203/“いつまでも普通に”という言葉の中にあるもの

 ───秋が過ぎて夏が過ぎて、冬が過ぎて春が来る。
 めまぐるしく、なんて言葉が全部を語ってくれるみたいに、普通に過ぎていた筈の時間は振り返ってみれば馬鹿みたいに早く過去になってしまっていた。

「父! 父ー! 面白い遊びを作ってみたぞー! 是非見てくれー!」
「ととさまー! 柄姉さまが一人で球を投げて一人で回り込んで打ってるよぅ!」
「甘いぞ柄! その遊びなら既に星が開発済みだ!」
「な、なんだってぇ!? うぬぬやるな子龍さま……! だったら自分で投げた球を自分で受け止めるという全く新しい遊びを───」
「どうして独り限定の遊び開発に前向きなんだよお前は!」
「だったら遊んでくれ父! 秋にはどんな遊びがあるのだ!」
「焼きいもを作ろう」
「よし乗った!《どーーん!》」
「えぇっ!? 柄姉さま、遊びは!?」
「捨ておけ」
「なんでそんなに男らしく言うの!? 遊びを作ろうっていうから一緒に居たのにっ! もうっ!」
「ところで禅。“やきいも”って字はこう……“焼き”、は漢字とひらがなで、“いも”はひらがなで書くのが良いと、父さんは思うんだ」
「日本語のことはまだそんなに解らないよぅ!」

 ほうっておけば過ぎてゆく時間。
 やろうと思えば出来ることも、多分そこら中に転がっていて、まあそういったものをやる勇気とか意志を持てるかが、失敗だの成功だのを左右するのだろう。と、偉い人は仰る。
 が、やろうって意志だけじゃあ“出来るわけがない”には勝てないと、我らが覇王さまは仰る。自分が見る現実を“理想の範囲”に触れさせることが、まずはなによりも重要なんだそうだ。

「おーい華雄〜? 大事な用事ってなんだ? この寒いのにわざわざ外になんて」
「とうとう来た……この季節が来たっ!! ふはははは雪だ! 雪が来たぞ北郷! さあいざ合戦の時!!」
「なんで毎年毎年雪が降ると俺に挑んでくるんだよお前は!」
「武の証明こそ我が存在の証明───あっ、だ、大丈夫だぞ? 今年はきちんと加減して雪を握る。だから以前のようには」
「あの、華雄さん? そう言って、毎年毎年俺の脇腹に雪球直撃させてるの誰でしたっけ? しかも鉄球みたいに硬くなったのを」
「こ、今年は平気だ!」
「その言葉を何年信じて何年血反吐を吐いてるとお思いで!?」
「石を仕込むあの猫耳軍師よりはマシだろう!」
「投擲力が強すぎるお前のほうがよっぽど問題じゃぁあっ!!」

 人の在り方は相変わらず。
 その相変わらずが人の数だけ“ほんのちょっと”の変化を受け取って、全体がほんのちょっとずつ変わってゆく。
 そんなことの繰り返しで、街も、街の数も、人や人の数も変わっていった。

「お腹、空いた……」
「って言ってもな……お腹いっぱい食べたんじゃないのか?」
「……最近、みんなそう言う。食べさせてくれない……」

 そう、人の数も。
 恋が妊娠したのをきっかけにしたみたいに、他の将もめでたく妊娠。お腹が出っ張ってきて、それを食べすぎの所為だなんてことから始まった騒動も、安定に向かえば静かなもので。
 一気に増える子供の数に、果たして最果てに行く前に過労死してしまいやしないかと、苦笑を浮かべる時間が増えた。

「父さま。歳の離れた妹も産まれました。私もそろそろ、父さまに甘えないような立派な姉を目指そうと思います」
「丕……そっか、丕ももうそんな立派なことを言える歳になったか……。嬉しいなぁ。嬉しいから、人の腕抓るの、やめような?」
「いえべつにこれに意味なんてありませんよ? 私の直感が急に働いて、父さまはきっとここが痒いに違いないと思い、孝行出来る娘でいようと思っただけです。ええ、仕事の時でも赤子を離さずでれっでれしている父さまに腹を立てたなど、とんでもないことです」
「そっかそっかー、寂しかったのか、丕」
「さみっ!? さっ……寂しくなど! 私はただ、赤子とはいえでれでれしている父さまが……」
「で、でれでれね……。華琳が言うには、丕が産まれた時なんてもっとひどかったそうなんだけどな。ん、よし。じゃあ───《んばっ!》丕っ! 父さんの胸に飛び込んできなさい! これでもかってくらい甘えていいぞっ! ははっ、な〜んて」
「はい是非!《どーーーん!!》」
「あれぇ!? 甘えない立派な姉って何処!?」

 人の成長を見守るって意味で、なるほど、不老っていうのは随分と都合よくもあれば、寂しくもあるもんだ。
 赤子が、赤子が産まれた頃の娘らと同じくらいの歳になると、そんなことをしみじみと思う。
 いつまでも体が成長しない俺を、民はどう思うだろうか。
 化物? それとも天の御遣いだからと妙な納得の仕方をするのか。
 そんなことを、時折城壁の上から街を眺めては、思いふけっていた。

「父、父」
「はいはい、なんだい姫」
「ん。姫、大きくなったら父のお嫁さんになる」
「宴の準備をしろぉおおおおおおおっ!!!」
「うおっ……!? 北郷隊各員に伝令! また隊長の病気が始まった!」
「だぁああもう! 隊長ぉおっ! いい加減娘離れしてくださいよぉっ!!」
「だだだだだって呂姫が! 娘が俺のお嫁にって! こんなにストレートに言われたの俺初めてなんだもん!」
「隊長……姿はそれでももう“だもん”って歳じゃないでしょう……」
「まっ……真顔でなんてことを!」

 呂姫玲綺。恋と俺の娘……うん、娘なんだ、うん。息子が産まれない。
 恋のように喋るのが苦手なのか、ちょっとだけつっかえながら喋る。
 これがまた物凄い……えーと、自分で言うのもなんだが、ファザコンだ。
 凪との娘である楽綝と並べると、人懐っこすぎる犬のようだ。
 この数年で自分の娘の数は倍以上にもなり、もはや首を横に触れないほどに……種馬って言葉が似合う自分へと到ってしまった。
 子供が産まれることは喜べるものの、やっぱり種馬って言葉は遠慮したい。そう思うことくらいは許されたって……ああうん、絶対に許そうとしない軍師さまからも、子供が産まれた。
 名前は筍ツ。タケノコとも読める筍の姓が示す通り、桂花と俺の娘である。
 え? ああ、うん。文字は似ているが、断じて褌と書いてフンドシではない。
 可愛い娘ではあるのだが……なにがどう働いてそうなったのか、丕ととても仲が悪かった。むしろ筍ツが一方的に嫌っていた。

「けどさ。袁尚って名前、ややこしくなかったか? 今さらだけど」
「あぁらぁ〜、一刀さん? ま〜だ言ってますの? この美しくも美しいわたくし、袁紹と同じ読みの名を受けた娘。きっと美しく育つと一刀さんも頷いたではありませんの」
「いやまあうん、最終的にはね。……むしろこっちの意見を麗羽がちっとも聞いてくれなかったというか」
「いやぁ〜、でもアニキ〜? お嬢はすっごい頭いいんだぜ〜? ……誰かと違って」
「そうなんですよ? 難しい問題もすぐに解いたりして。しかも間違ってないんです。……誰かと違って」
「おーーーっほっほっほっほ! 当然ですわぁ〜? 大陸に名だたる袁家の名を継ぐ者が、周囲に遅れを取るなどあってはならないことですわっ! ……けれど髪が黒いのが残念ですわね。髪型もあんなに地味に纏めて」
「いやいやいやいや麗羽様っ!? お嬢はあれがいーんですって!」
「そうですよ麗羽様! あんな小さな頃から妙に自信家で急に笑い出したりしたら、友達がいつまで経っても出来ませんしっ!」
「……ちょっと斗詩さん? 急に笑い出すとは、いったいどなたの何を指して仰っているのかしら?」
「ひぐっ!? え、あ、えとっ……!?」
「うわっ! 珍しく猪々子じゃなくて斗詩が自爆した!」
「うえっ!? 珍しくってどういう意味だよアニキ!」

 けどまあ。騒がしさは……というか、やっぱり根っこの方は相変わらずと言っていいのかどうか。
 それを騒がしさとして認識している辺り、俺ももう、すっかりこっちの世界の住人だった。そりゃそうだ、もうこっちで生きている時間の方が長いのだ。

「父上様! 炒飯を作ってみました! お味見を!」
「炒飯!?《ぞざざざざぁっ!!》」
「…………あの。母上様の“炒飯?”が危険物なのは私も知っていますから、炒飯と聞いただけで退くのはどうか……」
「あ、ああ、ごめんな平……。解ってはいるんだけど、どうにも警戒信号というか、心の警報が……あ、ああえっと、味見……だったな。するよ、うん、する」
「……私自身で味見は済ませてありますから、そんなに怯えないでください」
「俺だって食べ物に恐怖したくなんかないよ!? よ、よし! そんなイメージを払拭するためにもいざ!《カチャ……はもっ!》…………《んぐんぐ》」
「……ど、どう、ですか……?」
「───《……スゥウ……》」
「うえやわぁあああっ!!? ちちち父上様!? 何故!? 何故涙を!?」
「……ちゃーはんだ……へ、へへっ……ちゃーはんだぁああ……!!」
「いえあのそれはそうですよ!? 炒飯を作ったんですから……って、ですから泣かないでください!」

 母の手料理に絶望して料理を学んだ娘は強かった。
 娘の炒飯に感動して涙した日、俺は兵士の何人かを片春屠くんに乗せて、氣の許す限りに全速力でオヤジの店へとかっ飛ばし、ささやかな宴会をした。
 地味にその味を知っている北郷隊のみんなも涙とともに祝ってくれて、暑苦しい男達の宴は朝まで続き……戻ったのち、朝の仕事に間に合わなかったために覇王さまからライデインが降り注いだ。
 そんな日々までもが懐かしく思えるくらい、一歩歩いたと思えば過去が遠くなっていた。
 一歩のつもりで踏み出したのに、振り向いてみれば……平和の只中で寿命で死んだ老人たちの笑顔ばかりが頭に浮かぶのだ。
 戦で死ぬことは無くなった。
 食糧難で死ぬことだって無くなった。
 病気で死ぬことは、華佗や延、それか俺が間に合えば、治療をすることも出来たけど……間に合わなかった場合は、どうしようもなかった。
 氣を学び、医療を学んだ子達が成長して、病気の人を助ける場面を何度も見た。
 でも、氣だって医療だって万能じゃないから、“助けたかったのに助けられなかった”と涙する少年少女だって何度も見た。

「……北郷、どうだった?」
「だめだったよ。じっちゃん、若い姿のまま……眠った。……やっぱり、若返りの薬っていったって寿命が延ばせるわけじゃない。一定時間が経てば勝手に元の量に戻る、なんて、液体の量まで若返るとんでもないものでも……出来ないことって、やっぱりあるんだな」
「そうか……やはり万能の薬などないのだろうか。我が五斗米道も寿命には勝てない。いや、勝ってはいけない。自然に死にゆく者を生かし続ければ、その果てには滅びしかないのだろうから」
「全員が死なずに生きる世界か…………はは、それは、確かに」
「天ではどうだったんだ? ここより人は居るんだろう?」
「ああ。それこそ数えていられるかってくらいに。人は滅んではいなかったけど……そうだな。今この時よりも、天のほうが……誰も死ななかったら、あっという間に滅びそうだよ。住む場所が無くなって、自然を削って、食べるものが無くなって。餓えでも死なないんだったら、それこそ地獄みたいな世界になるんだろうな」
「……そうか。北郷、お前はそれでも生きたいと思うか?」
「…………、俺の希望は、秘密だ。たったひとりくらい不老が居てもいいんじゃないかとは思うけど……それはきっと、つまらないなんてことはないだろうけど、楽しいことでもないよ」
「ああ。俺もそう思う」
「………」
「………」
「そんな顔、しないでくれ」
「……そうだな。やれやれ、俺もすっかり“おじさん”だ。お兄さんじゃあ通じないっていうのも悲しいな」
「笑うと目尻にシワが」
「ぐっ……ほうっておいてくれっ! 生きている証拠だっ! ……おっと、それじゃあ俺は次の町に行ってくる。この世に病ある限り、医者に休みなど無いからな」
「片春屠くんで送っていこうか?」
「やめてくれっ! お前はこのあと休憩だろう!? そんなことを頼めばお前の娘達に殺されるっ!」
「ちょっと待て! さすがに殺っ…………こ…………せ、せいぜい……半殺し?」
「よし! 俺は走っていく! また会おう!《ズシャーーーアーーーッ!!》」
「速っ!? …………あいつの氣も、大概普通じゃないよなぁ……はは、…………はぁ。…………───うん。長生きしてくれよ、華佗」

 人の死を見届けると、心の中に穴が空く。
 そのくせ、軽くなるどころかずっしりと重くなる。
 都に住んでいたじっちゃんが死んだ時、自分の祖父の死を連想して胸が苦しくなったのを覚えている。
 知り合いでこれなら、仲間である兵だったら? 関係を持った他国の将だったら? ともに生き抜いた魏の将だったら?
 頭の中をぐるぐる回る恐怖を何度も何度も誤魔化す日々は、もうとっくに始まっていた。

「せぁあありゃぁあああっ!!」
「ご主人様……! 下がる……!」
「今下がっても追いつかれるだけだ! 恋! 全力でいい! 敬意を払って立ち向かおう!」
「久しぶりに武が振るえると言うから来てみれば! 北郷! 貴様ぁああ……! 相手は人間ではないではないか!!」
「俺だってまさか、衣類材料に龍の素材を使うなんて思いもしなかったよ! って、衣類はついでだった! 薬を作るのにどうしても必要だって華佗が言うんだ、仕方ないだろー!?」
「その華佗のおっちゃんはどうしたのだー!?」
「別の材料探しに行くってさっき言ってたの聞いてたよな!? って、とにかく全力で行こう! 急に襲いかかっておいてなんだけど、俺達も死ぬわけにはいかない!」
「衣類の材料ねぇ……ねー一刀? いったいどんな服を作ってもらうつもりなの?」
「え? 水着ゲッフゴフン!! あの……雪蓮さん? 今はそれよりも戦うことに集中を《どぱぁんっ!!》げぶおあはぁああっ!!?」
「はぅわぁああっ!? 旦那様が龍の尻尾で吹き飛ばされました!」
「だっ……だはっ……! だいじょっ……げっほ! い、一応衝撃は吸収……げっほごほげほっ!」
「大丈夫どころか生まれたてのお猫様のように震えてらっしゃいますけど!?」
「───! ご主人様の仇は恋が───!」
「よし! 霞! 私たちも一緒に出るぞ!」
「へっ……!? あ、愛紗……愛紗がウチに“一緒に”て……!《ぱああ……!》」
「声を掛けるたびにいちいちうっとりするなぁっ!! ご、ご主人様! 霞に喝を!」
「いや、なんかもう愛紗が突撃すれば一緒に行く気がする」

 楽しい時間やハラハラする時間を共に歩む。
 それだけでとても幸せだというのに、そんな幸せの中で突然、心が目を覚ますみたいに冷静になることがある。
 待っているのは寂しい未来だから、今の内に離れたほうがいいんじゃないかとか、出来ることなら全員を見送らなきゃいけない日が来る前に、天へと帰ってしまえば……とか。
 もちろん帰り方なんて解らない。けれど、どうしようもなく待っている別れを思うと、心が泣いてしまうのだ。

「ありがとう、助かったよ北郷。これでより多くの人々を救える」
「そっか…………っ……はぁ〜〜〜っ……! しんどかったぁああ……!」
「いや、しかし驚いたぞ。まさか討伐してしまうだなんて」
「いやぁそれほどでも───マテ。え? 討伐してしまうだなんて、って……え? 討伐せずにどうやって手に入れろって……」
「頼んだものは角と鱗と涙だったろう? 削ってもいいし掬い取るだけでも構わなかったんだが」
「……………」
「………」
「いや、その、なんだ。すまない。きちんと説明しなかった俺の───」
「材料フルに使おう! 薬を作るんだ! あと水着も! む、無駄なんかじゃないぞ!? 無駄なんかじゃないとも! とととととにかくいい戦いだったんだ! トドメ刺したの恋だけど!」
「そ、そうか……ああ、だが確かに無駄ばかりじゃないぞ? 北郷、龍の血液や、龍自体が持つ宝玉にはそれ自体に神秘性というものがあってな。氣や氣脈の活性化に役立つ。伸び悩んでいると言っていただろう? いい薬が作ってやれると思う」
「ほんとか!? お、おぉおおお……!!  ……あれ? でもそれってなんかドーピングみたいでズルくないか?」
「どーぴんぐ……ああ、以前聞いたことがあったな。お前は龍を倒して力を得るんだ、別に卑怯なことじゃない。それに安心しろ。精力増強にも役立つ!《どーーーん!》」
「ああもう精力=俺みたいな認識が染み付いちゃってるよドチクショウ!!」
「ん……要らないのか?」
「クダサイ」

 現在の段階で不治の病、というものにぶつかることも当然あった。
 五斗米道で治しても、治した矢先に病の形状を変えて転移するような……そう、まるで癌のような病に侵される人も居て、それを癒すのに龍の素材が必要だと言われ、北から南へ東から西へ。
 慌しい日々はむしろどんとこいだった。
 難しいことを考える時間がないくらいに、日々が忙しければと何度思っただろう。
 楽しさで忙しいくらいが丁度よかったのに、今ではじわじわと近づいてくる最果てが、怖くてたまらなかった。

「いやー、それにしてもあの水着っちゅうの、軽いし涼しいしで楽やったな〜♪ なんっちゅーても愛紗の裸も見られたし……」
「少しは欲望を抑えようね、霞……」
「えー? あれは一刀が持ってきたもんやろー? ウチべつに結果的に見れただけやし、抑える必要あらへんもん」
「はぁあ……」
「けど……おおきにな、一刀。実際、もう羅馬なんて目指さへんのやろなーとか思っとった。ウチはもう、なんやそれでも構わへんとか思い始めとったけど……」
「約束したし、なんていうか……龍と戦ったら今さら羅馬の道中で何が待ってる〜とか考えるのもどうでもよくなった」
「あはは、そらそうや。龍に比べたらちぃとばかしの数の人間なんて怖ないなぁ」
「まあ、羅馬に着いても言語が解りませんとかじゃどうにもならない気もするけど」
「ん? そんなん普通に喋ればええんやないの?」
「………」
「?」
「あれ……なんだろ……。なんか普通に会話出来る気がしてきた」
「や、そら出来るやろ。喋っとんねやから」
「……そうだよなー、ここだって日本語で通じるんだもんなぁ……。難しく考えるの、やめよ」

 霞とは約束通り、羅馬を目指して旅をしたりもした。
 きちんと大型の休暇を取る形で。
 そうして片春屠くんで旅をして、その過程で呆れるほどの恐怖に見舞われてもまだ、なんというか龍と対峙した恐怖に比べればって……少し経つと笑って、危険ばかりのシルクロードの旅は続いた。人と会えば案の定普通に話が出来て、けれどそう簡単に仲良くなどなれる筈もなく、捕らえられそうになるわ奇声を上げられて襲い掛かられるわで散々だった筈なのに……やっぱり霞と一緒だからなのか、かつて無謀だとか思っていた大秦の旅は、随分と楽しいものとなった。うん、まあほぼが逃げの旅だったんだけどさ。
 勝手に侵入して、ヤバかったから殺しましたじゃさすがに人格としてどうなのか。ということで、機動性を生かして逃げた。そりゃもう逃げまくった。
 馬でも良かったんだけど、それだと時間の大半が休憩に取られそうだから、ということで。もちろんそれも理由なんだけど、珍しいことに霞が“男に任せっきりの、男に頼った旅をしてみたい”なんて言いだしたから、まあきっかけはそんなところで。

「一刀一刀! 相手女やで!」
「だからなに!? 女だからなに!?」
「や、口説いて懐柔して、のんびり旅を〜って。一刀なら出来るやろ!」
「キミ人のことなんだと思ってんの!? ああもうとにかく逃げるぞ!」

 ……あと、俺が健康なら疲れることなく移動出来るからというのが最大の理由だろう。実際逃げまくりの旅だったわけだし。
 この急な訪問がきっかけで、歴史的な交易路が戦場にならないことを願おう。

「なぁ真桜。前に稼動式絡繰華琳様造った時のことだけどさ」
「んえ? おわっ、隊長もう帰ってきてたん!? ああそれより土産は!? 大秦ってどんなとこやった!?」
「土産を手に入れる余裕は無かったなぁ……ほぼ逃げ回ってたし」
「へー……で、何人くらいに惚れられたん?」
「なんで逃げ回りの話を聞いて真っ先にそれを訊くかな?」
「やぁほら、隊長のことやから、よその国でも相手に惚れられて、そっから逃げる旅やった〜とか」
「……絡繰華琳様のことだけどさ」
「わっ、流しよった。まあええけど……絡繰華琳様? あー、あの隊長が、隊っ長〜〜〜がっ! 氣を送り込んで暴走させた絡繰華琳様な?」
「わざわざ“隊長が”を強調せんでよろしい。その時にさ、ちょっと思ったんだ。あれ、氣を流し続けたわけでもないのに動いてただろ? 氣を蓄積出来るなにかがあるなら、ちょっと作ってみてほしいんだ」
「あ〜……なるほど、隊長の武器は氣やもんなぁ。それを体内以外に持っておけるなら、そら……《ちらり》」
「……なんでここで下半身を見るかな?」
「やっ、べつに、溜め込んだ分だけ氣ぃで体動かして夜の活動力にする〜とかそないなこと《ごりごりごり》あいだだだだぁーーーっ!!? やめて! こめかみぐりぐりはやめたってぇ〜〜〜っ!!」

 強くなるための努力も、自分の鍛錬以外にもいろいろと考えた。
 俺の食事が龍の肉とか血とか、なんか危険なものになった時期もあったものの、謎の発汗やら腹痛、頭痛に吐き気に寒気など、様々な苦しみを五斗米道の秘術で無理矢理癒しては苦しんでを繰り返して、氣脈拡張に臨んだりとか……うん、ほんといろいろあったけど、一応生きてる。
 ちなみに龍の肉は不味かった。
 血はまるで超神水を飲んだ野菜人な人のように苦しむ破目になったし、角と爪と鱗を削って作った秘薬(華佗が言うところの)は、きっぱり毒だとしか思えないくらいに絶叫&悶絶。
 散々と華佗に癒してもらっても、もう二度とやりたくありませんと言えるほどに苦しいものだった。
 ……それでも限界の一線を越えられた……かも? ってくらいの伸びしか得られず、相変わらずの鍛錬の日々だ。

「北郷一刀ぉおーーーーっ!!」
「ホワッ!? え……ね、ねね? どうしたんだ急に。ていうか、なんでみんな俺の部屋の扉は思い切り開けるのか───」
「そんなことはどうでもいいのです! それよりも! り、りりり、璃々と夜をともにしたとは本当のことですかぁあーーーーっ!!」
「…………《ソッ》」
「目を逸らすなですーーーーっ!!」
「ねね……人にはね……? 逃げられない状況っていうのが……あるんだよ……」
「璃々が相手だろうと今のおまえなら逃げられるです!」
「……紫苑と祭さんと桔梗に掴まって、さらに酒を飲まされまくったあとでも? さらに三人に押さえつけられてる状況でも?」
「………」
「………」
「……いい酒があるです。今夜は一緒に飲むですよ……」
「…………謝謝」
「あ、でも待つです。……押さえつけられたにしても、きちんと愛したですか?」
「なんでそういうこと訊くかなぁみんな!」
「あぁもう解ったのです。その顔の赤さで十分ですよ。けどそのままの勢いで娘を襲うのだけはやめるです」
「いや、本気でやめてくれ、それ。最近丕が怖い。ねねと焔耶くらいだよ……友達として気軽にこういうこと話せるの」
「…………。まあ、精々癒されるがいいのです。こちらとしても気安く付き合えて万々歳ですから。ただ───」
「? ただ?」
「…………いや、なんでもないのです。それより仕事は終わるですか? さっさとねねの部屋に行くのです」
「ああ、丁度休憩入れようと思ってたところだから」
「ならさっさと来るのです。酒と聞いて動く輩が、この都には嫌というほど居るのですから」
「そだな。よしっ、じゃあちょっと急ぐかっ《ダタッ》」
「あっ……なにも走れとは───…………はぁ。まあ、あれですよ。いつまでも友人でと望まれているのなら、それはそれで良い付き合いというものです。だから……そうですね、生まれ変わりでもしたら、その時は……。好きという感情は厄介ですねぇ。そうありたくもないのに勝手に湧き出しやがるのです。そのことで焔耶に相談されたばかりだというのに、璃々のことや鈍感なあの男の友達発言…………はぁ。戦を終えても、“考えることが仕事”なのは変わってくれないのです」

 まったく、本当に、この空の下の騒がしさはいつも通りで、笑顔は絶えない。
 一歩歩けば話題が飛んでくるみたいな感じだ。休む暇がない。
 それでも、時間は普通に過ぎてゆく。
 誰かに声を掛けられて振り向くたび、何度笑顔を作ったのかも忘れるほど。
 ……日々は、時間は普通に過ぎていった。


───……。


……。


 ……遠いいつかを思い出す。
 笑えた日々は遥かに遠く、悩んだ日々さえ今は遠く。
 恐怖した日を笑顔で噛み締め、笑みを作った日は振り向けばすぐ後ろに。
 ねぇ、と誰かが自分を呼ぶ声。
 振り向けば小さな子供が居て、抱き上げればきゃははと笑った。
 今、自分はどんな世界に立っているのだろう。
 笑っていられるだろうか。
 元気に誤魔化せているだろうか。

  ある夜に怖い未来を夢に見て、泣き出した日を思い出す。

 そんな恐怖を空へと叫んだいつか。
 すっかり平和に満たされた黒の下、見張りも居ない城壁の上で、独りで泣いたいつか。
 気がつくと傍にきみが居て、いつかのように俺の頭を抱いてくれた。
 子供のように、「怖い夢を見たんだ」と言うと、ぽかんとしたあとに盛大に笑ってくれた。

  その日の自分は何人を見送ってきただろう。

 もう皺だらけになった手が、子供をあやすように頭を撫でた。
 「覚悟なんて散々としたでしょう?」と問いかけるように言う彼女に、俺は涙でしか返せない。
 こんな筈じゃなかったなんて言えばいいのだろうか。
 きっとこの世が平和でなかったなら、泣きはすれども次の戦のために立ち上がっていけたのだろう。
 でも、次へ備えるにはこの世界は平和すぎて。
 備えれば備えるほどに、失う度に心が砕かれ、涙が溢れ、声を枯らした。
 娘の外見が俺より大人のそれになり、孫にまでその過程を迎えられ、それでもその姿のままで生きてきた。
 約束を、誓いを果たそうと、年月を重ねるたびに弱っていくみんなに手を伸ばすけど、みんなはそんな手は借りたくないと断った。
 守られてばかりだったから守りたかった。
 そう言うと、彼女はまた笑った。

  もう十分に守ってもらったのだから。
  それ以上受け取ったら、もう返せないじゃない。

 穏やかな笑顔だった。
 俺は「返せてなんかない」って言うけど、彼女は首を横に振って苦笑を漏らす。
 そして言った。
 もう十分に返してもらった。国にも、自分たちにも。戦ばかりで尖るだけだった自分たちを、幸せなんてものを感じられるくらいに守ってくれた、と。
 そんなわけがない、と食い下がろうとする、涙をこぼしたままのいつまでも子供な俺が、そんな状態だったからこそ思い出した。

  免許皆伝なんて、一方が押し付けるものじゃあない。

 自分が返せていないと言い張ろうが、相手に返してもらったと言われてしまえばどうしようもないのだと。
 そんなことを思い出してしまえば、返せていないと強情に言い張ってしまった過去に後悔する。
 せめて返せたと言って、安心させて送り出せればと。
 もう戻れない日々を思い、涙は余計に溢れた。

  天の御遣いが聞いて呆れるわね、まったく。
  あなたね、姿はそんなでもいい歳でしょう?

 口調は変わらないままの彼女が、だというにただただやさしい手付きで俺の頭を撫でていた。
 突き放してからそんな言葉を言ったであろう日々だって、もはや遠すぎる。
 思い出すことなんてあんな日々の中で、心から笑えていたことばかりだ。
 アニキさんが結婚した日のこと。
 相手との間に生まれた子供が男の子で、アニキさんより俺のほうが燥いだこと。
 娘の結婚相手が今から首を吊りますって顔で挨拶に来た日のことや、わざわざ真桜に作らせてまで用意したちゃぶ台をひっくり返したあの日。
 成長したアニキさんの子供とキャッチボールをして、感動して泣いた瞬間に、子供が投げた球が股間に直撃して別の意味で泣いた日。
 “楽しい”ばかりに埋め尽くされた日々だった。けど、不安がなかった日なんて、きっとなかった。
 それでも楽しい日々は楽しいままで、いつしか作り笑顔と本当の笑顔の境界線があやふやになっていて。
 そんな日々の中でも、華琳は随分あっさりと人の表情に気づいて。

  悔しい

 泣きながらこぼした声に、頭を撫でる手が止まる。
 そしてある形に手を構えると、でしん、と俺の額を中指で弾いた。

  こんな空の下にまで辿り着いておいて、なにがよ

 夜だというのに見張りも居ない平和な空の下。
 山賊も盗賊も出ない平和へと辿り着いてどれほど経っただろう。
 日々はやることに事欠かず、仕事は探せば腐るほどあって。
 いつかに備えてと、腕を鈍らさないために鍛錬に付き合ってくれたみんなももう居ない。
 その技術を受け継いだかつての子供も立派な大人で、さらにその子供でさえ子供を持つ歳になっている。
 ……あきれるほどに平和な日々だった。
 見渡せば笑顔ばかりの日々に辿り着けたことを……そんな笑顔を見て、死んでいった仲間の……忘れてしまった仲間の笑顔を思い出せそうになって泣いてしまうくらい、平和な日々だった。
 桃を見ても、もう思い出せない。
 たくさんの笑顔に囲まれるたび、散っていった人たちの笑顔が塗り潰されてしまって、泣いたいつかもあったのに。
 こんな過去までいつかは笑い話に出来るようになってしまうんじゃないかって、それが怖くてまた泣いた。
 いろいろな想いが過去になる。
 いろいろな思いが新しい景色に塗り替えられてゆく。
 望んでいた筈の未来に、覇道に辿り着けた筈なのに、どうして泣いてばかりいるんだろう。

  いいのよ、これで。
  これこそ皆の覇道の果てじゃない。
  そして、私で最後。

 戦の中を生きた者は、もう彼女と俺だけだから。
 そんな果てまで、彼女は付き合ってくれたから。
 俺が独りで泣いてしまわないようにと、薬で姿を偽らずに、そのままで。
 そんなことを考えたからだろう。
 口から、「……華琳は、薬《ビシャーム!》ギャー!」ついこぼれた言葉に、額がビシャームと叩かれた。
 ぐおお、こんな老体のどこにこれほどの力が……なんて、いつかを思い出すような口調で言ってみれば、彼女は……やっぱりただただやさしい笑顔のままに返した。

  あら。使ってほしいのかしら?

 これが、出会った頃の彼女だったら、ニタリと見下ろすような視線で見てきたのだろうに。
 ……ああ、そうか。
 これが、老いとともにただただやさしくなっていく、ってやつなのか、なんて……静かに染みこんでいくみたいに心が納得してしまった。
 ……使ってほしい。
 素直にそう思った。
 願わくば、みんなのようにあの頃の姿のままで眠ってほしいと。
 きっとこれは我が儘だ。
 今だからそう思う。
 みんなも自然のままに眠りたかったに決まってる。
 なのにわざわざ薬で若返ってから眠りについたのは……

  ……ずるいよな、みんな。

 きっと、俺がこの姿のままで生きているから。
 だから、別れるのならあの頃の姿のままでと。

  なによ。今頃気づいたの?

 ずるいよな、という問い掛けに、彼女は呆れた風情でそうこぼす。
 そう、ずるい。
 今際の際にそんなことをされたら、もう返せない。
 もう言葉も、行動も、なにも返してやれない。
 だからせめて、気づけた今は。気づけたこれからだけは。

  ええ、いいわよ。眠りにつく前に若返るくらい。

 なんでもないようにそう言う彼女は、本当に、どれだけ歳を重ねても彼女だった。
 ───そんな笑顔まで、いつかは消える事実に、自分は……どれだけの覚悟を重ねれば笑顔を作れるのだろう。

「……じいちゃん……俺……解らないよ……」

 どれだけ頑張っても、強くなっても、解りもしない答えを……誰かに教えて欲しかった。




───……。


……。




204/あの日のような黒の下で

 ───……よく晴れた日だった。
 朝から雲ひとつ無い日。
 今日一日をともに過ごしなさいと言った彼女はいつの間にか若く、あの頃の姿のままで、俺の部屋をノックした。

「なによ」
「………」
「な、なに《キュム》よぷっ!?」
「……、……っ……ふ、ぅぅううう〜〜〜〜……っ……!!」
「なっ……!? …………はぁ。一刀、あなた涙もろくなりすぎていない?」
「だって、だって華琳が、華琳がぁあ〜〜〜……!!」

 目の前に、ちっこい華琳。
 言ったら刺されるだろうから言わないけど、ちっこい華琳。
 あの頃の華琳だ。
 嬉しくて抱き締めた。
 静かに、決して壊さぬよう、やさしく。

「はぁ、まったく。ほら、いいから行くわよ。ああ、服はいつものアレにしなさい。フランチェスカといったわね」
「……発音とか、もう完璧だな……」
「知らない知識を頭に入れることは楽しいことよ。興味が向いているものに限るけれど」

 言われるままに着替えてから部屋を出て、歩き出した。
 促されるままに歩く日々が来るたび、視界が滲むのは何度目だろう。
 何度も何度も繰り返される出来事が、その度に自分の中のなにかを削っていった。
 ───最初は誰だっただろう。
 ノックされて、開いてるぞ〜なんて暢気な声を返してみても誰も入ってこなくて。不思議に思って扉を開けたら、若返った彼女が居て。
 戸惑いながらも話を聞けば、この姿ででぇとがしたいなんて言い出して。
 それで……………………それで。

「それで華琳? 行くって何処へ?」
「一刀。片春屠を出しなさい」
「へ? 遠出か? そりゃいいけど、それこそ何処へ?」
「魏よ。一日と掛からず全速力で飛ばしなさい」
「相変わらず無茶言うねお前!」
「あら。あなたこそ、随分と乱暴に物事を言うようになったじゃない」
「……こんだけ一緒に居れば、遠慮なんて無駄だって嫌でも悟るよ……」
「……ええ、良い心掛けね」

 歩いて、片春屠くんが置かれている倉まで行き、そこからは大急ぎ。
 呆れるほどに改良が加えられたこの絡繰も、弱い氣で随分と素早く動くようになった。
 ……眠りにつくまでとことん絡繰に熱心だった彼女も、こうして眠った後も使ってもらえているのなら本望……なのだろうか。
 いつまでも使ってほしいな、なんて言葉を最後にされては、どれだけ大事にしたくたって使わないわけにはいかない。
 本当に、みんなずるい。

「それでー!? まずは魏の何処に行くんだー!?」
「許昌へ行きなさい! ともかく速く!」
「許昌!? 精々で国境近くとかじゃなくて!? 一日掛からずって……ほんと無茶言うなぁもう!」
「その無茶を通したからこそ今があるのよ! いいから進みなさい!」
「だー! 解ったから髪の毛引っ張るなぁっ! 子供かお前は!」
「……いいのよっ。過去に出来なかったことを、今やっているだけなのだから」
「へー!? 風強くて聞こえなかった! 今なんて言ったー!?」
「さっさと進みなさいと言ったのよー!」

 速度を出しすぎて、叫ばなければ声が届かない状況でも、何があったのか彼女はとても元気だった。
 そんな速度で行けば国境もあっさりと見えて、敬礼されつつ魏の領土に入れば、また大急ぎで許昌を目指す。
 途中途中で様々な町に寄って、もはや知っている顔の方が少なくなってきた蒼の下に、どうしてか……こんなにも平和な世界へと辿り着いたというのに、虚しさが胸をついた。
 みんな、俺が御遣いであることは知っていた。
 華琳を見た時は、教科書の人相描きと瓜二つだっていうんで様々な人が驚いた。
 自分が曹孟徳である、なんて言えば笑われるだろうと思ったのか、華琳は……───それでも胸を張って「我が世の覇王、曹孟徳である!」なんてノリノリで胸を張り、腕まで組んで言ってみせた。
 子供達、爆笑。
 少年少女は「すげー! すごーい!」なんて驚いて、大人は「あらあら」なんて微笑んで……老人は深々と頭を下げた。
 もちろん、無礼であるだなんて理由で人の首が飛ぶ時代なんて、とうに過ぎ……俺達がそうなるように働いたからこその、随分と静かな平和が、そこにはあった。
 無礼がすぎれば死刑もある。そこらへんはまだまだ上が束ねなければ、無法者が増えるだけだとの助言だ。
 けど、今の時代に華琳が、かつての姿でそんなことを言ったところで若い者は本人であるだなんて思わないのだ。
 言ってしまえば、今この瞬間では明らかに華琳が浮いてしまっているのだから。

「……寂しいって……そう思っちゃ、いけないんだよな」
「良い世の中じゃない。願って、その場へ辿り着けたのよ? 民は私たちの思い通りに動く駒ではないのよ。胸を張りなさい」
「いずれ自分たちの手で、世の中を動かしていけるまで、なんて……それ、ただ俺達が損してるだけじゃないかって思う時があるよ」
「あら。願いは叶ったのだから当然でしょう? なにもせずに任せるのは、世を束ねようと立ち上がり、束ねれば“任せた”と言って投げ捨てるのと同じよ。何かを成功させるのであれば、自分が持つもののなにから何までを犠牲にしていいのか、きちんと決めて動くべきだわ。私は覇王となって、自分の持てる限りで理想の天下に辿り着くことを心に刻んだわ。私だけの道ではなく、三国の王や将や民が手を取って辿り着く場所。そこがここならば、一体何を損と謳うべきなのかしら?」
「……相変わらず、理解が早いっていうか早すぎるっていうか。もっと我が儘を言ってもよかったんじゃないかって話をしたいんだよ、俺は」
「我が儘?」
「命懸けで戦って、世界を平和にしてさ。その後にやることが世界平和の維持、って。命懸けで戦うだけじゃ足りなかったのかなって……今になって思うんだ」

 みんな必死だった。
 知恵を絞って状況を見極めて、兵の命だって一人や二人では済まないくらいの数を背負って、一度のミスが沢山の命を散らしてしまう状況の中を駆けてきた。
 そんな世界をようやく乗り越えてもまだ、人々が安定して暮らせるまでを見る必要があった。
 解ってはいるんだ。
 民が維持してくれたもののお陰で戦ってこれたことくらい。
 それに報いるためにも頑張って、それこそ死闘を超えて辿り着いてもまだ……どれだけ平和になってもまだ、いつまでも王でいなければいけなかった事実が、少しだけ悲しかった。
 いつまでも王で居る必要なんてないんじゃないか?
 どれだけそう言ったって、彼女は結局王で。
 我が儘らしい振る舞いはそりゃあしてきたけど、結局はそれが“国のため”に繋がっていた。
 結果で誰かが幸せになれるのなら、こんなに嬉しいことはない。
 そう思ったことだってもちろんある。何度も思ったことだ。
 でも……じゃあ、華琳だけのためのものって、いったい何があったのだろう。
 そう訊ねてみると、彼女は驚いた表情で俺を見て……そのまま何故かポムと赤くなって、俺の足をドゲシと蹴った。

「なっ、なんで蹴っ……!?」
「何度言えば解って、何処まで近い言葉を言えば理解出来る鈍感なのよあなたは! 失敗があっても不都合があってもあなたを放さなかった理由を考えれば解りそうなものでしょう!?」
「へっ!? あ───え、えぁぁああーーーーっ!!?」

 けど、まあ。
 我が儘っていうのは、人に知られずに実行されていることの方が、言葉通りの意味に近いのかもしれない。
 数十年、手放すことなどしなかった御遣いが居ることが、彼女なりの我が儘だったというのなら……なるほど、出会いから加入、それからの日々を思えば、確かにそれは彼女の我が儘だったのだろう。

「……そういえばさー! 城にあまり人が居なかった気がするんだけどさー!」
「仕事を頼んだのよ! 少し遠出をしてもらったわ!」
「遠出ー!?」

 町を巡り、時に買い食いをし、街の責任者と挨拶を交わして、時に挑まれては勝ってみせて。笑いながらの旅は続いた。
 華琳が仕合ってあげると言った時は、挑んだ青年はぽかんとしていたが……ええまあ、何処から出したのか解らない絶にまず驚愕。次いで、華琳の実力にも驚愕。
 お名前をとすがる青年に、華琳は無邪気な笑みをこぼしてこう言った。
 “誰でもいいわ。ただの、この男の妻よ”、なんて。
 当然、俺が誰なのかを知っている青年は驚いて、それよりも俺が驚いて、しかし嬉しかったのでそのままの勢いでがばしーと抱き締めたら、サクリと絶で刺されて絶叫。
 相変わらずの反応だった。

「いや……でもさぁ、なにも刺さなくても……。あんな顔で、華琳があんなこと言うなんて……嬉しかったのに」
「だとしても時と場所を弁えなさいっ!」
「弁えたら抱き締めていいのか!?《どーーーん!》」
「……あなた、本当に度胸だけは無駄についたわね」
「実力だってついたよ。胸張れるほどかは別として」
「まあそうね。いつまで子供や兵たちに鍛錬をさせるのかと呆れたものだけれど。確かにお陰で、ここに攻め込む愚か者は居ないわね」
「まあ……誰が好き好んで、兵士までもが氣を使って戦う国と戦うかって話だよな」
「問題点があるとすれば、殺し合いをしたことがないところでしょうね」
「実戦を想定した鍛錬なら随分やらせたんだけどなー……殺し合いはさすがにさせるわけにはいかないし」
「……それで? そこまで鍛えた理由はきちんとあるんでしょうね」

 じとりと睨まれて、笑った。
 言ってしまってもいいだろうかと思うも、心配なんてないままに眠ってくれたほうがいいとも思うのだ。

「鍛えた理由かぁ。この世界を肯定し続けたかったから、かなぁ」
「肯定?」
「そう。たとえばこんな平和な世界なんて要らない〜なんて言って攻めて来る人が居たとしてさ? そういう人達からこんな平和を守っていけたら、それって肯定にならないか?」
「……本当に、あなたってよく解らないことを行動理由にすることがあるわね。それだけが理由なの?」
「そ」
「呆れた。もし民が徒党を組んで謀反したらとか思わなかったの?」
「したらしたで、それでいいんじゃないか? 今の平和を否定するなら、俺も全力で肯定するだけだよ。話し合おうともせずに、教えてもらった武力で立ち向かうなら、同じ武力で叩き潰すだけだ」
「話し合いしか出来なかったあなたが、強く出るわね」
「……力を振るう恐怖は、もう散々覚えたよ。初めて蜀に行って自己紹介した時に、特に。だからこそ振るおうって思える。守りたいものを守るために身につけた力だもん、そこで使わなきゃ嘘だ」

 あの日から今まで、自問自答をした回数なんて数え切れない。
 どれだけ綺麗ごとを並べようと、振るうのは力で、貫くのは自分の意思だ。
 それが、相手の希望を挫いてまで目指したいものかどうかを何度も何度も考えた。
 相手を尊重することを考えれば大人しく否定されるべきか? それはつまり、この世界を諦めることか? それとも、そもそも相手の否定が外史の連鎖の否定であって、この世界単体の否定ではないのなら……そう考えることもあった。
 けど、“肯定の可能性”のひとつとしてこの世界があるのなら、譲ってはいけないことの一つなのだろうと信じて、ここまで来た。
 ……答えのない未来ほど不安に思うことはない。
 それで合っているのかと、何度だって不安に思った。それは、それこそ今も。
 その度に、“そんな日々は当然だ”と言い聞かせて歩いてきた。
 天狗になって調子に乗って、鼻を折られた日から今までも、日々はずぅっと不安で満たされていたのだから。“今さらだ”と一度だって笑えてしまえば、不安に囚われ続けることなどないのだと。
 ……そうは言ってもやっぱり人間だから、不安は残るんだけどね。

「な、華琳。お前の願い、きちんと叶ったかな」
「あら。あなたは……私が己の願いを叶えもせず、この歳になるまで燻っていると思うのかしら?」
「そうだなぁ。たとえば現状に満足しちゃって、目指すまでもない〜とか思っちゃったとか」
「……この国に住む全ての民の平穏と幸福。そんなものはとっくに叶っているわよ。叶った時点で他の願いも目指し、全て叶えた。満足しているわよ」
「そっか」
「………」
「………」

 魏の国で見上げる蒼の下、ふと途切れた会話。
 それが嫌な空気に変わることもなく、ただ、ともに居られる時間を惜しむように歩いた。
 片春屠に乗れば、また叫ぶように目的地や状況についてを話し合って、次に着いたら降りてから話して。

「俺さ、今日……最初に華琳に何処に行くのかって訊いた時、“成都へ”って言われるんじゃないかって思った」
「成都へ? 何故そう思うのよ」
「今日の華琳みたいに若くなったみんながさ、初めて出会った場所に行きたいって言うんだ。そこでお別れをした。子供や、今まで付き合ってくれた仲間の傍じゃなくていいのかって言ったところで、別れは済ませたからって笑うんだ」
「それでどうして成都になるのよ。私があなたを拾った場所が成都だったとでも言う気?」
「解ってて訊くのは反則だろ……」
「覇王を泣かせた罰よ。甘んじて受けなさい」

 戦が終わった成都の、黒の下。
 流れる川の傍で消えたいつかを思い出す。
 似たような川が魏にも呉にもあったっけー、なんて思ったのもいい思い出だ。

「そういえば。再会は川の傍だったよな。あれってやっぱり、別れたところと似てたから《どげしっ!》ベンケェ!?」
「うるさいっ! 余計なことはいいから次へ行くわよ!」
「はぁ……ほんと、結局こんな関係は出会いから今まで、変わらなかったよなぁ」
「………」
「……あの。なに? その“なにを言っているのよこの馬鹿は”って顔」
「出会った頃から変わっていないのなら、あなたが三国に与える影響なんて些細なものだったと言いたいのよ。適当に拾っただけの、利用価値が曖昧な者に重要な仕事を任せる馬鹿が何処にいるの?」
「……いや、うん。ごめん、そういう意味で言ったんじゃなかったんだけど。そうだよなぁ、実際に変わってないなら、女好きの華琳が俺と《げしっ!》いたっ!?《げしげしっ!》でっ! 痛いって! 弁慶はやめて!」
「あなたは……! いちいち人の恥ずかしいことを抉らないと気がすまないの!?」
「そんなつもりは微塵もなかったんですが!?」

 やりとりは変わらない。
 学を得て、少しは魏のために貢献出来るようになって、それこそ……警備隊の案でやることが安定した頃から。
 眠りにつかんとする秋蘭に随分とお礼を言われたっけ。
 華琳様を支え続けてくれてありがとう、かぁ。
 ほんと、最後の最後まで華琳様だった。秋蘭も、春蘭も。
 最後くらい、自分の我が儘を押し付けてくれたってよかったのに。

「………」

 それが俺の“守りたいもの”に繋がるかもとか考えたのか、終わりが近づくにつれ、みんなは俺に何かを残すことはしなかった。
 遺言らしい遺言もなく、ただ、ともに歩めてよかったと。
 本当に、言葉にしてみればなんでもないことだけを遺して、彼女たちは逝った。

「……なぁ。都にみんなが居なかったのってさ」
「ええそうね。許昌に呼んであるわ。流石に全員とまではいかなかったけれど。最後くらい、我が儘を言ってみようと思ったのよ」
「………」
「自分の最後くらいは解るわよ。戦から離れて数十年と経てど、この身は武人のそれだもの。己の死くらい感じられるわ」
「最初から、そういう話だったもんな。最後の時くらい、若返ってもいい、って」

 少女のままの彼女が笑う。
 戦があった頃は滅多に見ることの出来なかった、それこそ少女のままの笑顔。
 ふと、抱き締めて逃げ出したくなってしまうのはどうしてだろう。
 目的地に行かなければ、まだずっと、こんな夢が続いてくれるんじゃ……なんて、そんなことを考えてしまう。
 みんな同じだったんだ。
 みんなが望むからと行きたい場所へ連れてゆき、その度に終わりを迎えて涙した。
 今この時も、それが待っていると解っているからこそ、心から行きたくないと───

「……俺。もう何度もお別れをしたよ」
「そうね」
「いつかはくることだって解ってた。当たり前のことなのに、辛くてさ」
「………」
「最初は強くあろうって、笑顔で見送るんだ。でもさ、何度もやってるとそんな我慢もきかなくなってさ」
「……そうね」
「あとになって悔やんだよ。後悔って、ほんと文字通りの言葉だ。……別れの時に無理に笑ったって、相手に不安が残るだけだ。むしろ……どうして俺は、心のままに別れを悲しんでやらなかったんだって……」
「………」
「………」

 思い出して、少しツンときた鼻をすすって、歩く。
 再び片春屠に乗って、次の町へ。次の町へ。次の町へ。
 それこそ、民に別れを告げるように、華琳は笑顔で訪れる町を歩いた。
 誰もそれが覇王であると気づかぬまま。
 気づいた者だけが何処か懐かしい日を思い出すように笑みを浮かべ、体を曲げて頭を下げた。
 もう、町の人も知っている。
 若返った人が町を訪れるのはこれが最初じゃあないから、知っている。
 この来訪が何を意味するのか。
 この来訪ののちに、なにがあるのか。
 だからこそ頭を下げ、小さく笑みを浮かべるも何も言わずに擦れ違う華琳に言った。

  平和を、ありがとうございました

 途端、華琳の足が止まりかける。
 余裕を持った表情は一瞬にして砕けかけて、それでも彼女は歩いて……

  こちらこそ、感謝を

 そう残し、互いに擦れ違った。
 ……王だけが居て勝てる戦いなんて、きっとない。
 民が生きる糧を用意して、その民を守る者が居て、戦う者が居たからこそ手に入れられたものがある。
 だからこそ、感謝を。
 生きてくれてありがとう。
 平和をありがとう。
 生き続け、迎える終わりを前に感謝されることほど、満たされることなどきっとない。
 自分の人生は感謝されるほどに立派であったと胸を張れる。
 ……凪が眠りにつく際、数え切れないほどのありがとうを伝えた。
 その時に、彼女は笑顔でそう言った。
 満たされたまま逝ける自分は幸せですと。

「…………俺は」

 そして、また見送るのだ。
 満たされた人を。
 残される自分が、何度も何度も。
 自分が消える際、自分は満たされているのだろうか。悲しんでくれる人は居るのだろうか。
 ともに居たいと願った人が次々と眠りにつく中、俺の願いがいったい何回叶っただろう。
 そんなことを懲りもせず考えて………………俺はまた、泣くのだろう。


───……。


……。

 黒の空の下に居る。
 いつかの夜のように、眼下には騒ぐ人々。
 城壁から見下ろす景色は賑やかで、今も宴会騒ぎのようなもので溢れている。
 娘も孫も曾孫も騒ぐそんな景色はひどく平和だ。
 これから別れが待っているだなんて、あの頃の華琳も思ってもいなかっただろう。

「……“こんなところにいたのか”」
「“ん? ……ああ、一刀。どうしたのよ、三国連合の立役者が”」

 宴を抜け、城壁の上で空を見上げて居た少女に声をかける。
 まさかこう返されるとは、と思いながらも二人、ふっと笑って並んで立った。
 ……見下ろせばあの頃の景色が見えてくるような喧噪。
 魏呉蜀、どこの存在であろうと関係なく、集ったことで騒ぐ大宴会の真っ最中だ。
 ただし、華琳の提案で酒は無し。
 ……何処まで見越してらっしゃるんだろうなぁ、この覇王さまは。

「まったく。柄があんな歳になっても酒が嫌いなままとは思わなかったよ。冗談で用意するかって訊いてみたら、抱き付いてきて……それだけはやめてくれって言ってくるんだぞ?」
「ふふっ……飲んだのは生涯でたた一度、祭が眠る時だけ、だったわね」
「まあ、これからは解らないけどな」
「丕も、結局誰ともくっつかなかったわね。あなたも妙な意地を張っていないで、抱いてあげればよかったのに」
「近親相姦の趣味はありません」
「娘を泣かせる趣味も無かったでしょうに」
「いや、こっちもどうしてあそこまで好かれてるのか解らないくらいだぞ? むしろそんな子が一人だけじゃないっていうのが正直辛い」

 丕や姫はその筆頭と言える。
 楽綝は好きというよりは憧れ的なものだったからよかったんだが……丕と姫がなぁ。
 苦笑を漏らす俺に、華琳も苦笑で答え……ため息をひとつ、ここから見える景色を眺めた。
 見下ろせば大宴会。
 いつかの、大陸全土を巻き込んだ宴会を思い出す。
 腕の見せどころだとばかりに腕を鳴らした娘や孫たちの手で作られた未来の料理は、もはや炒飯から魚が飛び出るような失敗もなく…………どうしてかなぁ。そんなことさえ懐かしく思えるのは。

「……そろそろ、か?」
「そうね。むしろ今日はずうっと、足がふらついているわよ。今まで平気な顔をしてみせた自分を褒めてもらいたいところだわ」
「ん。いい子いい子〜♪」
「《なでりなでり》…………」
「……華琳ってたまに頭撫でられると、動かなくなるよな。恥ずかしがってる?」
「長く生きていると、余裕というものが生まれるものよ。頭を撫でられるくらいがなによって、そんな感じにね。むしろ当然の報酬だと受け入れるべきね。そう思えば、若い頃なんて無駄に尖ってばかりで、恥ずかしいったらないわ」
「……華琳の口からそんな言葉が聞けるとはなぁ」
「なによ。尖ってなければ私じゃない、みたいな言い方じゃない」
「甘えてくれ〜って言ったって聞きやしなかったじゃないか」
「当たり前でしょう? 十分に甘えているのだから」
「…………」

 言われたあと、少し乱暴に頭を撫でた。
 また蹴られるかなって思ったけど、そんな仕返しもなく。
 ただ、彼女が手を差し伸べてきたから手を取って……ゆっくりと歩いた。
 向かう場所はたったひとつ。
 ……別れは、月の下、小川の傍で。


───……。


……。

 いつかを思い出すような、静かな夜だった。
 宴会の声は遠く、小川の周辺は……あの頃のように虫の鳴き声しか聞こえない。

「……間諜は居なくても、五胡は居たよなぁ」
「なに? いつかの仕返し?」

 辿り着くや、あの日の会話を思い出して笑う。
 景色がそうさせるのか、あの日の言葉が頭に浮かんでは消えてゆく。
 こんなふうに、忘れてしまった兵らの笑顔も思い出せればよかったのに。

「あの頃の成都よりも、今の世は安全かな」
「そうね。随分とまあ好き勝手に、人の理想を形にしてくれたものだわ。私がやることが少なかったくらいよ」
「華琳は華琳で好き勝手してたじゃないか」
「やるべきことの大半をあなたがやっていたのだから、当然じゃない。今だから言うけれど、支柱になれとは言ったけれど支えすぎよ」
「そういうことは思った時点で言ってくれません!?」

 なんでもない話で笑い合って、もう足が震えて立っていられない彼女をやさしく、支えるように抱き締める。

「はぁ。立ちながら、あなたが見ていない状況で逝ってやろうとずうっと思っていたのに。死というのは、さすがに人を自由にはさせてくれないものね」
「こんな時まで武人であろうとするなったら……俺、この言葉、今まで見送ってきたほぼ全員に言ったんだぞ……?」
「支えられていたくないから言ってしまうのよ。……死にたくない、ずっとこうして寄り添って居たいと、そう思ってしまうのだから」
「…………そっか」
「……今、あなたが考えていることを、私もあの時思ったわ」
「そうだよな。逝かないでって……言ってくれたもんな」
「ええそうね。仕返しは必ずすると決めていたから、もちろん聞いてあげないわよ?」
「笑いながら言う言葉じゃないよな、それ……しかもこんな状況で」
「こんな状況だから許されるんじゃない。散々と歩いて、散々と願いを叶えた今だからこそ」
「………」

 ゆっくりと、草の上に腰を下ろし、掻いた胡坐に華琳を座らせる。
 後ろから抱き締めるようにして座らせた彼女の頭をやさしく撫でて、ただ、いつかを……何度も、何度も思い出す。

「なぁ、華琳。俺は……恩を返せたかな。華琳が言ってくれた、“この場に居ないことを死ぬほど悔しがるような国”を……支えてこられたかな」
「十分よ。皆は満足して逝ったのでしょう? 何を疑問に思おうと、その笑みを信じなさい」
「……うん」

 見上げた月はまんまる。
 いつかのように綺麗な満月と、雲も見当たらない黒の下、ただ静かに流れる時を過ごした。
 別れは必ずくる。
 そのことを、誰かが死ぬ度に味わってきた。
 その度に立ち上がろうと心を奮い立たせ、その数日後に別の誰かを見送り、涙した。
 楽しい思い出を思い出しては立とうとして、その悲しみが楽しさを埋め尽くしてしまった時、心の奥底の、なにか大事なものが軋む音を聞いた気がした。
 こんな日々を続けてもまだ、自分は肯定し続けられるのか。
 こんな日々を続けたからこそ、最果てで待つ彼は否定しようと思ったのではないか。
 そんな疑問に辿り着いても、そうなんじゃないかって思ってしまう時があっても…………笑顔で逝けた彼女たちが、まだいくらでも思い出せる今なら。

「ねぇ一刀。この場合、未来はどうなるのかしら」
「未来って?」
「あなたの世界と繋がるか、と訊いているのよ」
「……元々、俺の居た世界での“曹操”は華琳じゃなかった。曹操は大陸統一を成し遂げられなかったけど、華琳は成し遂げた……そんな歴史があっても、根本が違うなら、天の歴史には届かないよ。元からね」
「……そう。どれだけ願っても、それだけは叶うことはないのね」
「………」
「欲しいものを求めて、歩むべき道を歩んだ。その歩んだ道も、望んだ道に辿り着けないのであれば、意味が無いものだと……あなたは思う?」
「そんなことはないだろ。辿り着けないなら手を貸すよ。一人じゃ駄目ならみんなでだ」
「なに? 自分なら歴史さえ変えられるとでも言うつもり?」
「生憎と、覇王様が拾った種馬様は、一度そんな経験がございます故」
「それで自分が消えていれば、世話がないけれどね」
「それは言わないでおこう!?」

 笑みが弾けた。
 人の鼓動が暖かい。
 こんな命の輝きが、もう消えてしまうものだなんて信じたくない。
 なのに、信じないでいた願いの全てはもう何度も裏切られて……だからこそ、そんな願いなんてするだけ無駄だと知ってしまっているのだ。

「……───」

 すぅ、と華琳が長く長く息を吸った。
 途端に跳ね上がり、臆病になる鼓動をなんとか押さえて、震えそうになる声を絞り出して……笑う。
 怖い。怖い怖い怖い。
 置いていかないでくれと叫びそうになる心を押さえつける自分さえ、そうしようとしてしまう自分さえもが怖い。
 いっそ子供のように泣き叫べばいい。
 泣かなかった過去に後悔したというのに、最後の最後で意地を張るのか。

「一刀……?」
「あ、ああ……うん、なんだ?」
「私が死んだあとのことだけれど」
「なんだよ、遺言か? 大丈夫だぞ、どんな無茶だって受け取ってやる。これでもほら、祭さんに命じられて大都督になったこともあったし」
「ほぼ似たようなことを毎日やっているでしょう……」
「祭さんがそんな俺を見てみたいって言うから……あ、あぁえっと、まあいいや。で、なんだ?」
「………」
「……華琳?」

 他愛の無い会話が途切れて、まさかと覗きこむ表情が、とてもとてもやさしいものに変わっていた。
 そっと頬を撫でる手はやさしくて、嫌でもこの後に訪れるものを連想させて、みんながそうであったことを思い出させて……胸を締め付けた。
 ───……来るべき時は、どうしてもやってくるものだ。
 自然が自然として在るように、別れも、悲しみも。
 人生に“心の準備”が出来るものなどそうそう無いと、いつか祖父が教えてくれた。
 それはその通りだなって何度も思った。
 だって、覚悟していた事態そのものが来たのなら、全ては想定通りに終えられる筈なのだ。なのに世界はやさしくなくて、覚悟していたものとは違うことばかりを運んでくる。

「まったく。あなたはちっとも変わらないわね…………本当、嫌な男……」
「……俺も歳をとりたかった。みんなと……老いたかった」
「……ばか」

 どれほどの時を生き、どれほどの時間をともに過ごしてきたのか。
 もうそんなことさえ忘れてしまった頃。静かに、ゆっくりと。この大陸の覇王の最後の時が、近づいてきていた。

「……ふふ…………やっぱり、悲しい……?」
「当たり前だろ……何人見送ってきたと思ってるんだよ」

 ふと気がつけば二人きりだった。
 あの日から魏に尽くし、民を守り国を守り、新たに産まれる生命を歓迎しては、消えてゆく生命に涙した。
 時には病気で、時には寿命で……時には事故で。
 あんなにも輝いていた日々の名残は……俺と華琳の二人だけになっていた。

「……覚えているかしら……初めて会った時のこと」
「ああ、覚えてる。……華琳は奪われた本を探してたな」
「世は乱世、黄巾党征伐の真っ最中で……」
「俺は天の御遣い、なんて言われて秋蘭に引っ立てられてた」
「ええ……そうね。あなたともそれからの付き合い…………ふふっ、相当長いわね……こういうのを腐れ縁、というのかしら」
「そうだな……これだけ腐ってれば、もう離れられないだろ」

 思えば長い道のりを歩いてきた。
 華琳と出会って天の御遣いとして魏の旗をともに掲げて。
 乱世を渡って天下を取って。
 一年の別れを経験して、再会を喜んで…………そして…………たくさんの仲間との別れを経験した。
 全ての人に別離を告げ、全ての教えに感謝して、全ての死に涙した。

「本当に…………私より先に逝くなんて……不忠義な娘たち……」

 ……そんな俺の考えを表情から読み取ったのか、華琳がこぼす。
 俺はその言葉に苦笑いを返して言う。

「はは、単に華琳がしぶとすぎたんだろ。ていうかその言葉、冗談でもみんな泣くぞ?」
「……ええ、解っているわよ。眠る瞬間まで、どこまでも忠義に溢れた娘たちだったわ」
「うん」
「けど、それも当然なのでしょうね。それくらい強くないと、きっと立っていられない男が居ただろうから……」
「………………うん」

 泣きそうになった。
 そう…………もう何人見送ってきただろう。
 蜀のみんなとも呉のみんなとも仲良くなって、都合を付けられればみんなで集まって、馬鹿みたいに騒いで。
 いつしか全員が真名を許し合って、“みんなが笑っていられる天下”を手に入れたことに心から喜んで、やっぱり俺の幸せはここにあった、って思えて…………

「…………」

 いつだっただろう、歳を取らない自分に気がついたのは。
 李衣に“髪が伸びてきたから切ってー”と頼まれて、髪を切った。
 紫苑に“璃々が大きくなってきたから”と新しい服の意匠をお願いされた。
 子供が生まれ、すくすくと成長して、子供たちが走り回るのを眺めていた時に……どれだけ時が経っても、やっぱり歳を取らない自分に気づいた。確信した、とも観念した、とも言える瞬間だった。
 そんな過去を思い出して、皺だらけになっていた彼女の掌を思い出し、その手を握った。

「…………ね、一刀……」
「うん……?」
「……これまでありがとう、一刀……」
「どっ……! 〜……どうしたんだよ、急に……」
「……あなたは本当に……魏に尽くしてくれた。願った通りに……私達のために……」
「当たり前だろ……俺は……俺の家族を守りたかったから───」

 いつの頃か、誓った思いを確かめるように胸をノックした。
 じいちゃんが言っていた。
 守れるほどに強くないなら守られているといい。
 けど、いつか守れるようになったのなら……全力で守ってやれ。それが恩を返すことだ、と。

「……やっぱり、みんなひどいよな。弱っていく姿を見せるくせに、守ってやろうとすると“お前の助けは借りん!”とか言うんだ。…………結局、誰にも恩を返せなかった」
「ふふっ……まだ本当にそう思っているのなら、あなたは本当に鈍感なのね……。そういうところまで……ちっとも変わってない……」
「……華琳? それってどういう……」

 可笑しそうに笑う。
 仕方のない人、と言うかのように。
 そんな笑みがしばらく続くと、華琳は笑みのままに俺を見て、ゆっくりと口を開いた。

「一刀……私達はね……あなたに、もうたくさんのものを貰ったの……。戦いに明け暮れていただけじゃあ絶対に手に入れられなかったものを、あなたはたくさん……本当にたくさん、私達にくれたのよ……」
「俺が……? 華琳たちに……? 本当にそうなのか……?」
「ええ……。それなのに……最後の最後に助けられたら…………逝くに逝けないじゃない……」

 笑顔でそう言って、華琳が弱々しく伸ばした手が……もう一度俺の頬を撫でてゆく。
 皺だらけのものではなく、あの頃の手で、けれどあの頃とは違い、ひどくやさしく、ゆっくりと慈しむように。

「華琳……」
「ありがとう、一刀……あなたのお陰で、本当に退屈のない生を送れたわ……」
「それはこっちの台詞だ……華琳やみんながここに居たから、ここに帰ってきたいって思えたんだ……守りたいって思ったんだよ……」

 そんな手を、肩から抱き締めるようにして両手で掴んで、頬に当てたままに言葉を返した。
 ……そんな手から、少しずつ力が抜けていくのを……泣き叫びそうになるくらいの悲しみと不安を噛み締めることで、受け入れながら。

「……ね、一刀……」
「ああ……なんだ? してほしいことがあるなら言ってくれ。こう見えても帝王様ってくらいに信頼はあるつもりだぞ? 多少の無茶は…………あぁうん、丕のやつにどやされそうだな」
「ふふっ……ふふふふっ……」
「わ、笑うなよ……最近あいつ手厳しいんだ、やれ父様はどーのこーのって。まったく誰に似たんだか」
「間違いなく秋蘭と凪でしょうね……。生真面目さばかり受け取ってしまったし、あなたがちっとも想いに応えようとしないから」
「……でも、いい子に育ってくれた。丕の子供は見れなかったけど、他の方面で孫も見れたし……魏の後継は“夏侯”に任せたし……他国は言うまでもない。とりあえずは安泰だよな」

 丕は結局、誰かを夫として迎えることはなかった。ファザコン、ここに極まれり、である。
 なもんだから後継のことはと話し合ったんだが……“自分たちだけ好きな人と一緒になったのに、娘には望まない相手と結ばせる気か”と激怒した丕は、それはもう恐ろしかった。
 結局、古くから華琳に、魏に貢献してくれたという理由で春蘭や秋蘭の孫を、丕の後継として決めた。今は丁度、その孫が頑張っている頃だ。
 そんないつかを思い出してもまだ笑えるのに、目には涙が溜まる一方だ。
 ……体っていうのは、つくづく本人の思い通りにはなってくれないらしい。

「ええ……だから、ね……一刀……」
「……うん……?」

 華琳の指が……むに、と……俺の頬を軽くつまんだ。
 まるで、こんな泣きたくなるような瞬間でさえも、なんでもない日常にしようとしてくれているかのように。

「もう……休んでいいの」
「え……?」
「あなたはもう十分に……本当に十分なくらいに魏に、三国に尽くしてくれた。だから……」
「……ま、待て待て……待ってくれ。俺は……」
「解っているわ……誓いがあったから尽くしてくれたんじゃない……あなたはあなたがそうしたいから、そうしてきた……」
「そうだよ……解ってるなら、なんで───」
「それでもね……もういいの……休んで頂戴……。あの日から今日まで、あなたはずっと走り続けてきた……。もういい加減……足を休ませてあげて……」
「…………」

 手を伸ばす。
 いつかのように、華琳の頬へ。
 でも…………

「……いやだ」
「……一刀……?」
「いやだよ、俺……。もっと……もっと魏を、この大陸を……。まだできることがあるよきっと……だからさ……華琳……」

 ……抓めない。
 抓んで、引っ張ることが出来ない。
 震える手で頬を撫で、湧き出る嗚咽に震える喉で、声を振り絞ることしか出来なかった。

「……しっかりしなさい、北郷一刀」
「………」
「あなたは……この世界で学んだのでしょう……? 覚悟を、生きかたを、信念を……。教えたでしょう……? 現状維持は大切……でも、進む気がないのなら……それは普通ですらないと……」
「でも……でも華琳……! でも……!」
「お願い……。あなたはもう十分に頑張ったの……これ以上走り続けたら……あなたはきっと立てなくなる。そうなったらもう、支えてくれる仲間が居ないのよ……?」
「っ……」
「あなたはやさしい人……でも、同時に心が弱すぎた。全ての逝く人に涙を流すあなただから、私が逝ってしまったらどうなるか……いつも怖かった」
「華琳……」

 頬を抓っていた指がふっと緩み、頬を撫でる。
 ……その手には、もう力と呼べるものなんて残ってなくて……

「……一刀。魏も、呉も、蜀も……都も。もうあなたなしでも栄えてゆける……。あなたがそう育んできたから、もう立派に生きてゆけるの……」
「でも華琳、俺は───!」
「……天が御遣い、北郷一刀……」
「……! 華琳……?」
「我……魏の王が命ずる……。永きに渡る魏への忠義を忘れ…………ただの一刀として───休んで、頂戴……。私も……覇王ではなくなるから…………ずっと一緒って……言ったでしょう……?」
「っ───」

 ……力が……消えていく。

「そっ……そうだ……そうだよ……! ずっと一緒だ! 約束した! 帰ってきたじゃないか! ずっと一緒って───! だから───だから俺っ……!」

 消えていく……力強さが、気高さが、温もりが…………優しさが。

「一度は破っちまったけど、こうして傍に居たじゃないか! 今度はお前が破るのか!? 王は一度言った言葉を覆さないんじゃなかったのかよ!」

 繋ぎ止めたくて力強く握る。
 けどそんな力でさえその手が壊れてしまいそうで……行き場のない悲しさが激しい嗚咽となって喉から溢れる。
 笑って見送るなんて無理だ。我慢なんて出来るわけがない。言葉が乱暴になったって構わない、そんなことを考える余裕がないくらい、震える心で叫んだ。

「いやだ……華琳……! っ……置いていかないでくれ……! お前が居たから……お前と一緒だったから、俺は……! みんなに守られてたから笑っていられたんだ……! やっと解ったんだ……! 守られるってことの意味が……守るってことの意味が……! それなのに……───」

 まるで子供のようだった。
 今まで育んできた国の下に居るというのに、まるで荒野に一人投げ捨てられた子供のように、情けなく涙を流した。
 いや……無様でもいい、情けなくてもいい……今心を支配するこの悲しみは、曲げようの無い事実なのだから。
 でも……そんな俺の頬を、震える手が……最後に、小さく抓ってくれて───

「…………また……会えて…………ふふっ…………うれしかったわ、かずと───……」

 ゆっくりと……

「さよなら……天の御遣い……」
「華琳……」

 ゆっくりと……

「さよなら……涙もろい男の子……」
「華琳…………」

 一本一本、力が抜けてゆき……

「さよなら………………愛しているわ、一刀───」
「華琳…………?」

 やがて…………その手が、俺の手から…………

「ふふっ……わたしは───過去形になんて……して、あげない、ん…………、───」
「かっ……───」

 力無く、落ちた。

「か……華琳……? 華琳……!」

 涙に滲んだ視界で見た、愛しき者の顔。
 その目は閉ざされていて……その顔は、全てをやり終えたかのように穏やかに笑み……

「……っ……く、ぐ……っ……───!!《ギリィッ!!》」

 喉まで出掛かった絶叫。
 それを、歯を食い縛ることで無理矢理殺し、涙を拭った。

「まだだ……」

 力無く垂れた華琳の手を戻し、胸の上に整えてやり……横抱きにして立ち上がる。

「まだだ……!」

 叫び出したかった。
 いっそ気が狂ってしまえば、このどうしようもない悲しみから解放されるのだろうか。そんなことすら考えた。
 けど、そんなことをするわけにはいかなかった。

「返さなきゃ……!」

 出来ることがあるはずだ、と。
 天を仰ぎ、嗚咽の所為で荒れる呼吸を無理矢理直し、そうしてから踵を返して……いざ、最果てへ。

「みんな居なくなった……! みんな失った……! 仲間も部下も、楽しい日々も愛しい人も───!!」

 でも、だけど、まだ呉が、蜀が───魏が残っている。
 あの日から始まり、ここまで至り、王が死んだ今もまだ、旗だけは───!

「魏に尽くすって誓ったんだ……! 肯定するって決めたんだ……! 守れないなら、守れる時になったら全力で守るって……! みんな居なくなってしまった……なら……っ……俺がっ……!」

 人としての在り方を教わった。
 戦乱の世というものの怖さを教わった。
 生きることの素晴らしさ、死ぬことの悲しさを教わった。
 喜びを知った。悲しみを知った。
 進みゆく目標を……立ち上がる理由を。
 立ち向かう勇気を、振り翳す希望を───!!
 教えてもらった全てを以って、今こそその恩を、この国に……みんなが愛したこの大陸に返すんだ……!!

「だから───《ドクンッ……!》───……、え……?」

 そんな思いを胸に……華琳を抱いたまま歩こうとした瞬間───軽い、眩暈。

「な、……んで……」

 次いで、強い立ち眩みと、立っていられないほどの虚脱感。

「……、……」

 気を失いそうになるのを繋ぎ止める。
 華琳を腕から落としてしまわないように、屈みながら。
 ……そんな中で、俺はただただ愕然としていた。

  この感覚を知っている。

 自分の中が空っぽになるような感覚。
 そしてそれを、こんなにも強烈に味わうのは……二度目だった。

「消え……る……? そんな───」

 自分の手を見て、心臓が潰されたんじゃないかってくらいに絶望を覚える。
 その手は透明になりかけ、そこから地面が鮮明に見えていた。

「華琳の物語が……終わったから……か……?」

 震える声で呟きながら、もはや目覚めることのない愛しい人を見下ろす。
 ……途端に、自分の口から出た“終わり”という言葉に泣きたくなった。
 まだだ……まだだ、違う、終わりじゃない、と。
 だから、華琳の肩を抱いている手に力を込めて、前を向く。
 そう、まだ残っている。
 やらなきゃいけないことが、ひとつだけ。
 決着をつけなきゃいけない。
 外史ってものの連鎖に。
 そして……肯定と、否定に縛られた男の、長い長い旅に。

「……華琳。最後の最後まで見送ってやれなくてごめん。他の誰かに弔ってもらわなきゃいけないことを、どうか許してほしい」

 歩いて歩いて、二人で来た道を一人歩いて、宴の賑やかさの中に戻ってゆく。
 そこで俺を見つけてくれた娘に彼女の死を告げて……涙は見せたけど、「既に別れは済ませてありましたから」と言われ、華琳っていう人間に、やっぱりちょっと呆れた。
 どれだけ先を見越せば気が済むんだか、本当に。

「───」

 そんなふうにして、彼女を丕に任せた瞬間。
 どくん、と。
 心の奥で、何かが躍動した。
 まるで、自分の中にある存在理由が、敵としての何かを感じ取ったような、そんな……異様な躍動。
 途端、慌てて駆けてきたこの賑やかさには似合わない表情の兵に、状況を理解した。

「も、申し上げます! 許昌前方に突如謎の軍勢が出現しました!!」
「謎の……? どういうことか!」
「そ、それが私にもよく解らず……! ただ、妙な服を着た男が“北郷一刀を出しなさい”とだけ……!」

 丕が声を荒げるも、兵にしてみれば急に現れた存在、としか映らなかったんだろう。
 このタイミングでの突然の事態なんて、予想がつけられるものなどひとつだけ。
 だから───

「その軍勢は、武器は持っていたか?」
「は、はい! 出て来なければ突撃させる、と……」
「……そっか」

 一度頷いて、丕に向き直って自分の胸をノックする。
 丕の腕の中で眠る華琳の頬を最後に撫でて、真っ直ぐに丕の目を見て、伝える。

「丕。今まで準備してきたことがようやく試される時が来た。全員に伝えろ。外に居る軍勢は敵で、俺を殺しにきたヤツだって」
「父さまを殺しに!?」
「将も兵も全員集めてすぐに戦の準備をしろ! これから始まるのは演習じゃなくて本当の戦だってことも伝えるのを忘れるな! ───武器は持ってきてるな?」
「は、はい。どういう訳か母さまが持ってくるようにと。最初は模造武器のことかと思ったのですが」
「よし、だったらいい。ほんと、呆れるくらいに見通してくれたことに感謝だ。……まず俺が前に出るけど、軍勢が居るってことは相手も容赦無しに突撃してくると思う。長い目で見れば、誰かに片春屠か摩破人星で他所に増援要請をしてもらいながら、篭城戦で持ち堪えるのがいいだろうけど、相手は急に現れたりするらしいから、篭城は無意味かもしれない。相手が実力行使で来たら、遠慮せずに全力でぶつかれ」
「はいっ! 聞こえていたわね!? すぐに早馬か絡繰を用いて他国に伝令を飛ばしなさい!」
「は、はっ!」

 丕が兵に命令して、自分も俺に一礼をしてから駆け、宴の中心で大音声にて大号令。
 娘達や孫達の目つき、それから長くこの国に仕えている兵の目が、一気に鋭いものへと変化した。

「これより立ち上がるあなた達に言葉を届けよう! 油断は敵である! 各々、全力を以って敵を粉砕するまで、一時も油断を持つことを禁ずる!!」
『応ッ!!』
「結構! ───つい先ほど、知らされていた通り母が眠りについたわ! その母の眠りを騒音にて妨げる者に、彼女達が作り上げてきた国の力がどれほどのものか、見せ付けてくれよう!」
『応ッ!!』
「平和を乱す者は敵である! 先人の教えに従い、先人に感謝し、今この地に立っている我らが、これからの大陸を守ろうではないか!」
『応ッッ!!』
「この戦を母に! そして導いてくれた先人にこそ捧げよう!! 無様を見せずに勝ってみせよ!!」
『応ォオオオオッ!!!』

 鼓舞が終わるや、宴をしていた者の全てが一気に散る。
 その速度は全員が全員氣を行使しているためか速く、丕が俺を見て頷くのを確認すると、俺も動き出した。
 ……篭城するつもりはないのかと訊いてみれば、「突然現れたのなら、それこそ何処に居ようと同じです」と。さらには「ならば守りの構えよりも、攻めの構えです」とも。
 やれやれだ。勝気なところは誰に似たんだか。

「……よし。じゃあ……丕」
「はい?」
「会えるのもこれで最後かもしれない。だから───いい未来を築いてくれ。未来で、待ってる」
「最、後……、───まさかっ! 禅が言っていたことは、今この時の───!?」

 驚く丕の頭を久しぶりに撫でて、擦れ違ってからは早かった。
 兵や将が乱れることなく流れるように外へと駆ける中、俺も、見下ろした拳を力強く握り締め、胸をノックし駆け出した。

「覚悟、完了───!」

 さあ始めよう。
 ずうっと続いた、否定を願った先輩の旅を終わらせる戦いを。
 そして───この歴史を肯定し続ける意志を、貫き通すための戦いを。




 ネタ曝しはラストで。  ラスト2に続きます。 Next Top Back