67/月下の心と饅頭のカタチ

 朝と昼の中間の、鳥が元気に鳴くとある頃。

「麒麟、今日も元気にしてたかー?」

 朱里に頼まれた用事で、馬屋の前を通った。
 馬屋番の兵に軽く挨拶をしながら覗いてみたんだが、麒麟は俺を見ると返事を返すように小さく鳴いた。
 そんな反応を何度か見ているからだろう。人の言葉が解るのかな、なんて思ったことは実は結構あったりする。
 許可を得てから麒麟に近づいて、その顔をひと撫で。
 麒麟も機嫌がいいのか、俺の顔や胸にごしごしと顔を擦りつけてくる。

「不思議だなぁ、他の馬はここまで懐いてくれないのに」

 好かれていて困るわけじゃないけど、少しだけ不思議な気分だった。美以が言うところの匂いってやつのお陰なのか、他の馬も好意的ではあるんだが、麒麟はその上をいっている。
 本当に言葉が理解出来ているのか、はたまた心が読めるのか、願った行動を取ってくれたりするから本当に不思議だ。
 ……っとと、あんまりのんびりしていられないな、用事を済ませないと。

「じゃあな、麒麟。ちょっと用事を頼まれてるからさ。また今度、翠に許可をもらったら川に体洗いに行こうな?」

 じゃあなーと軽く手を振って歩くと、麒麟も軽く嘶きを返してくれた。
 まるで見送ってくれてるみたいだ……本当に不思議だ。悪い気はするわけもないけど。

「ここでの生活も慣れたもんだよなぁ」

 一時はどうなることかと思ったけど、なんとかやっていけている。
 軽い安堵をこぼしながら、胸に抱えた頼まれたものを見下ろしてみれば、そこには学校用の教材。最初は教えるばかりだった俺も、今では学校でのことも手伝う側になっている。
 少し寂しくもあり、それ以上にこの世界の軍師さまの物覚えの良さに驚いていた。
 諸葛亮って本当にすごいね。“すごい軍師”って軽いイメージしかなかったけど、目の当たりにすると尊敬できる頭の回転を見せてくれた。いい意味でイメージを更新させてくれたよな、うん。
 ……あの、慌てるとはわはわ言うのも、同じ人物だとしても。

「ははっ」

 小さく笑って、小走りに急いだ。
 今日も学校だ。
 少しずつ生徒も増えているし、休める時間はあまりない。
 それでも自分が魏に戻るその日までに、やれることが残っているならやっておきたい。
 生徒も教師も安定を見せているし、そろそろ……だよな。

「よし、学校が終わったら桃香に報告しに行くか」

 そろそろ魏に戻ろうと思う、って。


───……。


 授業は普通に行われた。俺はそんな様子を、遠くから眺めていた。
 最近はこんな感じで見守ることを続けている。
 以前までは先生役のみんなの隣に立って見ていたんだが、自分が傍に居ない時のみんなの様子を見てみようと思ったから。
 けどこうして見ても、もう俺が隣で見守る必要もないくらいに、みんな普通にこなして───

「よしっ! あと十周だっ! みんなどんどん走れーーーっ!」
「え〜〜っ!?」
「孟起せんせーひどいー!」
「さっきあと一周って言ったのにー!」
「言い返せるならまだ走れるだろー!? ほら、どんどん走れー!」

 こなして……

「あ、あ、あわ、あの、その……こ、ここっここで言うててて敵の存在とは……っ……」
「士元さまぁ……いったいいつになったら慣れてくれるんですかい……」
「あわわっ……ご、ごめんなしゃ……! うう……朱里ちゃん……一刀さぁ〜〜ん……!」

 こなして……

「つまり。ここでメンマをより美味にするために必要な“加える手”は……」
「子龍先生よぉ……いい加減メンマ以外の話を……」
「はっはっは、何を言う。こうして教える側に立ったのであれば、教わる者に己の知識を与え、さらに高めていくことこそが先に立つ者の務め。未だあのメンマ丼を越す味を見つけていない私は未熟者もいいところだが、だからこそともにメンマの道を極めんとしているのではないか」
「いや……あっしはべつにメンマ道を極めようとは……」

 ………………うん。こなしてるんだけどこなしてない……。
 これで普通にこなしているっていうなら、あまりにも個性がありすぎる授業だ。
 翠……いくらなんでも走らせすぎ。うんと運動したあとのほうが意識が授業に向かうって、以前テレビで見た気もするが……果たしてついていけるんだろうか、それは。
 雛里……あがりすぎだよ……。俺が隣に居る時は、全然普通にやってたじゃないか……。
 そして趙雲さん……歴史の授業でメンマの歴史を教えないでください……。

「どうしよう……」

 思わず頭を抱えて項垂れそうになった。
 これは生徒に慣れてもらうしかない……のか?

「そこのところも合わせて、桃香や朱里に話してみようか」

 案外“それも個性というものですよ”って言ってくれるかもしれない。
 ……そう、そうだよな。慣れればあれはあれでいい授業………………どうだろう……。
 そんな風にして、少々の不安を胸に残したまま、本日の授業が全て終了するまでの時間を過ごした。


───……。


 そういったわけで、現在は執務室でうんうん唸っている桃香の前に居るわけだが……

「桃香〜……?」
「ふえあっ!? だだだ大丈夫っ、寝てない、寝てないよっ!?」
「…………また徹夜したのか」
「あぅ……」

 隈こそ出来ていないものの、ひどく眠たげな顔をしていた。
 朱里は何処か別の場所に行っているのか、ここに居るのは目の前の眠たげな王様だけのようだ。

「そんなに仕事溜まってなかった……よな? 昨日の時点で随分と減らしたはずだけど───なにかあったのか? 徹夜するくらいなら俺や七乃に言ってくれれば手伝ったのに」
「あ、ううん、私的なことだったし、さすがにそれで迷惑はかけられないから、うん」
「?」

 よく解らないけど、私的なことらしい。
 気になりはしたけど、徹夜までしてすることなら大事なことなんだろう。
 心配したのはもちろんだけど、あんまりガミガミ言うのもお門違い……って……なんだろう。なんか今、物凄く“馴染んだもんだなぁ”って気分になった。
 蜀に来てからもう大分経つもんな、そりゃあ慣れるか。
 華琳がきっちりしていた分、雪蓮や桃香といった王を見るのは新鮮というか、落ち着けた。……その華琳様も、溜まった仕事を強引に片付けて自由時間を得たりとかしてたけど。
 懐かしいなぁ、そういえばあの時の華琳って徹夜で……徹夜───……徹夜?

「?」

 机を挟んで向かい側に立つ俺を、椅子に座った桃香が首を傾げながら見上げていた。
 まさか……いやぁ、まさかね?

「で、桃香。仕事を終わらせて空いた時間、何をしたいんだ?」
「えへへ〜♪ 朱里ちゃんがお饅頭を作ってくれてるから、陽に当たりながらのんびり───はうぐっ!?」
「………」

 眠たげだからだろうか。
 目論見を簡単に喋ってしまった彼女は、慌てて口を閉ざしたがもう遅い。
 華琳さん……王っていうのは案外、何処かで似ているものなのでしょうか……。

(………あー、いや)

 雪蓮だったら徹夜なんてしないで堂々とサボるな、うん。
 冥琳任せにしてサボる。絶対にだ。
 で、お酒飲んでるところを見つかって耳引っ張られて、何故か俺まで巻き込もうとして。
 こうして慣れた時だから言える言葉がある。“軍師って大変だ”。

「で。ここに朱里が居ないのは、そのピクニックるんるん気分を叶えるために厨房に居るからなのか」
「あ、あははー……ぴくにっくっていうのがなんなのかは解らないけどー……えっと……はぃい……」

 がっくりと項垂れる様は、悪さをしているところを見つかった子供のようだった。
 けどまぁ、あんまり無理しているようなら止めるところだけど、徹夜してまで時間を取りたい気持ちは解らなくもない。
 ずぅっとここで仕事してるんだもんな、自由な時間くらい欲しくもなるさ。
 ……でもだ。

「今度からは俺や七乃じゃなくても、もっと他の人を頼ること。みんなで取り掛かったほうがすぐに終わるし、徹夜なんてしなくてもいいだろ?」
「ううん、さすがにそれは頼めないよ。だって、私の我が儘だもん」
「……だから。その我が儘で徹夜されるほうが、友達としてはよっぽど心配になるんだ。頼りなさい。頼みなさい。我が儘でいいから、言いたいことはきちんと言う。言ったからって全てが叶うわけじゃないけど、言わないでおいていざピクニックって時に、だ〜れの都合も合わなかったら寂しいだろ?」
「うぐっ……う、うん……」
「そういうことはもっと大々的にやろう。あんまん……饅頭が少ないならみんなで作ればいいし、一人より二人のほうが楽しい。どうせならみんなも誘って、都合の合う時間をみんなで騒げば───」
「あ、ううんっ、違うの違うのっ! みんなとはまた今度一緒にやるから、今は……」
「?」

 ついついと胸の前で人差し指を合わせ、軽く俯きながらの上目遣いで俺を見上げる桃香さん。
 ハテ……?

「もしかして疲れすぎてたから、誰にも邪魔されず一人でのんびりと饅頭を食べたかったとか───!?」
「えぇっ!? ちちちちっち違う違うよ! どうしてそんなことになるのー!?」
「え? ち、違うのか?」

 甘いものは疲れにいいと聞いたことがあるし、俺はてっきり東屋でのんびりと風に吹かれながら、あんまんを食べていたいのかと……。

「あ、あのね、お兄さん。最近朱里ちゃんや雛里ちゃんが、あんまりお兄さんと話せてないみたいだからね? そういう意味でこの……ぴくにくー、だっけ? をやりたいって思ったんだけど……」
「朱里と雛里が?」

 んん……? 結構話はしていると思うんだが。
 授業のこととか政務のこととか、書簡整理の位置とかでもお世話になってるし。

「結構話してる……ぞ? いい加減、朱里や雛里に訊いてばっかりなのもどうかとは思うけど」
「あ、ううん、仕事のことじゃなくて、平時の時とか」
「…………」

 …………うん、話してないな。

「え? じゃあ今回のことって桃香が立案者じゃないのか? 朱里や雛里がそうしたいから、桃香に話を持ち出して───“私的なこと”って言ってたから、てっきり桃香が言い出したのかとばっかり……」
「………」
「あの。なんでそこで目を逸らしますか?」

 立案者は桃香で間違いないらしい。

「けど……そっか。言われてみれば最近は仕事の話ばっかりで、世間話なんてものも出来てなかったかも」
「だよね、だよね? お仕事も大事だけど、ちゃんと息も抜かないとだめだよね? だからね? 今日はお兄さんと朱里ちゃんと雛里ちゃんと私とで、ぴくにくー!」

 と、元気に仰る桃香さん。
 桃香? もしかして自分はただ甘いものが食べたいだけだったりする?
 ……違うか。見るところは見ている桃香だ、そうじゃなきゃ、ピクニックしようなんて提案は出なかったはずだ。

(べつにピクニックじゃなくても話は出来ただろ、ってツッコミは無しの方向で)

 せっかくなら楽しまないと損だもんな。
 楽しめて美味しいなら、それは嬉しいことだろう。

「じゃあちゃっちゃと終わらせて朱里を手伝いに行こうか。桃香、俺に出来る範囲を回して」
「え? や、それはだめだよ、これは私の仕事だもん」
「人のこと言えた義理じゃないけど、その“私の仕事”も朱里か雛里に手伝ってもらわなきゃあ、うんうん唸ってばっかりな人が見栄を張るんじゃあありません。ほら、いいから回す」
「はうぐっ! ひ、人が気にしてることを……。お兄さんいじわるだよぅ……」
「意地悪で結構。いーから出しなさい」
「うぅ……」

 しぶしぶと、幾つかの書簡をこちらへ渡す桃香。
 ……幾つかって言っても、書簡は軽い山になっていたりする。
 えと……この量なに? てっきりこの山が終わった書簡だと思ってたのに……。
 え? 終わってるのってあっちの小さな山? あっちが残りじゃなくて?

(………もしかして、終わったのは昨日の分だけで、今日の分はてんで……?)

 徹夜していったいなにをしていたのでしょうか、この王様は。

「……見栄張るにしても、もっと出来るようになってからしような……。俺も、桃香も」
「うぅ……」

 軽く溜め息を吐いてから取り掛かった。
 桃香も自分で思っていたよりも進められなかったからなのか、ひどく申し訳なさそうにしょんぼりとした。
 そんな彼女の横まで歩き、くしゃくしゃと頭を撫でると、「頑張ろう」とエールを送って開始。
 いっそ朱里と一緒に書簡を滅ぼしてから、一緒に饅頭作ったほうが早かったんじゃなかろうかとツッコみそうになったが、それは言わないほうがいいだろうと心に決めて、作業を続けていった。


───……。


 …………で、結局。

「くぅ……すぅ……」
「こうなるんだよなぁ……」

 桃香がオチてから数分。
 俺は彼女を執務室の奥の部屋の寝台に寝かせ、苦笑をもらした。
 こうなるとどれに手をつけていいかが解らなくなってしまうため、さすがにお手上げだ。
 国の重要機密が書簡に書かれているかを疑うのもどうかだが、だからといって適当に手を出していいものでもないわけで。
 と、そんな困った状況の中で感じる、軽い気配。
 執務室に戻ってみると、そこには授業後の反省会が終わったのか、幾つかの書物を持った雛里が。
 ……こういう状況は“渡りに船”で合ってただろうか。
 なんにせよ助かった、と……きょろきょろと執務室を見渡していた彼女の背中に声をかけた。

「雛里、丁度よかった」
「《ビビクゥッ!》あわぁっ!? あわわわわわわわわわわ……!!」

 途端に肩を跳ね上がらせ、こちらを見ることもせずに出口へ向かう雛里───ってこらこらこらっ!

「逃げない逃げないっ! べつに驚かせたわけじゃないだろっ!?」
「ふぇ……?」

 呼び止める声に、ようやく振り向いた彼女の目が俺を捉える。
 と、長い長い安堵の息とともに、跳ね上がった肩が下りていく。
 うん……こんななのに、戦場に立つとキリッとなる……んだよな? 軍師ってすごいんだなあ……いろいろな意味で。
 あ、(ウチ)にも変わった軍師は居たか。華琳命でマゾっけのある軍師とか、鼻血を噴いて倒れる軍師とか、腹話術を使う軍師とか………………あ、あれ? むしろ魏の方がいろいろとおかしい……?

「………」

 呉って……すごくバランスの取れた国だったんだなぁ……。
 冥琳って弱点らしい弱点が見つからないし、亞莎は一つのことに集中すると、それしか考えられなくなるところがあるくらいでバランスがいいし、穏は………………うん、本に近づかせなきゃ頼もしいし。

(なんだろう……冥琳が物凄く偉い人に思えてきた……歴史云々は別にして)

 何度だってそう思える状況がここにはあった。
 ともあれ、わざとらしい咳払いを一つ、現状を雛里に話していく。
 この状態でピクニックは無理……むしろ時間的に夜になるから、ピクニックじゃなく誰かの部屋でのんびりお茶にしようと。
 そのためにはまず、この書簡をなんとかしなきゃいけないから、雛里に頼んで手をつけていい書簡を選別してもらう。
 あとはひたすらに整理。ひたすらに執務。ひたすらに確認。
 桃香じゃなければできないことは仕方ないから残すとして、仕事が終わったばかりの雛里に謝りながらも手伝ってもらい、手早く済ませると───次は朱里の手伝いをしに厨房へ。
 徹夜のお姫様は全部終わるまで寝ててもらうとして、書簡の確認を終えた雛里と一緒に腕まくりをして饅頭作りに励んだ。

「え、っと……こうか?」
「あ、いえ、もう少しやさしく……」
「む、むむむ……」

 饅頭作りなんて初めての経験。ごま団子なら亞莎と作ったが……饅頭は饅頭で難しい。
 生地に餡子詰めて丸めて蒸すだけだー、なんて軽く考えていた俺よ、さようなら。
 簡単だと思ってやってみればとんでもない、生地作り一つをとっても中々大変で、孔明大先生の指導の下、学びながらの調理(?)が続く。
 捏ねて伸ばして千切って丸めて伸ばして詰めて丸めて整えて。
 餡子を入れすぎると形が歪になり、少なければ生地が余りすぎてぼったりとした饅頭になる。手助けになると思っていたけど、饅頭製作ってものがこんなにも大変だと改めて思い知らされた。
 そういえば亞莎と作ったごま団子も、散々失敗したんだもんなぁ……。

「入れる量が難しいなっ……って、あぁああ入れすぎた……!」

 大丈夫だろうと思ってみても、案外丸めてみるまで解らないもので……丸めてみたら包みきれなかったり包めすぎたりと安定しない。
 そんな自分に頭を痛めながらちらりと視線をずらしてみれば、にこにこ笑顔で楽しく調理をする朱里と雛里が。
 ……お解かりいただけただろうか。この二人の姿が、普段はわあわ言っている二人だということを……。むしろ今、はわあわ言ってるのって俺だけな気がする。

(団子作りには多少は慣れたつもりだったのに……)

 思うように上手くいかないのが世の中っていうのは、どの世界でも言えることなんだろうな。気を取り直して頑張ろう。


───……。


 作り終えてみればとっぷりと夜。
 饅頭作りはこれで時間がかかるもので、練って詰めて包んで蒸してをひたすら繰り返せばこんなものだろう。
 時間がかかった一番の原因はといえば、甘い匂いに釣られてやってきた将たちにあったんだろうけど。

「さすがにあそこで“みんなの分は無い”なんて言えないもんな」
「ですよね……」
「……はい……」

 学校の授業が終わってからの作業続きで、雛里はお疲れのようだった。
 そんな雛里を気遣いながら、現在はといえば執務室に向かって歩いているところ。
 確保できたあんまんは一人二つほど。
 それも、俺が作った形が歪なやつしか残らなかった。
 だってみんな、形のいいやつばっかり持っていくんだもん。そりゃ残るよ。

「蒸かしたての蒸篭を持って歩くのは初めてかもしれない」
「あはは……持ち歩くのはさすがにしないですね」
「…………《こっくりこっくり……》」

 重ねた蒸篭を持つ俺を、朱里が見上げて小さく笑う。
 左隣の彼女はそうしながらも、俺の右隣を歩く雛里にも心配そうに視線を向けていた。
 ……歩きながら寝るなんてことはしないだろうが、頭がゆらゆら揺れ始めている。
 倒れることがないように、気を配ってはいるけど……少々怖いです、はい。
 おぶることも提案したものの、顔を真っ赤にして思い切り拒否されました。
 ちょっぴり悲しかったです。

「はい、到着と。雛里、大丈夫か?」
「…………ふぁい……」

 …………とても眠そうだった。
 食べ始めれば眠気も飛ぶだろうか……そんなことを考えながら執務室へと入り、そのまま奥の部屋へと向かった。
 もちろんノックは忘れない。大丈夫、失敗はそう繰り返さないさ。

「……返事がないな。まだ寝てるのかな」
「そうかもしれません……」

 それでも怖いので、朱里に中を確認してもらうことに。
 寝惚けた意識で着替えをしてました〜とかいう状況だったら、今度こそ首が飛びそうだ。

「……まだ眠っているみたいです」
「そっか。どうしようかな……起こすのも悪い気がするし」
「でも、そうしないと時間を作っていた桃香さまに悪い気がします……」
「そうなんだよなぁ……《とすっ》って、雛里? ……あ」

 腰にとすんとした重み。
 見てみれば、立った状態のままに俺の腰に抱きつくように脱力する雛里が───って倒れる倒れる倒れるっ!

「とっ! はっ!」

 しがみつく力も意識もなかったのか、ずりずりと腰から倒れかけていた彼女を右手で支え、蒸篭は左手一つで持って……って熱ッ!! うわちゃあちゃちゃちゃちゃっ!! ちょ、置く場所! 置ける場所!

「とっ……とととっ……! は、はぁあ……!」

 右腕で雛里を抱え、小走りに机までを走ると、そこに蒸篭を置いて一息。
 すっかりくたりとお眠りになられたお姫さまを抱え直すと、そこには穏やかな寝顔だけがあった。

「寝ちゃって……ますか?」
「ん、寝ちゃってる」

 どうしようかと朱里と視線を交差させる。
 お姫様抱っこ中のお姫さまは規則正しい寝息を吐いてらっしゃるし、こんな時間だしで……食べてすぐに眠ることになるかもしれないのに、起こすのは気が引けた。
 だから……

「また今度にするか」
「今度……ですか?」
「うん。今度改めて、俺も朱里も雛里も桃香も万全な時に。四人一緒にさ、“この時間は空けておこう”って努力すれば、時間なんていくらでもとれるよ」
「…………」
「? ……朱里?」

 じーっと見上げてくる視線を返す。
 少しののちにこくりと頷き、笑顔になってくれる彼女に笑顔を返してから、じゃあこのあんまんはどうしようかって話になるわけだが───……うーん。

「あ」
「あ」

 ピンときた。
 そういえば、厨房に来たのは将たちであって、今は侍女の役を担っている彼女たちは来ていなかった。
 朱里と合わせていた視線をそのまま頷きに変え、何処に向かうかも伝え合わないままに出発準備。
 まずは眠ってしまった雛里を桃香と同じ寝台に寝かせ、魔法使いのような帽子をひょいと取る。さすがにこれ被ったままだと邪魔になるだろうし。髪留めもとっておこう。

(……こう見ると、別人だな)

 さらりと流れた髪を見ての感想だった。
 っと、ここでこうしててもあんまんが冷めるだけだよな、うん。

「………」
「?」

 と、ここで妙な童心が突き動かされた。
 雛里が被っていた帽子をじーっと見下ろし、なんというか……うん、被った。

「はわっ!? か、一刀さん……?」
「いや、天に居た時からさ、一度こういう帽子って被ってみたかったというか」

 被り心地は……みょ、妙な……感じ?
 大きな麦藁帽子を被ったような、でも通気性はあまり感じられないで、次第に頭に熱がこもりそうな……妙な感じだ。

「じゃ、行こうか」
「しょのままっ……はわっ……そ、そのまま行く気ですかっ!?」
「最近話が出来てなかったしさ、雛里は寝ちゃったし……だったらせめて帽子を」
「………」
「いや、理屈が妙なのは認めるけど……」

 それでどこか羨ましそうに帽子を見るのはおかしいと思うんだ、俺。
 ともあれ行動開始。
 熱くないように蒸篭の両端を持って、とんがり帽子を被ったまま執務室をあとにする。

「っと、そうだそうだ」

 執務室を出て、少し歩いたところで思い出す。
 自然になりすぎてて普通に流すところだった。

「思春もよかったら」

 気配もない通路に立ちながら一言。
 朱里が「え?」と辺りを見渡すと、いつから居たのか彼女の傍らに思春さん。

「形が歪だけど、味は変わらない……といいなぁ」
「……それが、今からそれを食べる者の前で言う言葉か」
「ゴメンナサイ」

 でも心は込めた。
 心で美味しくなってくれるかもまた腕次第だろうけど、味は落としてない……はずだ。
 そんなわけで行儀も気にせずあんまんを食べながら歩く。
 カスが落ちないように注意を払うことだけは忘れずに。

「はわわ……なんだかとってもいけないことをしている気分です……!」
「外出禁止の学校で、外に買い食いしに行く気分ってこんな感じなんだろうなー……」
「貴様は天でそんなことをしていたのか」
「へっ!? いやいやいやっ、こんな感じなんだろうなーって思っただけだって!」

 ……こっちでは、たまに仕事すっぽかして買い食いしたりもしてたけど。
 言ったら激しく呆れられそうだから黙っておこう。
 さて。
 夜とはいえ、自室に居てくれればいいけど……居なかったらどうしようか。
 それ以前に夜なんだから物は食べないかもしれない。
 女の子だもんなぁ……季衣とはよく、夜食とか食べてたけど。
 あの時に食べたメンマ、美味しかったなぁ……。
 と、そんなことを思いながら、夜に蒸篭を持ち歩く自分。
 傍から見たらどんな存在に見えるんだろうかと考えて、ちょっとだけ悲しくなった。
 べつにやましいことしてるわけじゃないんだから、胸を張っていればいいんだけどさ……ほら、食べる人を求めて夜を歩く蒸篭携帯人間って……いや違う、俺は“美味しい”を届けたいだけだ。そう思っておこう。

「…………あの。思春? 食べさせておいてだけど、美味しい……かな」

 そんなことを考えたら、果たしてこれが本当に美味しいのかが不安になりました。
 だって朱里や雛里が作ったやつは全部持っていかれたのに、俺のだけ残ってるのは不安材料でしかないし。

「………」

 訊ねてみれば、思春は俺を一瞥したのちに小さく饅頭を齧る。
 それから咀嚼、嚥下と続き、少し間があってから、「……普通だ」と一言。

「そ、そっか、普通か。そっか」

 よかった……普通だったか。
 あ……普通で思い出したけど、以前蓮華にオムチャーハンを作った時にも“普通だ”って言われたな…………あれ? もしかして俺って普通の料理しか作れない?
 ごま団子の時は亞莎に手伝ってもらったし、メンマ丼はメンマ園のメンマを使わせてもらったし……うわー、なんだかとっても普通だ。

「一刀さん?」
「っと、ごめん、なに?」

 考え事しながら歩いてると危ないな。
 軽く謝りながら朱里を見下ろすと、視線を促されてそちらを見やる。
 案外体が道を覚えているのか、視線の先には通路を抜けた先にある中庭。
 その端の東屋で、静かに語り合っているらしき月と詠を発見した。

「なんか楽しそうだな……。えと、ここで割って入るのって邪魔になったりしないかな」
「はわ……だ、大丈夫だと思いますけど……せっかく作ったんですから、食べてもらいましょう」
「貴様はいちいち考えすぎだ」
「や、考えないとただの押し付けになりそうで。思春は普通だって言ってくれたけど、形の問題もあって少しだけ罪悪感が。ほら、なんだか失敗作押しつけてるみたいじゃないか? 形も歪だし、ところどころで餡がはみ出てるし……」

 パカリと蒸篭の蓋を取ってみれば、上る湯気の先に見えるヘンな形の饅頭。
 きちんとふっくらしてはいるんだけど、外見だけで食べたいって思う人がどれだけ居てくれるやら……と、そんなことを、中庭の途中で立ち止まりながら考えていると、隣の思春さんが少しだけ視線をキツくして俺を睨んできた。

「貴様……先ほどそれを軽々しくも私に勧めたのは誰だ?」
「や、あれは歪な中でも形のいいやつだったからさ……。日頃から思春にはお世話になってるし」
「……………」

 思春が無言で蒸篭の中を見る。
 …………“私が食べたものと何がどう違う”って視線が俺を射抜きました。
 うん、ごめんなさい。作った本人にしか解らない微妙な違いがあるんです。
 ともかく、蒸篭の蓋をコトリと閉じて、ここでこうしていても仕方なしと歩いていく。
 向かう先は当然東屋で、渡したい相手は月と詠だ。
 味は普通なんだし、形のほうはいずれじっくりと練習する方向で……って、なんかドキドキしてきた。不味いとか言われたらどうしよう。
 思春に渡したのだけが普通で、これの味が最悪だったら……?

(……バレンタインの時期の女の子の心境って、こんな感じなんだろうか)

 一度こつんと胸をノックして、覚悟完了。
 歩みも勇ましく、やがて東屋へと辿り着く……!

「やあ、お二人さん」

 まずは挨拶。
 話に集中していたのか、声をかけられてようやく俺が居ることに気づいたらしい二人が、ハッと俺に視線を移す。
 あぁああ……いきなりやっちまった感が……! 話の腰を折るつもりはなかったのに……!

「話の途中にごめん、差し入れなんだけど、よかったら食べて」
「差し入れ? …………残り物処分じゃなくて?」
「え、詠ちゃんっ」

 パカリと蓋を取りながら円卓に置いた蒸篭。
 その中の物をじっくりと見た詠さんの、正直な感想でした。

「や……ごめん、これでも頑張って作ったんだけど。食う専門ばっかりやってたから、どうも料理とかおやつ作りには慣れてなくて」
「へ? や、なっ……これアンタが作ったの!? 隣に朱里が居るし、形がおかしいからてっきり……!」
「《ザクザクサクサクトストス……!》…………」
「はわわわわ!? え、詠さん!? えぐってます刺さってます〜〜〜っ!!」

 正直な言葉が胸に突き刺さりました。
 いや……うん……正直な感想をありがとう、詠。
 ほっこりと湯気を出していても、残り物にしか見えないくらいに形がおかしいと……そういうことですね……?
 精進しよう……本当に……。

「や、やー……正直な感想をありがとう。でも味は普通らしいから、よかったら食べてほしいんだ。朱里と雛里が作ったやつは、生憎と他の将のみんなが食べちゃって…………ノコッタノ、カタチガオカシナ……ボクノシカナクテ……ハ、ハハハ……」
「あぁあああわわわ悪かったわよっ! ボクが悪かったからっ! だからそんな陰のある笑い方するのやめなさいよっ!」
「た、食べます、食べますから……っ」

 慌てた風情で二人が饅頭を手に取り、食べてくれる。
 実際、生地や餡子は朱里と雛里と俺で一緒に作ったんだから、味だけはそう変わらないはずなんだ。
 それでも量のバランスとかで味が変わるのが、料理ってものだけど。

「んく……? なんだ、ちゃんと食べられるじゃない」
「あ……はい、とっても美味しいですよ?」
「エ……ほんと!? 普通じゃなくて美味しい!?」

 詠がきょとんとした顔で饅頭を見下ろし、月が顔を綻ばせながら言ってくれる。
 ……何気なくひどい言葉が混ざってたような気もするが、食べられるなら良かったってことで。

「まあ普通かって訊かれれば普通に限りなく近い美味しさだけど。普通っていうのはきちんと食べるものとして作られてるってことなんだから、つまり、その……」
「?」
「だ、だからっ! ちゃんと美味しいって言ってるのっ! 褒めてるんだから、不安そうな顔でじっと見てくるなっ!」
「あ、ああうん、ごめん……?」

 褒められてるのか怒られてるのか、判断に迷う言葉を送られた。
 と、いつでも誰かが来てもいいようにって配慮なのだろうか、月が傍らにあった茶器で茶を淹れ、席を促してくれた。

「? いいのか?」
「そこでずっと立っていられたほうが、よっぽど迷惑なの。いいから座りなさいよ」
「ん、ありがとう」

 そんなわけで着席。
 詠が月の隣に移り、詠が座っていた場所に俺が。
 その隣に朱里、思春が座る。
 この人数で座るには、ちょっと狭い。

「で、どんな経緯で饅頭を作ることになったのよ」
「親睦を深めるため……かな。仕事のことばっかりで、こうしてじっくりと話す機会がなかったから。そんな場を桃香が設けるために、こうして饅頭を作ったんだ」
「へえ……で、その張本人は?」
「時間を作るために徹夜して、眠気に勝てずに眠ってる」
「………」
「あ、あの、詠ちゃん? 桃香さまもきっと、疲れてたから……」

 はぁああ……と深い溜め息を吐く詠に、すかさず月がフォローを入れる。
 そんな中で、「で、あんたのその頭のはなんなの?」と訊かれて、似たような返事を返した。ようするに雛里も途中で眠ってしまったってことを。

「連合の力があったとはいえ、かつてはこんなやつらに負けたのが少し悔しいかも……」
「こんな俺達でごめんなさい」
「その帽子を被りながらじゃ、心がこもってすらいないわよ……」

 俺の頭の上にある、雛里の帽子を見ながらの言葉だった。
 慣れてくると頭が暖められてる気がしていいんだけどな……じゃなくて、格好の問題か。
 ともあれ、小さなお茶会が始まった。
 残すのももったいないので、俺も朱里も思春も饅頭に手を伸ばし、味を楽しむ。
 味は……うん、確かに普通だった。
 おかしいなぁ……朱里と雛里のをもらった時は、もっと美味しかったんだけど。
 心がこもりきってなかったんだろうか。うん、解らない。

「こんなんじゃあ、華琳には絶対にダメ出しされるだろうなぁ」

 普通じゃあ満足しない魏国の覇王様を思い浮かべた。
 普通も捨てたものじゃないのに、さらに上を望む覇王様を。
 確かに現状で満足するよりは、日々さらなる美味さを求めることを諦めちゃあいけないけど……う、うーん……料理の腕、もっと磨いたほうがいいんだろうか。

「曹操さんですか?」

 と、難しい顔をしていたのか、どこか気遣うような口調で朱里が言葉を拾ってくれる。
 …………うん。仕事や鍛錬で料理を習う余裕もないのに、これ以上やることを増やしても潰れるだけか。
 軽く結論を出すと、小さく笑んで言葉を返す。

「……そうだ、華琳で思い出した」

 ピクニックのことだけじゃなくて、言わなきゃいけないことがあったんだった。
 どうしようか。先にこの場に居る四人にだけでも話しておこうか。

「っと……あー……ええと」

 いや。言うにしたってどう切り出そうか。
 いきなり“帰ろうと思うんだ”って言うのもな。
 先延ばしにするのはよくないことだけど、せっかくこうして穏やかな空気の中に居るんだし……やっぱり最初に報せるのは桃香にしようか───

「そういえばあんた、いつまで蜀に居るの?」

 ───なんて思っていた時期が、ついさっきまで俺にもありました。
 時は来たれり。どう切り出そうか悩んでいるたのが可笑しく思えるくらい、あっさりと。

「詠ってさ、すごく鋭いよな……」
「へ? な、なによ、いきなり」
「……? あの、一刀さん……? もしかして今言いあぐねてたのは───」

 小さく首を傾げて質問を投げる朱里に、うんと頷いて言葉を続けた。

「学校も軌道に乗って、みんなも授業に慣れてきたし、そろそろ魏に帰ろうかなって。本当は今日、学校が終わった時点で桃香に言おうと思ってたんだけどさ───……って、あ、あれ? みんな、どうかしたか?」
『………』

 俺の言葉を耳に、どうしてか俺を見たまま何も言わないみんなが居た。
 一人、思春だけが小さく溜め息を吐いてたけど。

「え…………えぇ……? か、帰っちゃう……んですか?」

 けれどその溜め息がきっかけになったのか、隣に座る朱里がおどおどしながら訊いてくる。俺はその言葉をまっすぐに受け止めて、きちんと理由を話していく。ここで濁したまま帰る気には、さすがになれなかったから。

「元々は学校について相談するために呼ばれた俺だし、教えられることは全部教えることが出来たって思ってる。最近は俺が見てなくても回転するようになってるし、そりゃあ今日覗いてみたら考えちゃう場面もいくつかあったけど───うん」

 ポフリと帽子の上から朱里の頭を撫でながら、言葉を紡ぐ。
 華琳にはさっさと行ってさっさと帰ってきなさいと言われたけど、べつにそれが理由ってわけじゃない。
 帰りたいと思うことはよくありはした。それは事実だ。
 でも、心残りを残したまま帰るのは違う気がした。
 むしろ半端な仕事のまま帰れば、彼女はきっと怒るだろう。
 そうならないためにも、少しずつ回転が安定するのを待った。
 そうしてこういった機会が回ってきたわけだが───……それでも少し早いと思うのは、自分が甘いからなんだろうか。
 出来ることならずっと見守っていたいとか、そんなふうに思ってしまう自分が居ることは否定出来ない。

「天についての授業は頭の回転に刺激を与えるだけのものだし、今一生懸命に字や農学を学んでる生徒のみんなには、どっちかっていうと必要じゃないものなんだ。必要になるのは逆に、学校で学ぶことが少なくなってから。今はじっくり字や農学のことを学ぶのを優先するべきだ。そしてそれは、俺じゃなくても教えられることだろ?」
「はわ……」
「べつに蜀のなにが嫌いになった〜とか、そんな理由で出て行くわけじゃないんだ。時間がとれたらまた来たいし、何も明日すぐに出て行くわけじゃないよ」
「…………本当、ですか?」
「ん、もちろん」

 撫でられるままに上目遣いの質問。
 それに笑顔で頷くと、ようやく不安げだった朱里の顔に笑顔が戻った───途端、こてりとその体が俺へと倒れてくる。
 …………見れば、くーすーと寝息を立てる朱里さん。
 もしかして、眠かったのをずっと我慢してた?
 桃香や雛里に続いて、自分まで眠ったら悪いって思ってたのかな……───ん、違ってたとしても、ありがとうは届けられる。
 言葉にはせずに頭を撫でて、せめて枕代わりにでもなろうと、寄りかかられるままに苦笑した。
 そんな俺を見て、俺の正面に座る詠が“やれやれ”って顔で朱里を見ながら口を開く。

「はぁ……急と言えば急で、遅かったといえば遅かったくらいの切り出しだけど。べつに今日いきなり思いついたってわけじゃないんでしょ?」
「ああ。学校って場所の回転が安定化したら言おうとは思ってたんだ。だからここ最近は、自分の授業の数を減らしてみんなの様子を見てたんだけど───」
「あーはいはい、解ってるわよ。心配事が多すぎるっていうんでしょ?」
「へ? どうして……」
「ここの将が一を教えたら十を学んでくれたなら、ボクら軍師はもっと楽が出来たわよ」

 そんな言葉を口にする詠サンは、どこか影が差した憂い顔で……どことも知らぬ虚空を眺めていた。
 ご愁傷さまです。そしてやっぱり軍師は偉大だ。

「ま、まあ……いいんじゃない? 時々客だってことを忘れるくらいに溶け込んでたけど、事実は客なんだし。むしろ客だってことを忘れる理由の大半が、こなした仕事の量だったわけだし……なのにうちの将ときたら、隙があればサボったり買い食いしたり」
「………《さくり》」

 すいません、少し耳が痛いです。
 以前、買い食いやサボリばっかりしててすいませんでした、華琳さん。

「そ、そっか? 世話になってるんだからって、手伝えることは手伝ったつもりだけど……そっか。そう言ってもらえると、慣れないことに頭を働かせた甲斐もあったよ」
「“慣れないこと”できっちり教えられるほうがどうかしてるわよ。で? 出発はいつ頃にするつもりなの?」

 ……どうしてかじとりとした目で睨みながらの言葉。
 いつ頃……いつ頃か。

「一週間くらいは取りたいって思ってる。それこそ今言って明日帰るつもりはないし、一度じっくりと蜀って国を見て回りたい」
「そういえば……来て早々にどたばたしていましたね」

 どこかお疲れ様ですって言葉を混ぜた声で、月が言ってくれる。
 そうなんだよな……どたばたばっかりで、ゆっくりと街を見て回る余裕がなかった。
 そりゃあ、用事にかこつけて街の人との交流はちくちくと重ねてたけど……子供の相手や、店の主人との世話話、魏や呉から来た商人との話ばっかりで、結局は時間を潰しては行くことの出来なかった場所だけが増えた。
 麒麟もじっくり洗ってやりたいし、弓の練習もしたい。
 魏延さんとも一度じっくり話し合いたいし、メンマ園にももう一度行ってみたい。俺だと解らないように変装して。
 結構な時間が経ってるけど、それでもバレたらいろいろと大変そうだ。

「うん。どたばたした分を少しでも取り戻せるように、少しだけ時間を貰おうと思うんだ。あ、もちろん仕事は今まで通りやるし、魏に帰るまでに気になることがあったら、どんどん訊いてほしいっていうのはあるから。……むしろ、最近朱里と雛里以外しか質問してくれなくなって、寂しいなぁとか思ってたりしたし」
「……そうやって頻繁に訊ねられてる理由、解ってて言ってる?」
「へ? 解らないことがあるとか、相談したいことがあるから……じゃないのか?」
「……はぁ」

 あれ? た、溜め息? 何故?
 しかもその溜め息の仕方、思春がよくしているものに似ている気がするんですが?

「いいわよ、好きにすれば? むしろその一週間でやりたいことやってなさいよ。元々あんたは桃香が学校についてを相談するために呼ばれたんだし、執務まで手伝う理由はないわよ」
「や、けどさ」
「けどじゃない。世話になってるんだから当然なんて言葉、もうこっちが返したいくらいよ。桃香も以前より取り組む姿勢が良くなったし……まあこれは見栄を張りたいだけだろうけど。朱里や雛里も、他の将だって頑張ってるところをよく目にするようになったし……まあサボる時は平然とサボってるのが腹立たしいけど。だからね、むしろその一週間はありがたいくらいなの。解った?」
「全然さっぱり解りません《ニコリ》」
「ちょっとは考えてから言えぇっ!! 馬鹿なの!? あんた馬鹿なの!?」
「ごめんなさい冗談ですなんとなく予想はつきましたっ!」

 ぶちぶちと愚痴っぽくなってきてたから、宥める意味も込めての冗談……だったんだが、かえって状況を悪化させただけだった。

「えと、つまり……その一週間はあまり仕事を手伝うなってことで……いいんだよな?」
「ふんだ、解ってるんだったら最初からそう言え、ばか」

 ジト目で放たれるそんな言葉に苦笑を返しながら、言葉の意味に頷く。
 手伝ってもらうことに慣れてしまった甘えん坊の王様を、一週間かけて直しましょうということらしい。
 甘えを見せてくれるようになったのはいいことだとは思うんだが、ところ構わず甘えてしまう癖は少しずつ直さないと、後々困ると……そう言いたいのだ。
 それこそいつか、前に俺が思い至ったような“依存”って言葉に後悔するより先に、なんとかしないと……って、さすがにあそこまで考え込むことにはならないだろうけどさ。

「ん。詠がみんなのことを大事に思ってることは、本当によく解った」
「な、なななっ!?《ボッ!》」
「わ……詠ちゃん真っ赤……」
「……赤いな」
「ち、違うわよっ! 大体暗くて顔の赤さなんて……っ! ってそーじゃないっ! いきなりなに言い出してんのよっ!」

 すぐ隣に座る月に指摘され、大慌ての詠の言葉を聞きながら思う。慌てた時の詠って、翠に似てるよなー……と。

「見栄を張ってるだけとか、堂々とサボるとか、ちゃんと見てないと解らない部分も結構あるだろ? それって詠がきちんとみんなのことを気遣ってる証拠なんじゃないか?」
「別にっ! べ、べつにボクはっ…………だ、だって仕方ないでしょ? ほうっておけば問題起こすし、無茶するし、ボクや月は侍女の役割も担ってるから嫌でも目に付くことはあるし……」
「そうして見たものをいい方向に持っていく努力をしてなきゃ、多分そういう愚痴はこぼせないと思うけど」
「ふぐっ!? な、ななななんであんたはそう……! してないわよそんなのっ! 戦も終わって兵の指揮をする必要もなくなったし、侍女でしかないボクがそんな───!」

 大慌てで否定。
 うん、さっきから否定されてばっかりだけど、その慌てっぷりも赤い顔も、なんというか可愛くて……。

「詠はツン子だなぁ」
「ふふふっ、はい、ツン子ですね」
「ゆっ……月ぇえ〜〜……! 月までこんなやつみたいなこと言わないでぇ〜〜……!」

 つい口からぽろりと出た言葉を月が拾った。……ら、ひどい言われ様だった。
 でもこれくらいが丁度いいんだと思う。
 気安く出来るくらいが友達の位置としては最高だ。
 そして思春さん、“こんなやつ”って部分に激しく同意するみたいに頷かないでください。

「さてと。あんまりここでこうしてると朱里が風邪引いちゃうし、そろそろ戻るな」
「なんだ、もう行くんだ。もうちょっとゆっくりしていってもいいのに」
「……言葉と裏腹に“しっしっ”て動くその手に対して、俺はどう反応すればいいのかな、詠ちゃん」
「ちゃっ───ちゃん付けて呼ぶなぁっ! ボクをそう呼んでいいのは月だけなのっ!」

 わあ厳しい。
 でも余裕の笑みがあっさりと赤面の慌て顔になる瞬間は、確かにこの目に焼き付けた。
 ……じゃなくて。

「桃香からの了承が得られるかは別として、これから一週間よろしくな。蜀を見て回るだけじゃなくて、お互いのことをもっと知れたらいいなとも思ってるから」
「あんたに知られたら月が(けが)れるわよ!」
「えぇえっ!? け、穢れっ……!?」
「え、詠ちゃんっ、そんなこと言っちゃだめだよぅ……っ」

 遠き他国の地に来てまで桂花みたいなこと言われた!
 いやちょっと待って! 俺べつにやましいこととかしてないよね!?
 そんな、仲良くすると穢れるとか言われるほど……言われ……言わ……───……風呂、覗いちゃいましたね。ででででもあれは不可抗力ってやつでっ! いやっ、けどっ……!

「ゴメンナサイ……」
「うえっ!? な、なんで急に謝ってるのよ!」
「イヤ……イロイロ考エテタラ、情ケナクナリマシテ……」

 人生ってままなりません。
 強くあろうと誓ったあの黄昏の教室の日も今は遠く、辿り着いたこの世界で一体俺は何をしてらっしゃいますか?
 そんなことを、遠い目で虚空を眺めながら思っていると、詠がフリフリのメイド服の端をちょこんと抓み、一言。

「……この服の意匠。考えたのあんたなんでしょ?」
「へ? や……俺が来る前から詠と月ってその服で───って、まさか」
「真相なんて知らないけど、そういうことなんじゃない? 呉にも一人、似たような意匠の服を着ている子が居るし」
「…………あのー。まさかそういった意味で、穢れるだのなんだのって」
「匿ってもらってたとはいえ、この名軍師賈駆さまがこんな格好をさせられて、日用品の買出しや掃除やお茶酌(ちゃく)み侍女の真似事までさせられて……。しかもこの服の所為で無駄に視線を集めて恥ずかしいったらなかったわ……!」

 ……ア。怒ってらっしゃル。
 口調にどんどんと怒気が混ざっていって、後になればなるほど声が震えて肩が震えて……!

「で、でも似合ってるぞ? 可愛いし、たとえ意匠だけが流れて出来たものだとしても、我ながらいい仕事が出来たと思う。な、なぁ、月?」
「はい、詠ちゃんとっても可愛いよ?」
「うぐっ……そ、そりゃあ、月にそう言ってもらえるなら悪い気はしないけど……───だからってあの羞恥心を忘れたわけじゃないんだからねっ!?」
「………」

 あの。それって俺の所為なんでしょうか。
 俺はただ意匠を商人さんに提供しただけであって、作ったのは商人で……あのー……。

「なんか償うって言葉を使うのにこんなに戸惑いが生まれるのも珍しいけど……なにかしてほしいこととか、ある? 掻いた恥の分だけ、俺に出来ることなら───」
「そんなの無いわよ」
「え……えぇええ……っ!? いや、じゃっ……じゃあどうしろと!?」

 ふん、とそっぽを向いてしまう詠を前に、おろおろするしかない僕が居ました。
 あれだけ散々と言葉を投げてきたのに、いざ訊いてみれば無いって……どういった不思議空間?
 そうやっておろおろしていると、小さくくすりと笑った月がフォローしてくれる。

「あの、本当に無いんですよ、一刀さん。詠ちゃん、“この服の意匠を考えた人には絶対に文句飛ばしてやる”って、前からずっと言っていたんです」
「……す……《ごくり……!》……すごい執念だ……!」
「うっさいっ!」

 思わず言葉の途中で息を飲むほどの、深い執念を見た。
 詠は詠で、過ぎたことを執念深く引きずっていたことに多少の恥ずかしさがあったのか、言ってから後悔しているようで……なんかそれっぽいことをぶちぶちと小声で呟いていた。
 しかしまあ……商人さん、いい仕事してます。
 俺の趣味満載で、二人によく似合っている。
 ……もちろん口に出したらいろいろと言われそうなので、ここは言わないでおくけど。
 っとと、言っておきながら話し込んでちゃあ、それこそ朱里が風邪引くな。

「はは、じゃあ俺はこれで───っと、そうだ」
「? な、なによ」

 詠に向けて、円卓を挟んだまま右手を伸ばす。
 彼女は何故かその動作を酷く警戒して、座ったままに後退するような動作を見せ……って、なにやら盛大に誤解されてる?

「握手。これからもよろしくって意味で」
「…………あんた、そうやって目に映る女全員に甘言振り撒いてるんじゃないでしょうね」
「? 友達にこれからもよろしくって言うの、おかしいか?」
「…………」

 で、言葉の途端に警戒が呆れに変わりました。
 百面相とまではいかないけど、警戒から呆れに変わるその瞬間は、その間に百面の変化があっても違和感無しと思えるくらいに凄まじかった。

「……ねぇあんた。ほんとに北郷一刀? 今更だけど、噂で聞いた人物像と全然一致しないんだけど」
「噂って? ……って、月? なんでそこで頬染めて俯くの? し、思春さん? どうしてそこで溜め息吐くの!? ねぇ!」
「女と見れば見境無く手を出して、目が合えば穢れて触れれば妊娠するって」
「けぇえええいふぁぁあああああああああああああっ!!!!」

 もう言葉だけで誰から流れた吹聴なのかが解ってしまった。

「ち、違うっ! それ違う! 大体目が合うだけで穢れるとか、そんなことあるわけないだろ!? 触れられたら妊娠とか、ないないないっ! 大体、それが事実だとしたら、魏は天下を取る前に妊婦だらけで戦えもしなかったよ!」
「……あんたそれだけ手を出してるって自覚があるのね……」
「ぎっ……!? や、それはっ! 違っ……わない、けどっ……でもあの、えっと……!」

 今度は俺が大慌てだ。
 そりゃあ、手を出しましたと言えば真実になり、手を出してませんと言えば嘘になる。

(でもそれはそのー……なんといいますか。うう……!)

 どう言っていいかを見失い、おろおろする俺。
 そんな俺の右手に、きゅむと小さな圧迫感。
 ハッとして視線を移せば、そっぽを向きながらも手を握ってくれている詠の姿。

「え……詠?」
「……これで、掻いた恥の分は無しにしてあげるわ。べつにあんたが魏の連中にどれだけ手を出そうが、ボクには関係ないし。ただし月に手を出したらぁああ……!!」
「《グギギギギ……!》あっ! 痛っ! や、やめっ……右腕はまだ病み上がりでっ……」

 捻るように腕を引っ張られ、悲鳴をあげる。
 そんな俺を見て可笑しくなったのか、詠は小さく……ほんとに小さくだけど笑みをこぼし、自分でそれに気づいたのかすぐに不機嫌(のような)顔に戻る。
 その横では月が、「もう……素直に笑えばいいのに……」と呟き、詠の顔を赤くさせていた。

「………」

 賑やかな二人の関係を前にして、俺も小さく笑む。
 「なに笑ってるのよっ!」っていきなり怒られたけど、それがまた可笑しくて笑う。
 そうした小さな賑やかさの中で、離れた手を少しだけ残念に思いながら……今度は月に手を差し伸べて───

「穢れるって言ってるでしょ!?」

 ───怒られた。

「だっ……だからそれは誤解だって! たった今握手した詠は穢れてないだろ!?」
「それはあんたがボクを穢すつもりがなかっただけで、本命は月かもしれないでしょ!? ───ハッ!? まさかボクと一番に握手することで油断させておいて、月を穢すつもりなんじゃないでしょうね!」
「自分の言葉に得るものを見たって感じに人を疑うのやめない!? そんなつもりないからそんなに警戒しないでくれ!」
「なっ……ちょっと! 月に魅力が無いってわけ!?」
「えぇええ!? どうしろと!? いや、そりゃ可愛いし魅力的だとは思───」
「本性現したわねこの変態!!」
「まぁああーーーーっ!!? まままま待って待て待て落ち着けぇえええっ!!! それこそどうしろと!? ていうかせめて最後まで言わせて!? 言葉の途中で変態扱いとか傷つくから!」

 前略華琳様。
 お元気でしょうか……僕は元気とともに慌てています。
 理不尽という言葉がありますね。僕は今、それを体感しているところなのだと思います。

「そもそもここで月とだけ握手しなかったら、俺が月を友達として認めてないみたいじゃないか!」
「うぐっ……月を盾にとるなんて、卑怯よ!」
「理不尽な上に卑怯って言われた!?」

 体感ついでにショックでした。泣いてもいいでしょうか。
 ……その詠も、直後に月に小さい叱られて、しゅんとしていたけど。

「ごめんなさい一刀さん……詠ちゃんはただ、恥ずかしがってるだけですから」
「はばっ!? 恥ずかしがってなんかっ! どどどうしてこの賈駆様がこんなやつ相手に恥ずかしがる必要がっ……!」
「詠ちゃん」
「うぐっ…………う、ううー……月ぇえ……」

 ……どういう力関係なんだろう。
 頭が上がらないとはまた違った意味があるんだろうけど。
 ぴしゃりと咎められた詠は、一層しゅんとしてしまい、しぶしぶといった感じに俺と月が握手するのを眺めていた。

「改めて、これからよろしくな、二人とも」
「……よろしくされてあげるわよ。少なくとも今のやりとりで、頭ごなしに怒鳴り散らしたり傷つけたりするやつじゃないってことの再確認は取れたし」
「再確認だけのために、どれだけ辛辣な言葉投げかけるの詠ちゃん……」
「だからっ! 詠ちゃん言うなっ!!」

 でも、そっか。
 そこまでしてまで大事にしたいのが、詠にとっての月なら……認められた上でよろしくって言われたことが、素直に嬉しいって思える。
 “言われた”というか、よろしくされてもらったんだけどさ。

 ───そういったやり取りのあとに小さく手を振って、二人と別れた。
 蒸篭は片付けておいてくれると言ってくれた二人に甘え、朱里を抱えて思春とともに歩く。
 そうして、せっかくだからと執務室の奥の部屋へ戻り、大きな寝台に朱里も寝かせたのちに自室へと戻っていく。

「あ……明るいって思ったら、今日は満月か。酒でも探して飲みたくなるなぁ。……もっとも、お酒なんて持ってないけど」
「…………」
「思春って酒は強いほう?」
「知らん」
「即答であっさりしていらっしゃる……」

 その過程で見上げた空には綺麗な満月。
 かつて華琳を置いて消えてしまった時も、こんな満月の下に居たなと小さく思い、空を見上げながらの溜め息。
 今では自分が消えてしまう心配をすることもなく、ただ一言、明日もいいことありますようにと小さく願う。
 それが終われば自室に戻り、思春とともに寝台へ潜り、いつまで経っても完全には慣れてはくれない緊張感に包まれながら、今日という日を瞼とともに閉ざした。




 ネタ曝しを……といきたいところですが、ネタらしいネタがありませんでした。  更新遅くてごめんなさい。  なんにせよようやくPCも届いて、順調に動いてくれております。  壊れるなら一年以内でお願いします。 Next Top Back