でて、微笑んでみせる。

「……ん、解った。そこまで必死なんだ、疑う理由なんてないよ。それと……こっちのことだけど」
「……? はうあっ!?」

 倉の中の陸遜を見るように促す。
 と、椅子に縛り付けられたままにうねうねと動く怪しい生命体がそこに居た。

「……本を見ると欲情するっていう、困った性癖の持ち主らしいんだ。それの克服を手伝ってくれって頼まれて、ああして縛りつけた。そうしないと、その……たぶん、孔明が勉強のために持ってた本と似たようなことをやりだすから」
「信じますっ!《クワッ!!》」
「……あ、えと……そ、そう?」

 物凄い迫力での即答だった。
 そして、頭を撫でる手を両手でハッシと握ると、そんな状況に少し戸惑いと困惑を混ぜた俺の顔をじっと見る孔明。
 ………………そういえば、孔明と士元ってやたらとその……俺が困った顔とか考え事をしてる時にジッと見てくるよな。面白い顔でもしてるんだろうか。

「あ、あのっ、か、かか一刀さんっ……」
「《くいっ》へ? っとと、士元? どうかした?」

 右手を孔明に掴まれていた俺の右後ろから、服をちょいと引っ張って見上げる士元さん。
 振り向いた先で困った顔をしていた彼女は、今度は俺に倉の中へと視線を促して……

「あの、そのっ……は、伯言さんが、鼻血を───」
「───〜〜〜だぁああっ!! どこまで頭を沸騰させればそこまで鼻血が出せるんだよもぉおおおおおっ!!」

 急ぎ、孔明の手と士元の手を乱暴に振り解く───わけにもいかず、軽く離してくれるよう身振りをしてみるが、孔明は鼻血とはいえ血を見て驚いたのか、ぎうーーと力を込めて離してくれず……教えてくれた士元までもが怖くなったのか、服をぎゅっと掴んで離してくれない。
 ……ひどい怯えようだろ。ウソみたいだろ。三国きっての軍師なんだぜ、これで。たいした血の量でもないのに、ただ、ちょっと鼻血を出しただけで……もう離してくれないんだぜ。な、ウソみたいだろ。
 などと某野球漫画の真似をしている場合ではなく。
 仕方も無しに俺は身を捻ると、一言謝ってから彼女らを小脇に抱えた。
 右手を掴んでいる孔明を右腕で、左後ろでうるうると怯えている士元を左腕で。
 二人とも相当驚いたようだったけど、暴れないでいてくれたことには素直に感謝だ。
 そうして倉の中へと入り、とろけるような幸せ笑顔で鼻血ドクドクの伯言さんの傍へと駆け寄ったわけだが───どうしようか、これ。

「鼻に詰めものを…………ティッシュなんてものはこの世界じゃ高級だろうしな」
「てっしゅ……?」

 首を傾げる士元になんでもないと言うと、小脇に抱えたままに観察。軽いもんだなぁとしみじみと思う。片手ずつで持っているっていうのに、それほど苦に感じられない。
 …………マテ、そうじゃないだろ俺。何故抱えたままで観察してるか。とりあえずおろそう、じゃないと陸遜を介抱できないし。

「よっ……と。よし、それじゃあ《グッ》……あれ?」
「………」
「………」

 二人を両脇に下ろし、いざ一歩をと前に出てみれば引っ張られる違和感。首だけで振り向いてみれば、暖かいなにかに包まれている俺の両手。
 いや、なにか、じゃないな。孔明と士元の手だ。

「あ、あーの、孔明? 士元? 離してくれないと……」
「はわっ、いえっ、あのっ、そのっ……! そそそそそれがいけないことだとは言いませんでしゅけどっ! でででもしょのっ、あにょっ……はわわぁあ!!」
「……? あの、士元? 離してくれると───」
「〜〜〜……!!《ふるふるふるっ!!》」
「…………」

 二人は顔を、これでもかってくらい真っ赤にして首を横に振るう。
 待ってくれ、俺……なにかしたか? 俺、ただ介抱しようとしているだけで───…………あれ? ちょっと待て?

「はははは伯言さんの興奮が、あの本のようなことで治まるんだとしてもでしゅっ! そそそそれをわたしゅっ……私達の前でなんてはわわわわぁああーーーーーっ!!!」
「うわぁーーおやっぱりだぁあーーーーっ!! 違う! それ違うから! ていうかどれだけ過激な本読んでるの孔明さん!」
「そ、それはその……あわわ……と、とても口では言えないような……。わた、私も……一緒に見たのに、よく解らなくて……」
「雛里ちゃん!? その言い方だと私だけがいやらしいみたいに聞こえるよ!?」

 この状況がようするに、俺が陸遜を襲うような状況であると誤解した彼女らは再び混乱し始め、そんな中で俺は、孔明がかなりのエロスであることを確認した。
 ……世の中、解らないものだなぁ……と、見えもしない倉の奥のさらに先……遠い空を眺めるように、ここではないどこかを眺めた。

「あぅう……な、内緒ですよ? 私と雛里ちゃんがその、そういった本を持っていることは……」
「え……? 持ってるのは朱里ちゃんだけで───」
「内緒ですよ!?」
「ふえぇええ〜〜〜、朱里ちゃぁあ〜〜〜ん……!」

 乙女心は大変複雑らしい。とりあえず俺は苦笑ながらも笑ってみせて、それを了承。
 士元が大変不服そう、というかがっくりと項垂れていたが、それを合図にするかのように手は離れ───た、と思ったらまた掴まれた。

「みみ、みっ御遣いさまっ!」
「うわぁなにっ!? 呼び方は一刀でいいってさっき───」
「頷くだけじゃだめですっ! そそ、そうです、正式に誓約書を書いて……はわっ! それならいっそ秘密を持つ三人で結盟を……!」
「オイィイイイッ!! なんだか恐ろしい言葉がさっきからごろごろこぼれてるぞっ!? 大丈夫だからっ! 誓約書とか書かなくたって俺は───って秘密を持つ三人って俺も!? 俺はべつに秘密なんて───陸遜を指差して目を潤ませないのっ! これは俺の性癖とかじゃないって言ってるだろっ!?」

 俺ってそんなに信用ないんでしょーか。そりゃ知り合ってから半年も経たない俺だけど、こうまで暴露すること前提みたいに言われるとかなりショックだ。
 が、ここでこうして動かないでいるわけにもいかない。未だに陸遜が鼻血地獄であるわけだから、早急に介抱してやらないといけない。のだけど───うあああ……! こういうときはどうしたらぁああ……!

「…………《ぽー……》」
「…………《ぽぽー……》」
「…………いや、だから。どうして二人とも、俺が唸ってると顔を赤くして俺のこと見るんだ? 俺、へんな顔してるか?」
「はうあっ!? ななななんでもないでしゅよ!?」
「あぅ……なんでも、ないです……!」

 …………顔になにかついていやしないかと確かめたいものの、こうぎゅっと掴まれていると出来ることも出来ない。
 彼女たち……もとい、孔明はそうまでしてその本とやらのことを知られたくないんだろうか。
 話から察するに、すでにその詠さんとやらにはバレてるわけだよな? その人がきちんと秘密を守っているならまだしも……いや、案外知られていないと思っているのは彼女だけで、みんな知ってるのかも……。
 そう思うと、ここまで必死になる孔明が少し可哀想に思えてきた。

「わ、解った、解った……誓約書でも結盟でもなんでもするから。今はまず介抱を───」
「本当ですかっ!?」
「二言はないっ! ただし書いた誓約書はちゃんと隅から隅まで読ませてもらうからっ!」
「はわ……しっかり者です……」
「なに書こうとしてたの!?」

 ひとつ解ったことがあった。孔明は普段は慌てたりはわはわ言ったりしてるけど、そのー……いやらしい本? のことになると随分と人が変わる。
 それが本性なのか、普段の彼女が虚像であるかと問われれば、たぶんどっちも本性。
 必死になれば悪巧みのひとつでも働くってもんだろう。と、そんなこんなで解放された俺は陸遜を縛る紐を解いて───

「あぅうう〜〜ん! 一刀さぁああ〜〜〜ん!!」
「うわっ!? うわぁああーーーーっ!!?」

 解いた途端に両手を広げて襲いかかってきた陸遜を前に、大変驚愕!
 あれだけぐったりしてたのに、げに恐ろしきは人の欲求……!

「…………《ぼてっ》」
「あ」

 しかし興奮が最高潮に達したのか、顔はおろか体まで真っ赤にさせた陸遜は、“きゅううう〜〜……”と喉の奥から変な音を出して……俺と擦れ違うようにして倒れた。

「……うん」

 無理だねこれ。
 荒療治も駄目、地道な克服も無理っぽい。
 鼻血が出るまで、ぐったりするまで耐えてみせたというのに解放した途端にこれである。

「はぁ……とりあえず倉の外に出すか」

 仕方もなし。完全に目を回している陸遜の背と膝裏に手を通して、お姫様抱っこで倉を出る。
 そこから少し歩いた木の下に彼女を横向きに寝かせ、ハンカチで鼻血の処理を……ってしまった、ハンカチは明命の怪我の治療に……。
 ここからじゃあ小川も遠いし……

「……はぁ」

 溜め息ひとつ、陸遜の小鼻を軽く抓みながら、空いた手で鼻血を綺麗に拭っていく。
 拭くものがないのは問題だが、ここは大地に在住の雑草様に犠牲になってもらおう。ごしごし……と。

「まあ、完全に拭うのは無理か」

 鼻の下にも指にも、血の赤が染み込み残っているような状態だが、諦める。
 鼻血が止まったら小川にでも直行しよう。城で水を借りるって方法もあるけど、出来るだけ俺からの負担は削っていきたい。それがたとえ、手を洗うだけの水であっても。

「……さて。澄んだ空気にそよぐ風。ざあっと流れるように揺れる草花にゆっくりと赤らんでいく空。座る隣に綺麗な女性、と……耳にだけすればいい状況なのに……どうして俺は相手の鼻を抓んでるのかなぁ……」

 現状を口に出して愚痴ってみた。……返事はゼロだ。
 そうした今に溜め息の一つでもと思ったが、倉のほうからパタパタと走ってくる音に気づくと顔を上げ、走ってくる孔明と士元の姿を確認。
 その手には……倉の中で書いていたのだろう、一枚の質素な紙と筆が握られていた。……どうやら本気らしい。

「しぇっ……しぇい……誓約書、書けましたっ」
「………」

 はいっ、と突き出される紙を受け取って、たった今書かれたばかりの文字に目を通す。


 『◆秘密結盟誓約書

  一、各々、結盟せし者の秘密を他者に話すことを禁ず
  一、話すことをせず、図として知らせることも禁ず
  一、互いを信頼し、よほどのことでない限り隠しごとも禁ず
  一、保管せし書物は結盟者同士の共通の宝とす
  一、それらの書物を手に入れた際、結盟者にも報告することとす
  一、結盟者の危機には手助けをするものとす

  以上の誓約を守れぬ時、その者には辛い罰を与える        』


 …………といったことが書かれていた。
 えーとつまりなんだ。秘密をもらさず互いを信頼して? みんなで隠してあるいやらしい本を財産として? 危ない時は助け合いましょう、って……そういうことか?
 危機ってあれか? 本が見つかった時はフォローしてくださいとかそういうことか?
 そういうのは二人のほうが回避しやすい気もするが。なんてったって蜀にその人ありってくらいに有名な諸葛孔明と鳳士元───…………ああ、なんだろう。今日のこの時のことだけで、それがどれだけ無謀な信頼かが解る気がした。

「それではここに、一刀さんの名前を」
「………」

 さらにはい、と渡された筆を手に、連ねられた孔明と士元の名前の下に自分の名前を書く。
 書き渋っていると泣かれそうな雰囲気だったんだ、勘弁してほしい。
 共通の宝とす、ってところに多少の引っかかりを覚えないでもないが、大丈夫だろう。

「じゃあ、これ」
「はいっ、北郷、一刀……はいっ♪」

 紙を渡されて何度も頷く孔明は、それはもう大変嬉しそうだった。
 一方の士元も誓約書を横から覗き見て、顔を綻ばせていた。
 秘密を守れることがそんなに嬉しいのかな……と考えてみて、そりゃそうかと納得する傍ら。
 二人がどこか興奮した風情で、陸遜の隣に座りつつ鼻を抓み直した俺へと詰め寄った。

「おわっ……な……なに?」
「あ、あの……私達、同志ですよね?」
「え……あ、ああ……そうだよな? 同じ志っていうのがいやらしい本で結ばれているのはどうかと思うけど」
「お勉強のためですっ!!」
「そ、そうでしたっ、はいっ」

 間近で凄まれると、ぷっと膨らませた頬でも怖いことをたった今知った。

「それでですね、あの……互いを信頼するのでしたら、もっと、呼び方も……えと……」
「あぅ……朱里ちゃん、頑張って……」
「えぇっ!? 雛里ちゃんも言ってよぅ!」
「………?」

 呼び方? ……あれ? もしかして孔明とか呼ばれるの、嫌だったとか?

「あのそのえと、呉で一刀さんと正式に知り合って、お話をして……一刀さんがとてもその、やさしい人だっていうことは解っているつもりです。それはまるで桃香さまのようで、兵にも民にもやさしく、気づけば人に囲まれているようなお方で……」
「なぁ、孔明、士元。もしかして字で呼ばれるの、嫌だったか?」
「はわぁっ!? いえいえいえいえいえいえいえそんなことないです絶対にないでしゅっ!」
「違います違いますあわわぁあ……!!」
「………」

 違うらしいけど、じゃあ……って、まさか真名で呼べと?

「あの。まさかとは思うけど、真名で呼べ、なんて……」
「その通りでしゅ《がりっ!》…………〜〜〜っ」
「うわっ、また噛んだっ! だ、大丈夫か? 慌てることないって言ってるのに……! ほら、ちょっと口開けてみて」
「ふえっ!? はわっ!?」

 ズイと顔を寄せて、二度目ともなる(知り合ってから何回噛んだかは伏せておくが)舌噛み。その傷がないかを調べる。
 恥ずかしがっていた孔明も真剣に頼むと頷いてくれ、小さく開かれた口から覗く舌は……うん大丈夫、傷らしき傷はなさそうだ。

「ん、大丈夫。しばらくすれば痛みも引くだろうから、あまり噛んだところを刺激しないようにすること。嫌な感じに喉が渇くかもしれないけど、そのときは唾液じゃなくて水を飲むこと。無理に唾液を搾るようにして飲む動作をすると、薄い傷が広がるから」
「《なでなで》わぷっ……わ、解りました……」

 最後に帽子の上から頭を撫でて終わり。
 さあ、陸遜の鼻血も止まったことだし部屋に戻って学校の話を───と起き上がった途端にがっしと掴まれた。

「その……結盟を結んだから、というわけではありません。私と雛里ちゃんは、きちんと自分の目で一刀さんのことを知った上で、真名を預けるんです」
「迷惑なら謝りますから……逃げるみたいにしないでください……」
「《ぐさぁっ!》はごぉっ!?」

 いたっ……痛い! 自然的にそうして、呼び方とかは学校の話の最中でもいいかなって思っただけなのに……逃げるつもりなんてなかったのに、確かに今求められていることを後に回すのは逃げかなとか思ったら痛い! とても痛い!

「迷惑なんかじゃっ……! ただ、その……いいのか? 俺、二人の信頼を得られるほどのこと、してきたつもりがないぞ……?」
「信頼なら……他国であれだけの民や兵に慕われているところを見れば、十分です」
「一刀さんは、とてもやさしくて頼りがいがあって、その……あぅ……困った顔が可愛くて……」
「雛里ちゃんっ!?」
「へぅっ? あ、あわわ、今のはちがっ……あわわぁあ〜〜〜……!」

 …………空耳? 困った顔が可愛いとか言われた気がしたんだが。
 問い返してみようにも、士元は大きな帽子を深く被って俺の目を見ようとしない。
 え? なに? じゃあ今までどこか赤い顔で俺のこと見てたのって……つまりそういうこと?
 ……はは、まさかなぁ。男の顔を見て可愛いだなんて、思うわけがない。

「と、とにかくですねっ、一刀さんが呉の民や兵のためにあちらこちら走り回っていたのを、私も雛里ちゃんも知っていますっ。本来なら魏の発展にこそ尽力をするべきお方なのに、他国の物事に尽力を振るう……そんな姿を私も雛里ちゃんも凄いなって思っていたんですっ」
「……!《こくこくこくっ》」
「う……や、俺は、ただ……」

 真正面からそんなことを言われると照れる。
 素直に受け取っておけばいいんだろうが、まだ全ての人の心を救えたわけじゃない。
 全てを救うなんてことは普通に考えて無理だが、それでも手放しで喜んでいいのかが、俺には解らなかった。

「一刀さん、その……私が言うのもなんなのですが、一人で背負い込みすぎるのはよくないですよ」
「そ、そう……です。自分に出来ないことを誰かが支えてくれる……そういうものを目指しているのなら、えと……もっと、呉の皆さんや、えと、えと……わ、私たちを、頼ってください……」
「孔明……士元……」

 心の中に、涼風が吹いたようだった。
 どれだけ考えても頭を熱くするばかりで、答えなんか見つけられない中で───それは一人だけで頑張るものじゃないと教えてくれた。
 そんなもの、自分こそが周りに散々と言ってきた言葉なのに、自分こそがそれを見失っていた。
 誰かの助けになればと思うあまり、なんでもかんでも自分で背負おうとしてしまっていたのだろう。
 結局俺は……誰かの助けになれるって部分がどこからどこまでなのかを、てんで解っちゃいない。
 ……もう少し、力を抜いてみようか。自分はまだまだ守られる存在だ。そこから早く抜け出たいからって、焦ってしまっても仕方ない。
 以前にもこうやって自分の在り方についてを考えたけど、今度こそはと。

「……ありがとう、孔明、士元。俺……もうちょっと肩の力を抜いてみるよ。……今にして思えば、周りがとんでもない人だらけだから焦りすぎてたのかもしれない。みんなに追いつこう追いつこうって、そればっかり考えて。結果として善い方に転がってくれたけど、一歩歩く道を外していれば、こんなふうにして笑っていられなかったかもしれないんだ」

 何かを受け入れるのは難しく、何かを許すのはとても難しい。
 学ぶことは簡単だけど、覚え続けるのは大変で───栄えるのは簡単で、維持することは難しい。
 この世界はなにもかもが難しくて、いっそ全てを投げ出したいと思うことはあっても、それを本気でするなんてことは、結局自分には出来ないのだ。
 人は、本当に好きなものからは離れがたく、意識的にではなくても大切に思えるものだ。
 誰かが言ってたな……“私は私という個人ではなく、もっと大きな何かの中の一つだ。私には私として産まれた、何かの意味がある”って。
 俺にとってのそれが御遣いとして華琳に求められ、乱世を治める手伝いをすることだったなら……今こうして誰かに頼りながらでも強くなることも、俺にとっての何かの意味の一つなんだろうか。
 考えてみたところで答えらしい答えは見つかってくれない。それでも腐らないでいられるのは……

「………《じー……》」
「《じー……》」

 こうして、たくさんの人に支えられ、励まされているからなんだろう。
 ああ……どんな場所でも状況でも、一人じゃないっていうのは……こんなにも暖かい。
 きゅっと握られた手から二人の温度が伝わってきて、そんな暖かさがこんなにも心地よい。

(……やっぱり、誰かと繋がっているって……いいな)

 日本で鍛錬に明け暮れていた時には得られなかった暖かさがある。
 ただ只管にこの世界に戻れる日を夢に見て、戻った時の自分が情けないままの自分で居たくないと思ったからこそ鍛えていった。
 今……その鍛えたことが役に立てているのかも解らない現在に立って、それでも俺は鍛え続けた自分よりも誰かにこそ感謝せずにはいられない。
 だから、そっと二人の手から自分の手を逃すと、ゆっくりとやさしく、二人の頭を撫でた。
 感謝を、思いを、想いを込めて……やさしく、やさしく……。

「ありがとう、二人とも……ありがとう……ありがとうな」

 口から自然と漏れる感謝に、自分こそが驚いた。
 けれど嫌な気分など微塵もなく、自然に───本当に自然に微笑んでいる自分だけが少し恥ずかしくて、おかしてくて。
 二人はどうして感謝されているのか解らないといった風情でわたわたとしていたけれど、やさしく撫でているうちに目を細め、気持ちよさそうにしていた。


───……。


 さて、そんなことがあってから数分。
 すっかり血も止まり、目を覚ましてくれた陸遜を前に、俺はきっぱりと言ってやった。

「ごめんなさい無理です」
「うぅぇええ〜〜〜っ!? そ、そんなぁ一刀さぁ〜〜〜ん!!」
「克服のために身動き取れなくしたのに、解放した途端に客人に襲いかかってどうするんだっ」
「うう、あれはなんといいますか頭がぼ〜っとしてたから、つい、ついなんですよぅ? そんないつでも発情してるみたいに言われましても……そ、それに私、見境なしなんかじゃないですからね? 一刀さんだったから、ああして───」
「言い訳はいいから、とりあえず鼻を洗いにいこう」
「うぅう〜〜〜……言い訳だけってわけでもないのに……その証拠に真名だって許せるんですよ……? なのにいつもいつもどこか線を引いた接し方をして……。亞莎ちゃんと明命ちゃんは頑張り屋さんですよねー……そんな線、ぴょいと飛び越えちゃったんですからー……」

 とほー、といった感じの表情を見せた陸遜は、拭いきれなかった赤を鼻に残したまま立ち上がると、ぶつぶつ言いながらよろよろと小川のある方向へと歩いていった。
 なんだろ、やたらと気になることを言っていた気がするんだけど。

「……よしっ、それじゃあ今日も学校会議をしようかっ。その後に食事で、最後に軽いおさらい……いつも通りってことで、大丈夫かな」
「はいっ。それで、あの……一刀さま」
「さん、ね? 様は勘弁してほしい。せっかく御遣い様って呼び方もやめてくれたんだから、様もやめてみてほしいかな。亞莎と明命はもう馴染みすぎちゃっててだめだけど、二人は今ならまだ変えられると……勝手に信じる」
「はう……か、勝手に、ですか」
「……期待に応えるのが、軍師の務め……だよね、朱里ちゃん……」
「…………あのっ、では一刀さんは私たちのことを真名で呼んでください。私達は固い絆で結ばれているんですから」

 えっへんと得意げに胸を張りながら言う孔明さんなのだが、その固い絆とやらが“いやらしい本”という事実がどうしても頭の中に浮かんでは消える。
 そんなことに頭を痛めているうちにあれよあれよと話は進められ、

「姓は諸葛、名は亮、字は孔明。真名は朱里っていいます」
「あぅ……せ、姓は鳳、名は統、字は士元…………えと、雛里って……呼んでください……」

 もはややっぱりだめだなんて言ったら泣かれてしまう場所にまで辿り着いてしまっていた。(特に士元)
 なにせ、うー……と唸っていると、不安とか可愛いものを愛でるような目とか、いろいろな色の目で見られ───って、だからどうしてそんなほやほや顔で見るんだ。
 まさか本当に可愛いとか思って……? いやいやまさか。
 っと、本当に早く決めないと泣きそうな……ってきてる! ウルウルきてる!

「わ、解った解りました! 同志だもんなっ、大切な仲間だもんなっ、盟友だもんなっ! 大丈夫っ、二人が頭脳で俺を守ってくれるなら、俺は力で二人を守るよっ! これからよろしくなっ、朱里、雛里っ!!」
 
 口早に言うべきことを言い放ち、まずは一息。
 二人の様子をソッと覗き見ると、二人はとてもとても嬉しそうな顔でこくこく頷いていた。
 俺はそんな二人の頭を改めてやさしく撫でると立ち上がり、城へと歩き出し───たところで、二人に片手ずつを握られた。

「あ、っと……?」
「…………えへへ」
「……〜〜〜……」

 夕陽が沈んでゆく。
 そんな眩しい景色の中を、今日一日だけでいろんな人との距離が縮まったなぁと思いながら、三人揃って歩きゆく。
 朱里は俺の手を握りながら、小さな声で「一刀さんが蜀に下りてきてくれればよかったのに……」と呟き、雛里は一度俺と目が合ってからは、俯いたままに目を合わせようとはしてくれなかった。
 なのに二人とも、俺の手だけは大事に大事に離さないようにしっかり握り、逃してはくれない。
 どこか擽ったい気持ちのままに、俺たちは城への道を歩いていった。もうすっかりと、どこになにがあるのかが解ってしまった、住めば都のような他国の地を。




ネタ曝しでござる。  *誤解戸惑い擦れ違い  WithYou〜見つめていたいのサブタイトルの中のひとつ。  これって何回移植したっけ……思い出せないや。  とりあえず柴崎の声が好きだった。  *ひどい怯えようだろ。ウソみたいだろ。  タッチのあのセリフ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ、それで。  *私は私という個人ではなく、もっと大きな何かの中の一つ  テイルズオブファンタジアドラマCD、4192年の紙飛行機より。  マグナス=ブラッドリーの台詞。   呉中の中での朱里と雛里の真名許可物語。 ……うん、真名を許してないのは陸遜さんのみとなりました。 Next Top Back