68/その時間、一週間

 重たげにではなくパッチリと目が覚めた朝。
 隣を見れば既に思春はおらず、ぐぅっと伸びをしながら寝台を下りると体操を開始。
 及川あたりにはジジくさいとか言われそうだが、これをやるのとやらないのとじゃあ一日の体調が違ってくるのだ。

「……さて」

 念入りに済ませた体操のあとは、軽く出た汗を拭いてからの着替え。
 フランチェスカの制服に腕を通して、まずは昨日の夜に詠たちに話したことを、桃香にも話さないと。
 それで時間を貰えるなら良し、貰えないなら作れば良し。
 むしろ駐在せずにとっとと帰れーとか言われたらどうしよう。
 桃香じゃなくても、魏延さんあたりなら平然と言いそうだ。

「うん」

 姿見なんてものは生憎と用意されてないが、ビシッと決めたつもりで頷くといざ扉へ───ドバァンッ!!

「おおっ!?」

 出入り口である扉が急に開いた。
 歩き、いざ開こうとした途端である。

「おぉーーっほっほっほっほっほ!! あ〜ら一刀さん、ようやくお目覚めですのねぇ」

 で、目の前には声高らかに笑う麗羽さま。
 ようやくって……いつも通りの時間の筈だけど。

「まあそんなことはどうでもいいのですわ。それよりあなた、これからわたくしの用事に付き合いなさい」
「………」

 ちらりと、通路に立つ彼女の脇を見てみる。
 と、ぺこぺこと頭を下げる斗詩と、片手で拝み構えをして謝る猪々子が居た。
 ああ、うん……つまり……初日から潰れるって考えて、いいんでしょうか。
 それ以前にまだ、一週間の暇を貰う許可も得てないんですけど俺。

「桃香さんから聞きましてよ? あなた、これからしばらくの間、ずぅっと暇なのでしょう?」
「聞いたっていうか、扉に耳当てて盗み聞きしてたんだけどなー」
「文ちゃんっ、言っちゃだめっ」
「ならばその時間。このわたくしに尽くすことこそ男としての誉れでありませんこと?」
「………」

 どうしよう。朝からいろいろと訳が解らない。
 とりあえず盗み聞きってことは、朱里あたりが桃香に話したってことで……いいのか?

「あー、っと……ごめん。何を聞いたのかは詳しく理解出来てないけど、許可を貰うのはこれからなんだ。元々遊びに来てるわけじゃないし、一週間なんて暇をぽぽんとくれるほうがどうかしてる。むしろこのことが華琳にバレたら、遊んでないでさっさと帰ってこいとか言われそうだし」
「む……華琳さんのことなどどうでもいいですわ。今はわたくしに尽くしなさいと、このわたくし自らが言って差し上げてるのが解りませんの?」
「麗羽さまー、可愛さはー?」
「ハッ!? あ、あら、そうでしたわね……。 か、かかっかっか一刀、さん? このわたくしっ……ではなく、わたくしとともにお茶を嗜みませんこと? 出来る限りの最高の茶会を開きましてよっ?」
「うわ……」
「ぶぶ文ちゃんっ、引いちゃだめっ」

 妙にくねくね動きながらの言葉に猪々子が引いた。注意している斗詩も、実は引いた。
 そして俺は、そのくねくねした動きにいつかの夢のオカマッスルを連想し、引いていた。
 なんだか、可愛いの方向性がいろいろと間違っている。
 麗羽の中での可愛いって、こんな感じなんでしょうか神様。
 い、いやそれよりもだ。どう返せばいいんだこれ。
 考えろ、考えるんだ俺……その上で、その中から最善を……!

「………」

 …………うん、無理。
 頷く以外に麗羽が納得する未来が浮かんでこないや。

「や、やー……あの、俺、これからその……桃香にいろいろと話さなきゃならないことが《がしぃっ!》うわっと!?」
「つべこべ言わずに従えと、このわたくしが言っていますのよ!? あなたが“わたくしの可愛さ”から距離を取ってどうしますのっ!?」
「仰る通りだけどちゃんと言わないとまずいんだってぇーーーっ!!」

 当たり障りの無いこと(事実だけど)を口にした途端、襟首を両手で掴まれてホギャーと叫ばれた。って近い近い近いっ! そんなに近くで叫ばなくても聞こえ……っ……おおお麗羽って声高い! 綺麗に通る声だから頭に響いてっ……!
 ていうかこの言葉のどこにも可愛さが見つけられません! これは俺が悪いんですか!?
 考え方を変えれば、“あの袁紹さん”が可愛さをアピールしようとしている姿が可愛いとかがあるかもだけど、この後のこととか考えるととても可愛いなぁなんて思っていられないわけでして!

「まずは桃香に報告しなきゃ! ほ、ほらっ! 相談って仕事するために来てるのに、何もしなくなるんだからそこのところは───あれ?」

 相談を聞くために来てるんだから、もう“解らないことがあったら訊いてくれ”って言ってある場合、それでいいのだろうか。
 いや、自身の都合のいい解釈ばかりで未来を見ちゃだめだろう、北郷一刀。
 呉で話し合って、先生役を務めることにもなったんじゃないか。
 それを急に終わりにしますなんて言うんだから、許可を得るのは当然だ。

「うん。やっぱりきちんと言わなきゃ。だからごめん、麗羽。時間は取れるかもしれないし取れないかもしれないから、ここで時間が取れるなんて言ったら嘘になる」

 真っ直ぐに彼女の目を見つめ、真正面から言葉を届ける。
 襟首を掴んだまま顔を近づけていた彼女の目は、時折に(時折?)突拍子もないことを仰る彼女からは考えられないくらいにキリッとしていて───持ちかけられたこの話が、冗談や本人自身が忘れてしまうような話ではなく、本気であるって意思が受け取れた。
 ……本気の方向性もいろいろおかしい気もするけど。どうして俺? ……可愛いって言った張本人だからか。

「とにかく、話をしてくるから。答えを得るまでは俺も断言出来ないし、ここでこうしていても話が進まないよ」
「む……そうですわね。なら、猪々子さん? 斗詩さん? 今すぐこの場に桃香さんを連れてらっしゃい?」
「え゙っ!?」
「こ、ここにっ……ですかっ!? 桃香さまを!?」
「そう言っているではありませんの。さっさとなさいな」
「…………」

 えぇと……麗羽サン?
 ここに桃香を連れてきて、いったいなんのお話をするおつもりで……?
 まさか僕のお話をここで……?
 盗み聞きしてましたからさっさと許可を出しなさい〜……と?

「や、やぁあ〜〜……さすがにそれはやばいっしょぉ……」
「麗羽さま? その……私たちがどうやって一刀さんのお暇の話を知ったか、解ってて言ってますか?」
「歩いていたら勝手に聞こえただけでしょう? なにか問題がありまして?」
『…………』

 三人一緒に沈黙した。
 そんな中で麗羽は一人、ニヤリと笑んでいる。おかしな点など何も無いって顔だった。
 …………そして俺達は妙に納得するのだ。“ああ、袁紹だなぁ”と。
 真名と姓字の間には、いろいろな境があるのです。


───……。


 結局は三人がかりで麗羽を言いくるめ……もとい説得して、俺は現在執務室。
 難しい顔をしながら椅子に座る桃香を前に、話をどう切り出そうかと悩んでいた。
 部屋の中を見る限り、どうやら桃香と話していたらしい誰か(多分朱里で、現在学校かと思われる)は居ないようだ。

「あ、あー……桃香?」
「だめ」

 そして即答だった。

「へ……えぇっ!? 俺まだなにもっ───ていうか極上の笑顔でそんなさらりと!?」
「だ、だってぇ〜! ここでお兄さんに抜けられちゃったら私、忙しさで死んじゃうよー! お兄さんは私に死ねっていうのー!?」
「立案者が何言ってるの!? なんか俺が悪いみたいになってるじゃないか! 忙しくなるって解ってて学校を作った人がそんなこと言っちゃだめだろ!」
「うう……私だってお休み欲しいもん……お兄さんが休むなら私も〜って言ったら、朱里ちゃんてば笑顔でだめですって言うし……」

 や、それ当たり前です君主さま。

「それに昨日、頑張ったのにお饅頭食べれなかったし……お兄さんはいいよねー、朱里ちゃんや詠ちゃんや月ちゃん、思春さんと一緒にお饅頭食べたんだもんねー」

 ……笑顔で根に持ってらっしゃった。
 あ、あーの、桃香サン? 昨日のお饅頭騒ぎの目的が俺と朱里と雛里との親睦会目当てだったの、もしかして忘れてる?

「饅頭はまた作ればいいよ。時間も頑張って空ければいい。でも、そのためには“自分で出来る範囲”を広げないと、書簡整理の山が増えるだけだぞ?」
「お兄さん手伝ってぇえ〜〜……」

 たぱー……と涙を流しながらの懇願でありました。
 ああ、うん……なんかいろいろごめんなさい詠ちゃん。ちょっと手遅れだったかも。

「桃香ぁ……俺だって近いうちに魏に戻るんだから、今からそんなんじゃあ潰れちゃうぞ? 甘えてもいいとは言ったけど、他人を頼りすぎて自分じゃ何も出来なくなるのはダメだ。ちゃんと言っただろ? “ただし、甘えるだけしかしない王様は勘弁だぞ”って」
「うぅ〜……だってぇえ……」

 自分じゃあ気づかなかったけど、ここまで頼られてるとは……意外以外のなにものでもない衝撃を受けた。
 でもこのままなのは確かにマズイよな……それこそ依存になってしまう。
 じゃあどうするか。
 …………どうするもこうするもないな。それはきっと簡単なことだ。
 甘えるのに慣れてしまっているだけで、心の奥は絶対に変わっていないはずだから。

「じゃあ処方箋。───桃香、この国は好きか?」
「え…………う、うん、それはもちろん、大好きだよ? 笑顔があって、賑やかさがあって、その中に混ざるととっても楽しいの。誰かの笑顔が誰かを笑顔にして、そんな笑顔を見てたら私も嬉しくて。うん、私はこの国が……ううん、この国だけじゃなくて、この三国が大好きだよっ」

 両の指を胸の上で絡め、本当にやさしい笑顔で……慈しみさえ感じるくらいの暖かな笑顔で、彼女は言った。
 それは心の底からそう思えるからこそ出せる笑顔と語調であり、俺もその笑顔を見ていたら自然と笑顔になっていた。
 暖かさは伝染する。それはとてもやさしい伝染病で、様々な人が理想と捉えど、意見の食い違いや考え方の違いで振りまくことのできないもの。
 そんな中でも彼女の笑みは暖かく、俺は笑むことが出来たから───彼女の隣までを歩くと、その頭をくしゃりと撫でて伝えた。

「……だったら、大丈夫だ。どんなに困難でも、好きで、守りたいって思えるなら……弱音を吐こうと辛くて泣こうと、諦められないものだから。諦められないなら頑張ればいい。頑張って頑張って、それでも本当に駄目な時にこそ周りに手を伸ばすんだ。それまでの頑張りが嘘じゃなくて、みんなの心に届いてるなら、きっと助けてくれるから」
「うー……今すぐはだめなの?」
「ん、それはだめ。……桃香、答えならもう自分の中で出てるだろ? それをしようって思えたなら、そもそも迷いなんて無いはずなんだから」
「……? 答え……」

 桃香の言葉に頷いて返して、彼女の頭の上に置いた手をやさしく弾ませてから戻す。
 そうだ。
 頑張ろうって思って始めたことが、彼女にはきちんとある。
 一度挫かれてしまい、悔し涙さえ流したと聞く彼女。
 それでも今こうして王として立ち、国のためにと前を向いているんだ。
 剣の練習だって、氣の練習だって始めた。
 その国のための苦労がまたちょっと増えるだけの話。
 こうであってほしいと願うのなら。国を民を、将を兵を、笑顔と平和を願うのなら、今この時を頑張った分だけ、きっと彼女の周りは笑顔になる。
 突如として齎される至福には人は咄嗟に反応出来ないものだから、ゆっくりと一歩ずつ頑張っていく。積み上げたものを積み上げきった時の喜びを知っているから、また頑張ろうって思える。
 以前とは違い、血を流さず───人の死に涙せずに、頑張るだけで笑顔が見れるなら、それはどれだけ幸せだろう。
 こんな日がもっと早くから来ていれば……そう願わずにはいられないけど。
 それでも、犠牲があったからこそ諦めなかったし、意思を託されたから頑張れた。
 だから、な?と。彼女を促すようにして、俺は自分の胸をノックしてみせた。

「覚悟を。人の争いや人の死の先でしか目指せなかった笑顔を、今度は君の努力が咲かせますように」

 三国志と聞けば、思い返されるのは桃園の誓い。
 恐らくこの世界でも交わされたであろうそれを思い、もし彼女らの前に御遣いとして下りていたのなら、自分も誓っていたのだろうかと想像する。
 椅子に座って俺を見上げる彼女は、俺のそんな行動に一度だけ息を飲んだ。
 それからゆくりと立ち上がり、俺の目を真っ直ぐに見つめ、自分の胸をノックする。

「覚悟……そっか。うん、そうだよ。目標があるなら進まないと……理由があるなら立たないと。そうだよね……そうだったよ。私はもう……立ったんだもんね」
「ああ」

 いつか自分が、戦場の厳しさに苦しみながら辿り着いた答えを、桃香が言葉として吐き出した。
 あの乱世の中にあって、それでも手に手を取って仲良く出来たらと願った彼女だ。
 それはただひたすらに勝利を望むだけじゃあ得られない未来。
 そんな“奇跡”みたいな未来を願い、これだけの国を築いたのだ。
 仲間を得て、民の信頼を得て、兵を率いて大国を築いた。
 ここには笑顔があって、暖かさがあった。
 この暖かさを守ることが、人の死の先じゃなくても見れる今があるんだ。
 あの乱世を駆け抜けた者だからこそ、それこそ無駄に出来るわけがない。

「いい国にしよう。魏も、蜀も、呉も。声を轟かせなくても遠い地へ、人と人とが言葉を伝えて届かせられるような暖かな国に」

 いつか華琳に教えられた国と民の在り方。
 “強い指導者のもと、どこまでも声を轟かせられる強い国を作るためにはどうすればいいか”を問われた。
 答えは口で言うのは簡単で、実行するにはとても難しいものだった。
 そのためには街を大きく、国を大きく、けれど皆が住みたくなるような平和な街を作らなければならなかったのだから。
 国が大きくなれば、目が届かない場所は必ず出来る。そんな場所で行われることにも目を向けることは、口でいうよりも余程に大変だ。

  それでも……そう。目標があるのなら進まないと。理由があるなら立たないと。

 俺は華琳に、あの頃の世界の在り方を教えられた。
 それは、力で捻じ伏せて耳を引っ張りながら、それでも叫ぶことでしか相手に言葉が届いてくれないような世界の在り方だ。
 でも今は、平和になった世界の在り方をみんなで一緒に探す時なんだ。
 届かないのなら何度だって届けよう。自分が伸ばした程度じゃあ掴めない手があるのなら、繋いできた手を伸ばし、みんなで掴もう。
 そうしてまた広がった手が、きっと誰かを笑顔にしてくれると信じよう。
 まだまだ笑うことの出来ない人が、この世界には大勢居る。
 戦の世を終えたのは、まだ“たった一年前”の話なんだから。

「……うんっ」

 桃香はもう一度自分の胸をノックして、大きく頷いた。
 俺もそれに笑顔を返し、

「というわけで一週間ほど暇を」
「だめ《ニコリ》」

 一瞬で断られた。

「ここでだめって言ったら今までの会話が台無しになるだろーーーっ!?」
「そっ……それとこれとは話が別だよー! そりゃあもちろん私も、その……がが頑張る、よ……? でもでも、そんな急に、お兄さんがやってた分まで全部こなすなんてぇえ〜〜っ……!」
「………」

 彼女のたぱーと流す涙を見て、ふと昨日の彼女を思い出す。徹夜して、大して種類整理を進められてなかった彼女を。
 あの……今更だけど大丈夫ですかこの国。
 自分で破壊しておいてなんだけど、シリアスが裸足で逃げていった気分だ。

「とはいっても、手伝うにしたって限度があるだろ。働かざる者食うべからずは華琳に教えられたことだし、“世話になるなら”って整理を手伝い始めたけどさ。てゆーかな、桃香。ここで俺に頼りすぎてたら、俺が帰ったあと何にも出来なくなるだろ?」
「うー……」

 ……ああ……これは“そうなった時に考えよう”って顔だな……。
 執務や鍛錬で顔合わせが多くなった所為かなぁ……無駄に表情が読めるようになってしまった。
 読めたからって、対処法が出せるかーって言ったら……実のところそうでもない。
 困ったことに、これで結構頑固なのだ。…………解りきったことだったな、うん。

「やる前から諦めないの。ほら、今日は朱里も雛里も居ないみたいだし、きりきり整理っ」
「ふぇえ〜……お兄さんの鬼〜……」

 そう愚痴りながらもきちんと椅子に座り、机に向かうところはさすが王様……と褒めていいんだろうか。
 いやいや、当然のことを当然として行うのって結構大事だ。褒めるべきだろう。
 ……口には出さないけど。

「ところで桃香? 暇が貰えないとなると、俺にはきちんと仕事をくれたりするのか?」
「うんっ!《カシャコッ!》」
「…………いくら笑顔で書簡を渡されても、それだけは手伝わないからな?」
「鬼ぃい〜〜〜っ!!」

 ああもう、だから泣くんじゃあありません。ていうか誰が鬼だ誰が。

「はぁ……えっとな、桃香。多分俺が華琳に教えてもらったように、愛紗あたりにきっちり説教されてると思うけど。需要と供給で経済が動いてるみたいに、人と人とも自分の利益や周囲からの徳を得るために動いてる。国の王だからってなんでもかんでも押し付けるんじゃないんだ。いい国にしたいって街の全員が思ったなら、街の全員が頑張らなきゃあいい国なんて出来やしない」
「え……うーん……そんなこと、ないと思うよ? みんなが頑張ってれば、その誰かもきっと手伝ってくれると思うし」
「苦労して積み上げたものは、周りがどれだけ罵ろうと積み上げた人にとっては宝だ。でも、労せずにそんな宝を誰かが作るっていうなら、全員が全員手を休める。“やらなくても誰かがやってくれる”って思うからだ。人種ってものがあるように、全員が全員同じ状況や環境で同じ仕事をしているわけじゃないんだ。“自分に出来ない何か”が出来る人を集めるのは確かに重要だけど、必要に迫られた時に何も出来ない自分じゃあ、いつか描いた夢も覚めてしまう。そんな自分で居たくない……そう思ったから、桃香は剣の鍛錬を始めたんじゃないのか?」
「あ……」

 人の頑張りは同じじゃない。背負うものが大きければ、いっぱいいっぱい頑張らなきゃいけない。逃げ出す人なんてそれこそ大勢だ。だって、挫折ほど楽な道はないんだから。
 それでも描いた夢を諦めきれず、目指す目標と立ち上がる理由、そしてそれらを貫く覚悟がある者だけが最後まで頑張れる。
 じゃあ、桃香は? 挫折する人か? 立ち上がる人か?
 考えるまでもない。ここでこうして王として居る彼女こそが答えだ。

「流した悔し涙は、自分を楽にするためだけのものか?」
「っ! そんなことないっ!!」

 口にした途端、桃香がキッと俺を睨み、叫ぶように言う。
 ……そうだ、そんなことがあっていいわけがない。
 だって、その夢こそが彼女が積み上げてきたものであって、宝であったからこそ彼女は泣いたのだろうから。

「ほら、答えなんて最初から自分の中にあるんだ。背負うものが“重荷”じゃなくて、一度手からこぼしてももう一度掻き集めることが出来た“宝”なら、心が挫けない限り何度だって頑張れるに決まってるんだ」
「お兄さん……」
「自分の仕事はちゃんとやろう? それは桃香が“頑張ることが出来る部分”で、他の人にも他の人が頑張れる場所があるんだから。で、あー……自分で言うのもなんだかすごく情けない気がするけど、仕事は手伝わないけど“甘えちゃだめ”とは言わないから」
「…………《じーーー……》」
「……桃香さん? 待っててももう一声なんて出ないから」

 苦笑交じりに頭を撫でる。
 桃香はくすぐったそうに、けれど心地良さそうに、されるがままになっていた。

「……特に任せたい仕事がないなら、教師役でも街の警備でも、街で困っている人を助ける仕事でもなんでも引き受けるよ。そこで頑張りながらもっともっと煮詰めれば、学校についての案件も街での問題も届かなくなる。そうやって支え合うことが、俺達の需要と供給になるんだろうから」
「〜〜〜……う、うんっ……うんっ!」

 甘えていいって言った日、いろいろと背負いすぎたのかもしれない。俺が。
 “蜀全体とは言わず、桃香だけにしてあげられることがあるとすれば、民のため兵のため将のためにと頑張りすぎる彼女の負担を、軽く担ってやるくらい”なんて思っておいて、結果が甘えんぼさんだもんな。
 これであの日、“お兄さんは誰かを傷つけちゃうかもしれない”なんて語ってくれた人と同一人物だっていうんだから、何かがいろいろとおかしいって気分になってくる。
 まあでも、あれだ。困っている人を助けて回るのは、散々と雪蓮に付き合わされたお陰で慣れっこだ。本当に、経験っていうのは何処で何が生かされるのか解ったもんじゃない。

「そうだよ……私、もっと頑張るって言った! 言ったんだもんっ! こんなことくらいで立ち止まってなんか───! こんな、こん…………《ピタリ》」

 腋を締めるようにしてエイオーと気合いを入れた桃香───だったが、うず高く積まれた書簡を前に……急激にしぼんでいってしまった。
 それでもぶんぶんと頭を振るうと、キリッとした表情で政務に励む。
 やっぱり難しいところがあるのか、何度か筆は止まっていたけど……それもきちんと考え、纏めることで次に向かう。

「ごめんねお兄さん。私、ちょっと弱くなってたかも」

 しかも手を動かしながらだっていうのに、こちらに話し掛ける余裕もあるよう……って、思った矢先から手が止まったよ。

「いいよ。そういったものを支えてあげられるのが、仲間であり友達だと思うし。桃香にとっての俺が、自分の弱さを見せられる存在だっていうなら、それはそれで嬉しいよ」
「はうっ……《かぁああ……!》」

 恥ずかしそうに顔を俯かせる桃香。
 そんな彼女に軽く「それじゃあ、何かあったら呼んでくれ」と言って、執務室をあとにする。
 何か言いたげだった彼女を残したままで。
 手伝いたいのは山々なんだけど、生憎とこちらにも困った用事が残っている。
 今朝一番に部屋への来訪を果たした彼女に、暇は無くなりましたと報告しなくちゃならないのだ。

(ある意味拷問だよ……。はぁああ……どう切り出したもんかなぁ……)

 そんなことを考えながら、宛がわれた自室への道を歩いた。
 どうか穏便に済んでくれますようにと願いを込めて。




-_-/桃香

 …………。

「行っちゃった……」

 ほんとに行っちゃった。
 どうやら冗談でもなんでもなく、手伝いはしてくれないらしかった。
 ……うん、元を正せば全部私の仕事だし、私が頑張らなくちゃいけない───あっとと、違った違った。“私が頑張ることの出来る仕事”なんだから、頑張らなくちゃ。
 ただ……こうして文字ば〜っかりじぃっと見てると、頭が痛くなってくる。

「お兄さんはすごいなー……」

 私に持ってないものをたくさん持っている。
 知識もそうだし経験も。
 剣を教わってるし、氣の使い方も教えてくれる。
 大体の知識のあとに“受け売りだけどね”って付け足すのがちょっと気になるけど、とっても不思議でおかしな人。

「はぁ……」

 周りのみんなに“似ている”と言われた時から、少しずつ意識していた。
 そんなに似てるかな、そんなことないと思うけど。そんなことを考えながら───言ったことに答えてくれて、笑顔までくれるあの人に甘えきっている自分が居ることに気づいた。
 だって、それはちょっと仕方ない。
 私の知らないことをいっぱい知っていて、訊ねてみれば答えじゃなく考え方を教えてくれて、どうしても解らない時は答えをくれて。
 鍛錬の時はちゃんと、怪我しないように気遣ってくれるし……いきすぎなところがあっても、やんわりと止めてくれるし。
 うん、ちょっとだけ仕方ない。
 先を歩きながら、それでも後ろに居る私に手を差し伸べて、ゆっくり歩いてくれる……そんな印象が強くて、頼ってしまうのだ。

「これって……憧れかなぁ」

 好きとか嫌いとかはよく解らない。
 以前、恋する乙女がどうとかってお兄さんに言っちゃったけど、そんなものは私にも解らない。解っていることといえば、あの人の傍は暖かいってことくらい。

「こんなんじゃいけないいけないっ、頑張らないとっ」

 自分に喝をひとつ、仕事の整理をするために筆を走らせる。
 さらさらと走らせる筆は竹簡や書類に文字を連ね、乾いた先から山から山へと移されていく。
 簡単なものなら、私だってさらさらと終わらせられる……つもり。
 確認や指摘をしてくれる朱里ちゃんや雛里ちゃんが居てくれれば、もっと早く出来るんだけど……生憎と二人とも学校で先生をやっている。
 もちろん私は、そんなみんなが安心して仕事が出来るようにと案件整理。
 学校のここが不便だーとか、翠ちゃんや鈴々ちゃんが、体育の授業で走らせすぎだからなんとかしてくれーとか、そんな文字をしっかりと読んでから、解決策を自分なりに頑張って考えて、書き連ねる。
 こういったものの確認は朱里ちゃんと雛里ちゃんに任せて、次の竹簡をからころと開く。

「………………静か……だなー……」

 頼めば七乃ちゃんは来てくれるだろう。
 手伝ってって言えば、きっと手伝ってくれる。
 力を合わせれば、すぐにとは言わないけど早く終わる。
 ……そうと解っていても、“頑張らなきゃいけない”じゃなくて、“頑張ることが出来る”って言ってくれたお兄さんの言葉が頭の中に浮かぶ。
 軽い、考え方の違いでしかないそれは、だけど自分に活力を与えてくれる。
 頑張らなきゃいけないんじゃない。華琳さんに負けてしまって、みんなの夢になっていたものを叶えることが出来なかった私でも、出来ることが……頑張れることがあるんだと言ってくれたみたいで……。

「いい国にしよう、かぁ……」

 本当にいい国の条件なんて、きっと誰にも解らない。
 住みやすければそれでいいのか、笑顔だけがあればそれでいいのか。
 みんなが仲良くしていればそれだけでいいって考えは、あの日華琳さんに叩き折られた。
 “間違っていたから負けたんだ”なんて思わない。
 それでも、あの時の私がもっと頑張っていれば、もしかして華琳さんにも勝てたんじゃないか。そう思うと胸が苦しくて、みんなに申し訳なくて。

「………」

 平和はここにある。
 確かにここにあってくれている。
 不満があるとするならそれは、あの時勝てなかった自分だけ。
 自分に出来ないことが出来る人をたくさん集めて、それに満足しきっていた自分だけ。

「なんで……お兄さんは……」

 蜀に降りて、今みたいに私を支えてくれなかったんだろう。
 そんな、人の所為にするみたいな考えが頭に浮かんで……すぐに頭から消す。
 悔しくないはずがないけど、過去はもう起こったことで、変えられないんだから。

「うんっ、頑張ろうっ」

 ぱちんっと頬を叩いて気合いを───

「はうぅっ……いたたた……!」

 ───強く叩きすぎた。
 でもそのお陰で嫌な気分は飛んでくれたから、机に向かって筆を走らせる。
 自分に足りないものを補ってもらうのは悪い考えじゃない。
 誰かに頼りすぎて、現状に甘えちゃうのが悪い考えなんだ。
 頑張らないと。頑張ろう。自分にも、頑張れば出来ることがあるんだから。

「?」

 決意を胸に書簡を睨む中……ふと、耳に届く小さな悲鳴。
 遠くから聞こえてくるそれは、もやもやと一人で考え込んでしまっていたものを、サッと吹き飛ばしてくれた。
 おかしな話だけど、気が逸れたお陰で暗い気分が飛んでくれた。
 空元気はやっぱり空元気みたいだ。無理矢理笑顔は作れても、心のもやはこんなことでもないと吹き飛んでくれなかった。

「…………?」

 悲鳴が聞こえたのはその一度だけ。
 首を傾げながらも整理を再開すると、難しい案件に頭を捻る時間がやってくる。
 そんな時間を過ごしてしばらく、ふと“のっく”の音が耳に届いて、返事をした。
 扉を開けて入ってきたのは……お茶を持ったお兄さんだった。

「あ、あれ? どうしたのお兄さん、忘れ物?」

 軽く手をあげて、気恥ずかしそうに歩み寄るお兄さん。
 そんな彼が、お茶をどうぞと二つあるうちの一つを私にくれる。
 戸惑いながらもありがとうを返して、飲み始めたお兄さんに習ってお茶をすする。

(?)

 お茶は、当然といえば当然なんだけど温かかった。
 ぐるぐると嫌なことばかり考えていた心に、その熱が暖かい。
 ふぅ、と息を吐くと、改めてお兄さんを見上げる。
 ……と、その頬に引っかき傷みたいなものがあることに気づいた。

「お兄さん、どうしたのその傷」

 訊ねてみると、お兄さんはきまりが悪そうな顔をして頬を掻く。
 困ったように溜め息を吐いて、ようやく一言。

「……名誉の負傷?」

 名誉らしいのに、疑問が含まれてた。

「まあ、それはいいから。桃香、そういえば聞き忘れてたんだけど、今日の俺は何をすればいい? 学校に行こうとも思ったんだけどさ、考えてみれば授業分担がもう済んでるから、安定した〜って思ってたわけだし。独断で適当に始めれば、誰かの仕事を奪いかねないし……何か仕事、あるか?」
「………」

 ……ちょっとどころじゃなくて、すこーんって気が抜けた。
 張り詰めていたつもりの気はあっさりとしぼんで、みんな目の前の人が消し去ってしまう。
 そっか。誰でもなんでも知ってるわけじゃない。
 私がうんうん悩んでも中々解決策を見つけられないことでも、朱里ちゃんや雛里ちゃんは簡単に解決してくれる……けど、朱里ちゃんや雛里ちゃんにだって苦手なことはあるし、それを補える人が居るから信頼の輪が出来る。
 需要と供給。覚えていたはずでも、生きていれば考え方なんていくらでも変わっちゃう。大事なことまで忘れちゃったとしても、いつかは周りが思い出させてくれるものなんだ。
 そういうふうに出来ているから、誰かに感謝して笑顔になれる。
 私が夢に見たのはそういう………………“今でも手を伸ばせば叶えられる世界”だ。

「ね、お兄さん」
「うん? なんだ?」

 もうお茶を飲み終えたのか、はふー……と息を吐いている彼に声をかける。
 穏やかな目が、私の視線を受け止めた。

「いい国に、しようね」

 そんな目を見つめ返して、一言を。
 お兄さんは自分の求めた答えじゃないものを、けれどしっかりと受け止めて笑う。
 あ……そうだった。お兄さんは仕事がないかーって訊いてきたんだった。

「え、えと。お仕事のお話だったよね」
「ごめんな、忙しいのに」
「えへへー……忙しいけど、急にやる気が出てきたから平気だよ。それでだけどお兄さん、案件の中に街で起こった困り事のがた〜っくさんあるんだけど……」
「……たぁ〜っくさんですか」
「えへへ、うんっ、たぁ〜〜っくさんです」

 届けられた竹簡を集めて、検討中として選り分けていたものを渡す。
 お兄さんはそれらを開いて目を通すと、何度か頷いてからうっすらとした笑顔で何処か遠くを眺めた。

「じゃあ、まずは街の人と話してくるな。……っとと、前後したけど、これは俺がやっても大丈夫な仕事か?」
「うん、お仕事っていうよりは、困っている人を支えようってものだから」
「そっか……」

 もう一度竹簡を見下ろして頷く。
 そうしてからは軽い感謝を残して飛び出していってしまい、ぽつんと残された私は……なんだか急におかしくなって、笑っていた。

「はぁ……あったかいなぁ……」

 頬を緩ませながらお茶をすすった。
 お兄さんが淹れたのか、詠ちゃんか月ちゃんが淹れたのかは解らないないけど、安心する暖かさが胸に染みる。
 頑張るなら休息は必要だよね。ちょっと早いけど。

「…………でもどうしたんだろ、あの頬の傷」

 引っかき傷みたいだったけど。
 もしかして美以ちゃん? それとも恋ちゃんやねねちゃんのところの猫さんや犬さんにやられたのかな。
 痛そうにしてなかったから、大丈夫だと思って踏み込んで訊くことはしなかったけど。
 名誉の負傷ってなんだろ。
 そんな疑問にやっぱり頬を緩ませながら、暖かくなった心のままに湯飲みを置いて、作業を再開させた。
 ……いい国にしよう。
 もっともっと暖かい国にしよう。
 今私が感じている暖かさを、もっといろんな人が感じられるような国に。
 そのためにはもっともっと頑張らないと。

「えと、どうだったっけ。えーと……こうして、こうして……うんっ、覚悟、完了っ♪」

 トンと胸をのっくして、お兄さんの真似をした。
 ……やっぱりなんだかおかしくなって、執務室でひとり、頬を緩ませて笑った。



-_-/一刀

 さて。
 執務室って言うよりはむしろ城をあとにしてからしばらく。
 街に降りてきてすることは、竹簡に書かれていた案件の整理。
 差し当たり、自分にも出来るだろうと思ったものをこなそうと駆けてきたものの。

「おー! 御遣いさまー!」
「先生、今日はどうしたんで? “がっこう”はいいんですかい?」
「にいちゃーん、あそんでー?」

 …………街の人たちに捕まりました。
 教師として立つことで、天の御遣いだってことがバレてしまってからは、案外こんな感じだ。
 いや、むしろ最初はみんな避けてたくらいだった……んだけど。
 教師役を続けて、子供たちから好印象を得て、学校が安定に向かい始めた頃には、もうこうなっていた。
 やっぱり最初は、敵国の人間だった相手から何かを教わるなんて、とか思ってたりしたんだろうか……って、それは当然か。
 どれだけやさしい国で生きたって、かつては仲間を傷つけたり殺したりをした相手なんだ。戦が終わったからって簡単に割り切れるほど、軽いものじゃないもんな。
 みんな努力してるんだ。
 一人一人が歩み寄ることで、みんなが笑顔でいられるようにって。

(……桃香は幸せだな。将が、兵が、民が、みんな桃香の夢を眩しく思ってる)

 俺も、もっともっと華琳を支えられるような存在に…………難しそうだけど、なりたい。
 もちろん俺一人が支えるんじゃなく、国全体が華琳を支えるものになる。
 そうだな、いい国にしよう。もっともっと頑張って、みんながみんな頑張って、もう……血で血を洗うような世が二度と来ないように。

「ごめんなー! 今日はちょっと仕事で来たんだー! えっと、このへんで……っていいやっ! なにか困ってることがあったら言ってくれー! 力になるぞー!」
「じゃああそんでー?」
「いきなりサボれと!? ご、ごめんな、仕事が終わって時間が取れたら遊ぶから、な?」
「困ってること……おお、そんじゃあ今回は御遣いさまが解決してくださるんで?」
「あ、ああ、一応桃香から許可を得て来たんだけど。もしかして相談届け出したのって……」

 出っ歯で揉み手を繰り返す男が、頭の後ろに手をやって「へぇ、それが……」と困り顔で言う。
 なんでも急な注文が入ったとかで、人手が足りない……ことはなく、別の問題があるんだとか。このいかにも服屋をやってますって格好の出っ歯さんは、真実服屋だったわけだ。

「いえね、あっし一人で仕立ててるわけじゃないですがね、どうにもこう……言っちゃあなんですがやる気が出ねぇんですわ。やる気を出した時のあっしらはもう、何着の注文だろうがなんでもこなしてみせますってくらい有名なんですが」
「大変そうだけど、自分で言うことじゃないと思うよそれ」
「へへっ、まあまあ。それでなんですがねぇ……実は意匠を考えて欲しいんでさ」
「意匠を?」

 それまたなんで?と返してみると、服屋のおやじは揉み手を二度三度と繰り返し、「最近の手詰まりの原因がそれだからでさ」と言って返した。
 ……なるほど、スランプってやつだろうか。

「前はよかった。他国から流れてきた行商が変わった意匠を教えてくれましてね? や、それがまた物凄くあっしの心をくすぐるんでさ。そうしたらもう手も動く足も動く。地道にコツコツやってきたあっしですが、こうして飯食っていけてますわ」
「……でも、最近めっきりやる気が出ない、と」
「そうなんでさ……どういうわけか流れの行商も、変わった意匠がもう無いと言うざまで。聞けばその意匠ってぇのは、御遣いさまが考えたものだそうじゃないですかいっ! そこにあんたが来てくれた! こりゃあもう鬼に金棒だぁってなもんでさ!」
「そ、そっか」

 なるほど。天……元の世界に戻っている間にそんな葛藤があったのか。
 一年も居なくなれば、そりゃあ意匠のネタも尽きるってもんだ。
 さて、どうしたもんかな。そんな、いきなり意匠をって言われても………………あ。

「………」

 すっと視線をずらした先の茶房の前。
 机と椅子が並べられた、世が世ならオープンカフェとか呼ばれそうなオシャレな店の、椅子の一つにぽつんと座るひとつの影。
 どこか物憂げな表情で、机に立てた両肘の先、指先だけで持ち上げたお茶の器を軽くくるくる回しながら、短い間に幾つもの溜め息を吐く……翠を発見。

「…………《ピンッ》」

 頭の何処かで閃くもの。
 自分が“可愛い”って言葉を届けた人に似合うものを、ちょっとばかり作ってみたいと思ってしまった。
 そうなればイメージは早い。
 自分を見ずに別の方向を向いている俺に戸惑う親父の手を引き、店に案内してもらってからはひたすらに意匠を描き出した。
 それを見るや、揉み手出っ歯のおやじの目には輝く何かが燃え上がり、描きあがった途端にそれを手にし、店の針子の女達を呼び集めて作業にかかった。
 …………あれ? いやあの、なにも今すぐやれとは……。
 と、戸惑っていると、背後に気配。
 振り向いてみれば街の人がごっちゃりと立っていて、手を引かれたと思えば───次はうちを、次はあっしンところをと引っ張り回され……


───……。


 ……ハッと気づけば、街の通りは茜色。
 終わってみれば、手にはいくつかの城へのお土産と疲れた体。そして、充実感。
 一週間で帰ろうとは思ったけど、これが初日なら悪くないかもしれない。なにせ楽しかった。
 ちょっとだけ苦笑をもらしながら城に帰ろうと歩を進める。
 が、そんな俺を呼び止める声に振り向いてみれば、服屋の親父が元気に手を振りながら俺を呼んでいた。
 …………え? もしかしてもう出来たのか?  そんなすぐに出来るもんなのか!?
 すごいな針子さんたち……こういうのって普通、何日かに分けて少しずつやっていくものだろ。それを……よりにもよってゴシックロリータを丸一日すらかからず仕立て上げるとは……。

「で……」

 呼ばれるままに服屋に辿り着けば、はいと渡されるゴシックロリータ。
 黒をベースにした布地に、白のフリルが鮮やかなそれは、俺の意匠なんかからよく表現出来たなと思うほどに見事だった。
 犬を描いてもおばけだと言われる俺の絵なのになぁ……。

「すごいな……ここまで再現出来るとは」
「よかったらもらってやってくだせぇ、久しぶりに職人魂に火がつきやした。これはそのお礼でさ」
「え……いいのか? だってこんな───」
「構いやせんよ、これからしっかり稼がせてもらいやすんで。おっと忘れてた。もし誰かに贈るんでしたら、仕立て直しも請け負いやすぜ。またいつでもいらしてくだせぇ」
「………」

 気前のいい主人だった。
 というより、むしろもっと作りたいって風情で店の奥をちらちらと見ている。
 これ以上遠慮するのはかえって迷惑か。
 言葉通り、ありがたく受け取っておこう。

「じゃあ、もらっていくな」
「へえっ! 自分で言うのもなんですが会心の出来でさ! 大事にしてやってくだせぇ!」

 天で言うところの威勢のいい八百屋みたな口調で、送り出された。
 主人は途中までお辞儀をしつつも見送ってくれたが、それが済むとドタバタと店内へ。
 彼の仕立てはまだまだこれからが本番らしい。

「…………うわっ。手触りとかもすごいじゃないか」

 普通に買ったらめちゃくちゃ高いんじゃないか? これ。

「あ……しまった」

 もらったはいいけど、いったい誰にあげるべきなのか。
 桃香? 愛紗? 鈴々……にあげるには、ちょっと大きい。
 じゃあ………………うーん。やっぱり閃いた相手……翠にあげるべきだよな。

「……でだ」

 問題はどう渡すかだ。
 “服作ってもらったから着てみてくれー!”……違う。
 “可愛いキミに最高の服を仕立てたんだ……受け取ってくれ”……勘弁してください。
 “街でいい服を見つけたから、翠に着てもらいたくて……”……なんか違うんだよな。
 やっぱりここは正直に経緯から話すべきだろう。
 街からの案件でこんなことがあって、丁度その時に翠を見かけて、その時に閃いた意匠を裁ててもらったから着てみてくれって。
 よし、そうしよう。

「………」

 さて。
 そんなわけで、ゴスロリを手に茜色の景色を歩く男が一人。
 城までの道のりをのんびりと歩き、これからしばらくの蜀での暮らしを思い、笑みをこぼした。
 喜んでくれるといいなとか、いらないって言われたらどうしようとか、まるでプレゼントを渡そうとしても渡せない女の子のような心境で───不安に駆られながらも、渡すことだけは諦めるつもりはない自分のまま、ゆっくりと。

「あ」

 そして思い出す。
 もう一人、可愛いと言って頭を撫でた相手が居ることを。
 一着しかないって言ったらどうなるんだろ……やっぱり今朝みたいに顔面引っかかれたりするんだろうか。

「あぁ……本当に……」

 本当に、この国は賑やかで退屈しない。
 ここで生活するようになってから……いや、むしろこの世界で生活した過去や現在を思い返してみても、退屈を感じた時なんてものはほぼ存在しなかった。
 服を一着贈るだけでもいろいろな覚悟が必要なこの世界で、自分はそれでも……まだまだ歩いていくんだろう。
 退屈しない、忙しい日々の中にあっても、やさしい息を吐けるようになったこの世界で。

「……なにか食べ物でも買っていこうか」

 や。けっして誤魔化すためじゃないデスヨ?
 けっして顔を引っかかれないためじゃないデスヨ?
 そんな言い訳を胸に、おかしくなって一人で笑いながら───いつか呉でも歩いたこんな夕日の差す道を、今もまた彼女とともに。

「そういえばさ、ずっと隣りに居たの?」
「いいや。背後だ」
「怖いよ!? 隣り歩こう!?」

 声をかければ返してくれる人が居る。
 笑ってくれはしないけど、纏っている空気は穏やかなものだったから、顔には出さないけど彼女も笑っているんだと勝手に思うことにした。


 ……で。
 このしばらくあとに、翠を呼び出してゴスロリをプレゼントすることになるんだが。
 運悪くというかお約束と言うべきなのか、あっさりと麗羽に見つかり……例のごとく正座させられ、たっぷりと怒られた。「わたくしへの貢物がないとはどういうことですのっ!?」とか、「あんな馬子さんよりわたくしの方が可愛く着こなせますわ!」とか。
 でも猪々子が「きっと麗羽さまはそのままでも十分可愛いから、買う必要がなかったんですって」とフォローを入れてくれ、すかさずお土産としてもらった桃などを差し出したらあっさりと許された。

 ……それはそれで解決してくれたんだが、問題は翠だった。
 真っ赤になって、「こんな可愛いの、いくら可愛いことを認めたって着れるもんかぁあ!」って叫んじゃうし、そんな叫びを聞き付けて集まったみんなには散々からかわれるしで、とにかく散々だ。
 最終的には蒲公英に説得されて、一応受け取ってくれた翠。
 いつか着て見せてとは言ってみたものの、それがいつになるのかは俺にも翠にも予想がつけられなかった。帰る前に見たいなぁとは思うものの、どうなることやら。
 ……別れ際に蒲公英が口に手を当てて「にしししし……♪」って笑ってたけど、きっと気にしたら負けなんだと思う。むしろ思っておこう。




 “ゴスロリ”と“可愛い”の回です。  はい、ゴシックロリータでどうしてゴスロリになるのかが未だに解らない凍傷です。  いえ、でしたが、皆様が教えてくださったので解ることが出来ました。  え? 文法がヘン? そこはビリー隊長のノリで華麗にスルーです。  ちなみに凍傷はよくある“ワンモアセッ”よりも、  “ワンモアタァイム! ゴー!”のほうが好きです。  あ、授業中なのに子供が街に居たのは、べつに間違いじゃないのでご安心を。  ではまた次回で。ネタ曝しは今回は無しです。 Next Top Back