61/病み上がりの朝に

 チュンチュン、チ、チチチ……

「ん、んっ、ん〜〜〜〜っ……!!」

 小鳥の囀りに目を覚ました朝。
 ぐぅっと伸びをして辺りを見渡してみても、誰も居ないこの部屋。
 思春はどうしたのかなと思考を回転させてみるが、おそらく風邪が伝染るといけないからと、別の部屋に案内されたんだろう。

「んーーーと」

 拳を作ったり開いたりをしてみる。
 ……異常無し。
 動けなかった分、多少の鈍さは仕方ないとはいえ、体はすこぶる健康と見た。

「よしっ! 治った!」

 我、完治せり!(多分)

「うん、なんだか腹が異様に減ってるし、体も少し重いけど、頭痛とかはないし……うんうん、よし、まずは軽く運動をして血流をよくしてから、水を貰いにいこう」

 そうと決まれば行動は速い。
 まずは寝台の上で仰向けの状態で両手両足を天井へ向けて伸ばし、その状態でバタバタと両手両足を振るうことで、足に溜まりがちな血液を循環させる。
 そうしてから寝台に下りると足踏み運動を開始。
 付け根と平行か、それ以上に膝を持ち上げ、さらに血液を循環。
 次いで始める柔軟体操でそれらを体全体へと流して。
 消化吸収を良くするために、軽く胃袋を刺激させる運動もして、と。
 さあ、これであとは水と食事を取るだけだ。

「今日の朝は何かなぁ」

 わくわくしながら部屋を出る。
 その頃には体の重さも無くなり、普通にてこてこと歩ける自分へと復活を遂げていた。


───……。


 ……うん。

「はぁ〜、満足〜♪ やっぱり味が解るって大事だよなぁ」

 苛め抜いてきた体が欲したからか、異常とも言えるくらいの量を食べた。
 咀嚼し、味わい、嚥下する。
 食事が喉を通る感触がひどく懐かしく感じて、それはもうムッシャムッシャと頂いた。
 なにやら厨房に居た侍女さんがやたらと驚いてたけど、何があったのかは教えてくれなかった。というか、「もう良くなられたのですか?」「うん、もうすっかり」……会話がこれだけで終わってしまったのだ。
 うーん、いったいなにが……?

「考えても仕方ないか。よし、胃袋を軽く刺激してやってから、桃香に復帰報告をしにいこう」

 腹も膨れたところで、中庭で陽光を浴びながら、改めて軽い運動を開始した。
 ……その時の俺はまだ知らなかったんだ。
 今がいったいいつで、自分がどれだけ風邪で寝込んでいたのかを……。


───……。


 …………。

「………」

 おかしい。
 おかしいよな、これ。

「なぁ璃々ちゃん? どうしてみんな、城に居ないんだ?」

 東屋の椅子に座りながら、退屈そうに足をぷらぷら揺らしていた璃々ちゃんを発見、お願いされたので俺も座り、足の上に乗ってきた璃々ちゃんを撫でながらの言葉。
 対する璃々ちゃんは首をこてりと傾げたあと、

「えーっと、がっこおが出来たから、見に行くって言ってたよー?」
「へぇ〜……そっか、学校が……学校!?」

 え……ええぇ!? 学校が!?
 あれちょっと待て!? 今日何月何日だ!? ───や、それは解るわけないな、うん。太陽光充電をした携帯電話でも、もう正確な時間も日時も解らなくなってしまっている。
 しかしだ、ここで驚くよりも、いっそ学校へ───……行こうとしたんだが、璃々ちゃんがきゅっと俺の服を掴んで、寂しそうな顔をするわけで。
 泣く子には勝てません……。

「黄忠さんが戻るまで、ここで遊んで待ってようか……」
「うんっ、あのね、璃々ねー♪」

 途端に笑顔になるんだから、女の子ってこわい。
 キミはきっと、立派な女性になれるよ……。

(けど、そっか。学校が出来たのか)

 何日寝てたのかは知らない。
 見ていた夢が幸せすぎて、潜在意識が現実に戻ってきたくなかったのか、ただ単に疲れすぎていた体がこれを機に思い切り休んだだけなのか。
 事実として体は軽い。起きた時に体が鈍るくらいは寝てたんだろうが、頭も体も目覚めてからは軽すぎるくらいだ。
 ……いつの間に学校が出来たのかは、あとで誰かに訊くとしよう。
 今はもう少しの体のならしも兼ねて、璃々ちゃんと遊ぶことに専念する。

「ねぇ御遣いさまー? がっこおってなんなの?」
「学校? んー……いろいろなことを学ぶ場所……かな。自分の知らないことを、先生や同じ生徒から学んでいく場所、だと思う」
「?」

 突然の質問に、答えてみれば首を傾げる璃々ちゃん。
 そんな仕草に苦笑をこぼし、「えぇと」と解りやすい答えを頭の中から探す。
 そうして軽く説明しながらも、鈴々にするみたいに高い高いをしたり肩車をしたり、その状態のまま走り回ったり木に登ってみたり。
 その木の上に座りながら日本の御伽噺を聞かせてあげたり。
 快晴の空の下、しばらくそうして平和な時間を堪能していた。
 

───……。


 ……まあもっとも、そんな時間がそう長く続くはずもなく。

「一刀殿! いったい何を考えておいでか! 病み上がりだというのにあちらこちらと走り回るなど!」
「あ、や、やー……これにはいろいろと事情がー……」
「事情云々以前の問題ですっ!」
「うひぃっ!? ご、ごめんなさい……」

 学校の見学もそこそこに、様子を見に戻ってきてくれた愛紗にこってりと絞られていた。
 部屋に行ってみれば寝込んでいた俺の姿はなく、探し回ってみれば中庭で璃々ちゃんに肩車をしながら走り回るサワヤカボーイ。
 うん、逆の立場だったとしても、それは呆れるか怒る。
 けど、逆の立場だったとしても、俺にはこれほどまでの迫力は出せません。
 ……ちなみに。璃々ちゃんは先に逃がした。
 中庭の中心で正座をする俺と違い、璃々ちゃんは東屋の椅子で俺の生き様を───

「聞いているんですかっ!?」
「はいぃっ!!」

 ───見ないでください、お願いします。
 もう怒鳴られるたびに「ヒィ」とか「ごめんなさい」とか言っている俺を、璃々ちゃんは終始心配そうな顔で眺めていた。
 楽しそうに、じゃないところに彼女の暖かさを知った、そんな晴れた日のことだった。


───……。


 そんなこんなで説教も終わり、こほんと咳払いをひとつ、俺と対面するように座った愛紗に、学校のことを持ち出してみる。
 俺がどれくらい寝てたのかは、この際後回しか忘れてしまったほうがいいような気がしてきたから。

「ええ、学校は無事完成しました。先ほど拝見してきたところです。……その後、心配で戻ってみれば肝心の人物が部屋に居なかったわけですが」
「うぐ……」

 ジトリと睨まれて、思わず声を詰まらせる。
 しかし釘を刺したかっただけのようで、もう一度咳払いをすると、苦笑をもらしながらも学校の話をしてくれる。
 病み上がりなのだからと部屋に戻るように言われたが、せっかくの晴れだからここがいいって言葉に頷きながら。

「上手く回転しそう?」
「物珍しさからでしょう。民も集まり、体験してみたいと進言する者も少しずつですが集まっています」
「そっか。じゃあその体験入学で、どれだけ意欲を掻き立てられるか……だね」

 恐らくそれが一番難しいんだろうけど。
 小さく呟く俺に、愛紗は「では」と唱える。

「何か工夫をしてみては?」
「工夫?」
「はい。一度目は“これは楽しいものだ”と思わせるもので固めてみるなどして」
「ん……ちょっと難しいかな。それをすると、二度目からが途端に辛くなる。かといって最初から押し付けるようにすると、二度目は来なくなる」

 体験で終わってしまいそうだ。
 だったらやっぱり段階を経て難しくするしかないわけで……あれ? じゃあ結局工夫は必要になってくるじゃないか。

「えと、ごめん。目は覚めてるんだけど、上手く頭が働いてくれない。……うん、愛紗の言うように最初は楽しいと思わせるものでいいと思う。二度目はそれから少しだけ難しくしていけば……───そうなると“楽しい”を維持できるかが一番難しそうだね」
「ええ、まあその、勉学に楽しさを混ぜるのはなかなかに難しいかと」 
「一番怖いのが、教師が突っ走りすぎることで……後になって、“この先生嫌だ、あっちの先生がいい”なんて言われたら、軽く落ち込むよ……」
「……軽く、で済めばいいですが」
「だよねぇ……」

 朱里や雛里が教師をしている場面を思い浮かべ、“別の先生がいい”と子供に言われた瞬間を連想してみる。
 …………落ち込む姿が、想像だというのに鮮明に描かれた。
 だめだな、うん。立ち直るのに時間がかかりそうだ。

「よし、ここでこうして話してても思考がぐるぐる空回りするだけだし、やってみないとなんとも言えないよな。まずは体験入学生を迎えて、やってみることからだ」
「とはいえ、今日明日にでも即座に開始するわけでもありません。───一刀殿? 知識を拝借することにはなりますが、貴方には準備の間、大事をとって休んでもらいます」
「え? でも俺」
「問答無用です」
「ア……ハイ……」

 有無をも言わせぬ眼光が僕の視線と交差した刹那、反論は不可能になっていました。
 仕方もなしに立ち上がり、璃々ちゃんに手を振りながら部屋へと向かう。
 大丈夫って言っても付き添うのをやめない愛紗に肩を貸され、同じく戻ってきていたのだろう、宛がわれた俺の部屋の前でおろおろする桃香や鈴々に、物凄く心配されることになる。
 ……うん、肩を貸してもらっている時点で重症と見られ、「寝てなきゃだめだよー!」とか「大人しくしてないとだめなのだー!」とか散々怒られて、

「いやあの……俺、普通に歩けるし───」
『病人は黙って(るのーっ!)(いてください!)(るのだー!)』
「……ア、ハイ……ゴメンナサイ……」

 口出ししようものなら、やっぱりクワッと怒られる始末……どうやら病み上がりの人に人権は存在してくれないらしい。
 心配してくれるのは嬉しいけど、本当に歩けるんだけどなぁ……。 




62/迎えた朝、勉学の日々

 あれから数日。
 “初めての授業”に向けての準備は細々と進められていき、現在。
 挑戦して作ったチョークや黒板は思いのほか綺麗に仕上がり、出来も上々。
 上々っていうのはあくまでこの時代での意味であり、天でいうチョークのように綺麗ではない。
 黒板に走らせてみれば、きちんと引ける白線に安堵する……も、力をこめすぎると軽くポッキリいってしまうモロさ。
 改良の余地ありだ。
 魏に戻ったら、真桜と一緒に煮詰めてみよう。

「え、え……えーと、はい。みみみ、みなさん、おはようございます」
『おはよーございまーす!』
「あー、あいつたまに、まちをうろうろしてるやつだー」
「あのにーちゃんが“みつかいさま”だったんだー」

 ……で、俺が今何をしているのかといえば。
 とうとう来てしまった初授業って三文字と、正々堂々試合開始をしたところだったりするのだ。
 予想以上に集まってくれた子供たちと、それに付き添い訪れた親。
 仕事に出ている人が大半なのか、親とおぼしき人たちの数は少ないが、それでも教室の椅子を軽く埋めてくれるほどには集まってくれていた。
 …………1クラスの椅子の数は、多いものじゃないけどさ。

「にーちゃんにーちゃん、あそぼー? じゅぎょーなんてよくわからないことしないでさー」
「おにーちゃん、かたぐるましてー?」
「………」

 はい、早速ですが初授業の感想を。

(授業になるのか? これ)

 いや、なるのか、じゃなくてするんだよ、うん。
 頑張ろう、せっかく来てくれたんだから、楽しく元気に学んでもらうんだ。

「ごめんな、あとででいいなら遊ぶから。にーちゃん、今仕事中なんだ」

 手元に教科書も持たない仕事っていうのもおかしなものだけど。
 わやわやと騒ぐ子供たちにやんわりと声をかけると、仕事の大切さを知る親のみんなが、これまたやんわりと我が子を落ち着かせてくれる。
 子供たちも初めての場所での体験だ、次に何を始めるのかを楽しみにしている様子もあり、大人しくしてくれた。
 ……よ、よし、始めよう。
 まずは自己紹介から入ろうか? それとも……うああ、こうしようって考えてきたことが全部吹き飛んでしまっている……!
 落ち着けー、俺のほうこそが落ち着けー……。

「……うん。じゃあまず、軽く“学校”の説明をします。知った上で来ている人しか居ないだろうけど、簡単に話すので聞いてください」
『はーーいっ』
(素直だ……!《じぃいいん……!》)

 俺の言葉に素直に返してくれる生徒が居る……! これが、これだけのことがこんなにも嬉しいなんて……!
 思えばこれまで、将って生徒にどれほど苦労させられたか……!

(じいちゃん、俺決めたよ……! この子たちを立派に導いてみせるよ……!)

 ……じゃなくて。だから落ち着こう俺。
 導くのはいいけど、先を決めるのはこの子たちなんだから。

「こほんっ、あー……」

 照れ隠しの咳払いをひとつ、学校の説明に入った。
 教室の数、教師の数、ここで学べること、食事や料金のことなど。
 教室の数は、現代の学校に比べればそう多いものじゃない。
 教師の数も同じくであり、みんななんのかんのと忙しい。
 軍師だった人の中からじゃなくても、知力に富んだ人に任せるのが無難と考え、今までしてきていた仕事は一先ず別の人に任せ、教師に専念してもらうことに。
 その人が慣れたら別の人にも教える形で……教育実習生に教える感じで学んでもらい、少しずつ教師枠も増やしていく。
 さすがに一人だけに任せてたら体が保たないし。

 次にここで学べることは……国語、算数、理科、社会、体育など……いわゆる現代の小学生が学ぶものを教えるつもりだ。
 国語は言うまでもなくこの大陸の文字の勉強。日本では子供でも文字を書けるけど、この時代は文字を知らない大人も居たりする。そういった人の多さに驚いたくらいだ。
 算数も言うまでもなく、将(主に鈴々や文醜さん)を相手に教えたものとそう変わらないものを教えて、理科ではチョークの作り方や、別のいろいろなものの作り方などを教えていく。授業と称してチョークを作ってもらうって、少し利用しているようで嫌だけど。
 社会では戦の歴史などを伝えていき、体育は……言うまでもないよなぁ。
 あとは……食事と、学費のこと。
 結局あれから数日間、みっちりと話し込んだ結果───教える側にも教えられる側にも安定が見られ、学校って場所がきちんと機能するようになるまでは三国が学費の大部分を負担することになった。
 魏や呉から学びに来る人も出るだろうからと、話し込んだ上での決断だ。
 負担と言えば格好はいいが、ようは出世払いみたいなものだろう。
 学んだ知識を生かして、のちの国に生かしてほしい。そういった願いを込めて、お金のことは気にしないで学べるだけ学んでほしいって話だ。
 教える人もころころ変わるわけだし、自分の仕事の枠が一つ増えたと思ってもらえれば。
 俺からして考えれば、書類整理と警邏の他に、先生役って仕事が増えた、って……それだけの話だ。ずっと先生をやるわけじゃなく、さっきも言った通り知性に富んだ人と入れ替わりで教師役を務めるわけだ。

「そんなわけで、一番最初に教える役が俺になりました。まだ人に教えることには慣れてませんが、どうぞよろしくお願いします」
「よろしくー、にーちゃん」
「よろしくー」
「よろしくー」
(素直だ……!《じぃいいん……!》)

 って、だから軽くガッツポーズ取ってじーんとくるのはいいんだってば。
 ほら、そんなことやってるから親御さんたちもくすくす笑ってるし……。

「え、えと。じゃあまずは自己紹介から。一応、今回教師役を務めます、北郷一刀といいます」
「おにーちゃんへんー♪」
「つとめますー、だってー」
「いいますー、だってー」
(…………素直だなぁ……ほんと……)

 いろんな意味で。
 子供たちとは鈴々との付き合いで遊ぶことはあっても、敬語で話すことなんてなかったわけで。子供たちにとってはそれが違和感としてしか受け取れないのか、俺のことを指差して笑っていた。
 いやいや、これくらいで寂しい気持ちになってる場合じゃない。
 きちんと仕事をしないとな。
 うんうんと頷きながら、一人ずつ自己紹介をしてもらう。
 それが終わると、いよいよ授業開始だ。
 簡単なことから、とはいったものの、いきなり授業を始めてはワケが解らない上につまらないだろうし───

「よし、じゃあここに居るみんなが、一人一人の級友ってことになるな。今日は体験するだけだから、どうか楽しむ気持ちで受けてほしい」
「“ます”はー?」
「つとめますー」
「ますー」
「いや……ああ、うん……もうどっちでもいいんだけどさ……」

 ───だからまず、書くことに慣れてもらう。
 数は少ないけど、チョークと小さな黒板を用意出来た。
 これを配って、机の上に置いたそれらに好きなことを書いてもらう。
 名前を書いてもらうのもいいかなって最初こそは思ったものの、自分の名前の文字さえ知らない子も居るだろう。
 だったらまずは、“書くこと”を学んでもらう。
 遊びで書くんじゃなく、授業として書くことを覚えてもらう。
 初歩の初歩、極々簡単なことだけど、それこそ初歩……第一歩として学んでもらおう。

「あ、最後に。今日は一通りの授業を体験してもらいますが、普段の僕……ああいや、“俺”でいいやもう。普段の俺が受け持つ授業は、天の知識を知ってもらうものになっています。真面目に覚える必要は特になく、いわゆる〜……《カカッ、カッ》……“脳力開発(のうりょくかいはつ)”に役立てるものです」

 黒板にチョークを走らせる。書いた文字は“脳力”。能力ではない。

「……? 御遣いさま? その“のうりょく”というのはいったい……?」

 さっき、俺に“肩車してー”と言ってきた娘の親らしき女性が、軽く質問を飛ばす。
 それに対して一度頷いてから、軽く説明を開始。

「細かに説明するのは逆に難しいし、俺も詳しく知ってるわけじゃないけどね。脳力は、いわゆる頭の力のこと。考える力とか、判断、決断する力のことだね。そういった記憶力や理解力の底上げをするための授業を、俺が担当することになりました」

 敬語と普通の喋り方が混ざったおかしな言葉が出るが、みんなは興味津々のご様子で聞いてくれていた。
 や、むしろ解らないことは率先して訊いてくる始末で、“天の知識”を解るように説明するのはこれで結構難しかったりした。

「つまりそのじゅぎょーってやつでは、御遣いさまがおいらたちに、そのー……天の知識を授けてくれるってぇわけですかい」
「ああいやっ、授けるなんて大げさなものじゃないからっ……! ただ、知らない知識を見て聞いて書くことで、脳に刺激を与えることが重要なんだ。難しいから諦めるんじゃなく、むしろこう……自分が解らないことを前にした時は、“脳を鍛える機会が巡ってきた〜”って思ってみるのもいいかもしれない」
『…………?』
「あ、うん……まあ、細かいことはおいおい知ってもらうとして。難しい話だけど、なんでも楽しんでみよう。楽しめなかったら楽しむ努力をしてみるんだ。どうすれば楽しくしていられるのかを、心の片隅ででもいいから考えてみる。……それは些細なことだけど、子供の頃はいろんな人が持っている純粋な感情だから」

 そういったものを持つことさえ出来なかった時代を生きたのなら、たった今知ってもらうのもいい。
 そうして、少しずつ“楽しむこと”と“学ぶこと”を知ってもらおう。
 教えて、知ってもらうのが教師だ。押し付けるだけなら誰にでも出来るもんな。
 ……言うだけで、思うだけでその通りになるのなら、誰も苦労はしないわけだけどさ。


───……。


 ───そんなわけで第一教科、国語。

「はい、ではまず簡単なところから。……(いー)。天では(いち)、って読むんだけど、国語らしく壱って書こう。文字にして書くと難しいけど、口にするのは簡単だなぁ」

 手本として、教壇に打ち付けられている大き目の黒板(現代日本のものほど大きくはない)にチョークを滑らせる。
 作りが荒い所為もあってかボロボロと砕けるチョークだが、書けないこともないので。

「〜〜っと。これを見本に、壱を書いてみよう」
「かいたーっ♪」
「にーちゃんかいたー!」
「みてみてー!」
「早ッ!?」

 驚きつつも歩き、子供たちが座る机から机へと視線を巡らせるわけだが……

「………」

 見れば、とりあえずは何かが書かれていて、それがなんなのかが理解出来ない状態。
 一応形をなぞろうとした形跡はあるものの、それが見受けられるのは最初の一線だけ。
 あとは滅茶苦茶なわけだが……なんだろうなぁ……こう、無条件でその努力を褒めてやりたくなるほどの輝く笑顔で、「どう? どう?」って見上げられると……ま、まあ最初は楽しんでもらうためだし、いいか。

「ちょ、ちょっと違うけど……うん、書こうとした努力は伝わってくるぞー」
「えらいー?」
「ん、偉い偉い」
「《なでなで》わ……え、えへへー……♪」

 くいくいと服を引っ張り、見上げてきていた娘の頭を撫でてやる。
 すると、褒められたのが嬉しかったのか、今度はもっと上手く書こうとしてか教壇の黒板と自分の黒板とを見比べながら、チョークを走らせる少女。
 なんだかくすぐったい気分になっていると、その後方で「へっへっへ」と笑いながらチョークを走らせる男性を発見。

「っし、と。へへっ、どーですかい御遣い様、上手く書けてるでしょう」

 近寄ってみると、ニヤリと無邪気に笑う大人一丁。うん、いい笑顔だ。大人にしておくのがもったいないくらいだ。
 しかし書かれているのは“売”って字で……マテ、どーすればこう間違える。

「これは壱を書こうとしたってことで……いいのかな」
「いいえ違いまさぁ、同じものばかりを書いていては新しい道は開けないと思ったんで、少しばかりいじってみたんでさ」
「…………いや、考え方はいいかもだけど、これってそういう授業じゃないから」 

 でも楽しもうとする意欲は、他の誰よりも上だったりした。
 こういうふうに振る舞える大人は、この世界じゃあ貴重かもしれない。


───……。


 第二教科、算数。

「えっと、算数の授業では、足し算、引き算、掛け算、割り算を教えます」
「おにーちゃーん、た、たし……? ってなにー?」
「うん、ちゃーんとそこから教えていくからなー?」

 チョークがバキボキ折れる中、小さくなったそれでコリコリと文字を書く。
 やってみて解ることもいろいろあるな、教師ってキツい。
 間違ったことを教えるわけにはいかないし、だからって“これが正しい、自分が正しいに違いない”と過信するのもアウト。
 子供の純粋な目で「どうして?」とかツッコまれると、「そう決まっていたから」としか返せないのは教える側としてどーなんだ。

「まず簡単なところから。ここにチョークが二つあるな? このチョークを、さっきの授業で教えた数、“壱”とする」
「いー」
「いー♪」
「うん、そうだな、“いー”だ」

 子供のノリがありがたい。
 嫌な顔をせず、笑顔で受け取り、返してくれる。
 そんな笑顔に応えるためにも、出来るだけ解りやすいように教えていく。
 自分の視点で見るんじゃなく、子供の頃……自分がどうやって足し算を覚えたのかを思い出しながら。

「……? いーがふたつだと、あーるになるの?」
「そう。いーといーを一緒にすると、(あーる)になる。この時間では、算数を使って国語の時間に書いた壱から(しー)までの数を、軽く勉強してみようか」

 黒板に文字を走らせ《ベキッ》……チョークが折れたが気にせず書く。
 壱と壱で貮になることは教えた。じゃあ貮に壱を足したらどうなるか。

「どーなるのー?」
「貮は壱が二つあると出来る数っていうのはさっき教えたね? だから、次は(さん)になるんだ」

 黒板の高いところに、壱、貮、参、(すー)(うー)(りゅう)(ちぃ)(ぱぁ)(ちゅう)、拾を書いて、その下に足し算を書いていく。
 どの文字がどの数を表しているのかをまず説明して、少しずつじっくりと。

「よくわかんなーい」
「そ、そっか。じゃあもっとじっくりと。えーと、ここに一匹の犬が居ます」

 チョークじゃなく、生き物のほうが関心が持たれるかなーと、黒板に犬の絵を描く。
 それが二匹になれば貮になって……って教えようとしたんだが。

「にーちゃんそれなにー?」
「え? なにって……犬だぞ?」
「えー? うそだー!」
「おばけだー!」
「おばけー!」
「えぇっ!? い、犬だぞ!? 犬だろ!? いっ……犬だってば! 犬なんだって!」

 描いてみたんだが、上達しない絵の酷さに対する素直な子供の反応が痛い。
 きちんと描いたつもりだったんだが……やっぱり俺、絵の才能ないのかなぁ……。
 軽く傷つきながら、それでも笑顔で授業を続けました。


───……。


 第三教科、理科。

「御遣い様、“りか”ってぇのはなんです?」

 一時間ずつ時間を取ることはせず、要点だけを知ってもらうための授業も三つ目。
 壱を“売”と書いたおやっさんが、不思議な顔で質問を投げてくる。
 さて……理科、理科ねぇ。

「えと、たしか……様々な物事、現象を学ぶこと。火はどうすれば点くのか、声はどうやって出るのか、そういったものを知ることって考えてもらえれば」
「へぇ……声は出せるから出るもんじゃあねぇんですかい?」
「声が出るのは、吐き出す呼吸が声帯を震わせるから、だったかな。だから高い声を出す時に必要なのは喉に力を込めて絞ることじゃなくて、逆に喉を開いた状態で上手く声帯に息を当てることで───って、でも声のことは一例で、理科とはそう関係深くないから、これは忘れてくれてもいいかな」

 うん。
 それで早速理科なんだけど……チョーク作りって理科って言えるのか?
 そりゃあ粘土(自然ブツ)をいじくるわけだから、ある意味では……いやいやでもなぁ。
 まさか電気実験や火を使っての実験をするわけにもいかないし。
 や、そもそも電気もビーカーもアルコールランプも無いってば。

(でも懐かしいな……小さい頃にやったなぁ、“電球がもっとも明るく光る電池の繋ぎ方は、どういう繋ぎ方でしょう?”って)

 答えは直列だった。あくまで“もっとも光るのは”に対する答えで、持続力で言えば並列だったっけ。
 さて……理科、理科ねぇ、ってさっきも巡らせたよ、この思考。
 うーん……チョーク作りの予定……で、一応粘土も用意してあるにはあるんだけど。
 いっそのこと粘土細工でも作ってもらおうか? や、それだともう理科っていうよりは図画工作の部類だ。
 もしかして理科、必要なかった?
 ……そう考えたら、この授業出されて喜ぶのって、真桜くらいしか居ないような気がしてきた。

「……よしっ、決定! 理科の授業では粘土で好きなものを作ってもらうっ!」
『?』

 チョークはその片手間で十分だ。
 粘土だって質のいいものじゃないし、貴重ってほどでもない。
 なにより楽しんでもらうことが第一なんだ、こんな日があってもいいだろう。

 ……そういった経緯もあって、用意した粘土で散々と遊ぶ時間が訪れたわけだが。
 子供たちは元気に粘土を叩いたり、こねくり回したりしてご満悦。大人は何を作るかを懸命に考え、子供に促されるや叩いたりこねくり回したり。
 なんのかんのと全員が楽しんでくれたらしい“理科……?”の時間は終わり、作ったものは後日、焼いてもらうつもりでいたのだが。焼き加減を誤り、ボロボロになったものを届けることになり、子供達や大人たちに笑われることにもなるのは、少し先の話である。


───……。


 ……そんなこんなで時は過ぎて、ようやく今日の体験授業の全てが終了。
 一日中、“仮生徒”のみんなと付きっ切りの授業をこなした俺は、鍛錬よりもよっぽど疲れた体を自室の寝台にぐったりと寝かせていた。

「……」

 予算の都合上、豪華なものを出すわけにはいかなかった給食も、工夫が良かったのか振る舞われたのが良かったのか好評で、みんな喜んで食べてくれた。
 こうなると実際、食事だけを目当てに体験入学しようとする人が居そうだ。
 素晴らしく美味いわけでもないけど、美味いか美味くないかよりも食べられることが重要だという人も、きっとまだまだ居る。
 ……いや。むしろそんな人がきちんと自分が望む道を進めるくらいにまで、ここで学んでくれれば嬉しい。

(よし、もっと煮詰めないとな)

 体は疲れているくせに、考えることはそんなことばっかりだ。
 授業内容と民の反応を桃香に報告する時も、どうにもこう……妙に興奮していた自覚があるし。少し慌てていた桃香の顔を思い出したら、少しだけこちらも笑顔になれた。

「体験しようとする人が増える今だからこそ、“先生”を体験するのも今だよな。そこのところは桃香にも話を通してあるし、先生役を務めてもらう人と一緒に頑張っていこう」

 ……でもとりあえず今日はもう無理。
 こんな状態でさらにテスト作成とか予習復習もするんだろうから、教師の仕事は本当に大変なんだなぁ。
 そう思ったら“将来は先生になる”ってイメージだけは、どうにも沸きそうになかった。




63/鍋でコトコトではなく、様々な物事を煮詰める

 初めての体験授業の翌日から、学校計画は輪郭を持ち始めた。
 桃香の言葉から始まった計画だそうだから、桃香がこうしたいと思う学校の在り方を前面に出す方向で。
 俺が感じたこと、さりげなく民に訊いた反応を初日の分だけで話し合い、ここはこうするべきだ、ああするべきだと話し合う。
 体験入学者が増えると、俺が教師役を務めながら、どうやって進行させていくべきかを知ってもらうために、教師候補の人には横で授業内容を見てもらう。
 教師と生徒を同時に育てなければいけない状況はさすがに辛く、質問ばかりで混乱しそうになるのも……まあ、仕方の無いことだ……よね?
 質問に一つずつ丁寧に答え、どうするべきかを解りやすく説明するのは難しい。
 けれど、難しいからこその反応が確かに返ってきてくれた瞬間が、こんなにも嬉しいのだから……頑張らない理由を、今の俺には見つけることが出来そうもなかった。

「って、考えた通りに物事が運ぶんなら、だぁ〜れも苦労しないんだけどさ」

 あれよこれよと時は過ぎる。
 教師役を任された俺は多忙の日々を過ごすこととなり、鍛錬なんてしてる暇はございませんよとばかりに、あっちでドタバタこっちでウンウン。
 目が回るとはまさにこのことで、それでも体が鈍らない程度には鍛錬を織り交ぜてみれば、翌日は疲れでぐったりしていたりするわけで。
 ……どの道、三日間は体を休めることを鍛錬の中に織り交ぜているんだから、普通にしていればいいんだけどさ。鍛錬をした翌日はやっぱり体が重くなるのだ。
 なにせ授業が終わってからの鍛錬だから、時間も大分遅くなってしまうのだ。翌日に響いてしまうのをどうしても防げやしない。

「北郷一刀ー! 子供たちが陳宮のことを馬鹿にするのです!」
「馬鹿じゃないことをその頭脳で解らせてあげればいいじゃないか」
「頭のことではなく、身長のことで馬鹿にするのですよ!!」
「………」
「無言でお手上げするなですーーーっ!! 天の知識には身長を伸ばす方法などはないのですか!」
「夜きちんと寝ること、食事の栄養をバランスよく摂ること、よく運動して、正しい姿勢でいること。ストレッチとかも、曲がった骨を矯正するためにはいいっていうな」
「ばらん……? す、すとれ……? ななななにをわけのわからんことをーーーっ!!」

 教師とは生徒に、自分が持つ知識や既存の知識を教える者。
 経験から知られるものも含め、自分はこうだと思っていることを、たとえ仮説であれ説得力を以って伝える。
 それを、聞いてくれる生徒がそういう考え方もあるのかと思うのならよし、真っ向から否定してくるのなら、その説得力で自分が学ぶのもまた良し。
 教師だって万能じゃないんだから、生徒に教えられることだって山ほどある。
 事実として、“生徒との会話が上手くいかない”、“生徒が自分を馬鹿にする”なんて言葉は少なくない。
 一応、「馬鹿にしていると受け取る前に、自分を象る一例として受け取ってみて」と返してみたものの、それを簡単に実行できれば苦労はしないわけで。

「じゃ、今日の体育の先生は馬超さんだぞー」
『せんせーおねがいしまーす!』
「せっ……《じぃいいん……》……先生か……! な、なんかやる気出てきたーーーっ!」
「……加減誤ると嫌われるから。気をつけてね、馬超さん」
「あっははー、任せとけってー♪」
(不安だ……)

 体育の方も、程度のいい加減を伝えながら武官たちに行ってもらった。
 文官のみんなとは違い、武官のみんなは先生なんて呼ばれることがほぼ無いと言っても過言じゃない。なもんだから、子供たちから先生先生と呼ばれると舞い上がる将が激増。
 指導はエスカレートするばかりで、行き過ぎないうちに止めることが日課になりつつあった。

「よし桃香、今日は足運びの練習をしようか」
「うーん……───ねぇお兄さん? 教えてくれるのはありがとうなんだけど……最近のお兄さん、ずっと休んでない気がするよ? 少しは休まないと、また体壊しちゃうよ」
「はは、むしろ充実しすぎてるくらいだよ。自己満足でしかないんだろうけど、民にいろんなことを学んでもらって、そこで学んでくれたことがのちの国のためになるかもしれない。そう考えたらさ……ははっ、なんかこう……“ああ、返していけてるんだなぁ”ってさ」
「それでもお兄さんは頑張りすぎだよぅ、私が見てもそう思うもん」
「桃香には言われたくありません。ついこのあいだ、徹夜で書類整理してて危うく倒れそうだったのは、何処の誰だったっけ?」
「うぐっ……! お、お兄さんずるいー! 今はお兄さんのこと話してるのにー!」
「はいはいずるくて結構。……ほら、続き。まだまだ頑張らないといけないんだ、体作りや体力作りはやっておいて損はないよ」
「う、うー……」

 それでも慣れないことなんてきっとない。
 恐怖や緊張にこそ慣れたいと思う時は多々あるが、慣れる前に死にそうだから、そういった感情的なものへの慣れは度外視するとして。
 教師役が少しずつ増えてくると、俺も時間が取れるようになってくる。
 そうなれば桃香の鍛錬や自分の鍛錬もすることが出来るようになり、書類整理のことで彼女が徹夜することも───……って、あれ? 七乃は? 手伝ってくれなかったのか?

「ひとつ彫ってはお嬢様のためー、二つ彫っては美羽さまのためー」
「あの……七乃? なんで部屋に閉じこもって延々と木彫りなんか……」
「だって……最近一刀さんたら全然会いに来てくれませんし。寂しかったんですよ? からかう人が居なくて……」
「……彫ってる暇があるなら仕事をしようね……。桃香が頼まないからって、何もしなくていいわけないだろ……?」
「ううー、だってこう、ただ与えられた仕事をこなすだけじゃあ、難しい物事をこなすための意欲といいますか、そういうのが無くってですねー」
「じゃあ今日中に、桃香が溜め込んだ書類を二人で片付けるんだ。拒否は許しません」
「きょっ……今日中にですかぁっ!? あの、わざわざそんな言葉をつけるということはー……ですよ?」
「うん、たーんと溜まってる」
「………」
「ヨカッタネー、七乃の好きな無茶振りデスヨー」
「あ、あのー、私急用が」
「ああ、月と詠が七乃の部屋をいい加減掃除したいとか言ってたから、今日のところは木彫りは無理だよ」
「えぇっ!? そ、そんなっ、勝手に掃除なんてっ!」
「木屑だらけのこの部屋に住みついてて、勝手もなにもないだろ……。ほら、これ見てもまだ文句言えるか?」
「……? これは?」
「七乃が歩くだけで通路に出来る木屑の道」
「…………わー」

 教師役が増えたことで桃香を手伝う人が少なくなり、最近じゃあもっぱら書類整理に追われている。桃香自身ももちろん頑張ってはいるものの、学校が出来たことで出てくる問題の量も当然増えたわけで。
 そこにきて、それらを細かに整理する朱里や雛里が席を外すことになれば、まあ……手が足りなくなるのは解りきっていたことなのかもしれない。

「貴様を見ているとなんというかこう……っ……モヤモヤするんだっ!! 直せっ!」
「いきなりなにっ!? あ、あの、魏延さん? 俺これから昼ご飯で……」
「そんなものは後でいい」
「えぇっ!? いやあのっ……俺朝から今まで授業のやり方をぶっ続けで教えてたから、朝も食べてなくて……!」
「黙れ。……貴様という男をこれまで見てきたが、どうして貴様はそうっ……やることなすこと桃香様に似ているんだ! 桃香様が迷惑している! 今すぐやめろ!」
「…………イヤ……ホント、イキナリソンナコト言ワレテモ……」
「子供たちのあの安心しきった顔……! ワタシが知る中で、桃香様にしか向けていなかった柔らかな微笑み……! それを何故貴様ごときが受け取れる!」
「……? あの、魏延さん? もしかしてこのあいだの体育の授業で、子供たちに目が怖いって泣かれたの、気にして───」
「《ぐさっ!》うぐぅっ!? うぅうううるさいうるさいぃっ!!」
「うーん……ね、魏延さん。もう少し肩の力を抜いてさ、こう……笑ってみて? 子供っていうのは俺達大人が子供を見るよりもずっと、大人を見ているもんだよ。だからさ、そうしてずぅっとキッと厳しい目つきをしていたら、怖がられちゃうよ」
「何故ワタシが笑みなど浮かべなければいけない」
「その“何故ワタシが”を外した一歩が大事な時もあるからだよ。俺がその、魏延さんに嫌われてるのは解ってるし、俺に笑顔を見せてくれなんて言わないからさ。せめて子供達には───」
「………………」
「魏延さん?」
「癪に障る。そうして自分のことを後に考える姿が似ているからモヤモヤすると……!」
「屁理屈こねてるだけだよ。子供の前で笑えれば、いつかは俺の前でも〜って」
「…………貴様を見ていて解ったことが一つある」
「? え、なに?」
「ワタシはその手の冗談が大嫌いだっ!!」
「へっ!? うわちょ、タンマッ! その金棒どこからギャアアーーーーーッ!!!」

 実は最初───学校が完成したって知った時は、他国のお偉いさん……つまり華琳や雪蓮が見に来ていたりしていないかなと期待を持った。
 もちろんそんなことは無かったんだけど。残念に思う気持ちと、任されてるから見に来ないのかもしれないって思いがごちゃ混ぜになっていた。
 自分の勝手な想像を働かせては、その期待に応えたいと思う自分。
 そんな馬鹿な自分なら、調子づかずに自分を磨いていけるだろうか───

「まったくっ……! まったくまったくまったくぅうう……!! 何故っ! どーしてあの男はわたくしをっ! このっ、わ・た・く・し・を・前にっ! 跪きも美しいと認めることもしないんですのっ!?」
「んー……なー斗詩ぃ? それ以前にさ、麗羽さまの“美しさ”の前に跪いた男なんて居たっけ?」
「わわわっ!? 文ちゃん!?」
「《ヒクリ……》猪々子さん? よく聞こえなかったんですけど、今、なにか仰って?」
「あ、やぁ〜……真面目な話なんですけどね、ほらえっとー……と、斗詩ぃ〜っ」
「私に丸投げするくらいなら最初から言わないでよ文ちゃん……。あの、麗羽さま……?」
「……つまり。このわたくしが、華琳さんに劣るばかりか男の興味も引けていないと?」
「いやぁ、そういうんじゃなくてですね? ほら、引けるんだったらとっくに認めてるんじゃないかなーって」
「文ちゃん!? それって結局意味があんまり変わってな───はっ!? あ、ぁあああのあの、麗羽さま!? 今のはっ……」
「〜〜〜〜っ……! あ・な・た・た・ちぃいい〜〜〜……!!」
「あ、あ……おち、落ち着いてください麗羽さ───“たち”!? えあっ……えぇえええ!? どうして私までぇーーーっ!!」

 ───そんなことを思っていた矢先に、少しずつ周りの反応も変わり始めていることに気づく。
 気づくきっかけになったのは、多分だけど袁紹さんだった。


───……。


 ある日のことだった。
 ようやく学校も安定を見せ始め、教える側にも教わる側にも多少の余裕が出てきた頃。
 桃香や七乃と一緒に始めた書類整理も終わり、あとは軽く運動をして眠るだけって時に、部屋のドアをノックする音。返事をしながら開けてみると、いつもの“偉いですわよオーラ”をしぼませた袁紹さんが、一人そこに立っていた。

「袁紹さん? ……あれ? 文醜さんと顔良さんは?」

 いつも一緒に居るのになと不思議に思っての言葉に、彼女は途端に不機嫌になった。

「……ふん、どうでもいいですわ、そんなこと。それよりも……これで最後にしましょう? 解らず屋の貴方にこれ以上問うても無駄でしょうから。……さて、一刀さん? 貴方から見て、わたくしは……美しいですわよね?」
「…………?」

 感じたのは違和感だろう。
 いつもなら訊ねるんじゃなく、“美しいと認めなさい”って押し付けてくるのに……それがどうして、今日で最後だとか、美しいですわよね、なんて疑問系になるのか。
 というか、答えを間違えたら大変なことが起こりそうな予感がひしひしと。

(あ、あれー……? 突然部屋に来訪されて、どうして急にこんな重苦しい空気が……)

 どうしてといえば、多分この場に居ない文醜さんと顔良さんに関係があるんだろう。
 まあその、主に文醜さんに。顔良さんは巻き込まれてばっかりだもんなぁ。
 じゃなくて、ええとどうすればいいんだ?
 この場合、俺がいつも言っている“華琳の方が”って言葉は無意味だ。
 俺から見て、袁紹さんが美しいかどうかを問われてるわけなんだし。
 じゃあ……

「…………《じー……》」
「……? じろじろ見ていないで、さっさと答えてくださるかしら?」

 言葉の割りに、瞳は何処か不安げに揺れていた。
 ここは美しいって返すべき……なのか? そしたら“おーっほっほっほっほ、えーえそうでしょうとも!”って元気になって、“で・は。華琳さんとわたくしとではどーですのっ!?”といった流れに……。

「………」
「………? な、なんですの?」

 ……考えたら負けか。
 彼女は俺の意見を聞きたくて、ここでこうしているんだ。
 考えた末の言葉じゃなく、今の彼女を見て思ったこと感じたこと、その全てを返そう。

「───……」
「…………」

 真っ直ぐに見つめる。
 きちんと人の目を見て話す人らしく、その目をじぃっと見ていたら、華琳が言うほど嫌な人物じゃないんじゃないかと感じた。
 美しさのことでムキになって、華琳と自分を比べるなんて可愛いなとも思う。
 ……そうだな、外見は綺麗で……中身は可愛い。
 華琳から聞いた印象からすれば───調子に乗りやすくて、おだてられたら突っ走っちゃうような人だそうだけど、それは多分……いい意味で純粋だからだ……と思いたい。
 もっと心に余裕と落ち着きを持てば、もっと綺麗に見えるんじゃないかな……。

(……軽く伝えるから、調子に乗っちゃうのかもしれない)

 もっとこう、自分が綺麗だってことを周りに自慢するんじゃなく……自分が綺麗だってことを誰かが知っていてくれるならいいって、そう思えるように。
 別に調子に乗っちゃうことがいけないことだとは言わないけど、高笑いをして見下してばかりの人に、好んでついて行く人は少ないだろう。
 そう思えば、袁紹さんはいい部下に恵まれてる。
 ……袁紹さんが恵まれている分、文醜さんと顔良さんは苦労してるんだろうなぁ。
 そんな風に連想してみたらなんだかおかしくなって、ついいつもの調子で……そう、まるで朱里や雛里にそうするみたいに手を伸ばし、袁紹さんの頭を撫でて───

「なっ!?」
「……うん、そうだね。綺麗っていうよりは……可愛いかな」
「は───……」

 最初から“華琳と比べる”って前提がなければ、いくらでも綺麗だって認められたんだけど……えっと、それを今言うのって……多分地雷……だよな?
 素直な言葉を届けたつもりだけど、これで反感を食うなら仕方ないって諦めがつく。

(さあ袁紹さんっ、ヒステリックボイスでも見下した言葉でも、どんと来いだっ!)

 頭を撫でる手を静かに引っ込めて、ジッと袁紹さんの目を見つめた───……んだけど。

「………」

 顔を真っ赤にして動かなくなった袁紹さんが、そこにいらっしゃった。


───……。


 ……で……それからどうなったのかといえば。

「ねーねーお兄さん、おにーさーん」

 いつもの昼、暖かな日差しが差す執務室に、ねだるような桃香の声が響く。
 ……周りの反応が変わり始めていることに気づいたのはつい最近。
 袁紹さんが俺に訊ね、それに対して頭を撫でて返した瞬間といえるのだろう。
 むしろ周囲の反応がどーのこーのよりも、地雷なんてものは自分が考えている以上にいろいろな場所にあるものなんだってことに気づいた。

「え、えーと、この書類は〜〜〜っと……《くいくい》……あの、恋? 今仕事中……」
「…………《じーー……》」
「うう……」

 選択肢ってものが見えるなら、きっと地雷なんて踏まずに済む道がひとつはあるんだ。
 でも俺には選択肢なんて見えないし、見えたとしても、選べる選択肢の全てに地雷が設置されていたとしたら、どうすることも出来ないのだ。
 俺が選んだ選択肢はまさにそれで、ハッと気づけば一部の将からじぃっと睨まれることになり……

「だ、だからさ、その……袁紹さんのことを可愛いって言ったのはね? 美しいかどうかを訊かれたからで───」
「じゃあお兄さん、私のことどう思う?」
「……桃香サン? それ、今日で何回目の質問だと思う? ほ、ほら恋も……あんまり引っ張られると服が伸びるから……」
「…………《じーー……》」

 原因の全ては、“あの”袁紹さんを可愛いと言い、頭を撫でたことにあった。
 「綺麗だーとかなら誰もが言う言葉でしょうに、あろうことか可愛いとはなんですか可愛いとは」と、どこぞの美髪公に正座させられながら詰め寄られた時は、わけも解らず泣きました。
 しかも散々説教したあとに「で、では一刀殿? 私のことはどう思われますか?」なんて訊いてきて……もう、どうしろと?
 そんな突端があったがために、みんなからはからかうように質問される始末である。
 ……えと、からかってるんだよね? 本気じゃないよね?

「いいなー、麗羽さんは。お兄さんに可愛い〜って言われたんだよねー?」
「と、桃香ー? それ、笑顔でじりじり近づきながら言う言葉じゃないぞー? その……大体急に可愛いなんて言われて、袁紹さんだって怒ってたりするんじゃないか? ……俺だって今にして思えば、“美しいかどうか”を訊かれたのに“可愛い”はなかったよな〜って反省してるんだから」
「えー? 私は言われたいけどなー」
「トウカハカワイイナァ」
「もーっ、心が篭ってなーいぃっ!」

 怒り方がまるでシャオだった。

「ほらほら、そんなことよりも書類書類。七乃だってもくもくと手伝ってくれてるんだから、国の主の桃香ももっと頑張らないと。最近は特に学校についての書類が多いんだ、発案者なんだからしっかり。な?」
「うぐっ……うー……ちゃんと言ってくれたら、もっともっと頑張るのになー……」
「頑張るって……それだけで?」

 うーん……よく解らない。
 以前、冥琳を可愛いって言ってしまって反感を食って以来、そういった言葉は使わないようにと思ってた。
 明らかに年下で、可愛いって言葉が似合う相手ならまだしも。
 うん、璃々ちゃんになら抵抗なく可愛いって言える。言えるんだけど…………我ながら、どうしてあそこで“可愛い”だったんだろうなぁ……。
 袁紹さん、気を悪くしてないといいけど。

(結局あれから、停止状態だった袁紹さんを顔良さんと文醜さんが回収しに来てそれっきりだから……どうなったのかが気になってはいるんだよな)

 出会い頭に怒られたりしたらどーしよ。
 ……いやいや、今はそれよりも、次から次から積まれていく書類を片付けないと。
 恋は服を引っ張ってくるだけで、邪魔をしてくるわけじゃないからこのままでも構わないし。……問題があるとすれば、この「ねーねー」とせがんでくる栗色の王様だ。

「あのー、一刀さん? ケチケチしていないで、頭くらいバーッと撫でちゃって、可愛いと言ってしまえばコロリとイチコロですよ?」
「あのー、七乃さん? ケチケチしてるつもりはないし、イチコロってなにが?」
「それでついでに私の頭もやさしく撫でてくれちゃいますと、なんと言っちゃいますかこう、やる気が沸いてくることもなきにしもあらずでしてー」
「うわー、にっこにこ笑顔で全然人の話聞いてくれないよこの人」
「あ、もちろん“可愛い”もつけてくださいね?」
「人の話は聞かないのに注文多くない!?」

 気づけばいつの間にか、俺が座る椅子の横に七乃が居た。
 いつものにっこり笑顔のままに、ピンと立てた指をくるくる回している。
 ……というか笑顔のまま俺のことをじーーーーーーっと見てきている。逸らすことなく。
 女性は怒った顔よりも笑顔が怖い。そんな言葉を、僕はこの世界で知りました。
 それでも、殺気を込めた華琳の笑顔に比べればまだまだやさしいと思うあたり、自分はとんでもない人を好きになったんだなぁとつくづく実感。

「はぁ……」

 既に書類はほっぽって、俺のことをじーっと見ている桃香と七乃を見て溜め息。
 そうしなければちっとも仕事が捗らない状況を確認するや、一度自分の胸をこつんとノックしてから手を伸ばす。
 可愛いなんて言葉、ウソで言うもんじゃない。
 だから心を込めて真っ直ぐに。その覚悟を胸に、やがて手を伸ばして───

  どばぁーーーんっ!!

「うわぁっ!?」

 ───驚いた。
 手を伸ばした瞬間、桃香の目がぱぁっと輝いたと思ったまさにその時、執務室の扉が外から勢いよく開かれたのだ。
 まさか魏延さん!?と命の危険をも感じた俺だったが、そこに立っていた人影は口元にその綺麗な手を軽く当てると、

「おーーーっほっほっほっほ!!」

 ……笑ったのでした。
 それだけで相手が誰なのかが解ってしまう。
 この大陸の何処を探そうと、こんな笑い方をするのは彼女だけだろう。
 アア、なんだろうなぁ……どうしてか知らないけど、俺の本能がニゲロニゲロと警鐘を鳴らしている……!
 伸ばしかけた手も半端なままに下ろし、それを見た桃香や恋がしゅんとしたりしたけど、今はこの状況が無事に過ぎ去ってくれることをただ願うばかりで───

「あ〜らやはりこちらにいらっしゃいましたのねぇ一刀さん」
「え、袁紹さん……あの、なにか用……?」
「ええ。わたくし、悟りましたの。このわたくしが、美しさでどーーーしても僅かに、ほんのすこ〜〜〜しだけ華琳さんに一歩及ばないというのなら、別のことで勝ればいいのだと」
「…………嫌な予感しかしないんだけど、それってまさか───」
「そう……可愛さで勝っていればいいのですわ!」《どーーん!》

 ギャアアアやっぱりぃいいーーーーっ!!!!
 じ、じじじ自信に満ち溢れた顔で何を仰ってるのこの人ォオーーーッ!!

「そうですわよねぇ、貴方がわたくしのことを可愛くて仕方がないと感じているのなら、美しいだなんて認めたくなるはずありませんものねぇ〜」
「へっ!? あ、い、いいいいやっ……ちがっ……それ違っ───」
「恥ずかしがる必要などありませんわ〜? わたくしのあまりの可愛さに、あんなにも気安く撫でたのですから。今さらどう取り繕ったところで、仕方の無い照れ隠しにしか見えませんもの、ええ。それに……わたくし、殿方にあれほど気安く触れられたのは初めてでしたの」
「……お兄さん……?《ニコリ……!》」
「ヒィッ!? ち、ちがっ……いや違わないけどっ! 袁紹さん!? 頬を染めながらそんなこと言わないで! あと明確に! そこは明確に言おう!? 頭だから! 気安く触れたのも撫でたのも頭だけだからぁっ!!」

 怖ッ! 笑顔に凄みを感じる!
 笑顔なのにとっても怖い! やっぱり女性って笑顔が一番怖いよ!?

「わたくしの新たな可能性を、わたくしよりも先に見抜いた人……貴方、気に入りましたわ? 華琳さんのことなんてほっぽって、わたくしのもとにいらっしゃい」
「ごめん無理《きっぱり》」
「今なら斗詩と猪々子をつけますわよ?」
「なっ……余計にだめだっ! 自分の大事な部下を交渉材料に使っちゃだめだろっ!」

 少しカッとなって、扉を開けた位置から動いていない彼女の前へと早歩きで歩み寄り、その肩を掴んで瞳の奥を真っ直ぐに見つめる。
 見つめる、どころじゃない。いっそ睨むくらいに、キッと。

「………」
「………」

 しばらくそのままの状態が続いたけど、袁紹さんはつまらなそうに俺の手を払うと背中を向けた。

「……ふん、なんですの? この袁本初が直々に声をかけて差し上げたというのに」

 どうやら気に食わなかったようで、袁紹さんは振り向かずにそう言うと、歩いていってしまう。

(う……もうちょっと、言い方ってものがあったかな……)

 そんな様子を見て思わずそんなことを思ってしまったのだが、どうしてかその、姿勢よく歩いてゆく姿がピタッと止まった。

「……? 袁紹さん?」
「……麗羽で構いませんわ。訊き忘れていたから一応訊いて差し上げますけど、貴方の真名はどういったものですの? このわたくしの真名を口にする権利を与えて差し上げるのですから、その、……そちらも名乗るのが礼儀というものでじゃあありませんこと?」
「へ? あ、いや……」

 立ち止まり、ほんの少しだけ振り向いた袁紹さん。
 どうして急に真名を許す気になったのかを訊ねようと思ったが……えーと。さっき言ってた可能性云々の発見の報酬ってことでいいのでしょうか?
 でも天には真名って風習はないから、俺だけが大切なものを許されることになるわけで、少し罪悪感が。
 や、ここで“どうして日本には真名って風習がないんだよ”って愚痴ったところで仕方ないんだけどさ。

「あの、ごめん袁紹さん。天には真名って風習が無くてさ。だから俺の名前は北郷一刀で全部なんだ。強いて言うなら、一刀が俺の真名ってことになってて…………あれ?」
「っ!? あ、あーらそうですの…………ということはわたくし、勝手に真名を呼んでいたことに……い、いいえ? 風習がないのであれば、そう大事なものでも……いえ、けど………………一度呼んでしまったものは仕方ありませんわね……これからも一刀さんと呼ばせていただきますわよ?」
「? ああうん、それは───、……?」

 あの、袁紹さん? さっきからちょっと気になってたんだけど、耳……真っ赤じゃない?
 完全にこっちに向き直ってないから、耳しか見えないけど……赤い。赤いよな。
 もしかして今さら風邪が伝染ったのか? ……や、そもそも袁紹さんはお見舞いには来てなかったはずだから、伝染ったとはいわないか。
 じゃあ普通に風邪? ……一応、休んでもらっといたほうがいいよな。俺が決めることじゃないだろうけど。

「袁───じゃなかった、えと。……麗羽さん、その」
「!!《ビクゥ!》」
「……?」

 少し躊躇しながらも、許された真名を呼んでみた───ら、肩が跳ね上がった。
 もしかしてやっぱり嫌だったのかなと思いながらも、跳ね上がったんじゃなくて、咳かくしゃみだったりしたら大変だと歩み寄る。
 回り込むようにして、ようやくその顔を見るに至るわけだが───…………

「………」
「………」

 ……一言。真っ赤っかでした。
 さっきまで見せていた真っ直ぐな視線はどこへやら、俺と目を合わすこともなく泳ぎまくる視線。
 どうやら耳が赤く見えたのは錯覚だったわけじゃあなかったらしい。
 ここまで見事に赤いと流石に心配になり、一言断ってからその額に手を伸ばす。
 その途端にまた赤くなったような気がしたが、払われることも警戒されることもなく、手は額に届いて…………熱い。熱いって。風邪じゃあなかったとしても、これは確実に熱があるって。

「…………《じーー……》」
「? 袁……麗羽さん?」

 額に触れる中、どーしてか麗羽さんが俺のことをじーっと見つめる。
 まるで、訪れるかもしれない何かに期待するように、じーっと。
 …………えと、まさか……だよな?
 さっきの桃香たちみたいに、頭を撫でて可愛いって言ってくれ〜なんて……そもそもこれは頭を撫でてるんじゃなくて、熱を測ってるだけでありましてそのー……。
 いや、そりゃあさ、さっきまでおーっほっほっほだったお嬢様がこんなに大人しくなって縮こまってるんだから、状況が状況なら可愛いとさえ思うだろうけど……病人かもしれない人に可愛いとか言って頭を撫でるのはどうかと。
 ……あ。でもいつか及川が言ってたっけ。

  “お嬢様っちゅーのにはいくつかタイプがある。親に大切に育てられたお嬢様とか、厳しく育てられたお嬢様とか、両親が忙しくて寂しく育ったお嬢様、いろいろやなぁ。そないなお嬢様の中でも、おーっほっほとか笑うお嬢様タイプはこう……案外寂しがり屋なんや。せやから常に誰かを身近に置いたりして、その中心で高笑いしとんねや”

 とか。
 それと、なにかいいことも言ってたような───

  “そーいったタイプを落とすのに必要なんはなぁ、なんでもえーから一度、自分に夢中にさせたることなんや。そーすることで今までの寂しさの分、夢中になった相手に意識が向かう。その意識全部をひっくり返すことが出来れば───!”

 もうもらったもどーぜんやー、だっけ。
 あんなに熱く語ってもらってなんだけど、そうしてモテていた彼は何故、特定の彼女を作らなかったんだろうなぁ。
 じゃなくて。そういう話じゃないだろ俺。

  “まあつまりはや。そういったタカビーなお嬢様は、大体誰かに甘えたことが無いわけや。あったとしても、それはそれが当然としてやってもらえることって思とるんのが大半。解るな? 執事さんとかにあれやってこれやってゆーて、やってもらうのんは甘えとは呼ばへんのや”

 ……つまり、自分が夢中になった相手……少なくとも自分が意識した相手に甘えるってことは───

  “せや。甘えになるっちゅーわけや”

 と。確かそんな会話をした。
 お嬢様だらけのフランチェスカにおいて、おモテになられた及川先生のお言葉だ。
 生憎と俺はモテたりなんかしなかったわけだが。
 でも……そっか、甘えることか。
 俺も愛紗もそうだったけど、風邪の時って誰かに甘えたくなるよな。
 麗羽さんが今、風邪かどうかは別にしても……大人だって誰かに甘えたくなる時がある。
 こうして実際に、何かに期待する目を向けられているのなら……今の俺には、麗羽さんを甘えさせることが出来るんだろうか。
 張ってばかりいる気を、少しは和らげることが───……いや、いちいち考えるな。
 そうしたいって思ったなら、覚悟を決めてしまえばいい。
 覚悟が決まったなら、あとでどんな報復が待っていようとも……うん、構わない。
 さあ、心を込めろ。麗羽さんの家庭事情は俺の知るところじゃないけど、あんな時代だったんだ……きっと親には甘えられなかったに違いない。
 だからまるで親がそうするように、やさしく、真心を込めて。

「……うん。そのまま一刀でいいから。それと、熱があるみたいだから休めるようなら休むこと。風邪なんか引いたら、せっかくの可愛い顔が台無しになっちゃうよ」
「───は、あ───!?《ぐぼんっ!!》」
「……あれ?」

 及川を意識して、出来るだけ労わる声をかけたつもり……うん、つもりだった。
 しかしなんというかこう、こういうのはえぇと、俗に仰るバカップル様方がラブリーにささやくようなお言葉ではないでしょうか……!?
 あ、いや、ちょっと待った今の無し! 恥ずかしい! 今のは恥ずかしい! 可愛い顔が台無しとかって……う、うぁあああーーーーっ!!!!
 あれ!? でも俺、今まででも結構似たようなこと言ってこなかったか!?
 …………あ、あれ? じゃあ普通? 普通ってことでいいのか? それとも俺が既に、単体でバカップル様の片割れってこと……?

「あ、あの、麗羽さん?」
「〜〜〜〜っ……《ふるふるふる……!》」

 しどろもどろになりながらも声をかけるが、麗羽さんは顔を俯かせて肩を震わせていた。
 額から移り、頭を撫でていた手もすでに下ろし、どうしたらいいのかを考えていると……突如として、麗羽さんが何も言わずに走り出した。

「……エ? あ、え? 麗羽さん!? ちょ《がしぃっ!》ホワッ!?」

 慌てて追おうとするのだが、何かにがしりと左腕を掴まれる。
 振り向いてみれば…………栗色の鬼がおがったとしぇ。

「お・に・い・さ〜ん? ちょおっとお話があるんだけどー《にこぉおお……!》」
「ヒィッ!? え、やっ、話って……!?」

 あの、桃香サン!? 笑顔なのに顔がとっても怖いデスヨ!?
 とか言ってる間に麗羽さん見えなくなっちゃったし!
 ……え? あ、あの? どうして恋や七乃まで来るのでしょうか……? あのっ!? どうして俺のこと囲んでっ……!? ちょ、待って! 俺なにかした!? 特に思い当たらないんだけど───あ、思春さん助けて!? なんだか知らないけどみんなが───って“自業自得だ”ってなに!? 俺はただ───あ、あっ、あぁあーーーーーっ!!!


───……。


 ……その後の話をしようか。
 そう。仕事そっちのけで、可愛いと言いながら延々と頭を撫でさせられたあとの話を。
 あれから麗羽さんは部屋から中々出てこうとしなかったらしく、それは文醜さんや顔良さんが説得に当たっても結果は変わらなかった。
 学校に関する書簡等は増えるばかりで、様子を見に行きたかった俺も、中々そうはいかない始末。
 やっぱり“休日制度をつけるべきだ”と進言して、学校に初の休みが出来る頃、ようやくじっくりと話にいけると思っていた俺の前に、少々疲れた顔をした顔良さんと文醜さん。

「あ、丁度良かった。これから麗羽さんのところに行こうとしてたんだけど───」
「アニキ、それ違う。呼び捨てにしてくれ〜だってさ」
「へ?」
「それとその、今は会わないほうがいいです。もう少し時間を置いてからにしてください」
「……? えーとそのー……話が見えないんだけど……」

 突然の引き篭もり、突然の呼び捨て宣言、そして何故か会わないほうがいいと言われた。
 これらを以って辿り着ける答えはなんだろうと考えて、考えて、考えて……答えが見つからないことに気づきました。

「いーからいーから。あ、それとあたいのことは猪々子でいいぜ」
「私のこともこれからは斗詩と呼んでください。その、これからいろいろと迷惑をかけることになりそうですから」
「えぇっ!? 麗羽さ───」
『…………《じー……》』
「うぐっ……れ、麗羽、の時もそうだったけど、いきなり真名を許されてもっ」
「細かいこと気にすんなってー、アニキとあたいの仲じゃんか」

 いや……どんな仲さ、それ。
 あはははーと笑いながら肩をばしばし叩く仲? って痛い痛いっ、加減っ、加減をっ!

「その、ねぇ顔良さ…………うぅ……と、斗詩?」
「はい?」

 お願いですから真名で呼ばなかったからって睨まないでください。
 じゃなくて。いや、それもそうだけども。

「迷惑をかけるって……いったいなに?」

 もはや自分が選ぶ選択肢には地雷原しかないのだとなんとなく感じている俺にとって、この言葉がのちの世を知るためのきっかけとなるだろう。
 無意味に壮大な覚悟を胸に口にしてみると、斗詩は困った顔で一つの書簡をはいと渡してきた。
 小首を傾げながらもそれを受け取り、カロカロと広げて内容を確かめると……

  “貴方を殿方として認めて差し上げますわ”

 ……とだけ。
 ウワー、どうしてだろう。たったこれだけの文字なのに、とっても嫌な予感が……!

「…………?」
「…………《コクリ》」

 視線で確認を取ると、申し訳無さそうに頷く斗詩さんがおりましたとさ。
 一方の文醜……猪々子は実に楽しそうだ。「っへへー♪」って、綺麗な歯を見せながらお笑いになられていらっしゃる。
 って、あれ? この文字が確かならそもそも俺、男として見られてなかった? 両生類? オカマ? オカ……うぶっ……貂蝉のこと思い出した……!

「いやあの、男として認められたのはいいけど……これってどう解釈すれば……? 凡夫から北郷、北郷から一刀になったと思ったら、男として認められてなかったなんて」
「やー、あたいもようやく肩の荷が下りるってもんだよー。これで誰に遠慮することなく斗詩と結婚できるぜっ《キリッ》」
「いや、キリっじゃなくてさ。それに肩に荷があったのは斗詩だけな気がするんだけど」
「っへへー、大丈夫大丈夫、これからはあたいがその荷を背負ってやるんだから」

 いや……話が見えないけどそれってただ、荷が増えるだけなんじゃ……。

「ま、とにかく今日はそんだけ。いろいろ迷惑かけるだろうし、そうなったらそうなったで真名で呼び合えないのは堅苦しいから」
「ん、んー……と……。つまりさ、これって俺が、麗羽に“人間・男”って認められたってことでいい……のかな」
「……迷惑をおかけします……」
「なんで!? え、ちょ……なんでいきなり謝るの!? 麗羽に男として認められるのってそんなに怖いことなの!?」
「あたいとしては曹操がどんな反応するか、楽しみではあるんだけどさー」
「《ゾクゥッ!》ヒィッ!?」

 どっ……どうしてだろうなぁああ……!? 華琳の名前が出た途端、この書簡が悪魔の契約書に見えてきた……!
 うう……でも捨てちゃうわけにもいかないし、性別不明の凡夫からようやく人間・男として認めてもらった証明なわけだし……。

「……え、えぇと……うん……よく解ってないけど、一応……受け取った」
「はい。それでは───」
「これでアニキとあたいたちは普通の関係じゃなくなったわけだ」
「辛いことがあっても、一緒に乗り越えていきましょうね?」
「わあ、聞く場面で受け取り方が決定的に変わりそうな言葉だ」

 嬉しいのに嬉しいって言えないのはどうしてかなぁ。
 と、そんなことを考えていると、二人が俺の腕をとって歩き出す。

「え、ちょ……?」
「メシ食いにいこーぜアニキ、ここんとこ麗羽さまに付きっ切りだったから、満足に食べてないんだよー」
「せっかくこうして盟友になったんですから、ね?」
「や、うん……俺も食べてないからいいけ───……盟友!? いつの間に!?」
「細かいことはいーからいーから」
「あ。ねぇ文ちゃん、これからはご主人様って呼んだほうがいいのかな」
「アニキでいーだろ、盟友なんだし」
「二人で納得してないで俺にも説明をっ……ちょっ……待ってぇええーーーーっ!!!」

 ……前略、華琳さま。
 今日、どうしてか盟友が増えました。
 一方の艶本で結ばれた同盟とは別に、こちらはなんと男として認められた途端の同盟。
 もう何がなにやらなのですが、俺を引っ張る二人が楽しそうに笑うので、次第にどうでもよくなってきました。
 ところで、以前送った手紙はもう届いたのでしょうか。
 それともまだ届いていないのでしょうか。
 どちらにしろ手紙を出してからいろいろあって、少しは強い心が持てたつもりです。
 学校のことも安定を見せ始めました。
 そろそろそちらに帰れるかもしれません。
 もし返してくれるのなら、その手紙が行き違いにならないことを祈ります。
 それでは。お互い健康の状態で出会えることを願って。




ではいつものネタ曝しを。  ◆おがったとしぇ  古の時代……といっても小学の頃ですが、国語の教科書にあった言葉。  おりましたとさ、って意味らしいです。 Next Top Back