36/明命書房刊【氣の使い方:応用の巻】

 思春にぼこぼこにされてから幾日。その日は綺麗な青空が…………無かったりした。本日雨天、激しいスコールに見舞われるでしょう。
 ざんざんと降り注ぐ雨の雫を、宛がわれた自室の机に座りつつ、読書の合間に眺める。
 気の所為か、鍛錬の日に限ってよくないことが起こっている気がするのだが───き、気の所為、だよな?

「……ん、今日の読書終了」

 と言って、読んでいた本をパタムと閉じる。……まあその、胴着姿で。
 机に置いた本は、冥琳に「これを読め」と勧められた絵本だ。
 べつに今となっては漢文が読めないわけでもないのだが、細かな文字……ええと、なんと喩えればいいんだ?
 ほら、あるだろ? 日本にも、同じ国の文字なのに達筆で読めなかったり、似た字なのに意味が違ってたりする文字。
 そういうのを、他でもないこの大地で学ぶため、時々書庫の本を借りては読んでいる。
 見てはいけない、と言われたものもあるので、そちらの書物には決して手を触れないでだが。

「………っ!《うずうずっ》」

 で、ちらりと寝床の上へと視線をずらしてみれば、そこを椅子代わりに座っていた明命が「終わりましたかっ!?」とばかりに顔を輝かせていた。
 ……そう、今日は明命と少しだけ本気バトルの予定だったのだ。だから胴着姿。
 手加減されたままでのイメージトレーニングでは、少々物足りなくなってきてしまったのだ。だから、一度叩き潰して欲しい。この間、思春に叩き潰してもらったおかげで思春のイメージは再び強いソレに戻ってくれたんだが、人の脳っていうのはこれで案外都合がいいものだ。
 しばらくして慣れてしまうと、勝手に自分の有利に状況を運んでしまう。そうなってしまっては、それはもうトレーニングなんかじゃなく自分が強いだけの都合のいい妄想だ。
 それが嫌だったから、思春と立会い……ボコボコにされたわけだが。意外と本気でいったのに、全然だったな……さすがに乱世を駆け抜けただけはある。
 今度は、いろいろと小細工も駆使してやってみよう。氣を使うことが小細工って呼べるのかはべつとして。

「えっと……見ての通りの雨なんだけど……」
「あぅ……先ほどまであんなに晴れていましたのに……」

 言葉だけ聞くと、丁寧でお嬢様チックにも聞こえる明命の言葉はしかし、残念そうに外を仰ぐ姿と合わせると、外で遊べなくなった子供の寂しそうな声にしか聞こえなかった。
 ……あんなことがあってから数日。そう、数日だ。
 俺と明命はお互い、顔を真っ赤にさせながらも謝り、譲り合い、なんとかこうして些細なことで笑い合える二人に戻っていた。
 なにせ真名を呼んだあの日から、目を見て真名を呼ぶたびに真っ赤になって、時には気絶してしまうこともあったほど。
 ここまで回復するのには、やっぱりそのー……時間が必要だったのだ。
 けれどつい一昨日の夜、部屋のドアをノックした明命は、決意の面持ちで言ってきたのだ。

  慣れるまで傍に居ますっ、いえっ、居させてくださいですっ!

 ……と。
 それからは大変だ。
 夜を越え、朝から晩までを飽きることなく、一日中……そう、親父達の手伝いをする中でも片時も離れず(厠とかはべつだが)、ず〜っと俺の傍に居続けた。
 最初は流石にそれはと断ろうとしたのだが、泣きそうな顔で言われた日には………………ああ、本当に俺って弱い。
 女の涙を蹴落とせる男になりたいって言うんじゃないけど、もう少し自分の意見を貫ける男女関係を作りたいなぁとか…………うん無理だね。なにせそもそもの相手のほぼが、三国にその人在りと謳われた猛者ばかりなのだから。

「あの。一刀様? 今日はどうしましょう……部屋の中でするわけにはいきませんし……」

 いつもなら元気よく“ぽんっ”と叩き合わされる手も、今はちょこんと胸の前で合わせられているだけだ。
 見て明らかとはよく言ったものだ、今の明命は物凄く元気が無い。

「こういう時は素直に氣の鍛錬だな。出来ないことを思って時間を潰すのはもったいない」
「あぅ……そうですか。お手合わせ、したかったです……」

 そう言って、本当にしょんぼりとするから困る。
 そんな顔をされると弱くて、つい俺は椅子から立ち上がると明命の傍に立ち、その頭を撫でてやる。

「……あぅ」

 昨日の夜から、気づけばこうして撫でている自分が居る。
 何故かといえば、こうすると明命は気持ちよさそうにして、気絶することも落ち込むこともやめるから。
 猫の喉や背中を掻いたり撫でたりするのと同じ要領なのかもしれない。目を細め、ハスー……と小さく吐息して、気の所為か自分の周囲に小さな花を咲かせていた。……幻覚?

「………」

 けど、いろいろと、まずい。
 自然体で接してきたつもりでも、情っていうのはどうしようもなく移るものであり。たとえばもし、明命に好きですとか言われたら……俺には断れる自信が……───ない、なんて言えない。
 弱気になるな、北郷一刀。誓ったはずだろ? 俺自身がどれだけなにを言われようと、俺は……俺は魏に生き、魏に死ぬのだ。

「……?」
「ん……あ、や……はは、なんでもないなんでもない」

 苦笑が漏れる。
 俺からの妙な雰囲気を受け取ったからか、撫でられていた明命がきょとんとした顔で俺を見上げた。
 ……揺らぐな。それは、最初に心に決めたことだ。
 華琳がいいと言っても、俺がそれを曲げるわけにはいかない。
 情はある。あるけど、それは恋愛感情までには届いていないんだ。
 だから抑えられる。抑えられてるうちに…………俺は、冥琳が言うように、そろそろ呉を離れるべきなのかもしれない。
 ここは本当に居心地がいいから───ふとした瞬間に、自分が呉の人間だと思えてしまうくらいに暖かいから。
 町人も兵も、そして将も……みんなみんな、暖かすぎるから。

「……な、明命。明命からなにか、奥義的なもの、教えてもらっていいか?」
「奥義的……ですか?」
「ああ。たとえばこうすると足が速くなる〜とか、こうすると気配が消せる〜とか」
「はぁ……そういったことは私よりも思春殿のほうが得意なのですけど……はいっ、誠心誠意、教えさせていただきますっ」

 今度は元気に、胸の前でぱちんっと手が合わせられた。
 そうして始まるのは、気配の消し方や音を消して走る歩法講座。
 それは、人の中にある個人個人の氣を、周囲に溶け込ませることで可能になる、という。
 どういう意味なんだろう、と首を傾げていると、明命はにこりと笑んで実践してみてくれた。

「えと、まずは……」

 明命はきゅっと俺の左手を掴むと、「意識を集中してみてください」と言う。
 言われるままにしてみると、自分の中に流れる氣の他に、自分以外のなにか……掴まれている左手に自分の氣ではないものを感じられた。
 それは……今にしてみれば懐かしい、凪に氣の誘導をしてもらった感覚と似ている。
 ……そっか、じゃあこれが……この暖かさが、明命の───

「この感覚を覚えておいてくださいね。ずっとずっと、意識してみていてください。───それではっ!」

 ヒュトッ───

「……え?」

 小さな物音。喩えるなら、消しゴムが絨毯に落ちた時の音にも似た音が、床に軽く響いた……瞬間には、目の前に居るはずの明命を、どうしてか一瞬見失った。
 目の前に、今も目の前に……居る、居るのに……え?

「どうでしたでしょうかっ」

 “私、お役に立てましたかっ!?”といった風情でにっこにこの明命。
 ……凄い。目の前に居るのに見失うなんて、そんな……

「すごい……すごい、すごいなっ! ど、どうやったんだ今の! 目の前に居るのに見失ったような気分で───!」

 そんな“神秘”とも言えるような“業”を目の前で見せられた俺は、もうオモチャに喜ぶ子供のようにきゃいきゃいと明命に説明を求め───つつ、どうやってやったのかを考えてみていた。

「はいっ。まずですね、これは相手が多少は気配察知が出来ることが前提なのですが───」

 そんな俺を前に、明命は気を良くしたように説明をしてくれる。
 ───明命の話では、こういうことらしい。

 1、やってみせるには、相手に多少の気配察知能力が必要
 2、相手が自分の姿ではなく気配に集中していること
 3、それを利用して、氣を散らして動揺を誘う
 4、気配ばかりを頼りにしている相手は突然消えた気配に驚く
 5、ただし気を消すために丹田にある気までも散らせる所為で、
   次ぐ動作に気を織り交ぜることが出来ない
 6、散らさずに消してみせる場合は、
   逆に体に気が充実していなければいけない
 7、体中に充満する気を景色へと溶け込ませる
 8、ただし気が充実しているため、
   少しでも攻撃の意識を見せると気取られる

 …………。
 いろいろ大変なんだ、隠密って。
 一応、想像していた“氣を最小限に保って溶け込む”といった方法も無いわけじゃないらしいけど、それは“己を殺せる者”にしか向いていないらしいです。
 ()を殺して欲らしき欲を出さず、気配どころか意識や己が五体全てを景色に溶け込ませる。
 それらを出来る者が……思春らしい。
 思わず「え? 我を殺して欲らしき欲を出さず?」と突っ込みたくなるが、考えてみれば思春の口から聞ける言葉は“国のため”ばかり。
 蓮華のためにってところもあるんだろうけど、というかそれが大半だって思ってたんだけど、それは欲というよりはもう自然体のレベルにまで達しているんだろう。
 だから“欲”としては現れず、鈴の音だけが景色に溶け込んだ彼女の居場所を教えてくれる。

(すごいな、本当に達人の域じゃないか)

 達人以上な気もするけど。気配殺しに関しては仙人級なんじゃないだろうか。とにかくすごい。
 そんなことを自分のことのように笑顔で話してくれる明命も、なんというかこう、やっぱりいい子で……

「よ、よし。ちょっとやってみてもいいか? えーと……」
「《きゅむ》ひゃあうっ!?」

 まず、明命の手を握って俺の氣の在り方を感じてもらう。
 握った手に氣を集中させて、これが俺の氣だよ、って。……なんて思ったんだが、そもそも明命は俺の気配くらい簡単に気取れるだろうし、意味なかったかな、と途中で気づく。
 そうして手を離した途端、「あ……」と寂しげな顔で見上げられたりしたけど、今は集中。
 ええと、相手が俺に集中しているのを利用して、氣を散らして動揺を誘う……だよな。
 散らすっていうのがよくイメージできないんだけど……要するに一気に消耗してみせろってことか?
 いや待て、まずは氣を充実させるほうでやってみよう。

(集中、集中……集中……!)

 丹田で氣を作り、全身に流すイメージ。
 祭さんの強引な鍛錬によって増加してくれた“氣の絶対量”がゆっくりと満たされていく。
 あとは自分の気配を周囲の気配に溶け込ませるんだけど………………あれ? そういえばどうやって?

「………」
「………」

 よ、よし、じゃあ空気。俺は空気だ。空気になろう。
 空気、空気〜…………目立たなくて出番なくて、いっそ居なくてもいいような存在をイメージして……あ、あれ? どうして“一昔前の俺は空気だった”なんて意識が溢れてくるのかな。
 一昔前っていつ? 一昔前って誰?

「はうわっ!? す、すごいです一刀様っ、実践してみせただけで気配を殺せるなんてっ! ……あぅあぁっ!? ななななぜ泣いておられるんですかっ!?」
「い、いや……なんでもない……」

 ふふ……悲しいな……。悲しい夢を見たよ……。
 夢というか幻覚だな、うん。気にしないようにしよう。

「ごめん、このやり方だと俺の心が保ちそうにないから……。え、えっと……空気になるのは勘弁を……」
「……あの。でしたらその感覚だけを別の何かに向けてみてはどうでしょう。一度出来たのなら、要領は受け取れたと思いますし」
「う……」

 掴めたコツとか感覚でさえ思い出したくないんだけど……せっかく出来たことを否定するのももったいない。
 えーと……空気、よりも広い範囲。たとえばこの部屋全体が自分であるかのように……そう、俺は相手を囲う建物。部屋。日々の象徴。当然としてそこにあるものとして、自分を“無”としてではなくあえて“有”に───

「……? あぅぁっ……!?」

 相手……明命を包み、そこにあるのが当然のものとして……イメージ、イメージ、イメー…………あれ?

「……! ……!《ぷしゅぅうう……!!》」

 なにやら明命が顔を真っ赤にして、かたかたと震えて目を潤ませて───ってストップストップ! なにか危険な気がするから、氣を充実させる方向はストップ!

「は……はふ……!」
「えと……大丈夫か? 明命」
「は、はい……なんだか解りませんけど、急に、その、一刀様に抱き締められているような気分になりまして……あぅあっ! なななんでもないです忘れてくださいっ!」
「………」

 一応成功してたってことでいいんだろうか……って待て。それってつまり、今のやり方でやると相手が誰であれ、俺が抱き締めているような感覚に襲われるってことか?
 もちろん気配を探ろうとしていることが前提だろうけど…………男がやられたらトラウマになりそうだな、それ。
 いや、考えるのは一旦中断。顔を真っ赤にさせている明命を落ち着かせるためにも、むしろ充満じゃなく消す方向で試してみよう。

「明命。氣を散らすって……どうやればいいんだ? やっぱりこう、一気に使い切る感覚か?」
「あ……いえっ。たしかにそれが一番気配を殺せますけど、多少は残しておかなければ次の行動が起こしにくいです。ですから氣は微弱に、息を潜め、音を無くすことに集中するんですっ」
「音を……?」

 言われるままに氣を小さく……って、丹田に溜まってるからこれを小さくなんて出来そうにないぞ?
 雪を固めるみたいに凝縮できるわけでもないだろうし……いや、待てよ? 凝縮?

「………」

 氣の扱いがてんで出来なかった時、一応集中させてみれば集まった、指先に小さく灯る程度だった氣。
 あのイメージを今、自分の中にある全ての氣を集中させるために使って───…………一気に散らす!!

「《ぱぁんっ!!》───《どしゃあっ》」
「はうわぁっ!? か、一刀様!? 一刀様ーーーーっ!!」

 ……散らした途端、倒れた。
 うん……ソウダヨネー、俺程度の氣を一気に散らしたら、動けなくもなるよねー……。
 でも圧縮することは本当に出来ると解ると、いろいろと応用が出来そうで……わくわくしたと同時にぐったりした。
 いい、しばらく動けそうにないから、少しだけ日々を振り返ってみようか……。



-_-/最近の出来事

 現在より二日ほど前のとある日。蜀から華佗がやってきた〜と聞いたのは、その日の夕刻だった。
 日々、人々を病魔から救うために大陸を旅する彼は、あまり一箇所に留まることをせず、放浪にも似た旅を続けているそうだ。
 そんな彼と顔合わせをするのは、一年も前のあの日、華琳の紹介で診てもらって以来となる。
 相変わらずの格好と赤い髪に、どこかで聞いたような特徴のある声が目と耳に懐かしい。
 思えばこの世界に降り立っての日々、男との付き合いといえば兵士や民との間だけ。
 こうして腰を落ち着けて話す相手なんて、個人としては初めてじゃないだろうかと少し涙した。
 そんなわけで現在は宛がわれた自室にて、一応の検診を受けているわけだが。また消えたりしないかと不安が残ってたっていうのが理由だ。

「もう体にかかる違和感はないのか?」
「一応そこは解決済みってことで。すこぶる健康だよ」
「そうか。それはよかった」

 顔を合わせるなり目をギンッと光らせ、俺というよりは俺の内側を診た華佗は、ニカリと笑って安堵の息を吐いた。
 顔合わせの途端にすることじゃないだろう、なんて言葉も出るはずもなく。むしろ、心配してくれてありがとうって言葉を返した。

「それで、急にどうしたんだ? まさかあの日からずっと、今でも医療の旅を続けているとか───」
「我が身、我が鍼に誓い、病魔と戦う者は誰一人見捨ててはおけない。旅を続けるのは俺の使命であり、病魔の排除は俺の役目。生きようとし、死にたくないと思う者を俺は戦以外で救いたい。医師の仕事は戦ではなく治療だからな」

 “だから旅を続けている”と続ける華佗に、素直に感心した。
 以前から思ってたけど、本当に真っ直ぐな人だ。

「急にどうしたんだ、と訊かれれば……諸葛亮に“周瑜が来て欲しいと言っていた”と言われたからなんだが───」
「朱里に?」

 そういえば少し前、蜀へ定期報告と学校についてをまとめるために戻ったんだっけ。
 「書簡に纏めてそれを送ったらどうだ?」って言ってはみたけど、「その場に居ないと通じないこともありますから」と、律儀に蜀へと戻っていったのだ。

「へえ……けど冥琳が華佗に用事か。どんな用だったんだ?」
「…………いや。すまないがそれは言えない。秘密にしてくれと言われているんだ」
「秘密に……そ、そっか」

 いろいろあるのかもしれない。女性って大変だって聞くもんな。深く考えないようにしよう、うん。それに最近、咳をする冥琳をよく見るようになった。以前気になった時から風邪が続いているなら、診てもらわないと危険かもしれない。
 などと、少し慌てた風情で無駄にうんうんと頷いている俺を、華佗が緑色の眼で鋭く射抜くように見つめる。

「ん……えと、華佗? どうかし───はっ!? もしかして悪いものでも見えたのか!? 困るぞそれっ! 俺はもう消えるわけには───」
「ああいや、違うんだ。ただ…………北郷、氣の鍛錬をしているのか? 以前とは明らかに体の作りも気脈の大きさも違う」
「へ……? あ、ああ、なんだそっか、そのことか……」 

 以前の続きのように始まった診察なのだから、急に焦られれば自分が消えるんじゃあ、と思うのも仕方ない。
 けど逆に安堵に繋がった言葉を聞いて、俺は一年前から始めた鍛錬のこと、ここ最近になって始めた氣のことを話した。

「そうか。同じく世の全てに平安を願う者として、俺も負けていられないな。しかし…………そうか。氣を……」
「?」

 考え込む仕草をして、華佗はぶつぶつとなにかを喋っているんだが……なんだ? “同じ氣が”とか“淀みが”とか、よく解らない言葉がぽつぽつと聞こえてくるけど。
 ……と、首を傾げていると、急に俯かせていた顔を上げて口を開く。

「北郷。近日中に手伝ってほしいことが出来るかもしれない。それまでに、氣の絶対量を出来る限り増やしておいてくれないか」
「ああ───ってなんで!? つい返事しちゃったけど、どうして急に俺の氣の絶対量の話になるんだ!?」
「必要なことなんだ、頼む。それから───ああ、恐らくは甘寧か周泰あたりがいい。気配の殺し方、氣を自分以外のなにかに溶け込ませる方法を訊いて、身に付けておいてほしい」
「………」

 要領を得ないというか……そりゃあ、教えてくれるのなら喜んで学ぶけど。教えてくれるだろうか。特に思春。
 ……勘繰りを混ぜるとしたら、華佗が必要だって言うことは、誰かの病を治すことにも繋がるって考えられる。
 特に……呼んだっていうのが冥琳なら、それも頷ける気がした。

「解った、一応訊いてみるよ」
「ああ、頼む。だが、間違っても高めすぎないでくれ。気配を殺しきれないほどに高めすぎたら意味がない」
「…………随分とまた難しい注文だな」

 そう言いながらも、そうすることを前提で鍛える気満々な俺が居るわけだけど。
 少し前から冥琳がしている咳は、どうにも頭に残ってて気になっていた。もしそれを治すために必要だっていうなら、それに全力を注がないわけにはいかない。
 ……いろいろ世話になっているし、なにより病死なんてことになったら絶対に後悔する。

「それじゃあすまないが、俺は町のほうに行ってくる。ぎっくり腰になった老人が居ると聞いたんだ」
「……ああ、あのじいちゃんか。落ち着いたふうで、結構元気な人だからな」

 雪蓮が城を抜け出しては会いにいく老人だ。
 雪蓮のことを雪蓮ちゃんと呼び、随分と仲良しの老夫婦。
 ぎっくり腰って……大丈夫なんだろうか。そんなことを思っているうちに華佗は軽く手を上げ、部屋から出て行った。
 それをボウっと見送りつつ───少しの時間が経過したのち、“ぱぁんっ!”と頬を叩いて喝を入れる。

「よしっ! 絶対量の拡張、もうちょっと頑張ってみるかっ!」

 痛みが怖くてほんのちょっとずつしか拡張させていない氣の量を、ジリジリと増やしていく。すると膨張した氣の膜が気脈を押し、全身が膨張するような錯覚とともに痛みが体を襲う。
 今度はそれを我慢出来る程度の痛みに抑え、それが常になり、やがては慣れるように耐えていく。
 
「《ギシリ……》お、おおうっ……! 歩くだけでも結構辛いかも……!」

 体をボンドで固められたボンド人間のようだ。足が突っ張ってて、上手く曲げられないような……ううん、なんと喩えればいいんだ?
 これに慣れる、これを常とするようにってなると、一日二日じゃあ辛いかも…………いやいや、弱音厳禁っ! 孫呉のため、冥琳のため、この国に尽くす北郷一刀として、今はひたすらに頑張ろう!

「痛みを恐れるからこんなふうになるんだ……足が攣った時は曲げる勇気と伸ばす勇気、それが大切。瞬間的な痛みを恐れていては、逆に延々と痛みを味わうだけ───だったら!」

 キッと扉を見据え、ギシリギシリとしか動かない体を無理矢理に動かしてゆく。
 そして扉を開けたその先からは、長く続く通路を───一気に駆ける!!

「走るンだッ!! 祭さんスピリッツを忘れるな! 辛い時こそさらなる辛さ! キツい辛さで軽い辛さを乗り越える!」

 ベキビキと筋がヘンな音を立てている気がするが、それも無視だ。
 通路を駆け、中庭を突っ切り、城の端までを駆け、やがて見えてきた石段を登って城壁の上へ!
 今日は鍛錬の日じゃないが、必要だと言われたからにはその高みへ! 急に起こったことに慌てるんじゃなく、準備期間があるんだったら求められるものより一歩先を目指す!

「さらなる痛みにも耐えて、守れるものを増やすことを……今ここで胸に誓う! 覚悟───完了!!」

 そして走る! 広い広い城壁の上を、鍛錬の時に駆けるように全力で!
 胴着じゃなく私服だが、動きづらいわけでもないからこのまま走───あ、明命。

「おーい明命ー!!」
「? ……どなたかはうわぁあああああっ!!?」

 城壁の角をひとつ曲がった先に明命。
 声をかけてみると辺りをきょろりと見渡し……俺を見つけると同時に絶叫。
 瞬時に顔が真っ赤になり、どうしてか視線を彷徨わせるどころか首ごと彷徨わせるようにぶんぶんと視線を…………泳がせるどころか豪泳させている。

「かっ、かかっ、かずっ……一刀様っ!? あぅあっ……あぅーーーーーーっ!!!《ダダァッ!!》」

 しかも次の瞬間には俺に背を向け、走っていってしまう始末。
 ……いったいなにが?と思うより先に、もしかすると仕事中にも係わらず俺の鍛錬に付き合ってくれるんじゃあ……と、暖かな勘違いをした俺は、逃げゆく明命を追いかけるように走った。

(明命……いい子っ!)

 拝啓、曹操様。他国の地で、僕はとてもやさしい子に出会いました。
 仕事中にも係わらず、こんな僕の鍛錬に付き合ってくれるのです。
 え? 顔が赤かったのはどうしてだ、って? きっと猫でも見てとろけていたんだと思います。
 だから走りました。走って走って、走り続けて───やがて夜が訪れる頃には、空腹と疲労と……おまけに眩暈と酸欠とで城壁の上にへたり込み、目を回す俺と明命が居た。


───……。


 そんなことがあっての就寝時刻。
 結局、逸早く回復した明命には逃げられてしまい、俺はといえば気脈拡張にともなう痛みと無理矢理に走ったために痛みとでダウン。逃げる明命を追えず、空腹のまま今まで城壁の上でぐったりしていた。
 こうして部屋に戻ってきたのもつい今しがたであり、もうこのまま寝てしまおうと寝床へと倒れこもうとした……その時だった。

「《ドヴァーーーン!!》一刀様っ!!」
「キャーーーッ!!?」

 急な来訪。勢いよく開け放たれたドアに心底驚いた俺は、女性の悲鳴にも似た声を出し、寝床の前で変なポーズをとっていた。

「え……あ、あれ? 明命?」
「は、はいっ、明命ですっ! せせせ姓は周、名は泰、字は幼平っ! すすすす好きなたべものはぁあああ!!」
「ちょ、待って! 落ち着いて! どうかしたのか明命!」

 目をぐるぐると回しながらあわあわと口早に喋る明命に、さすがにただ事ではないと睡眠モードを解除。
 寝床の傍から離れると、ドアを開いて、そこから先には入ってこようとしない明命の傍へと歩く。

「明命……ほんと、どうしたんだ? なにか大変なことがあったなら言ってくれ。俺で力になれるなら、喜んで協力する」
「…………」

 俺を見上げる明命の顔は、夕刻の時と同じく真っ赤。
 けれど逃げることはせず───というか逃げようとする体を強引にこの場に留めている感じがする。
 いつものように胸の前で手は合わせ、俺の目を見上げては、逸らしそうになる自分を戒めている、というのか……な、なんだ? なにが起こってるんだ?

「か、一刀様っ」
「え? あ、うん。なに?」
「……っ……か、かか、一刀様っ!」
「うん……えと、なに?」
「〜〜〜…………きょきょ今日はいいお天気ですねっ!」
「へあっ!? ……え、えああ……? や、そりゃあ……いい天気ではある……かな? もう夜だけど、雲ひとつなかったし……」
「はぅっ……う、ううー……」
「……?」

 いや……本当になんだ?
 合わせた手をこねこねとして、俯きそうになる視線を無理矢理俺の目へと向け、逸らすことなく逃げることなくこうして向き合って……いったい何がしたいのか。

「───……〜〜〜……、……すー……はー…………っ、かか一刀様っ!」
「……うん。どうしたんだ? 明命」

 今度こそ話してくれるだろうと、たっぷりと待ってから笑顔で迎える。……と、なにやら逆効果だったらしく、明命は目を潤ませつつあわあわと慌て始めた。
 ……思わず抱き締めて頭を撫でてやりたくなるが、やったらやったでマリア様以外の“見ている誰か”の手によって、俺の首と胴体がオサラバしそうだからやらないでおく。

「う、うぅ……うー……一刀、様……《ぶんぶんっ!》───一刀様っ!」
「おおっ!?」

 しかし今度こそはと、頭を振ってキッと俺を見上げた明命!
 その口から、ついに衝撃の事実が明かされようとしていた───!

「慣れるまで傍に居ますっ、いえっ、居させてくださいですっ!」

 ……うん、明かされた。明かされたんだけど……いや、明かされたらしいんだが……明かされたんだよな?
 あのー……明命さん? もーちょっと噛み砕いて仰ってくださると……私、北郷めにも理解できると思うのですが……。
 それともこれはとても解りやすいことで、ただ俺が解らないだけ……だとでも!? だったら大変だ、これだけ真っ直ぐに打ち明けてくるのだ、なにか大切なことに違いない……!

「───解った。明命がとっても真剣だっていうこと、きちんと受け止める」
「《かぁああ……!》ふわっ……かか、一刀様……」

 とりあえずは一緒に居るとなにかに慣れるそうだ。一緒に居るだけでいいなら、いくらでも付き合おう。
 そうすれば、明命とのキスのことだって少しは───…………

「…………アレ?」

 キス? ……キスって……って思い出したぁあああああああああああああっ!!!

「な、あぐっ……!!」
「……? か、一刀様……?」

 解った! 理解できた! 赤くなる理由も、急に走り出した理由も、目を逸らそうとか逃げ出そうとかしてた理由も、全部っ!!
 慣れっ……慣れね! 必要だねうん! よく解った、本当によく解ったよ! 確かに必要だ! 必要だけどっ……ぐっは……! 慣れるまでずっと!? ずっとこんな、ざわざわしたような逃げたくなる気分と激闘を繰り広げろと……!?
 いやいや待て待て!? キスしたことに慣れるとか、それを了承したこととか、挙句の果てに“真剣だってことをきちんと受け止める”って、まるで告白を受け入れたみたいなぐあああああああっ!!

「一刀様っ!? 頭を抱えて震え出して、どうされましたかっ!?」
「なんでもないよ!? 大丈夫大丈夫!」

 大げさともとれるほどに大きな声で大丈夫宣言。
 でも結構大丈夫とは思ってなかったりもしました、はい。

(…………けど、まあ)

 俺と明命に、慣れる時間が必要なのは確かだ。
 けれどそれは永遠に与えられたものではなく、実に有限。俺はいつか帰るし、明命もそれを知っているからこそ、早く関係を修復したかったに違いない。
 そうなれば俺が言葉を改めて断る理由なんてなく───むしろ賛成する理由しか見つからなくなっていた。

「………」
「《くしゃっ……》ふわ……一刀様……?」

 そうなれば自然と心も穏やかになって───気づけば、自分との時間を大切に思ってくれる目の前の彼女の頭を撫でていた。
 さらさらの黒髪を指で梳かすように、やさしく……やさしく。
 それから部屋の中に招いて、夜から朝まで他愛ない話の連続。
 夜更かしをしていろいろなことを話し、朝が来る頃には二人ともぐったりしていて、けれどそんなことを気にすることなく、むしろハイになったかのように語り明かした。
 猫のことや鍛錬のことやモフモフのことや猫のことや肉球のことや猫のことや……ああ、つまりは猫のことばかり。
 結局祭さんが乱入してきて、さっさと起きんかーと怒られるまでそうしていたわけだけど……うん、寝てないんだよね。
 だから乱入してきた祭さんも少し呆れた顔してた。うん、してた。

「それでは今日も奉仕活動へ……」
「……うにゅうにゅ……」

 しかし国に返すという言葉を偽りにしないためにも、どれだけ眠かろうと仕事は仕事、奉仕は奉仕。
 仕事だから親父たちを手伝うってわけじゃないにしろ、やることはやらなきゃこの国に居る意味がない。
 だから俺は明命と二人、ゾンビのごとくン゙ア゙ア゙ア゙ア゙……と奇妙な声を出しつつ、今日も町へと繰り出した。
 ───長い長い、明命との一日の始まりであった。



-_-/一刀

 そんなこんなで一日中ずっと明命と一緒に居た俺は、こうして昨日も夜を共にしたわけだけど……や、いやらしい意味は一切なくだぞ?
 そのままの延長でこうして早朝から鍛錬の話やらなにやらをしている。明命の仕事については、祭さんや蓮華が今のままでは仕事にならないからと送り出したと聞いている。代わりに誰かが担ってくれているんだろう。
 しかし、一日かけて多少は慣れた俺達だけど……氣の扱いは一日にしてならず。
 ようやく氣が落ち着いてくる頃には、俺は長い長い息を吐きながら苦笑を漏らしていた。

「散らす方向は向いてないみたいだ。や、まいったまいった」
「気を付けてください一刀様。氣の全てを散らしてしまうのは、いくらなんでも無謀ですっ」
「はい……反省してます……」

 まさかいきなり倒れるとは、自分でも予想だにしなかった。当然のことだけど、氣って大切だね。

「でも、面白いな。自分の気配をべつのなにかに溶け込ませるなんて」
「溶け込ませることが“自然”に出来るようになれば、より察知されなくなりますです。でも、本当にすごいです。教えたばかりでやってみせてしまうんですからっ」
「うん、自分でも驚いてる」

 イメージトレーニングばっかりだったからな、俺。
 そういったものが活きてきてるんだろうか……だったら嬉しい。
 強くイメージすることでなにかになれる……不思議なもんだなぁ、氣っていうのは。
 もちろん、なるべきモノのことをよく知っている必要があるんだろうけど───あれ? 華佗が言ってたことってつまり、治療かなにかにこういったものの応用が必要だから……なのか?

「んー…………」

 じゃあ、とイメージを開始。たとえば春蘭。荒々しくて、素直で、時々間が抜けてて、華琳を愛していて、それから、それから…………

「あの、一刀様? どうしましたか? 氣が随分と揺れてます」
「ん、んー…………うう」

 だめだ。そもそも俺、氣を扱えるようになってから春蘭と鍛錬のひとつもしてない。
 相手の氣を感じ取ることも出来なかった俺が、春蘭の氣ってものを解るはずもなく……もしかしたら春蘭の気迫とかを真似できるかもといった考えは、あっさりと潰れてしまった。

「………」
「……? あの?」

 ならば。
 鍛錬に付き合ってくれる明命や祭さん、そして一度多少の力を見せてくれた思春の氣なら、真似ることが出来るだろうか。
 えーーーと…………思春、思春…………と。

(蓮華が好き。国を愛している。俺に厳しい。厳しいけど……実はやさしいところもある)

 思春に関するイメージを纏めてゆく。
 で、おそらく今も傍に居るであろう思春……そんな彼女の、微量にも感じ取れない気配に自分を溶け込ませるように。つまり、無に自分を溶け込ませるように───……

「……………《キリッ》」
「あぅあっ……!? か、一刀様っ!? なんだか急に目が鋭くっ……気配も……」

 欲を殺して、孫呉のため、蓮華のため、我が全てが呉への忠誠にて構築され、それが然としてあるべしと、身体全てに理解させて───自分の気配を無に散らす!

「《ぱぁんっ!》…………《どしゃあっ》」
「一刀様ーーーーっ!!?」

 いや……だから……。散らすのはダメだって……ぐはぁ……。


───……。


 人間、なにかに夢中になると、一度教訓として覚えたものをも忘れてしまう。
 “何かに熱心になったときこそ、冷静な己を胸の中に備えよ”……じいちゃんの言葉だ。
 今、思いきり身を以って味わいました、ごめんなさい。

「うーん……氣の集中、移動はいろいろ出来るようになっても……気配を殺すのは得意になれそうにない」

 床に立ち、明命と対面しながらのぼやき。
 現在はといえば、氣の使い方を別の方向へと向ける練習をしている。
 やっているのは武道的なものだ。氣を込めた拳と普通の拳とでは、どれほど威力が違うのか、攻撃を受けきるにはどうすればいいか、どう対処すればいいのかなど、そういったものを学んでいる。
 こういったことは凪のほうが得意そうだけど、残念ながらここに凪は居ない。

「こういうのって……化勁(かけい)みたいなものか?」

 敵の攻撃がどこに当たるかを予め予測。その部分に氣を集中させ、体ではなく氣で受け止める。受け止めた瞬間に氣を全身に広げ、衝撃を一点ではなく全体に逃がすことでダメージを減らす……と、言葉だけ聞けば奥義ともとれそうな技法。
 たしか中国拳法にそういった受け流しの技法があったような気がするが。

「それともまた違いますです。氣を使った逸らしかたは、たしかに受けの面ではとても有効なのですけど……氣を一点に集中させる分、他の部位に氣が回せず、集中させる場所を間違えると……」
「………いい、言わなくても想像がついた」

 この世界の人たち相手では、下手したら胴体がブチーン、ってことに……怖っ!!
 でも……そっか。氣にもいろいろあるんだな。

「ちょっと試してみたいんだけど……明命、手を広げて待ってるから、ここに拳をこう……打ってもらっていいか?」
「そんなっ、一刀様を殴るなんてっ」
「いや殴るんじゃなくて! こ、ここにこう……な? ぱちんって。氣を集中させておくから、衝撃を散らせるかどうか試してみたい」
「はー………一刀様は強くなることに余念が無さそうです」
「なんでもやってみたいって言ってる子供みたいなもんだよ。氣の扱いかたが少し解ってきて……はは、今ちょっと楽しいんだ」

 俺の子供みたいな理由を聞いて、明命は少しだけぽかんとするけど……すぐに笑顔になると、はいっと言ってくれる。

「ではいかせていただきますっ」
「よしこいっ!」

 構えた右手に氣を集中! むんっと笑顔で構えた明命を見て、振るわれる拳の速度を予測、当たった瞬間に……氣を散ら───じゃなくて逃がす!! 散らしたらまた倒れ《ばちーーーん!!》

「いっだぁあーーーーーーーっ!!」
「一刀様ーーーーっ!!?」

 考え事に意識が向かったために集中が途切れ、丁度そこに明命の拳がばちーんと!
 い、痛っ! これ痛っ! 少女の拳じゃないよこれ! 世界だって狙えそう!! 痺れっ……手が、じんじんと痺れてっ……!

「あぅあっ……だ、大丈夫ですか一刀様っ! すいませんですっ、私───」
「ち、違う違う、謝らないでくれ明命! 俺が考え事なんかした所為だからっ!」

 じんじんと痛む手を振って、少しだけ痛みを紛らわせる。
 それからもう一度、と手を構えて、萎縮してしまった明命に行動を促す。

「あぅ……」
「大丈夫、明命は悪くないから。それに鍛錬の中で相手を気遣ってばかりいたら、身に着かないだろ? ほら、もう一度。頼むよ、明命」
「…………は、はいっ、いかせていただきますっ」

 そうして再び、むんっと構える明命。
 それを微笑ましく思いながら、構えている手に残る痛みを感じ……もうちょっと間をとったほうがよかったなーと後悔した、とある雨の日のことだった。


───……。


 成功したのは一度きりで、あとの全てが手が腫れる材料。仕方もなしについさっきまで、また氣を溶け込ませる技法を教えてもらっていた。
 手がじんじんと熱を持ち、痒いような痛いような、たとえば思いきりハイタッチをかまして苦しむような感触が、俺の右手を支配している。
 ……現在、早朝を越しての朝。雨もすっかり治まり、曇り空だけど水に濡れた草花の穏やかな香りが、風に乗ってくる。
 ぺこぺこと謝る明命に、「晴れたことだし、あとで鍛錬に付き合ってほしい」とお願いし、了承を得て別れた俺は、森を抜けた小川で手を冷やしていた。
 ずぅっと手を水に突っ込んだまま微動だにしなかったからだろうか、魚が近寄ってきて、俺の人差し指をつんつんと突付いていた。復習として、気配を自然に溶け込ませているのも原因のひとつかもだけど。
 試しに突付き返してみようか───と意識を魚に向けた途端、魚はピュウッと視界から消え失せてしまった。

「…………おおう」

 気配ってすごい。ますますそう思った瞬間だった。
 過去に学ぶことはたくさんあるな……もっともっと頑張らないと。

「本日の課題。気配を殺して魚を素手で捕らえてみましょう」

 大丈夫、素手ではないけどチャ○ランも尻尾で釣っていた。
 即座にたぬきあたりに強奪されてた気もするけど、気にしない気にしない。

「じゃ……っと」

 欲を殺し、気配を溶け込ませ、魚が俺を自然の一部だと思うまで、動くことに意識を向けるのを殺してゆく。
 イメージは樹の根。川の中まで伸びる大木の根をイメージして、水に手を突っ込んだままにする。
 少しの雨でも増水はするものなんだろう、いつもより少し勢いのある川の流れを感じながら、ただひたすらに待ってみる。
 と……ようやく警戒が解けたのか、魚がこちらへ泳いでくる。……そんなことにホッとした途端、またピュウッと泳いでいってしまう。

「や……これ無理じゃないか?」

 ホッと、気を緩めた途端にこれですよ?
 魚を手で掴むとか、それこそ仙人にでもならなきゃ……い、いやいやいやっ、さっきは突付き返す寸前まで行けたんだ、へこたれるな北郷一刀っ!

「これじゃあだめだ……いっそ川を流れる水にでもなった気で───!」

 服をばばっと脱いで、少し湿っている岩の上へとばさりと落とす。
 そうしてトランクス一丁で川へと入ると───……冷たッ!! ってだからそんなことで身を縮みこませているくらいなら集中!

「ふ、ふー、ふー……!!」

 流れが早くなっていることもあって、水の冷たさを感じる速度が上がっているというか。
 こう、氷水に手を突っ込んでいる状態よりも、そこから手を動かしたほうが冷たいって感じるだろ? それを自動でやられている感じ。
 陽光が落ちていない分も水の冷たさに影響して、脱力しようにも逆に緊張してしまう。
 いやー……こんなんじゃだめだ、集中、集中……。流れる水に身を任せるように、いっそ自分も水になるつもりで───

「………」

 ちらりと見ると、護衛のつもりなのか周々と善々が草むらから俺を見ていた。
 座りつつ、くわぁ……と欠伸をしている。
 …………パンダって熊科だっけ? 鮭を取る要領で、魚の獲りかたとか教えてくれないだろうか。

「手で掴むんじゃなく───うん、熊みたいに手で弾いてみるといいかも」

 腰を屈め、すっと集中。
 魚を獲るのではなく、水を叩く……そのつもりで。魚という存在を、水と一緒に見て……魚自体への意識を極力殺していく。
 こうすれば魚への殺気なんてなくなる。自分への意識が無意識になれば、魚だって察知しようがないはずだ。
 だから、水を……水だけを見て……そこになにかが通った瞬間!!

「ぜいやぁっ!!」

 ヒュバッシャアアアッ!!!───振り切った腕と手が水を叩き、草むらへと水の飛沫を飛ばす。
 思い切りやった所為で、手が相当に痛かったが……その甲斐あり! 飛んだ飛沫の中には一尾の魚が《びたぁーーーんっ!!》

「あ」
「………」

 ……飛んだ先に、何故か冥琳。
 物凄い勢いで飛んだ魚は、鞭で何かを叩いたかのような音ととも、冥琳の顔面に……ア、アワワーーーッ!!

「ア、アワワワワ……!」

 心と体が同時に動揺の声を漏らす。
 魚はビチチッと跳ねると冥琳の顔から落下し、冥琳の足下で華麗な酸欠ダンスを踊っている。
 冥琳は溜め息とともにそれを拾い上げると、なにを言うでもなく歩き、川に逃がした。
 ……うん、命を粗末にするの、ヨクナイですよね。

「め、めめ冥琳……? どうしてここに」
「なに。少なくともお前がここに居ることとはなんの関係もない。少々、一人になりたかっただけだ」

 一人に? ……珍しい。
 あまり冥琳が一人で居るところなんてみなかったと思うのに……でも、そっか。そう思うのは俺の勝手だったってだけで、一人になりたい時くらい誰にだってあるか。
 コリ……と頭をひと掻き、岩の上に置いた胴着を身に着けて息を吐く。

「……? 鍛錬でもしていたのか?」
「ああ、うん。本当は早朝から晴れててくれたら、明命と戦ってみるつもりだったんだけどね。生憎の雨だったから、部屋の中で氣のことについて教わってた。この胴着はその名残」
「名残……そうか。ところで北郷? ひとつ訊きたいんだが───何故早朝だというのに、明命がお前の部屋に居たんだ?」
「……エ?」

 いや、それは明命が慣れさせてください〜って来て……ねぇ?
 たしかに一緒の部屋でニ晩明かしたけど、やましいことなんて魏の旗にかけて何一つしちゃいない。
 といったことを事細かに身振り手振りを混ぜて説明してみるのだが、冥琳はフッ……と苦笑をひとつ、「冗談だ」の一言で片付けてしまった。
 ア……アー……冗、談……デスカ……。

「間違いがなかったことくらい、思春から聞いている。そもそも、お前自身がそれを許さないだろう。……曹操からの許可を得てもまだ、誰にも手を出さないお前だ。そこは信用しているさ」
「……そりゃどーも」
「ふふっ、なんだ? 不貞腐れでもしたか。天の御遣いとやらも、存外子供っぽいな」
「───」

 う、うーん……なんだ? なんだかこう……あれ?

「……い、いや、不貞腐れたには不貞腐れたかもだけど。……うん、子供っぽいのも認めよう。俺、まだまだ誰も守れてないし……うん」
「…………意外だな。突っかかってくると思ったんだが」

 妙な違和感が先立って、突っかかるような怒りが沸かなかった。
 逆に事実だよなーと受け入れてしまったくらいだ。まあそりゃあ、手を出したとか思われるのは勘違いだろうがウソだろうが心外ではあるのだが……信用しているって言葉を貰えたなら、それで十分だって心が落ち着いてしまった。

「なあ、冥琳」
「北郷。悪いが一人にしてくれないか」

 ……また、違和感。
 冥琳はそれだけ言うと、俺に一瞥も残さないままに歩いていってしまう。

「………」

 漠然とした違和感なんだ。気にするほどのことじゃないと、自分が自分に言い訳しているような気分で、少し上流へと歩いていく冥琳を見送る。
 不思議なのは、そんな違和感を抱いたままなにもしないでいると、嫌な予感がじわじわと胸を支配していくこと。
 何かをしなきゃいけない気がするのに、漠然としすぎていて何をどうすればいいのかが解らない。
 もたもたしているうちに冥琳は川の上流の先……小さな滝の上方へと歩いていってしまい、途端に俺の中に見えなくなったなら仕方ない、といった諦めにも似た感情が───

「《ずしんっ!》ハオッ!?」

 そんな意気地のない自分の肩に、得体の知れない重量……ていうかこの白と黒のコントラストのモフモフ様は……!

「しゅっ……周々っ……!?《メキメキメキメキ……!》ごおおおお……! ぜぜ、善々、も……!? くはっ……!」

 周々だけではなく、善々もだった。
 どうしてか俺の肩に前足を置いたり、俺の脇腹を鼻というか顔全体でドスドスと押したり……ちょ、待っ……! 潰れる、潰れる、潰れる……!! なんか腰あたりからメキメキって嫌な音が……!

「い、行けって……? や、けど追ったところでなにを言えば……く、くはっ……とり、あえず……! 下りてくれ、ない、か……!?」

 急に子供に背中から抱き付かれて、「はっはっはーこいつー」とか言う全国のお父さん、貴方は偉大だ。尊敬の念すら抱けるよ。
 ただ俺の場合は息子でも人間でもなく、重量の違いが倍どころでは済まないために、不公平を覚えそうだが───

「………」

 違和感を覚えたのはたしかなんだ。そこにきて、動物的直感が俺に前進を促しているのなら……行かないわけにはいかない。

「よし、解った! 俺、行く《ゴキンッ!!》ハオッ!?」

 ……と、決意を胸にキッと小さな滝の上を目指そうとした刹那。
 俺の腰から……なにやら、ゴキンッという音ギャアーーーーーーーーーーーー…………




ネタ曝し  *明命書房刊  民明書房刊:【魁!男塾】より。本当は違うけど。  男塾は本当に、どうでもいいキャラ以外は死なない漫画だった。  *チャ○ラン  子猫物語より、チャトラン……雄である。 Next Top Back