44/騒がしい日常へのさようなら

 日常。
 何事も続けていけばいつかは慣れてしまうように、難しかったことも、覚えてしまえば簡単なものへと変わることがある。
 慣れていき、それが常となり、過ぎ行く日々の中に“在って当然”のものになると、それはいつしか一つの日常の構築要素へと変わる。
 それは自覚が必要なものではなく、自覚した時にはすでに“そうであること”が大半だ。

「雪蓮っ! そっち!」
「任せて! はぁっ! ───って、わっ、逃げられた! 冥琳!」
「こちらへ追い込め! 罠は仕掛け済みだ!」
「猫一匹捕まえるのに、国王と軍師が出るなんて前代未聞だよなぁもう……! 明命は!?」
「つ、ついさっき、もう一匹を夢中で追って、民家の壁に激突して……その……」
「あぁ……いいよ亞莎……。亞莎が悪いわけじゃないから落ち込まないで……」

 俺もきっと、“そうであること”を自覚したうちの一人。
 最初こそどたばたと、雪蓮に振り回されるままにあちらこちらへと走っていた俺だが、そんなものはいつしか過去になってしまっていた。
 雪蓮が珍しく忙しかったりする時は、俺と思春だけで遠くの町まで行って手伝いをすることなんて、“普通”になっていた。
 三日毎の鍛錬の時は必ず建業で鍛錬をするが、それ以外では親父を手伝ったり一日中を別の町で過ごしたりと、いろいろだった。
 それが俺の“日常”を構築する一部になっていると気づいた頃には、本当にそれは“そうであること”が当然になっていたんだから不思議だ。

「御遣いのあんちゃんだー!」
「あそぼあそぼー!」
「おぉおっととと!? わ、解った解った、解ったから足に抱き付くのはやめてくれっ、倒れるっ!」
「はわわ、すごいです……こんな離れた町なのに、一刀さんを知ってる子供が居るんですね……」
「時間ならいっぱいあるからね、遠出が許された時はいろんな町を回るようにしてるんだ。……でもさすがにこの人数相手はこたえるかも。次来る時は祭さんをなんとか誘ってくるかなぁ……」

 気づけば傍で誰かが笑っている。
 なにをするにも笑顔があって、それは俺一人で動いていても同じだった。町を歩いても笑顔があって、城に戻っても笑顔がある。
 それが嬉しくて俺も笑顔になって、その笑顔がまた笑顔を生む。
 そうした循環が続く日常ってやつの中を駆け抜けて、自分のためと誰かのためを混ぜた意思をもって国に返していく。

「あぁ〜、一刀さ〜ん。今日も倉に来て欲しいんですけど〜」
「じゃあいつも通り、興奮したらハリセン叩き込むから」
「はい〜、なんだか最近は叩かれるのも楽しくなってきたので、うふふふふ喜んで〜……♪」
「……やっぱり縛ろうね」
「えぇええ〜〜〜っ?」

 現状維持が“進まないこと”なら、日常には変化を望むべきなのかもしれないと思ったことがある。
 けれどこの国では毎日でも違うことが起こるため、俺が望む望まないに関わらず、日々変化を続けていた。
 それは人の心だったり笑顔だったり、怒りと悲しみばかりだった民たちが、笑顔と楽しさを自然と出せるようになるといった変化。
 けれど、いつか“お前に何が出来る”と釘を刺してくれた人や、打ち解け切れていない民のみんなは、俺に笑顔なんて向けてくれるはずもなく。変化するところがあれば、変化してくれないところもあるのだと……全ての人に笑顔を望むには、まだまだ時間と努力が必要なんだと痛感した。
 「それらのことはお前だけが背負うものではないと」言ってくれた冥琳に感謝を唱えつつ、俺は俺に出来る方法で民との交流を続けていった。
 殴り合いに繋がることはなくなっても、言い争いになることは何度もあって───その度に落ち込む自分と、自分の力不足に嘆くことなんてしょっちゅうだ。

「亞莎亞莎! これ、俺と明命からのプレゼン───じゃなかった、贈り物! 受け取ってくれ!」
「え……? あ、あのっ? 私、なにかを贈られるような覚えが……」
「亞莎は頑張りすぎですっ。だからこれは、その頑張りが少しでも楽になるようにと一刀様といろいろ苦労して用意したものですっ」
「苦労……?」
「こ、こら明命っ……! ……えーと、それでこれ……眼鏡なんだけど。つけてもらえるかな」
「……ふぅえええええっ!!? どどどうしてっ!? えっ、私、一刀様に眼鏡の大きさを教えた覚えがっ……」
「はいっ、ですから私が、気配を察知されないよう亞莎が眠ってるところに《がばっ!》むぐっ!? むー! むー!」
「ぐぐぐ偶然っ! 偶然だからっ! あー! サイズ合わなかったら困るなー!! わはっ、わははははー!?」

 けれど、現状維持とはいうけど、日々はわりとあっさりと過ぎ、違う一日が来る。
 “自分が何かをしなければいけないいつか”を待っているわけでもなく望んでいるわけでもなく、どうしたって一日は過ぎる。
 一生を同じ状態で過ごせるわけでもなく、維持できる現状なんてものは限られている。それを自分にとってどれだけいい方向に変えていけるかが大事なんだってことを、華琳は言いたかったんだと思う。

「わあっ……見えますっ、すごい見えます!」
「亞莎、亞莎、私のこと見えますかっ? はっきりくっきり見えますかっ?」
「はい見えますっ、はっきりくっきり見えますっ」
「そっかそっか、良かった〜……あ、じゃあ俺の顔は?」
「はい、くっきり見え───《ぐぼんっ!》ひゃぁああぅううあああああっ!!?」
「おわぁっ!? な、なんだ!? え……お、俺の顔、なにかついてるか!? 明命、ちょっと見てくれるかっ!?」
「はいっ、誠心誠意、見させていただきますっ! …………《じーー……》」
「…………《じーーー……》」
「…………はうっ《ポッ》」
「あ、あれ? 明命!? どうして顔を赤くして……って倒れるなぁーーーっ!!」
「すすすすすすいませっ……ここここれは私には過ぎたものでっ……!」
「贈り物をあっさり突き返さないでくれぇえーーーーっ!!」
「でででででもでもでもっ、かかか一刀様がっ、一刀様が輝いてっ……ひやぁあぅうう……《ぷしゅうう…………》」
「倒れるなぁああーーーーーーっ!!」

 見知らぬ場所だった場所がよく知る場所に変わり、遠慮がちだった自分が遠慮の皮を一枚一枚剥いで、自然体を晒してゆく。
 気づけば大声でツッコミ入れてたり怒られたり笑ったり。思えばこんなふうにして自分を曝け出すことが出来るのは、俺の時代では主に及川、この時代では魏の人達しかいなかった。
 住めば都……とでも言うべきなのか、変わったのは周りだけではなく、自分でもあることに苦笑を漏らし、苦笑がやがて素の笑顔に変わる。

「はい麻婆お待ちっ! 親父ー! 青椒肉絲と飯一つずつー!」
「あいよ! ほれっ、餃子あがったぞっ!」
「はいはいはいはいっと!」
「おーい! こっちに酒頼むー!」
「はいよー! ……ほいっ、餃子と取り皿ねっ!」
「ああ一刀、飯追加頼むわ」
「親父ー! 飯追加ー……って自分でやったほうが早いなっ」
「おう! どんどん盛っていけっ!」
「おう! 大盛りで盛って、その分無理矢理金を取るんだなっ!?」
「ばーーかやろっ! 俺ン店でそんなセコい真似したら承知しねぇぞ!」
「はははははっ、解ってる解ってるっ」

 けど、日常が変わってもやること自体はそう変わらない。変わらないけど確かな変化はあって、それは自分を現状維持のままでなんてさせてはくれない。
 手伝うことが上達すれば新しいことを頼まれるように、鍛錬で新しいことを発見すれば、やることもどんどんと変わってくる。
 それは受け容れやすい“変化”であり、自分にとって嬉しい“変化”だった。

「明命、聞いてくれ。俺が住んでいた天……日本には、忍者っていうのが居てな? こう……水の上でもスイーと滑って歩けるんだ」
「すっ……凄いですっ、それは是非一度見てみたいですっ」
「ああ、俺も一度見てみたかった。常々、そんな歩法を見てみたいと……! しかし残念ながら、随分前にそれらの奥義を使える者は居なくなってしまっていてな……」
「あぅあっ!? もったいないですっ、かかか一刀様はっ!? 一刀様はできないのですかっ!? 見てみたいですっ!」
「いや……俺にも無理だ。けど明命なら……明命ならなんとかしてくれるかもしれないと思って、こんなものを作ってみた」
「……? あの、なんでしょう、この……えっと」
「忍者道具の一、水蜘蛛だ。忍はこれを足の底に付け、水の上をスイスイと歩いたと云われている!」
「す、凄いですっ! 一刀様はそんなものまで作り出せたりするんですかっ!?」
「いや、知識的なものをこう、水に浮く素材で繋げてみただけだから過信すると怖いかも───って、あ、こら明命!?」
「一刀様が作ったものならきっと大丈夫です! いえ、絶対に大丈夫ですっ! 川に行きましょう! 実は常々、水の上を歩ければと考えていたんですっ!」
「…………そ、そうかっ! よしっ、出来ると信じればなんだって出来る! 失敗してもそれは教訓となり、成功を目指すための糧となる! 行こう明命! 俺とお前とで、水を制するんだ!」
「はいっ!」

 冗談を言い合える友達、悪ノリも一緒に出来る友達。変化にはいろいろなものが一緒についてきて、俺はそれを笑って受け取った。
 相手にとっての自分も“ついてきたもの”だって思えるなら、それはそんなに難しいことじゃなく。手を伸ばして、伸ばされて。掴んで、掴まれて、そうして繋いだ絆の暖かさが一人一人の笑顔に繋がるなら、心の底から“受け取ってよかった”と思える。

「……? 一刀、今日も川で汗を流すの? その……必要なら言ってくれれば、毎日は無理だけど風呂の準備くらい───」
「ああっとと、蓮華か、ごめんちょっと急いでるんだっ! 風呂のことはありがとうだけど無茶は言えないし、これは勇者の体を拭くためのタオルだから気にしないでっ! それじゃっ!」
「あ、一刀っ? …………勇者?」

 そう。日常なんて“そんなもの”だ。
 いろんな物事が一分一秒を埋めていって、一時間が過ぎて十時間が過ぎて、やがて一日が終わる。
 起きて寝て学校行って勉強して帰って風呂に入って寝て。それを繰り返していたあの頃に比べれば、今なんて変化続きで逆に疲れるくらいだ。疲れすぎて毎日が大変だ〜とか、前の自分だった言っただろう。
 それでも今の方が充実しているって思えるんだから、まったく何が大変なのか。自分の考え方が根本から可笑しくなって、笑うこともあった。
 ……突然笑ったことで、雪蓮に華佗に診てもらうようにって本気で心配されたけど。

「そんな理由で俺は呼ばれたのか……。健康体そのものだ、治すところなんてなにもないぞ」
「だよなぁ……───っと、そういえば華佗。ひとつ訊いてみたいことがあったんだけど……ゴットヴェイドォーって五斗米道って書くんだよな。どうして“ヴェイ”なんだろうな」
「その方が格好いいからだ《きっぱり》」
「…………なんかこう……熱いなっ」
「ああっ! 熱いともっ! ……しかし北郷、お前は不思議な氣を持っているな。以前に診察した時は微弱すぎて解らなかったが、俺はお前が持つような氣を見たことがない」
「へぇ……そうなのか?」
「治癒にも長け、身体強化にも使える臨機応変型と言えばいいのか……? 氣というのは大体、治癒か強化かのどちらかに分かれているものだが……お前の氣は普通とは違う。まるで……そうだな。お前の中に二つの氣が存在し、重なり合っているように感じる」
「二つの氣?」
「ああ。さっきも言ったように、氣には大きく分けて二つの種類がある。穏やかで争いを好まない、あ〜……割り切って言えば、治癒や防御面に長けた氣。荒々しく、強化や攻撃面に長けた氣だ。お前にはその二つが一緒になって存在している───気がする」
「気がするだけなの!? …………あ、あー……でも心当たりがあるかも……。俺、天では凡人で、ここでは天の御遣いとして謎の力発揮してるし。……そっか、傷の治りが速かったり、無駄に頑丈になった気がするのはそれの所為だったのか。あ、そ、それでさ。華琳の性格から考えると、御遣いとしての俺の氣が攻撃タイプなんだろうか……」
「? よく解らないが、とにかくお前の氣はとても珍しい。さすがは天の御遣いと言ったところか……どうだろう北郷。その氣、その熱い意思、医術のために役立ててみないか!?《クワッ!》」
「……ごめん。人を救うっていう素晴らしい提案なのは解ってるけど、俺にも俺のやりたいことがある。いつか……そうだな。じっくり腰を下ろせるようになったら、その時に遠慮無しに教えてくれるか?」
「そうか。だがな、北郷。病魔はいつ、何処で姿を現すか解らない。あの時に学んでおけばといつか後悔することもあるだろう。それでもお前は選択を曲げないか?」
「その時は華佗に頼むよ」
「遠方に居たら、間に合わないかもしれないぞ?」
「ははっ、その時は俺が、氣を枯らしてでも間に合うように保たせるよ。誰も死なせないんだろ? 間に合うよ、絶対に」
「……そうだな。北郷、いや一刀。お前がお前のしたいことを為し遂げるまで、俺はお前を待っていよう。俺は俺の為すべきことを全力で為し遂げる。そして俺達二人が腰を落ち着けられると判断した時。俺とお前で、“病の無い国”を作ろうじゃないかっ」
「お…………おぉおおおっ! 熱いなっ! 夢が熱いっ!」
「ああっ! 熱いともっ!! この熱さを鍼に込め、俺は人々の体に巣食う病魔を滅し続ける! 三国に住まう人々よ! 大陸全土、生きとし生ける全ての者よ! 俺は誰も死なせない! この鍼に誓い! 我が意思に誓い! 我が師、我が身に伝承された技に誓い! この世の全ての者よ! げ・ん・き・にっ……なぁああああれぇえええええええっ!!!!」

 叫ぶ華佗に、「お前の元気を周りに分けることが出来るなら、病人なんて居なくなる」って言ったのも今は過去。
 振り返ってみれば全てのものが過去となり、目の前にある未来は……呉へ向けるさようならだけだった。 


───……。


 ぐしゅり……ぐすっ……ぐしゅり……

「うぉおお〜〜〜おぉおお……一刀ぉお……一刀ぉおお……! 本当に行っちまうのかよぉおお……! お〜〜いおいおい……!」
「お、親父ぃ……みっともないからそんなに泣くなって……。というかおーいおいおいなんて泣かないでくれ、頼むから」
「みっともねぇたぁなんだ一刀っ! 俺ぁあ……俺ぁよぉ! おめぇが居なくなっちまうことが悲しくて泣いてんだぞぉ!?」

 目の前でオヤジの大群が泣いてくれていた。なんだかんだで付き合いの長い建業の男たちは、泣いたり意味もなく怒ったり、何故か説教してきたりといろいろだ。
 そんな理不尽を真正面から受け取っても、頬が緩んでしまうのは……きちんと自分はこの国で、誰かの役に立てたって実感を持てたからなのだろう。

「一刀……またいつでもこの町に来るのよ? 貴方は私達の息子なんですから」
「お袋……」
「そうだ一刀っ! 次に来た時にゃあ俺の料理の技を教えてやる! そんでもって誰かいい嫁さんでも見つけて俺の店を継───」
「なに言ってんだいっ、一刀はあたしの饅頭屋を継ぐんだよっ!」
「え、えーと……」

 そう……今日は呉を離れる日。とうとうと言うべきか、朱里と雛里が蜀へと帰る日が来たのだ。
 もちろん以前言った通り、俺もそれに同行する形で呉を離れ、蜀へと向かうことになっている。
 みんな、送別会のようなものをしようと提案してくれたが、これは俺が遠慮させてもらった。そんなことをしてしまったら、余計に離れたくなくなってしまう。

「あ〜……みんな、ごめん。そろそろ城に戻らないと……」
「《ぶわっ!》かっ……一刀ぉおおお〜〜〜ほほほぉおおぅうう……!!」
「おっ、親父っ!? さっきまでお袋と怒鳴り合ってただろっ!? どうしてそこまで一気に涙流せるんだよ!」
「絶対、絶対にまた来いよ!? おめぇは俺の……俺達の息子なんだからなっ!? そんでおめぇっ、もしお邪魔しに来たよ〜とかぬかしたらただじゃおかねぇぞ!」
「───……ははっ……ああっ、解ってる。次来る時は“ただいま”だろっ?」
「……おうっ、それでいいっ! そんじゃあ行ってこいっ!」

 背中をバシンッと叩かれる。その痛みの分だけ、俺は親父の言葉を胸に刻み込んで……笑顔で返す。

「ああ。行ってきます」

 他の町での挨拶はもう済ませてある。建業を最後にしたのは、ここが一番お世話になった場所だから……だけではなく、恐らく一番時間がかかると思ったからだ。
 実際にいろんな人が集まって、腕を引っ張られて抱き締められたり胸をノックされたり、背中をバシバシ叩かれたり号泣されたり、かと思えば泣きながらフェイスロックされたりやっぱり泣かれたりと、他の町とは比べ物にならないくらいに別れを惜しまれた。
 ……本当に、居心地がいい。今誘われれば、ころりと“残る”って言ってしまいそうだった。それは自分が許可できないと知りながらも。


───……。


 ……波の音が聞こえ《グワァシィ!!》

「ギャーーーッ!?」
「北郷ぉ! 頭を頼むぜ!?」
「俺達もついていきてぇが、さすがにこの人数で押しかけるわけにもいかねぇ……俺達はここで姐さんを待ってるからよ」
「それは解ってるけど、どうしてみんなフェイスロックしてくるんだよ!」
「ふぇいすろ? なんだそりゃあ」

 波の音が聞こえる。
 海兵のみんなが今日も駆け回る港(?)で、俺は……挨拶中にフェイスロックをくらっていた。
 沈められそうになること数十回、ようやく仲良くなれたみんなとも今日でお別れだ。

「もしも向こうで冷遇なんかしてみやがれ、何処までも追いすがって今度こそ沈だ!」
「しないしないっ、何処に行ったって変わるわけないだろっ!?」
「そりゃなんだ!? 何処でも冷遇されてるってのかっ!?」
「どうして悪い方向にばっかり捉えるんだぁーーーっ!! そうじゃなくて、何処でだって大切な人(友達として)をぞんざいに扱ったりしないって、そう言ってるんだ!」
「《ガァアーーーン!!》……たっ…………大、切……な……!?」
「て、てめぇ本気か!? 俺達の頭を───!」
「え? ……本気だ!」

 急に迫力が変わったと思うや、本気顔でズズイと詰め寄ってくる海兵の皆様。俺の顔を両手で固定して、真っ直ぐに俺の目を覗きこんできていた。
 俺はそれに応えるように確固たる意思を以って、いっそ睨むように見つめ返す。

「……だったら北郷! てめぇの本気を見せてみやがれ! 俺を倒したら、頭のことはてめぇに任せる!」
「いいや、試すのは俺だ! 俺を倒したら頭を!」
「ふざけんな試すのは俺だ!」
「順番くらい守りやがれ! 俺が先だ!」
「え? い、いやあの……試すって、どうしてこんな話に……?」
『うるせーーっ! 問答無用だっ!!』
「うぇえっ!? ちょ、全員では卑怯じゃキャーーーッ!!?」

 ……何処の頑固親父たちだったんだろう。まるで娘を託す相手に喧嘩を売るかのように、海兵のみんなは俺に襲いかかった。
 もちろんって言っていいのか、俺はそれを真っ直ぐに受け止め……ずに避けまくる。さすがに以前乱闘騒ぎや刺傷騒ぎが起こったのに、懲りずに殴るのはまずい。
 みんなも途中でそれに気づいたのか、拳は振るわずに締め技でかかってきた。それでも十分に危険な香りがするものの、血が出るわけでも死ぬわけでもない。気づけばソレは子供同士がやるようなプロレスごっこへと変わり……

「……まあその、よ。悪くなかったぜ、てめぇがここに居た時間」
「《ギウウミキミキ……!!》ごおおおおお……!!」

 裸締め的なことをされつつも感傷に浸られ、本気で光の扉を開けそうになりつつも、笑って見送られた。
 思春は終始その様子を見守って、溜め息を吐くでもなく怒るでもなく、言葉を交わすこともなく……やがて俺と一緒にその場を離れた。
 背中に「行ってらっしゃいやせぇえっ!」と熱い声をかけられてもそれは変わらず、だけど……どこか苦笑にも似たものを一度だけこぼすと、俺を睨んで先へ進むことを促した。


───……。


 辿り着いた兵舎では、兵たちがざわざわとざわめき、俺が入ってくるや……あー……まあその、町でのことと似た感じになった。

「北郷っ、今日帰るって本当だったのかっ!?」
「水臭いぞ北郷、どうして言ってくれなかったんだ!」
「えぇっ!? 言っただろ俺!」
「ああ聞いた! 聞いたが聞こえないふりをした!」
「オォオオイ!!? どうしてそれで俺が責められるんだよ!」

 笑いが溢れる。
 最初こそ警戒されまくりだった関係も、一人と仲良くなった途端に砕け、噂が広まって仲良くなった。
 天の御遣いにして魏の警備隊長〜なんて肩書きはあるものの、話し合ってみればなんのことはない普通の存在。
 砕けた話方や付き合い方に安心を抱いたのか、こうして肩を組んで笑い合うのもそう時間を要さなかった。

「そっかぁ……本当に帰るのかぁ……」
「しかし、これが天の御遣いって……未だに信じられないよ俺」
「“これ”とか言わないでくれ……頼むから」
「いやいや、けど一緒に居て楽って気持ちは解るかなってさ。あーほら、お前って自国……魏でもこんな感じで一介の兵とも話してるんだろ?」
「将や警備隊長の肩書きの手前、あまり砕けてくれないけどね。お前らみたいに気安くしてほしいな〜とは思うけど、慕ってくれるのも嬉しいからなんというかこう、むず痒い」
「なるほどなぁ……ん、まあいいや。どうせいろんなところで散々言われただろうけど、俺達も言うな。……絶対にまた来いよ?」
「ああ、約束する。警備隊長って身で、どれだけ休みが取れるかなんて解らないけどさ。許可が下りればすぐにでも飛んでくる」
「……よしっ、それで十分だっ。じゃあここらで、久しぶりにアレな話でも」

 俺と肩を組んでいた兵が、ニヤリと笑って言う。アレっていうのはまあなんだ、アレだ。男が集まるとどうしても出る、アレ。

「そろそろ北郷の魏でのこと、教えてくれてもいいんじゃないか? 誰か好きな相手とか居なかったのか? というかほら、魏の将と燃えるような恋をしてたって噂を聞いたんだが……」
「あ、それ俺も聞いた! ……も、もうそのー……シ、シシシッシ……シ、シたのか?」
「いや、けど最近はこの国の将とのこともいろいろ噂を聞いてるぞ?」
「ああ。尚香様が特にご執心だとか……あ、興覇様も北郷の近くにしょっちゅう居るとか……もしかして北郷が好きなんじゃないか〜って噂してたんだ」
「あれ? でもそれってアレだろ? 庶人扱いになった上に北郷の下につけられたからで───」
「そうだけどさ。あの甘将軍だぞ? 嫌なら嫌って言うんじゃないか?」
「あ……それもそうだよな。じゃあ……」

 話が勝手に弾んでゆく。
 もう俺が声をかけるまでもなくワヤワヤと賑やかになっている兵舎は、笑顔の生産工場のようになっていた。
 そこに、真実という名の爆弾を投下してみる。

「……どうでもいいけどさ。さっきからそこに思春が居るんだけど」
『へ?』

 ちらりと兵達の視線が動き……その先に、冷たい冷たい視線と殺気を放つ興覇様。

「《ギンッ!!》……もう一度言ってみろ貴様ら。私が北郷に……なんだと?」
『…………しっ……ししし失礼しましたァアーーーーーーッ!!!』
「だめだ許さん」
『助けてぇえええーーーーーーーーーーっ!!!!』

 殺気を込めて、ジリジリと追うだけでも物凄いプレッシャーだ。
 さすがに取って食うようなことはしないし、追うだけなんだが……兵のみんなはもう涙目で逃げ回っている。
 そんな光景に思わず声を出して笑ってしまい、いつから他国でもこんなふうに笑えるようになったのかを考えてみて、すぐにそれを無駄な考えだと断じて捨てた。
 いつから、なんてどうでもいい。今こうして笑えているんだから、それだけ自分にとっての呉って国の見方が変わったってことだ。
 それは喜ぶべきことであり、喜んでいるからこうして笑える。そんな嬉しさや光景を決して忘れないと胸に誓って、歩き出す。
 すぐに背中に「絶対にまた来いよー!」とか「来なかったらこっちから会いに行くからなー!」という声が聞こえてくる。……恐怖に怯えた声に混じってだけど。

「思春、そろそろ行こう。きっとみんな待ってる」
「……フン、命を拾ったな、貴様ら」
『ヒィッ!? いっ……行ってらっしゃいませ、興覇様ッ!!』

 庶人扱いなのにこの調子。
 そりゃそうか、相手の位が下がったところで、その人から漏れる覇気が低くなるわけでもない。むしろあの殺気は、自分に向けられればヒィと叫べる自信があるものだ。情けないけど。
 そんな考えにまた笑みをこぼしながら、兵舎をあとにする。
 ……さて、次は……


───……。


 玉座の間に来ると、ピンと張った冷たい緊張が俺を襲った。何故こんなにも冷たいと感じるのか……と視線を動かした途端に、雪蓮と目が合う。

「あ、来た来た。一刀、中庭に行くわよっ」
「へ? な、中庭に? なんでまた《グイッ!》うわっと!?」

 目が合うや、玉座から飛び降りるように下りてきた雪蓮が、勢いのままに走ってきて俺の手を引く。

「え? いやなになになんなんだっ!? 俺なにかしたか!? それともこんな時まで町の緊急事態に走るのかっ!? 今度はなんだ!? また茘枝(らいち)か!?」
「んー? 違う違う、一刀、帰る前に一度私と思いっきり戦わない?」
「……へ? って、ここで訊いてくるっておかしくないか!? 今こうして思いっきり引っ張ってるのは、むしろそうするって決めてるからだろ!?」
「うん」

 あっさり頷かれた!?

「平気よ、ちゃんと摸擬刀で戦うし、勢い余って足の骨とか折って滞在期間を延ばすなんてこと───……………………ふむ」
「ふむじゃないっ!! 自分の思い付きを名案みたいにして頷くなよ頼むから!」
「いーからいーから。ほら一刀、走って走って」
「いやっ、ちょ、待っ……! 止めっ……みんな止めてぇええええええっ!!」

 玉座の間に居たみんなに声というか悲鳴をかけるも、みんな諦めたような顔をして俺を見送りました。
 俺が行く前の玉座の間でいったい何があったのか……それを知ることもなく、中庭へと引きずり込まれた。……引きずり込まれたって言うのか? この場合。

「ほら一刀っ、木刀木刀っ」
「な、なんでそんなに元気なんだよ……」

 少し離れた位置で、どこからいつの間に出したのか……模擬刀をぶんぶんと振るっている雪蓮を見る。
 俺はといえば……どうしてか思春が突き出しているバッグを受け取ると、そこに重ねられている竹刀袋から木刀を抜き取り、バッグを置いて構える。
 ……構えて、どうしてこんなことになったのかを考えてみても、答えが舞い降りてきやしない。

「なぁ雪蓮、急にどうしたんだ? もしかして送別会させてもらえない腹癒せか?」

 ……あ、いや、そういうのは理由をつけて酒を呑めないことに怒った祭さんあたりの仕事か。

「ほら、以前一刀と手合わせしたのって、みんなと戦った後。つまり私が一番最後だったじゃない? 一刀ったらへとへとだったし、勝てても面白くもなかったし。だから今ここで、帰っちゃう前にって。ああ大丈夫、みんなにはしばらくしてから来るように言ってあるから、邪魔は入らないわ」
「……旅立つ前に汗だくになれっていうのか」
「うんそう♪」

 とてもとても輝かしい笑顔でした。そんな笑顔を見て、「ああもう」と頭をワシワシと掻くと、木刀を構える。

「一刀?」
「解った、やるよ。俺も引かれる後ろ髪は無い方が歩きやすい」

 言うや、戦闘意識を研ぎ澄ませる。多対一の意識を一対一、一騎打ちの意識へと。氣を練り、木刀に纏わせ、さらに全身の関節にも集中させて。

「いい? 最初から本気よ? 手を抜いたりしたら本当に足の骨くらいもらっちゃうから」
「───……。解った。じゃあ、俺も《キィイイ……ン》」

 雪蓮の言葉に、さらに集中力が増す。
 殴っていいのは殴られる覚悟がある者だけ。ならば、足の骨をもらう覚悟に対しても、相手の足を砕くほどの覚悟を。……そうだ、手加減なんてしない。そんなものをして勝てる相手なら、あの乱世を生き残れるはずもなし。

「……う、うわー……一刀、目が凄く怖いかも」
「……本気で。行くぞ?」
「ん、いつでも。それを合図にするか───」
「シッ!《ダンッ!!》」
「───らっ、て、わわっ!?」

 了承を得た刹那に地面を蹴り弾いて前へ。一気に間合いを詰めて、撃を振るうが───これを即座に弾かれる。

「もう、一刀っ!? 急にはびっくりするじゃないっ!」
「いつでも、って言ったのは雪蓮だろっ」

 弾く勢いを利用してのステップ。距離を取りながらの言葉に言葉で返しながら再び間合いを詰め、連ねること三閃。それらを雪蓮は鋭い目つきで、しかし口元で笑いながら弾いてゆく。

「うん、速い速いっ、これなら十分武将としてもやっていけそうじゃないっ♪」
「まだまだだっ、結局祭さんにだって、まだ一度も勝ててないんだからなっ!」

 そもそも武将になるつもりなんてない。せっかく平和になったんだ、出来れば戦のない世を願いたい。
 しかしそのことと己を高めることとは別だ。国に返すため、守ってくれた人をいつかは守るため、まだまだ自分を高めたい。

「そこっ!」
「《ヒュバァッ!》ウヒャアイ!? こ、こら雪蓮っ! 摸擬刀っていったって突きは危ないだろっ!」
「ふふー、大丈夫♪ 一刀なら避けられるって信じてたからっ」
「それって俺が避けられなければとっても痛くて、しかも無駄に信頼裏切ったことになるだけだよね!? 踏んだり蹴ったりだよ俺だけが!!」

 あーだこーだと叫びながらも、俺が振るえば雪蓮は弾き、雪蓮が振るえば俺は避けた。本当に、この時代の人は避けることよりも受け止め、弾き返すことが好きらしい。
 幾度も木刀を振るっても弾かれ、振るわれても避けをして、動きっぱなしで一分二分と過ぎても、戦い方はまるで変わらない。雪蓮は疲れた様子も見せずに模擬刀を振るい、俺もまた木刀を振るい続けた。

「一刀一刀っ、もっと、もっと本気で!」
「無茶言うなよっ! これでも結構頑張ってるぞ俺っ!」

 疲れはまだ沸いてこない。筋肉はじっくりと時間をかけて、持久力のあるものとして仕上げた。下手をすれば一日中走ったり木刀を振るったりの日々のお陰で、多少の無茶は利く。
 けれどそこから無理矢理力を引き出せっていうのはさすがに無茶がある。確かに本当の本気ってわけじゃないが、それをすればどっちも怪我で済めばいいほうだ。
 ……いや、むしろ傷つくのは俺だけでは? なにせ相手は雪蓮だ。

「嘘。祭から勝ちを取りに行こうとする一刀の動き、こんなものじゃあなかったもん」
「見てたのか!?」
「うん。だからほら、本気本気っ」
「ぐっ……」

 あっさり見破られていた……いいや、確かにここでまごまごしていても終わらない。だったらいっそ本気で……それこそ、相手の足の骨の一本でも貰うつもりで───!!

「───っ《ドンッ!!》いくぞ雪蓮! 待った無しだ!」

 後ろにステップして、言葉を発すると同時に左手で自分の胸を殴りつける。覚悟を刻むために、本気で応えるために。
 覚悟っていうのは、何かを“始める前”よりも“やっている途中”で刻んだほうがいい。……いや、何度でも刻んで、決めて、強くしていくものだ。
 やる前から“こうである”と決めたものなんて、きっと長くは続いてくれない。相手が完全に自分が思い描いた通りに動くのならそのままでもいい。けれど、戦局っていうのはいつも予想の裏へと運ばれる。
 決めるなら最中。そして、何度でもだ。刻んだ数だけ強くなると信じて、強く強く自分を奮い立たせる……それが覚悟だ!

「───」

 にこー、とさっきまで笑っていた顔が、真剣さを含めた笑みに変わる。まるで、獲物を前にした獣だ。
 そんな彼女へと真っ直ぐに疾駆し、勢いと体重を乗せた突きを放つ。

「ふっ!《がぎぃんっ!!》」

 が、それを横薙ぎで乱暴に弾かれる。俺の腕は弾かれた方向へと……右腕ごと持っていかれ、衝撃で離してしまった左腕にも痺れが残るくらいの強打に冷や汗を垂らす。
 こんなのまともに食らったら、それこそ骨の一本くらい簡単に持っていかれそうだ……けど。すぐに構え直して一閃を放とうとする雪蓮とは逆に、俺は弾かれた方向へと勢いに逆らわずに飛び、雪蓮の攻撃を躱す。
 脱力っていうのはここぞという時に武器を落としやすいのが難点だろうけど、“逆らわない利点”っていうのがきちんと存在する。
 当然こんなこと、いつでも成功させられるようなものじゃないし、逆らわなかった所為でボコボコっていうことも十分ある。というかありすぎて、祭さんに何度叩きのめされたことか。

「へー、器用な避け方するのねー。与えられた勢いに逆らわないなんて、面白いかも」
「基礎は過去に、昇華は未来に。知識でしか知らないことも、出来るようになれればきちんと武器になる。こう出来ればいいなって理想も、形に出来れば業になる。……氣が使えるようになったお陰で、俺の見る世界は広がったよ。多少の無茶もしたくなる」

 話しながらも攻防は続く。
 避けて攻撃、弾かれて避けて。その繰り返しをしつつも、お互いがいつでも“一撃”を狙っている。本当に殺すわけじゃない、この戦いを終わらせるって意味での“必殺”を、ずっと。

「無茶って言ってるけど、《ゴギィンッ!》わわっ!? 〜〜っ……随分軽く避けてくれたじゃ───ないっ!」
「《ヒュフォンッ!》っと……! 顔に焦りを見せないのもっ……相手の動揺を引き出す手段だろ!? ……っはは……じ、実は今も心臓バクバクいってる」
「あははっ、それを私に言ったら意味がないじゃない」

 笑いながら武器を振るわれる。それを避けようとすると、雪蓮は武器を振るいながら前に出るなんて器用な真似をして、“避けられる距離”を無理矢理狭めてきた。前に出ながら武器を振るうなら解るけど、振るいながら前にって……順序が滅茶苦茶だ。
 攻撃範囲には多少の差しか出ないが、その多少を見切って避けるのが“避け”という動作。思いがけない距離がプラスされ、刃引きされた雪蓮が持つ剣が俺の右腕目掛けて───だめだ、普通に振るったんじゃ間に合わな《ゴギッ……!!》っ……───!

「いっ……───か、っ……!」
「あ。当たっ《ゴギィンッ!!》たわっ!?」

 右腕……二の腕に鈍い痛みが走る中、左手に持ち変えた木刀で一閃。簡単に受け止められたが、距離を稼ぐきっかけにはなった。

「おっどろいたー。一撃受けてもすぐに返せるなんて。祭とどんな鍛錬してたの?」
「スパルタ。意味が通じないとしても、それ以上は教えてやらない……っつーか痛っ……! ほんと遠慮無しにやっただろ雪蓮……!」

 話すうちに右腕は痺れきって、もはや満足に動いてくれなくなっていた。ううむ、これは困った、やられ放題のフラグが立ってしまった。避けは成功すればノーダメージで済むけど、食らわされると無防備になるから辛い。
 氣を集中させて右腕を癒す……いや、無理だから。いくら治癒や防御に長けてる氣があるからって、そんなすぐに癒えないから。ゲームとかだったら1ターンでシャラ〜ンって感じだろうけど、悲しいけどこれ、現実なんだ。

「……腕、上がらない? じゃあもうやめる?」
「雪蓮……冗談はやめてくれ。目がやめるって言ってないぞ? むしろそれくらいでやめるな〜って言いたげだ」
「……えへー《にこー》」

 何も言わなくても解ってくれたのが嬉しいのか、雪蓮はにこーと笑う。俺はそんな笑みを悪魔の笑みのように受け取りながら、木刀を左手だけで構える。
 困ったことに本当に右腕が動かない。……お、折れてないよな? 折れて、今は痺れてるから痛覚がないとか……そんなことないよな?
 ほ〜らちゃんと関節もしっかり〜…………折れてらっしゃるぅううーーーーーーっ!!!

「うわっ! なんかぷらぷらしてる! 折れっ……オォオーーーーーーッ!!?」

 い、いや落ち着け! だったら気合いでなんとかする! 痛みが浮上するより早く、腕じゃなく折れた骨にこそ氣を通して……木刀を強化する要領で、しっかりと固める!

「《ぐぐっ……》……よし! 動かないけどぷらぷらは無くなった!」
「うーわ……無茶するわね、一刀……。氣でくっつけたの?」
「いや、添え木代わり。ぷらぷらしてたら内部で折れた骨が刺さるかもしれないから。それよりも……続きだ!」

 再度、左手で木刀を構える。雪蓮は少し“失敗したかなー”って顔をするけど、きちんと構え直してくれた。右腕を折ってしまったことで、楽しめる戦いが楽しめなくなることに落胆しているのかもしれない。
 たしかに両手持ちではなくなったために一撃の重みは確実に減ったが……右手ほどじゃないが、左手での鍛錬もやってきた。本当に、右手に比べれば粗末なものだろうが……それでも踏み込む足も振るう手もあるのなら、諦めるのはもったいないだろう。
 だから……威力の分は速度で。無茶をするなら痛みがないうちだ。

「いくぞ雪蓮!」
「左一本で戦える? 本当に?」
「そーいう問答は野暮ってもんだろっ───せいっ!!」

 意識を集中。
 氣で攻撃を加速させ、雪蓮の胴目掛けて容赦一切無しに木刀を振るう。
 それは確実に虚を突いた攻撃だった───はずなのに、勘で弾かれたというべきなのか。そこに来るだろうと踏んでいたかのように構えられた模擬刀に、一閃は弾かれてしまった。

「あ、あはは……っ……今のは危なかった《ギィンッ!》わぁっ!?」
「不安の通り、余裕はないからなっ……一気に行かせてもらうぞ!」

 危なかったもなにもない。しっかりと受け止めておいてよく言う。
 左手一本なために速度も乗り切らないが、それでも一撃一撃を確実に振るってゆく。
 その全てを弾かれたことにはさすがに驚きを隠せないが、今のところは反撃の全ても“攻撃”になるより早く潰している。……代わりにこちらも攻撃ではなく攻撃潰しにしかなっていないわけだが───

「はっ! ふっ! せいっ!」
「《ギギィンッ!!》よっ、とっ、《ガィンッ!!》〜〜……♪」

 速度を増し、雪蓮の攻撃を抑えたらすかさず攻撃。その繰り返しをしていると、自分が多少でも押されたことが嬉しいのか、雪蓮の顔が緩んでいく。
 なのに目の奥は鋭いままで、変わらずに“一撃”を狙っていることが伺い知れた。……油断はするな、したら今度こそ終わる。

「〜〜〜っ」

 こちらは割りと必死だが、雪蓮は笑う余裕がある───そのことに軽い悔しさを覚える。当然といえば当然なのかもしれないが、それを理由に笑って済ませることはもうやめた。だから悔しい。
 振り下ろし、横薙ぎ一閃、突き、そのどれもを弾き、緩い攻撃……フェイント用の攻撃を仕掛けようとすれば、それが餌になるより先に強打で返され、バランスを崩したところへ追撃がくる。
 さすがに強い……! 強いけど……

(チャンスは多分、一度きり……だよな)

 こちらの攻撃を“確実に受け止める”なら、考えがある。
 動かない右腕は氣で固定してあるから、力を溜めるつっかえ棒にはなる。これを利用して、あとは……出来るだけ、雪蓮の隙が多い攻撃を狙う。

(俺に出来ることなんて、最初っから決まってる)

 知らないことを教えてもらい、教わったものからやるべきことを見いだす。それは仕事であれ鍛錬であれ変わらない。
 凪から教わった氣に、祭さんに教わった扱い方に応用を利かせることができたように、今この状況さえも頭に叩き込み、己を一歩先に進ませるための糧とする。
 俺が今、雪蓮から教わっているのは……“彼女の戦い方の全て”だ。俺はこれを知ることで彼女の癖を頭に叩き込み、ある一定の行動から次にどう出るかを刻んでゆく。
 こう構えればこう来て、こう怯めばこう来る……そういったものを覚え、攻撃を誘い、次に次にと備え───!

(っ───ここっ!)

 払うように下から上へと斜に振られる剣を紙一重で避けた───直後、振り上げられた剣が即座に戻り、紙一重で避けた状態の俺を狙い打つ!
 しかしこれはすでに予測済みだ……体勢は悪いが、来ると解っているのなら避けるための体勢の良さを多少残しておくくらいわけはない。

「《ルフィィンッ!!》っ───」

 耳鳴りのようにも聞こえる風を斬る音を、すぐ傍で聞きながら避ける。雪蓮は驚いた顔をするがそれも一瞬。すぐに突きを放ち、隙を殺しにくるが───俺は身を捻ることでこれも避け……いや、背中を掠ったようだけどなんとか避け、捻ることで溜めた勢いを存分に利用し、固まったままの右腕に当てた木刀を滑らせるようにして───居合いの要領で一気に放つ!!

  ルォフィィインッ!!!

 ───全力で振るった木刀が、空気を裂く。
 以前蓮華の前でも見せた即興居合いだが、氣で加速されたそれは空中の葉も両断する。
 本気で当てれば相当に危険なものだが、これくらい本気を見せなければ雪蓮は納得しないだろう。
 ……なんて思ってた自分へ一言を。大馬鹿野郎め。

「っ……ん、な……!?」

 理解出来なかった、というのが正直な感想。
 これも“勘”だ〜なんて言うなら、ゴッドはいったい彼女にどれだけのギフトをくださったのか。
 雪蓮は今まで“受け止めてきていた”俺の攻撃を避けてみせ、振り切られた俺の腕の下で鋭く笑ってみせたのだ。
 瞬間、感じたのは寒気か。
 今まで余裕があった目からは甘さのようなものが消え、蒼い瞳の奥の猫科動物のような縦に長い瞳孔は、目一杯ギュッと引き絞られ、猫の目から虎の目へと豹変していた。
 ……それを見てしまったら、感じたのは寒気でもなんでもない、恐怖だという確信を得てしまった。

「───!」

 恥もなにもない。自分で振るった腕の勢いに任せるように後ろに飛ぶと、綺麗に体勢を立て直すのも出来ないままに乱暴に距離を取って雪蓮を見る。
 言える言葉があるのなら、「なんてこった」だ。というか出た。言った。普通に口からなんてこったって出た。
 雪蓮のやつ、今まで全然“本気”じゃあなかった。骨を貰うつもりとはいったけど、殺す気でなんて言ってない。つまり今感じている殺気めいたものが本気の合図であり、雪蓮が“戦う”と決めたって意味でもあり───

「《ぶるっ……》……う、わぁ……」

 足、震えてる。
 考えてみれば、ここまで真正面に殺気をぶつけられたのなんて初めてかも。それも覇気と一緒にだ、震えたくもなる。
 下手をすれば死ぬ? むしろ殺される? ……簡単に自分がやられるイメージが出来て、泣きたくなった。

「……《ぐっ》」

 それでも構えることはやめなかった。
 あの一撃が雪蓮の心に火をつけたのかは解らないが、つけたほうにも責任があるだろうし───……っ!?
 ……思考へと意識を軽くずらした途端だった。目の前には姿勢を低くして疾駆してきた雪蓮が居て、俺目掛けて模擬刀が───大丈夫、受け止められる!

「《ゴギャアンッ!!》へっ───!?」

 乱暴なまでに思いきり振るわれた一撃を木刀で受け止める……いや、受け止めたはずだったんだが、俺の足は……地面を踏みしめちゃいなかった。
 じょ、冗談……だろ? 威力は殺したのに、しっかりと構えていたっていうのに飛ばされるなんて、いったいどんな力で剣を振るえばこんなっ……!

(───ヤバイ)

 浮いた足が地面に触れた途端、後ろに下がって距離を───取れない!? もう目の前まで……!

「うっ、あ、だわっ!? くあっ!」

 振るわれる連撃を木刀で逸らしてゆく。
 恐ろしいことに、速度や威力が先ほどの比ではなく、目が慣れていないのに避けるなんてこと、出来そうになかった。
 だから逸らしているんだが、一撃で男を宙に浮かすような攻撃だ、逸らすだけでも左腕が痺れてゆく。
 これ以上は危険だと判断して降参を口にしても、雪蓮は止まらない。まるでスイッチが切り替わったかのように、冷たさと興奮を混ぜ合わせたような目で俺を睨み、攻撃を連ねてきた。

「《ヂッ!》つあっ!? しぇ、雪蓮!? 待……雪蓮! 顔を狙うのはさすがに───雪蓮!?」
「───」

 雪蓮の虎の瞳孔が、撃を連ねるごとに鋭く鋭く細ってゆく。その度に力は増し、速度は増し、それがやがて最高潮に達したかと思うや、俺の手からは木刀が弾かれてしまっていた。
 それで終わる……と思うのは甘い。雪蓮の目は鋭いままで、木刀を弾いた摸擬刀はすぐに戻され、改めて俺を攻撃しようと振るわれる。

「このっ───!」

 これじゃあ戦闘狂だ。
 舌打ちでもしたくなるような状況の中で、武器が俺を砕くより先に左手を伸ばし、雪蓮の肘に掌底を割りと本気で放つ!

「《ドッ!》っ───!」

 途端に腕がピンと伸び、発生する瞬間的な痺れによって雪蓮が模擬刀を落とした。

「はっ……こ、これで───《ガッ!》───っ!?」

 それで終わったと思ったのに、雪蓮は俺を……蜘蛛が獲物を捕まえるようにがしりと掴むと、戸惑う俺の反応を楽しむでもなく───

「雪蓮!? 急になにを《ゴリィッ!》いっ───!?」

 ……あろうことか、俺の首筋に歯を突き立てた。

「しぇ……れん……!?」

 寒気がする。ひやりとしたものではなく、じくじくと足下から這い上がってくるような寒気が。
 突き立てられた歯のうちの二つ、犬歯が容易く皮膚を破り、ブツッ……という嫌な音を立てて血が出ることを促す。
 そんな状況になっても歯はさらにさらにと深く沈み、背中に回された雪蓮の手が俺の背を掻き毟る。

「………」

 熱い。穿たれた首筋も、私服を破られるほど掻き毟られた背中もだが、なにより雪蓮の体が。
 恐ろしい、という言葉が一番似合うくらいの寒気の中で、俺を捕らえて離さない雪蓮の体は異常ともとれるほどに熱かった。
 身をよじると、逃がさないとばかりに強く強く抱き締められ……いや、締め付けられると言ったほうが適当だ。
 動かなかった右腕ごと抱き締められた状態で、折れた腕が圧迫されることで初めて骨折の痛みが浮上する。刹那に悲鳴をあげかけるが、歯を食いしばってどうにかそれを耐えてみせた。
 目には涙が滲み、息も簡単に荒れてしまうほどの痛み───だけど、痛みに任せて雪蓮を振り払うことはせず、されるままでいた。

(あー……痛ぇ……)

 ずっ、と涙と一緒に出る鼻をすするように息を吸って、掌底をしたために持ち上がっていた左腕……まあ左手だ。それで、雪蓮の頭を撫でてみる。
 今の雪蓮、まるで人が怖くて噛みついて来る子犬だ。だから、自分は怖くないんだよって意思を伝えるように、やさしくやさしく頭を撫でる。
 すると雪蓮の体がびくんと跳ね、噛まれていた首筋にかかる圧迫感が薄まる。

「………」

 だからというわけでもない。最初からそうするつもりで、俺は雪蓮の頭を撫で続けた。痛さから解放されたいからじゃない。この熱さが怖いからじゃない。
 ただ、本当に単純な話で……こんなに苦しげな雪蓮を見ていられなかった。だからもし、こんなことで落ち着いてくれるのならいくらでも撫でよう……───そういう気持ちで、雪蓮の頭を撫でていた。

「……《ぴちゃり》……? 雪蓮……?」

 ふと、痛みと熱だけが走っていた首筋に、暖かくて柔らかい感触。
 少し考えれば解ることで、雪蓮は噛み破った首筋から流れる血を、まるで動物がそうするように舐めていた。
 そんな返し方が、本当に犬みたいで……くすぐったさを胸に、頭を撫でる。動物を宥める撫で方から、子供をあやす撫で方へ変えて。
 「どうしたんだ? 豹変したみたいに襲ってきて」とか訊いてみたかったけど、そんなことを言える雰囲気でもなかった。
 今はこうして、落ち着かせることが大事で───《サワリ》───オウ?

「…………あ、あーの……雪蓮さん?」
「………」

 ……あの。何故私服のボタン、外していきますか?
 何故、肌を触ってきますか?

「っ……ね、一刀……私……わたし、ね……? 熱くて……」
「あ……熱いのは、解る、けど……」

 そんなことは首を噛まれる前から感じていた。俺が訊きたいのは、何故に服を脱がそうとしているのか、であり、そんなことじゃないのですが?
 もしかして風邪かなんか引いてて、無理して思い出作りのために俺と手合わせを……? だったらこんなふうに暢気にしている場合じゃあ───ってマテ、それが理由ならこうして触られる理由はなんだ?
 熱い? 熱いって……この熱っぽい視線とか、とろんとした目つきとかは……えっとその。どっかで見たような。何処だったかなぁ……わりと結構な回数見た感じが───

「……あ、そっか。今まで一緒にブッファアア!!? そっかじゃないっ! ちょ、待て待て雪蓮っ! それはまずいっ! お前、人の旅立ちの日になにをしてくれようとしちゃってるんだよ!」

 どんな場面で見たのかを思い出せば、冷静ではいられなくなった。思い出した途端に噴き出した。それが笑いであったならどれだけよかったことか。
 そうこう考えているうちに雪蓮の手が俺の下半身へと伸び、ついには───!

「うりゃあっ!!」
「《ゴズゥッ!!》はきゅっ!!? 〜〜〜いったぁーーーい!! な、なにするのよ一刀っ!」

 身の危険を本気で感じた俺は、俺を見つめる熱っぽい視線の持ち主の頭にヘッドバットをくれてやり、怯んだ隙に距離を取った。

「なっ……ななななにをするはこっちの台詞だっ! どさくさまぎれになんてことしようとしてくれてるんだっ!」
「だ、だって……《ふるるっ……》熱くて……」
「………」

 雪蓮の様子はやっぱりおかしい。
 虎のような目つきは大分穏やかに放っているものの、殺気めいた気配は依然落ち着きを取り戻さないままだ。
 自分で自分の肩を抱くようにして俯き、気を張って居ないと、その場にへたり込んでしまうんじゃないかと思わせるくらいに弱々しい。
 だというのに、ここから一歩でも近づけば牙を突き立ててくる、と……そう確信させる強い曖昧さを纏っていた。

「……風邪、じゃないよな」
「───」

 声を掛けてみるが、再び鋭く細った瞳孔は何も映さず、虚空にある何かを見つめるように虚ろだ。

  ……ジャリ、と……歩が進められる。

 動いたのは雪蓮だ。俺はそれに合わせるように退く……いや、退きたいところだけど、それをすると刺激することになる、と本能が告げていた。
 逃げる者を追うのは獣の本能だろうか。だったらせめて、逃げずに迎えてやろうと思った。
 そして撫でてやろう。ヘンなことをしない限りは、出発の時間まででも───なんて思っていた、まさにその時だった。

「《もぞり》……? うわっ!?」

 足に妙な感覚を覚えて見下ろしてみれば、足に大きな謎の虫がへばりついていた。それを振り払うために足を振るった……のがまずかったらしい。
 ハッと気づいた時には、その動作を逃走と捉えた雪蓮が突撃を開始し、こんなことで刺激してしまった事実に頭を抱えて叫びたい俺が居た。
 もういっそこのまま逃げてくれようかとも思ったが、それをするより先にあっさりと捕まってしまう。しかも先ほどと同じく正面から抱き付かれ、律儀にもと言うべきか、カッと開いた口が再び首筋へと───って!

「いい加減にしろぉおおーーーーーーっ!!!」
「《ゴズゥッ!!》んきゃうっ!? い、いったぁああ!! か、一刀っ、また───」
「頼むからっ……そんな簡単に欲求に飲まれないでくれよっ……! 理由は解らないけど、噛みついたり襲ってきたりなんて、そんなよく解らない衝動に負けるなっ! 喝を入れれば一時的にでも正気に戻れるなら、何発でも頭突きでも拳骨でもするから!」
「え……あの、一刀ー……? そんなにぽんぽん、他国の王を殴ったりするのはよくないと思うんだけどなー、私……《ゾクッ!》……〜〜〜……だ、め……やっぱり熱い……かな……。一刀……ね、一刀ぉ……!」
「雪蓮……」

 苦しげな表情……いや、事実苦しいんだろう。
 大量の汗を流しながら、立っているだけでも苦しいのか、ゆらゆらと揺れている。
 助けることが出来るのなら助けてやりたいのに、その方法は恐らく───

「気合いでなんとかしてくれ!」

 ───踏み出せない答えにしか至れなかった俺は、なんとも難しい注文を無茶を承知で言ってみる。……が、当然無理だし、俺も冗談なんかで和ませられない状況でふざけている場合じゃない。

「あ、はは……一刀、ちょっと祭に似てきた……?」

 それでも笑ってくれた雪蓮に、少しだけ尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
 ……でも雪蓮? 武の師ってことにはなると思うけど、祭さんには似ても似つかないよ俺。じいちゃんと祭さんならよく似てると思うけど。
 うん、困ったことにこの二人、結構性格が似ているのだ。だからまあ、教えを乞うのもやりやすかったってこともあるけど。
 一度始めると叩きのめすまでやめないところとか、よく似てる……なんて考えてる場合じゃないよな。

「とにかく、熱くてもいいから落ち着かないと。落ち着かないんだったら…………えぇっと、こっちにも考えがあるけど」
「え? ……一刀が鎮めてくれるの?」
「ああ。沈めてやる。───…………川に」
「意味が違うわよそれっ!!」
「いやっ……もしかしたら熱が消えるかもしれないだろ!? それに俺が鎮めるって……ダメ! 無理だ無理っ! 大体こんなどさくさまぎれでそういうことしたって、雪蓮も俺も絶対に後悔するから! そんなの頷けないっ!」
「一刀…………ありがと、そんなに真剣に考えてくれて……。でも、ね……そう言ってられる余裕、ないみたい……。私、本当に……」

 はぁ、と……いっそ蒸気でも吐き出すんじゃないかってくらいに苦しげな息を吐く。
 俺はそんな雪蓮を目の前にしながら、手を差し伸べようとしては踏みとどまり、頭を撫でてやろうと思っては踏みとどまり…………けど。

「…………どうしてもダメなら、来い。全部受け止めてやる。受け容れるんじゃない……全身全霊を以って、雪蓮の熱が下がるまで抗い続けてやる」

 もし興奮しすぎて“自分”を保っていられなくなっているのなら、助けてやらなくちゃいけない。たとえそれが暴力的な解決法であっても、“助ける”と決めたなら選り好みなんてしてられない。

「う……わぁー……。嘘でも抱き止めてやる、くらい言ってくれてもいいのに……。もう……本当に、頑固なんだから……」

 頑固で結構。譲れないものがあって、相手が傷つくかもしれないっていうなら……右腕が痛いままでもいい、全力で抗うだけだ。
 抗って、どんな手段を使ってでも正気に戻してやる。戻せなかったら……その時は、いろいろと覚悟を決めよう。

「………は、はっ……はぁ…………ふぅっ……!」

 よほどに熱いのか、“しばらくしてから来るように”と言われていた呉将のみんながゆっくりと集まる中でも、雪蓮は“ふっ、ふっ”と息を荒げていた。
 危険は目に見えている。が、苦しんでいる人を見捨てられるわけもなく、落ち着かせようと……危険を承知で手を伸ばした───途端、目を鋭くして襲いかかってくる雪蓮!

「見える!《ひらりっ》」
「!? わ《ゴシャアッ!!》ぴうっ!!」

 ……だったのだが、反射的な行動っていうのは物凄いもので。
 日々の修行の成果か、突如襲いかかってきた雪蓮の猛攻を横に避けると、雪蓮は勢いのままに俺の背後にあった木へと激突。
 静かに立っていた木を、助走なしの勢いだけでバサバサと揺らした。
 顔面から……だったな。ああ痛そうだ。

「あ、あー……雪蓮? そのぉ……だ、大丈夫、かぁ……?」
「………………《キッ!》」

 木から顔を引っぺがした雪蓮が、涙目で鼻血を流しながら俺を睨む。

(あ、なんかヤバイ)

 そう感じた時には、彼女はもう性質の悪い吸血鬼と化していた。

「お……お〜おぉお落ち着こうなぁ雪蓮……? 俺とお前は手合わせをしていたんであって、噛みつきごっことかは《がしぃっ!》うひぃっ!? や、やっ……だからちょ、待《がぶぅっ!!》あいっだぁああーーーーーーーーっ!!!」

 噛まれた途端、軽い恐怖で誤魔化せていた右腕の痛みがぶりかえしてくる。今度こそ遠慮なしに叫びまくったが、雪蓮も今度こそはと離してくれない。なにが今度こそはなのか、俺の思考に訊いてみたいところだが。
 などと冗談混じりに言ってみるが、痛みまではもう誤魔化せない。噛みつかれただけにしては異常な俺の叫びに、のんびりしていた呉のみんなが駆け寄ってくるが、一部の人たちは雪蓮の様子を見て「うっ……」と歩みを止めた
 どうやら足を止めた人たちは、雪蓮のこの状態をよく知っているらしい。知っているなら是非とも止めてほしいんだけどな……というか旅立ちの日にどうして、腕折られて首噛まれて背中掻き毟られなきゃならないんだ。
 明命がすぐに華佗を呼びに行ってくれたのは本当にありがたいが、今はまず雪蓮をなんとかしてほしい。どういう形だろうと止めればいいなら、このまま左腕で抱えてブリッジして行動不能にさせるって方法もあるんだが……さすがに国王にフロントスープレックスはヤバイだろう。

「冥琳、祭さんっ、雪蓮が急にこんなことにっ……」
「むう……あー、なんじゃ、北郷。落ち着かせたいなら、策殿の熱が下がるまで───」
「下がるまで!?」
「抱け」《どーーーん!!》
「………………うぇええええーーーーーっ!!!?」

 腕組んで胸張って言ってくれる助言がそれ!? だ、抱けって……え!? じゃあさっきの雪蓮の行動、その準備をするために触ってきて……!?
 予想通りっていうか、やっぱりあの熱っぽさは穏が書物に興奮した時と同じものだったってことなのか!?

「冥琳! 断固拒否したいから攻撃許可を頼む! というか気絶させる気でやっていいか!?」
「許可しよう」《どーーーん!!》

 祭さんと同じく腕を組んで胸を張って言ってくれた。すぐ隣で蓮華が「冥琳!?」と戸惑っているが、確認し直す時間が惜しい、というか腕痛い! もう耐えられそうにない! だから、今出来ることを───!

「雪蓮───」

 雪蓮の腰に腕を回し、しっかりと抱き締める。
 きつくきつく、まるで恋人が「もうキミを離さない」とでも言うかのようにしっかりと。途端に雪蓮の体の熱が上がったような気がしたが、そんなものを気にしている余裕もなかったのだ。

「───ごめんっ!!」

 そして、ブリッジであ《ドゴォンッ!!》

「ふぴぃっ!?」

 ……である。
 思い描いた通りのこと……ようするにフロントスープレックスで雪蓮を大地に沈め、一人、むくりと起き上がった俺は、目を回して倒れている雪蓮にもう一度ごめんと謝った。


───……。


 軽い状況説明を済ませて、明命が連れてきた華佗に腕を診てもらう。
 説明を聞いたみんなは「あぁ……」と全てを悟りきったような風情で頷いて、それをよく知る大人な人たちが、俺の肩をポムポムと叩いていった。

「綺麗に折れてるな。これならくっつくまでには時間がかかるが、痛みを抑えてやることくらいは出来る」
「本当か? ははっ、頼むよ……正直な話、もう暴れて紛らわしたいくらいに……っつつ……痛くて、さぁ……!!」

 さっきから嫌な汗がだらだら出ている。
 氣で誤魔化せる時間を過ぎてしまえば、もうあとには痛みしか残らないわけで───

「なんじゃだらしのない。男ならそれしきの痛み、耐えてみせい」
「《ばしぃっ!》〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 そんな箇所へ、祭さんからの何気ない気合いの一発。
 絶叫は声にもならないほどの高音で発せられ…………今度こそ、俺は暴れ回った。


───……。


 ……で、またしばらく。
 鍼を通してもらうと不思議と痛みは引いてくれて、滲み出ていた汗も引いてくれる。
 先ほど雪蓮が顔面から衝突した木に背を預け、ホッと一息ついていると……頭にたんこぶを作り、線にした目からたぱーと涙を流す雪蓮が近寄ってきた。

「うぅうぅぅぅー……」

 どうやら冥琳に拳骨をくらったらしい。

「あんまり無茶しないでくれな、頼むから……。事情は聞いたけど、急に豹変されるとなにがなんだか……寿命が縮む思いだったよ」
「だってー……思ってたより一刀がいい動きするから……。あの一振り、勘でなんとなく避けたけど、勘が働かなかったらどうだったのかな〜って考えたらこう……興奮しちゃって」

 貴女はなにか、興奮したら人に噛み付くのか。…………噛みつくんだろうね、実際そうだったわけだし。

「それでね、一刀。ちょっと訊きたいんだけど」
「うん?」

 背中に木の感触を感じながら、ん〜と伸びをしていると、真剣な面持ちを向けてくる雪蓮。
 真剣には真剣をと、胡坐をかきながらも真っ直ぐに雪蓮の目を見つめ返すと、言葉の続きが紡がれる。

「私の動き、覚えたわよね? で、えーと……“いめーじとれーにんぐ?”で一刀は私との戦いを繰り返すわけよね?」
「ん。そうなるな。あそこまで本気で食い下がったのはたぶん初めてだ。いい刺激になると思う」
「そっかそっかー。じゃあ次に会うまでの課題を命令していい?」
「……?」

 課題? なんのことだかさっぱりだが……雪蓮さん?

「命令していい、って……こっちの許可を取ってちゃ命令にならないんじゃないか?」
「あ、それもそっか。じゃあ命令。……次に会う時までに、もっともっと強くなっておくこと。で、興奮した私を武で押さえ込めるくらいにまでなっておいて? そしたら私、いろいろなことや刺激のない毎日でも耐えられると思うから」

 いつもと同じ、にこーって笑顔で言ってくる。
 それは……つまり興奮するたびに、俺が武で鎮めろ……と? あんなに滅茶苦茶な強さを見せつけた雪蓮相手に?

「…………」

 想像してみるけど、今すぐにとか少しあとでは無理だ。
 無理だけど、今出来ないからって断るのはよくない……よな。

「……ん、わかった。出来る限りのことを頑張ってみるよ。今度会う時っていうのがいつになるかは解らないけど、今よりは強くなっていることは約束できるはずだから」
「うん、それでじゅーぶん。じゃあ一刀、またいつでも来てね。私は貴方の来訪を、いつでも、心から歓迎する。……あ、でも強くなってなきゃだめだからね? こう……興奮した私も叩きのめして、全てを奪えるくらいの強さを見せてくれたら、もういろんなものを一刀に託しちゃってもいいかなーって《ずびしっ!》はにゅっ!?」

 デコピン一閃。額を両手で庇って涙目でぶーぶー言う雪蓮に、「命令だからってあまり無茶言わないでくれ」という言葉をプレゼントした。

「……とにかく。お別れは言わないからね? あと、あんまり待たせるようだったら私から乗り込むから」
「俺、頑張るよ!! だから勘弁してください!」
「えー……? ふふっ、まあいいわ、それじゃ」

 ……はぁ。元からそうするつもりだったとはいえ、妙なプレッシャーがかかってしまった。興奮状態の……あの獣みたいな雪蓮を打ち倒すほどに強くなれって……? まだまだまだまだ難しいだろ、それは……。
 と、そんな思考に頭を痛めていると、雪蓮はすたすたと歩いていってしま───あれ?

「あのさ、雪蓮?」
「? ……ああ、忘れてた。“いってらっしゃい”、一刀♪」
「………」

 雪蓮はそれだけ言い残すと、にこー、と笑顔のままで去って行ってしまった。
 ……え? 別れの言葉、それで終わり?

「ふむ。いずれ戻るならば、引き止める理由も無しか。策殿も中々に勝ち気よ。ならば儂も、最後に命令の一つでも残すとしようか」
「え?」

 去って行ってしまった雪蓮をポカンと見送っていた俺の耳に届く声。振り向くより先に祭さんだって解る声は、俺に嫌な予感を持たせてくれる。……困ったものだ。

「北郷。次に会う時は弓の手解きでもしてやろう。じゃが、基礎から教えるのは面倒じゃ。蜀の黄忠、魏の夏侯淵、どちらでもよいから多少かじってから来い。学んだことの全て、儂の色に染めてやろう」
「……それって結局、一から教えるのと変わらないんじゃないかな」
「何を言うか。叩き直すから面白いんじゃろうが。ゆえに命令するぞ。“弓を学べ”。武術の一つのみを極めさせるのも面白そうじゃが、せっかく奇怪な氣を持っておるんじゃ、いろいろ叩きこむのもそれはそれで腕が鳴りそうじゃ」
「っ……《うぞぞぞっ……!》」

 さ、寒気がっ……! 嫌な予感が寒気として俺を襲う!

「そ、それってつまり、他人の教えをぶち壊して、祭さんの技術に塗り替えるって意味で……あの。そんなことされたら俺、教えてくれた人に殺されますよ?」
「なに、安心せい。殺そうとするのならば、儂が口添えしてやるわ。“悔しかったらお主の色に塗り替えてみよ”とな」
「……で、塗り替えられたら祭さんが塗り返すと」
「おう。そうすればお主の技術は高まる一方で、これほど嬉しいことはあるまい?」
「技術を全部叩き込む前に、誰かに刺されてそうで怖い……」

 誰とは言わないけど。
 ……技術の中のいいところだけを身に刻む、なんてことを教えられるままに受け取ろうとしても、どれだけ達人の域に達した人でも癖がないわけじゃない。
 しかし、達人は達人。教えると決めたら、きっと全てを叩きこもうとするだろう。
 それを誰かの教えで上書きして、また別の人の教えで上書きして……確かに技術は上がりそうだけど、いいところばかりを刻んだ技術は、果たして“良い技術”として生かせるだろうか。
 欠点やつたない部分を昇華させて、少しずつ鍛えていくのが技術だ。
 いいところばかりを残したところで、欠点のない理想を形に出来たところで、そこには欠点を補おうとする“力”がない。

(うん……理想ではあるけど、苦労して身に付けた意思や覚悟がまるで宿ってないと思う)

 過去の人が技術を磨いたから後世に残る技術があって、開拓する必要もなしに身に着けていける。過去の人が拓いた道があるから、迷わずに進める道もある。
 けど、そこで楽をしたら、本当の意味での教えは身に着かないんじゃないかって……いつか思ったことがある。
 だから、覚えたことから先を目指す。
 教えられるだけじゃない、教わったことを糧に、自分で出来る何かを探す。
 そうして見つけたものを頑張って身に着けて、それをまた次の世代へと受け継がせて…………いつか、教えというものもどこかで途切れたりするんだろうか。

(途絶えるとしたら、そうした歪んだ教わり方をした時……なんだろうな)

 きっと、ちゃんとした形としては残らない。
 混ざってしまったら、残せない。
 混ざった状態でもそれが誰々の技術だ〜って言い張れるなら、それもそれでいいんだろうけど。

(じいちゃんに教わってるのに、祭さんに教わった時点で、俺が何を言っても説得力なんてないけどさ)

 でも……ああ、そっか。
 たとえ祭さんの技術を叩きこまれたところで、俺がじいちゃんに教わった技術を忘れなければそれでいい。
 教わったことの中からいいところだけを取るんじゃなく、きちんと悪いところも覚えた上で先を目指せば……それはきちんと、みんなの技術として俺の中で生きていく。
 悪いところも受け取らなくちゃ、その人の技術をその人から受け取ったなんて言えやしない。

(……そっか)

 師が教えきったと断じても、弟子がそうでないと言うのなら皆伝ではない。弟子が教わるべきを教わったと断じても、師がそうでないというのなら皆伝ではない。つまりはそういうことなのだ。
 格好のいいところばかりを教えたところで、格好の悪い部分も教わらないのでは皆伝とは言えない。師が経験したこと全てが技術として身に宿るなら、恥だろうがなんだろうが、一つ一つが技術の切れ端として生きているはずなのだから。

「……解った。ちょっと迷ったけど、教わってくる。でも、いくら祭さんが教えようとしても、塗り替えさせる気なんてないから」
「ほう? 儂の教えは身に着けぬと、そう言いたいのか?」
「そうじゃないよ。俺は、秋蘭や……許されるなら黄忠さんの技術も身に着けた上で、祭さんの技術も身に着ける。何かを忘れることなく、上書きしないで身に着ける。そうじゃないと、ちゃんと祭さんのことを師として見れないから」
「う……むぅ……そ、そうか。…………〜〜……まあその、なんじゃ。あまり年寄りを待たせるな。他の地でしっかりと技術を身に着け、もう一度来い。その時は、儂が教える技術こそに自信を持たせてやろう」
「はは、そればっかりは学んでみなければ解らないよ。……俺としては、秋蘭の技術が上であってほしいけど」
「ふふっ、言いおるわ、孺子めが」

 言葉のわりに、腰に手を当て満面の笑みをくれる。
 弓を学べ……それは命令でもなんでもないものだったに違いないけど、俺に喝を入れる意味ではありがたい言葉だった。
 武術ってものがいろいろなものから学び、いろいろなものへと伝え、応用するものならば、剣ひとつを学ぶのではなく別の何かを身に着けるのも知となり血となり、武となるだろう。
 俺の笑みに満足いったのか、祭さんはそれ以上のことは何も言わずに離れてゆく───と、そこへすかさず走り寄る影ひとつ───シャオである。

「一刀〜? しばらくシャオと会えなくなっちゃうけど、泣かないで頑張るんだよ〜?」
「うん解った。絶対に泣かない」
「もーーーっ! どうして一刀はそーなのー!? シャオと別れちゃうんだよ!? 離れ離れになるんだよー!? もっとわんわん泣いてもシャオ、べつに一刀のこと情けないとか思わないよー!?」
「えぇっ!? 泣くなって言ったのはシャオだろ!? え……な、なんで俺怒られてるの!?」
「…………あんっ♪ そうだよねぇ、男の子は人前じゃ泣かないんだもんね〜? んふぅ、素直じゃないんだから〜っ♪」
「……シャオにとっての“素直”が、時々異常に気になるよ……」

 相変わらず人の言葉を聞いてくれない。
 都合のいい解釈って言葉があるけど、きっとシャオの思考回路のために存在する言葉なんだろうなぁとしみじみと思った。

「シャオ、ずっと待ってるからね、一刀が呉に帰ってくるの。でぇ……帰ってきたらシャオと子作り《むきゅっ》ふむっ? む、むー!? むむー!」
「おうおう尚香殿、策殿が呼んでおる。少し向こうへお付き合い願えますかな?」
「ふぉっほ、ふぁいー!?」

 ……言葉の途中で連れ攫われた。不憫な……。
 けどあのまま続けられてたら、怪しい会話になりそうだったから。さすがに旅立ちの日に生々しい送り言葉は勘弁してほしい。

「ふふ……北郷。お前が中心に居るだけで、随分と周りが賑やかになるな」
「冥琳……」

 祭さんに連れ攫われたシャオを見送りつつ、くっくと笑いながら歩み寄ってくる。その隣には穏が居て、助けを求めて暴れるシャオにニコニコ笑顔で手を振っていた。

「結局克服、出来なかったな」
「はいぃ……ちょっと残念ですけど、穏は一つ学びましたよ一刀さん」
「学んだ? なにを」

 手を軽く持ち上げ、ピンと伸ばした人差し指をくるくる回す穏。本で興奮する、なんて珍しい体質の中、彼女はいったいなにを学んだのか。
 いろいろと荒療治を試しても効果が無かったが、なるほど、ただでは転ばない。きっと克服の足がかりを───

「興奮を無理に抑えるのは体に毒という結論ですよぅ〜。だから今度一刀さんが来た時は、興奮を抑えることなく心の許すままに───」
「あ、ところでさ冥琳」
「あぁあぅう〜〜、無視しないでくださいぃい〜〜〜……!」
「真正面からそんなこと言われて、どう反応しろと!? む、無理! 絶対無理だからっ!」

 顔が熱くなるのを感じながら、ぶんぶんと首を横に振るう。
 本当に、今でこそこんなふうにして拒否出来ているけど……もし一年前のあの時、日本に帰ることなく呉に来て同じことをしていたらと思うと……少し怖い自分が居ます。
 その頃の自分だったら、きっとやさしく受け止めていたんだろうな……ごめんなさい。

「誘惑には屈しないと。結局、愛国心は別れの時まで変わらずか」
「……その。冥琳が俺だったら、同じ事を貫いたと思うけど?」
「ふふっ、違いない」

 そう言って目を伏せ、何かを懐かしむように息を吐いた。
 思えば冥琳は、会った時から溜め息の似合う大人の女性って感じだったなぁと、俺も過去を振り返って懐かしむ。
 ……一言で片付けられる言葉があるとしたら、苦労人ってだけで十分そうだ。不名誉だし、本人は否定したがるだろうけど。

「さて、今生の別れでもない。友を送り出すのにいつまでも後ろ髪を掴むのも迷惑だろう。……今度はお前の身の回りが落ち着いた時にでも来い、北郷。絵本の感想はその時にでもゆっくりと聞かせてもらう」
「……ああ。他にお勧めの絵本があったら、それも読ませてくれると嬉しい」
「ふむ……見繕っておこう。その言葉だけでも、お前の中で絵本がどういう評価だったのかが解りそうなものだが」
「感想はまた別だよ。……楽しみにしてる」
「………」

 俺の言葉にフッと笑うと、冥琳はそれ以上を口にはせずに歩いてゆく。逆に穏は「絵本ってなんですか!? 冥琳様と秘密の読書会でも!?」と妙に興奮した風情で迫ってきて……拳骨一閃、冥琳に引きずられていった。
 痛そうだな、としみじみとした気分でそれを見送ると、今度は亞莎と明命が目の前へ。

「一刀様……」
「〜〜〜……」

 明命が俺の名を呼び、亞莎は悲しむ自分の顔を見せたくないのか、長い長い袖余りで自分の顔を隠している。
 俺は二人に向けて何を言うべきかを少し迷い、結局最後に言うことは変わらないなという結論のもとに口を開く。

「亞莎、明命、ありがとうな。いろいろ世話を焼いてくれて。すごく……すごく助かった」

 立ち上がり、亞莎と明命、一人ずつ頭を撫でてゆく。同時に撫でてやりたかったのが本音だけど、右腕がこの調子なんだから仕方ない。
 ……折れたんだよな、うん。あの痛みは思い出すだけでも背筋が凍る。痺れと、人間の防衛本能に……謝謝。

「か、一刀様……“また”って言っていいでしょうか……。また、呉に来てくれますか……?」
「ああ、もちろん」
「かっ、かかかっ、か……一刀様っ……わ、私、次に会うまでにもっともっと美味しいごまだんご、作れるようになっておきますからっ……! そしたら、一緒に……食べてくれますか……?」
「……うん。もちろん」

 いっぺんに頷くのではなく、一人一人の目を見て頷く。
 来てばかりの時に友達になってくれた二人だ、きちんと向き合って“いってきます”を言いたい。真名を許してもらうまではいろいろあったけど、許してくれてからは距離が近づいたのも事実。
 俺の中で、それはきっといつまで経っても“友愛”なんだろうけど……二人の目はきっと、それ以上のものへと向かおうとしている。もしくは、辿り着いているか。
 以前言われたっけ、好いてくれている人に、揺るがないことを理由にその気持ちを断ることが出来るのか、って。自分の言葉で人を傷つけるって解っているのに、守りたい人の中の一人に、もうなっている人を傷つけることが出来るのか。
 答えは……YESだ。揺るがないっていうのはそういうのを全部ひっくるめての意味だって、今の俺は思っている。いつか、もしなにかのきっかけでコロリと自分が変わってしまうのだと決まっていたとしても……今の俺だけは、揺るがないことを口に出して誓える。
 いつか破ってしまうことは誓いでもなんでもないのかもしれないけど、俺は……魏を、華琳を愛しているから。

「………」

 その意味も込めて、やさしくやさしく二人の頭を撫でた。
 ごめんなさいと言いたいわけじゃない。許してほしいとも言わない。自分の気持ちを貫いた結果が誰かの涙になるとしても、傷つけたくないからって理由で全てを受け容れたらそれこそ二人に失礼だし、いつか本当に傷つけることになるだろう。
 気づかないフリをするには遅すぎて、受け容れるわけにはいかなくて。じゃあどうすればいいのか、なんて……きっと。誰かが思い描く以上の幸せな結末なんてありはしない。
 意思を貫くってことは、誰かの意思を否定するのに近しいのだろうから。

(蜀に行って、魏に戻ったら……)

 ああ、こんな時にばかり、自分の弱さを実感する。
 思考の渦に飲まれては、彼女のことばかりが頭に浮かぶ。
 誰に好かれようとも誰に思われようとも、何を許されようとも何を促されようとも、頭の中を支配するのはいつも彼女のことばかりだった。
 結局自分は、この国に居る間はこの国のためにと思いながらも───彼女、華琳のことばかりを思い返していたのだと苦笑する。
 そのことが、頭を撫でている相手に失礼だと思うのに……やめられない自分が、今は悲しかった。

「また来るよ、きっと来る。その時は、もうちょっと落ち着いていられてると思うから」

 華琳に会って、宴のあとでは言いきれなかったことをぶちまけられたら、きっとこの心にも余裕が出来る。心に余裕が出来たら、今度は頭も。
 そうして自分を落ち着かせたら、ゆっくりとこの大陸を見て回ろう。
 羅馬に行くのもいい、一人で旅をしてみるのもいい。
 この世界がどれほどの静けさと賑やかさを得られたのかを、この目で見てみたい。
 大きな場所だけじゃなく、ちゃんと自分の足で、ひとつずつ。
 ……そう考えると自然と笑みがこぼれ、それを見た二人も……俺に笑顔を向けてくれた。

「では……その。いってらっしゃいませっ」
「わたっ、わたひっ……もっと頑張りますっ。勉強も、料理も、もっと……!」
「うん。その前に、もうちょっと噛まないようにしような?」
「はうっ……! が、頑張ります……」

 ぺこりと頭を下げると、二人も行ってしまう。
 見送りは……きっとない。別れを言いたいんじゃなく、いってらっしゃいだから。遊びに行くやんちゃな男を見送らないのと同じなんだろう。

「……一刀」
「……や、蓮華」

 最後。ゆっくりと歩み寄ってきた蓮華に、軽く手をあげて応える。
 交わす言葉は……そう多くない。視線を交差させただけで、何が言いたいのか、何を伝えたいのかが、困ったことに解ってしまったのだ。
 だから蓮華は“ふっ……”と笑うと、

「思春のことを、よろしく頼む」

 キリッと、王族然とした姿勢でそう言っただけで、踵を返した。
 通じ合った恋人同士でもないのに、こんなことが可能なのは蓮華が相手の時だけだ。何も言わなくても相手が望むことが解ってしまい、結果的に……そう、甘やかしてしまう。
 それをシャオに見られていたと知った時は相当に恥ずかしかったものだけど……うん、過ぎてみればいい思い出……だよな?

(……揺るがないのは結構だけど、もしそれが反転したら……か)

 蓮華の視線から受け取った言葉の意味を、考えてみる。
 嫌っているわけでもないし、みんなのことはむしろ好きだ。
 もし、なんらかのきっかけがあって、友愛だと決めつけることで抑えている感情が、本当に“好き”に変わってしまったら……その反動は、きっと恐ろしいものなんだろう。
 誰かを泣かせるくらいならいっそ、受け容れてしまえばとも思う。
 好いてくれているのなら、かつて魏のみんなをそうして受け容れたように愛せばいいと。
 でも……今は無理だ。どうあっても、魏のことが頭に浮かんでしまう。そんな心のうちに受け容れたら、絶対に相手を傷つけることになる。

(しっかりしろ、一刀)

 揺るがないって決めておきながら、断ることはやっぱり辛い。
 真正面からぶつけられる好意を避けるのも、断るのも辛い。
 いっそ全てを受け容れられたら、この辛さも拭えるのか。
 それともより一層の辛さを背負うことになって、いつかパンクして泣き出したりするんだろうか。
 そんなことを考えて、軽く頭を振って……思考をリセットさせると、近くでそんな俺を見ていた思春に声をかけた。

「……思春はなにも言わなくていいのか?」
「言うべきこと、伝えるべきことはもう伝えてある。生きろ、と……それ以上のことは言われていない。私はそれを糧に生き、他は自由にしろと言われたようなものだ。……貴様の生きかたを傍で見ているのも、悪くないだろう」
「思春…………───それって俺がさらす醜態が面白いって意味?」
「他の意味に聞こえたなら、改めて───」
「言わなくていいですよっ!?」

 本当に遠慮がない人である。
 でも、今はその遠慮のなさがありがたい。

「………」

 ぐぅっと伸びをする。拍子に仰いだ空は今日も晴天にして蒼天。真っ青な空が、視界の許す限りどこまでも続いていた。
 そんな空をしばらく見つめてから視線を下ろすと……そこに、朱里と雛里。……期間が長かった分、いろいろな書簡を突っ込んであるのか、荷物が重そうだった。
 それらを黙ってひょいと受け取ると、困惑の顔で俺を見上げる視線に笑顔で答える。「じゃ、行こうか」と。


 見送りはやっぱりない。
 城から出た途端、親父たちに再び捕まったことを除けば、見送りらしい見送りもなく……後ろ髪を引かれることはなく、俺達は呉国をあとにした。
 そんな中で、俺が呉で過ごした証があるとしたらなんだろう……と考えて、包帯ぐるぐる巻きの腕を見て、盛大に溜め息を吐いた。
 うん……華佗、落ち着いたら本当に医術を教わるよ。どう考えても、これから生傷が絶えなさそうだからさ……。

「それじゃあ……また」

 故郷っていうのは増えるものなんだろうか。
 そういった奇妙な感覚を胸に抱いて、俺は呉国をあとにした。
 見送りは本当になかったけど……城を出て、町を出て……少し離れた場所から、世話になった城へと手を振って。




ネタ曝し  *けど明命なら……  再びスラムダンクより。それでも仙道なら……仙道ならきっとなんとかしてくれる。  *悲しいけどこれ、現実なんだ  悲しいけどこれ、戦争なのよね。スレッガー・ロウの名言。  *フロントスープレックス  相手の両腕ごと抱き締め、受身を取れなくした状態でブリッジ。  これをM11型デンジャラスアーチといいます。  えー、はい。一応ここまでということで、ここまでをご覧の皆様、お疲れ様でした。  蜀、魏編は現在執筆中でありまして、思いの外呉編が長くなってしまいました。  こうなると逆に蜀編は短く感じるかもしれませんが……それも綺麗に纏められればの話で、下手をすれば呉よりも長く……無理です、そうなったら8月中でも終わりません。  えっと、とりあえずまたここから突っ走るということで、しばらくアップはありません。  呉を呉らしく書けたのかは不安ではありますが、今さらながら祭さんをもっと書きたかったなーとか……いえ、これ以上は本当に収拾つきませんからやめておきます。  ではまたいずれ。  評価/感想は小説が終わってから見ます。  書ききってあれば、思う存分ヘコむことも感謝することも出来て、小説に影響が出ることも……ない、ですよね?  では。 Next Top Back