73/思い遥かに四日間

 へばりつくような喉に水を流し込んだ。
 それだけで、一度も水を飲まなかった一日の終わりに、ようやく飲めたかのように染み渡る水分。
 目は相変わらずしょぼしょぼだったけど、それはそれとして、水の冷たさが食道を通る感覚を楽しんだ。

「《パンパンッ!》よしっ!」

 頬を叩いて眠気に一喝。
 何事かと厨房に居た侍女さんがこちらを見るけど、会話をするでもなく軽く謝ってから食事を済ませる。
 意識して咀嚼すると、案外眠気も飛ぶもので……食べ終わる頃には眠気は意識の奥底へと沈んでくれていた。……目のしょぼしょぼは相変わらずだけどね。うん。

「はぁ……こういう時にこそ目薬が欲しい」

 無いものねだりもそこそこに、歩を進めた。
 厨房を出てからは中庭へ向かい、朝の体操。
 それが終わると東屋へと歩き、椅子に腰掛けつつメモを取り出して、周りに誰も居ないことを確認すると………………絵の練習を少しだけしてみて、相変わらずの酷さに空を仰いだ。
 仰いだところで東屋の天井しかないけどさ。

「……コツとかってないだろうか」

 言っても仕方の無いことを口にしてみる。
 これも積み重ねなんだってことは解ってはいるんだが、どうしてもそう思わずにはいられない。
 溜め息一つ、メモとシャーペンを仕舞って立ち上がる。

「よし、終わってない問題解決に行こうか」

 桃香のもとへと届けられる書簡は日に日に増えていく。
 その中の一部を受け取り、巡り、解決といった行動を繰り返しているわけだが、昨日は途中で抜け出してしまったために消化しきれていない。
 それどころか今日また増えるだろう。
 それらを消化するためにも、ここでボーっとしているより行動行動だ。


───……。


 早朝の街は、やはりと言うべきか昼頃ほどの賑わいはない。
 けど、それぞれ店があるところからは時折良い香りが流れ、食事を追えたばっかりだっていうのに何かを口に入れたくなる。
 準備中なんだろう、さすがに仕込み中の厨房に乗り込んで“くださいな”と言うわけにもいかず、そんなことをやりたくなっていた自分を笑いながら歩いた。

(……親父、元気にしてるかな)

 思い出すのは呉に居る親父。
 仕込みだなんだって、結構どたばたしたっけ。
 ……乗り込んで、手伝わせてもらって、お裾分けを……ってだめだだめだ、何考えてるんだ俺。

「ん……失敗した」

 早朝の街でやることなんて、特に無かった。
 早起きの人とすれ違い、少し会話をしただけで、やることが無くなってしまった。
 試しに何か手伝いましょうかと訊いてみても、「伝統の味だから任せるわけには」と、さすがに断られた。
 餡子だもんな、いろいろと工夫して作ってるんだろうから、邪魔するわけにもいかない。
 仕方なく城へと戻り、中庭へやってきた。……がらんとして、ただただ静かな中庭へ。

「………」

 …………もしかして今、侍女さんしか起きてない?
 思春さん……貴女いったい、どれだけ早く人のことを起こしたんですか……?

「いやいや、早起きは三文の徳って言うし……あれ? 得だったっけ?」

 中庭で一人、考えてみる。
 メモを取り出して得と徳を書いてみるが……徳か?

「“徳を得る”って意味として受け取ればいいか」

 気にしないことにした。
 早起きすれば三文……ちょっとした徳が得られますよってことで。
 ……と、勝手に自己解決していると、ようやく見知った顔を発見。
 なにやら周囲を警戒しながらとたたっ、とたたっと駆ける……………書物を持った朱里。
 あー……あの警戒する姿はひじょーに見覚えがあるぞー……?
 桃とか同盟とかいろいろ思い出すあのソワソワした感じ。
 あれは間違い無い……例の書物を見る時の反応。

「………」

 ソッと木の後ろに隠れる。
 見つかるのはまずい。いろいろとまずい。
 思春と一緒に寝るのも大分慣れてきたところに、あんなものを見せられてはいろいろと、いろんな意味でたまらない。
 見つかっちゃだめだ……見つかっちゃ《くいっ……》…………

(ああ……)

 後ろから服を引っ張られた。
 服を引っ張るなんて行動を取る人物は、蜀では結構限られている。
 呉あたりなら……亞莎くらいだろうか。でも蜀では恋か……雛里。
 そして恋ならきっとくいくいと二回引っ張るに違いないわけでして。
 つまりこの“一回だけ控え目に引く”なんて行動は………………。

「………」

 ソッと振り向いた。
 既に誰がそこに居るかを確信して、少し視線を下に向けて。
 すると、魔女のような帽子を片手で被り直しつつ、俺を上目遣いに見上げる雛里が。
 ………………どうしよう。

1:仕事があるからと、そそくさと逃走。

2:せめて用は聞こう。行動はそれからだ。

3:艶本を見る時間があるなら、一緒に警邏ボランティアをと誘う。

4:むしろ見る。艶本を見る。己の中の獣を解放する。

5:いつもお疲れ様と労う。艶本は見ない方向で、街に連れていくなりして。

 結論:…………2……2だろっ……2っ……!

 ……こほん。

「お、おはよう雛里。早いんだな」
「………《ぽぽぽ……》」
「……雛里?」

 朝の挨拶をすると何故か顔を赤くし、帽子を深く被り俯くことで、自分の顔を隠してしまう。
 けれど服は掴んだまま。
 きょろきょろと辺りを見渡すと、挙動不審なソワソワ朱里さんを発見、わたわたと朱里が居る方向を見ながら手をパタパタさせたりして───ハッ!?
 もしかして俺を探してたのか!? 朱里もか!? だからあんなに警戒してるのに部屋に戻らず、いつまでもあちらこちらを歩いて……!?
 ……じゃあ、こうして服を掴んでるのって…………俺を逃がさないため、とか?

「…………」
「……《ソッ》!? ふぁわっ、ふぁわわわわ……!?」

 ならば見つかる前に行動。
 やっぱりソッと雛里の口を塞ぐと、その体をやさしく抱き上げ逃走。
 怒られたばかりだから、さすがに仕事をしなくちゃまずいのだ。
 時間を作って誘ってくれるのは素直にありがとうなんだが……これで、見るのが艶本じゃあなければなぁ。
 と踏み出していった先で《ベキャア!》

「あ」
「!」

 ……落ちていた枝を踏み折ってしまった。
 いっ……今時ドラマでもこんなベタなことしないだろ!? さすがにこれはないだろちょっと! って、今後方から「はわっ!?」って確かに聞こえた! ていうか来てる! パタパタと走る音がする!

(神様……)

 空を仰いだ。
 ……しょぼしょぼな目には痛いくらいの眩しさが、そこにあった。


───……。


 悪い予感は裏切らない。
 あまりに予想通りのコトの運びに、少し遠い目をした。
 ただしそれは仕事が終わってからってことに“なんとか”なって、そこに辿り着くまでに散々たる説得があったことを、是非覚えていてほしい。と、誰にともなく心の中で呟いて、現在は東屋で学校のことについてのまとめを話している。
 二人は……今日はお休みなんだそうだ。

「…………《ソワソワソワ……》」
「…………《そわそわそわ……》」
「二人とも……とりあえず落ち着こう……?」

 話しているんだが、二人ともそわそわしすぎてて、文字通り話にならない。なんだかんだで“見ること”を約束してしまったために、二人のテンションが少し変なのだ。
 顔を赤くしてあちらこちらへと視線を動かして、声をかければ「はわぁっ!」とか「あわぁっ!」とか叫んで、宥めると顔を赤くして俯いて、少しすると視線を彷徨わせ始める。
 で、声をかけるとまた……と、ループな状況が出来てしまった。

「学校のことだけど、順調ってことでいいのかな」
「はわっ!? は、ははははいーーーーっ!」
「返事だけにどれだけ力込めてるの!? しゅっ……朱里っ、朱里っ! 落ち着いてくれ本当に!」

 風の無いその日、東屋の円卓に広げられた学校の見取り図を見下ろしながらの話は続く。ただし、続いていようが、“進んでいるか否か”で言えば、否って答えられる。
 時はまだ早朝。
 ぽつぽつと通路を歩く将を見るようにもなったけど、それでもまだ賑やかには程遠い。
 そんな中でも、二人は一応聞いていてはくれるようで、話し掛ければ大袈裟に叫びはするけど返事はくれる。なので、せめて自分だけはと努めて冷静に話を進め……そんな雰囲気が伝わったのか、朱里も雛里も少しずつ冷静さを取り戻して…………ああうん、顔が赤いままなのはツッコんじゃあいけない。ツッコんだら絶対に繰り返す。

「で、だけど。グラウンド……外の方に用具入れを作って、跳び箱とかを作るのはどうだろ」
「とびばこ……ですか?」
「うん。ずっと走っているだけじゃあ、来てくれる人も飽きそうだし……」
「いえ、あの……鈴々ちゃんが、その……先を走ると、みんな笑いながら……追いかけてますけど……」
「へ? そ、そうなのか?」

 走るだけでも案外楽しいのか? って……鍛錬の時、鈴々と競い合って走ってる俺が言っても、説得力がないよな。

「はい。走り回ってからは、皆さん静かに勉強してくれますし」
「ああ……そういえば、前に天でそういうのを見たなぁ」

 以前それをやってみたらどうかなとも思ったっけ。風呂を提供できるわけじゃないから、汗臭い体で授業を受けることになるんじゃあと躊躇したけど……解る気がした。疲れてない状態だと、勉強中でも騒ぎ出しそうだし。
 子供だもんな、仕方ない。

「ですから最近では、まず体育を最初に持ってくるようにしているんです」
「うわっ、それは大変そうだ……。あ、あー……ちゃんと準備運動からやってるか……?」
「は、はい……それは、もちろんです……。お預かりしているんですから、無茶はさせられません……」
「だよな、うん」

 こくこくと頷く雛里に返し、自分の頭でもいろいろと考えてみる。
 跳び箱も、あれば使うだろうし……やんちゃな子供は結構好きそうだ。
 鉄棒は……作るの結構難しいか? あ、跳び箱作るなら、マットも必要だよな。
 
「あ、そういえば……走るのが辛い人を走らせたりは、さすがにしてないよな?」
「はわ……あの。一度、猪々子さんと翠さんが、腰を痛めている人を無理矢理走らせようとしたことが……」
「こ、根性があれば、どうにでもなる〜って言って……」
「……猪々子と翠は根性論、好きそうだもんなぁ」
「それで見本を見せると言って、運動を始めて……翌日は二人仲良く“体が痛い”って涙を流していました……」
「うん……なんとなく途中でオチが読めたよ……」

 でも、確かに腰周りの筋肉を鍛えれば、腰痛も少しはマシに……なる前に、筋肉痛でどうにかなっちゃいそうだな……あの二人に任せると。

「走れない人には別の運動で、少しずつ体を丈夫にしていく方向でいこう。あと、走る以外の運動方法を探す方向も、じっくり探りながら追加してみよう。……で、勉強のほうだけど」
「はい。授業自体にそう問題はありません。雛里ちゃんも少しずつではありますが、一人で授業進行が出来るようになりましたし……他のみなさんも教えることに自信が持ててきたと言ってます」
「あわわ……しゅ、朱里ちゃぁあん……! それは言わないでって……!」

 自分のことを言われたのが恥ずかしかったのか、雛里は隣に座る朱里をぽかぽかと叩き始めた。……もちろん、痛そうではない。むしろキャッキャッと燥ぐような感じで、微笑ましいくらいだ。
 しかし、その後に言葉が続けられた。「でも」と。

「ただその……詠さんが厳しすぎると、生徒から言われたことがありまして……」
「詠が?」
「あわっ……は、はい……。教え込んでいるというより、その……叩き込んでいるといった感じだそうで……」
「………」

 試しにイメージしてみた。
 詠先生。
 教壇に立ち、チョークをごしゃーと走らせ、要点を口にし、生徒に答えさせ、間違っていたら“そうじゃないでしょこのばか!”って……ウワー、物凄く簡単に想像できたやー。

「それはその、詠の方に改善する気は…………ないよな」
『はい……』

 迷いはしたが、断言出来てしまう何かがあった。
 どこにでも厳しい先生は居るものだとは思うけど、あまり厳しすぎるのはよくない。
 よくはないんだがそれもバランス問題であって───う、うーん……難しいな。

「こればっかりは詠に任せるしかない……よな。天でもやたらと厳しい先生は居たけど、やさしいだけじゃあ進めない部分もあるだろうし」
「はい……それはそうなんですけど、他の皆さんが叩き込むようなことをしていない分、詠さんの行動が目立ってしまっていて……」

 うあっちゃ……それは少しまずいかもしれない。
 もしそんな、目立ってしまうものが不安となって生徒たちの中から浮き出たら、いつかは桃香に届けられる案件に詠のことが乗っかってくる。
 さすがに生徒が詠に向けて直接言えるとは思えない。
 いつかはそうなって、教師から下ろされたり注意されたりすれば、彼女としても桃香にしても嫌な思いをすることになる。
 じゃあどうするかといえば…………………………思い浮かばない。
 詠にそれとなく話してみる……か? 厳しすぎやしないか、って。
 そうすれば詠も考えを改めて、“こんなのまだやさしいくらいよ”ってさらに力を込めてあぁああああ違う違うだめだだめだ!!
 改める方向があまりに違いすぎる! 却下!

「なにかいい方法は………………って」
『…………《ぽぽーーー…………》』

 ……また……見られてる……。
 何故か頬を赤らめた二人が、悩む俺をじぃっと見つめていた。
 こっ……これはあれか? 話が終わったなら艶本を見ましょうって、目で訴えかけているのか……!?(*注:明らかに違う)
 や、でもまだ話は終わってないしなぁ。
 よしっ。一人で悩むんじゃなく、三人で考えたほうがよさそうだな、うん。

「それじゃあ───」

 そんなわけで会話を再開。
 詠のこととともに、学校の今後についても話し合い、さらに煮詰めていく。
 ボランティアに移ってからは、完全に任せっきりになってしまったが、そのことを口にしてみれば、二人は揃ってくすりと笑った。
 「元々相談をするためにと呼んだんですから、無理を言ってしまったこちらとしては、むしろ助かったくらいです」と返しながら。
 その言葉に「役に立てたなら」と返して、話を続ける。
 あーでもないこーでもない、それはいいこれもいいと話し続け、ふと気がつけば時間は経過し、もちろん正確な時間なんてものは解らないが、なんとなくそろそろかなと感じて話を終わらせる。

「じゃあ、詠のことはやっぱり成り行き任せで……いいかな?」
「はい。翠さんの無茶な体育にも、頑張ってついていこうとする皆さんですから、いつかきっと解ってくれると思います」
「その……厳しいなら厳しいなりに、得られるものもたくさんあると思いますし……」
「……そっか」

 得る前に諦めてしまわないかが不安……にしても、そこは勝手だろうと信じるところだ。
 誰でも“楽に学びたい”とは思う。ていうか俺もそうだし、多分誰だってそうだ。
 冥琳や穏や亞莎は真面目に学びそうだけど、どちらかといえば楽をしてって人の方が多いだろう。……むしろ穏には、本を見せたくなんかないが。
 ダメだった時はダメだった時だ。
 さりげなくもう少し柔らかく〜とか言ってみれば、少しは…………悪化しそうだなぁ。「私は私のやり方でやるんだから、あんたにいろいろ言われる筋合いなんかないわよ」とか言って……う、うーん……。桂花ほどではないにしろ、ツンツンしてるところが多いよなぁ。
 と、それはそれとしてと。

「じゃあ、そろそろボランティアに行ってくるな。二人はどうする?」
『………』

 声をかけると、互いの顔を見詰め合い、こちらを見て一言。
 ……同行者が三人になった瞬間だった。




74/ボランティア。無償の奉仕活動をすること。

 今日は少々足を伸ばし、遠出をした。と言っても、一日で往復出来る程度の距離の遠出。なにせ朱里も雛里も明日には仕事が待っているわけだから、何日もかけて行くような場所には連れていけない。
 もちろん桃香に許可を得ての馬での移動となったわけだが、俺は雛里とともに麒麟に乗り、朱里は思春と同じ馬に乗っている。
 以前から気になっていたことではあるが、成都以外の邑や街から来る案件も多い。
 それを、いつか呉でもやったように遠出をして解決しようってことになった。
 桃香に許可を貰って、はい、と渡された紹介状……というよりは証明証みたいなものか?
 桃香が書いて渡してくれたものだが……まあ、こういうもの無しで急に訪れて、ボランティアさせてくれーなんて言っても聞いてくれるわけもなく。そこのところは素直に感謝した。
 だからだろう。

「いきなり言い出したのに、よく了承をくれたもんだよなぁ……少し、これからの桃香のことが心配だ」

 澄んだ空気と森に囲まれた山道を進む途中、俺はそんなことを呟き、きょとんと振り向く雛里の表情に苦笑を送った。
 対する雛里は「あの」と口ごもり、けれどきっぱりと言った。
 「それは、一刀さんだからです」と。

「? 俺だから?」

 ……あ……そっか。信頼してくれてるってことか。
 そんなことに気づいたらむず痒くなって、何かを続けようと口を開こうとした雛里の頭を、帽子ごと撫でた。あわわわぅ……と困ったようなくすぐったいような声が聞こえる中、ただ笑いながら街への道をゆく。
 護衛もなしに平和なことだが、今のこの大陸なら、山賊なんてものとは滅多に出くわさないだろう。もちろん、滅多にと言うからには絶対に居ないわけでもないのだが。
 働くよりも奪ったほうが楽って考えを変えない人っていうのは、やっぱりどうしようもなく存在するのだ。けれど街を、邑を襲えば足がつく。ならば旅の商人を襲うなりして荷物ごと奪ってしまえば……と。なんだか物騒なことを考えていた矢先だった。

「たっ……助けてくれぇえええっ!!」

 腹の底から放つ、それこそ心の底から助けを求めるような声が耳に届く。
 森の中によく響いた声は、厄介なことに木々に囲まれたこの場では嫌に反響してしまい、正確な位置を掴むのは難しく───と、不安に駆られた途端に思春が向かうべきを示し、馬から飛び降りていた。
 走る方向は木々の奥。さすがに馬を連れてはいけない。
 俺もすぐに降りようとするが、雛里がそれを、服を掴むことで止める。

「……ごめん。ボランティアしに行こうってやつが、助けてって悲鳴を聞き流したら、誰にも顔向け出来なくなる」

 言いながらその指をやさしく解くと、麒麟から飛び降りて不安だらけの顔に笑みを返す。
 そして、麒麟に一言を。

「危険を感じたら、俺達を置いてでも逃げてほしい。朱里と雛里を守ることを最優先に。……お願いして、いいか?」

 ブルル、と小さく嘶く麒麟の目を見つめ、囁くように届ける。
 麒麟は……どう受け取ってくれたのか、俺の胸に一度顔を擦り付けると、思春が乗ってきた馬……朱里がはわはわと戸惑ったままの馬の傍に近寄り、こちらを向いて、ただじっと見つめてきた。
 ……行け、と言っているのだろうか。

「よしっ、じゃあ、頼んだ」

 そう返すや地面を蹴って、思春の後を追った。
 当然といえば当然ながら、どういう脚力しているのかってくらい速い。
 それに負けないように地面を蹴り続け、あちらこちらに生える木々を避けながら、全力で走り続けた。

「………」

 悲鳴は未だやまない。
 その声を頼りに駆け、腰に備え付けてある木刀に触れ、武器の存在を確認する。
 辿り着いておいて武器がありませんでしたじゃあ、思春の邪魔になるだけだ。
 というかもしかしたら思春だけでも十分かもしれない。
 そう思いながらも状況の楽観視だけはしない心構えを持ち、奥へ奥へと駆けた。
 駆けて駆けて、蹴って蹴って、やがて───一つの洞穴を発見する。

「洞穴……?」

 鬱蒼とした草花や木々に隠れるように、それはあった。
 ただし地面には何かを引きずったような跡と、それに抗おうとしたような跡がいくつもあった。
 俺は、それを見下ろしていた思春の横に立ち、これからのことを考える。

(どうするか───だよな)

 突っ込んでいったはいいが、敵だらけでは返り討ちに遭う。
 が、早く入らなければ連れていかれたかもしれない誰かが危険に曝される可能性が、時間が経過すればするほど増えていく。
 だったら───迷う必要はない、か?
 いや、なんだったら何か物音でも出して、相手を洞穴から引きずり出して……いや待て。考えていたとはいえ、これは本当に山賊絡みなのか?
 ただ村人か町人が何かの遊びをしていて、それの罰ゲームが怖すぎるから、腹の底からタースケテーって………………それこそ言ってる場合じゃないよな。
 熊が現れて、旅人を引きずり込んだとかだったら笑えない。
 ……まあ、熊だったら、こんなあからさまな草花のカーテンなんて作らないか。

「行こう。どの道、状況を知ってみなくちゃなにも出来ない」
「同感だ」

 思春と頷き合って、洞穴へ。
 わざとそうしているのであろう草花のカーテンを押しのけて、中へ中へと進んだ。


───……。


 ……暗がりが続いたが、しばらくすると照明代わりの松明を見つけた。
 それはところどころに存在していて、進むにつれ広くなる洞窟を、文字通り明るく照らしていた。

「…………?」
「…………《こくり》」

 人の声が聞こえる。そちらを指差すと、思春が頷いた。
 洞窟はそう入り組んだものではなく、進んだ先には大天蓋ほどの広さがある空間と、そこからいくつか続く道がある程度。
 ここに住んでいるのか居ないのか、お世辞にも空気のいい場所とは思えなかった。
 ずっとここに居たら、肺にコケが生えそうだ。

「………」

 軽く進む。
 くすくす笑うのではなく、ガッハッハと豪快に笑う者が居るであろう奥へ。
 極力、松明の所為で伸びる影で、相手に見つからないように気をつけながら。
 ……やがて辿り着いた洞穴広間の先。
 そこにはさらに大きな空間があり───その中心で、男性数人が行商らしき男を縛り上げ、手に入れた売り物や金を手に笑い合っていた。

  本当に、嫌な予感っていうのは当たってしまうもんだ。

 苛立ちがチリッ……と心に走る。
 しかも、その行商が知っている相手ならば尚更のこと。
 けれど深呼吸を一つ、思春と向き合うと……思春は「時間を稼げ」とだけ言って、気配を殺して走った。

「……了解」

 これでも、一緒に過ごした時間は地味に長い。
 魏将を抜かせば多分一番。
 だからこんな時、彼女が何を俺に望んでいるかは解るつもりだ。
 必要じゃない言葉は喋らない。つまり、ただ時間を稼げばいい。

「へははははは! つ、ついにやっちまった……! けどっ……こ、これでしばらく遊んで暮らせるぜ……!」
「ら、楽なもんだったなぁ、はは……! でもどうするんだ、この行商……逃がしたら絶対に喋るぞ……?」
「………」
「………」

 男性数人が、行商……呉で会った親父の一人を、恐々と見る。
 バレないためにはどうするか。バラされないためにはどうするか。
 そんなの、たぶんいろんなヤツが子供の頃から知っている。
 釘を刺すか、痛めつけてバラせばこうなると脅すか…………喋れなくするか。

「おい、おめぇ……俺達の仲間にならねぇか?」
「お、おい、それは……」
「いいんだよっ! ……奪われるのが自分だけってのは納得いかねぇだろ……? へへっ、悪い話じゃあねぇと思うぜ? なにせ成功すりゃあ、こうして楽に……」

 初犯なのだろう。
 不安に染まる顔を無理矢理ニタニタとした顔に変え、男はオヤジに提案する。
 だが───オヤジは「へっ」と一笑。

「冗談じゃねぇ。ここで首を縦に振ったら、罪を被ってまで許してくれた義息子に言い訳出来なくなっちまう」
「息子だぁ? そいつのためなら痛い目見てもいいってか」
「……俺にはもう家族がいねぇ。だからこうして一人身で行商やってられる。妻はとっくに病気で亡くなっちまった。それでも育てた息子は、戦で死んじまった。……けどな、腐るだけ、ただものを売って生きるだけの俺に喝を入れてくれた涙があった」
「あぁ? 涙だぁ?」
「痛い目見てもいいかだぁ? へっ、汗水流して生きようとしねぇやつの暴力なんざ痛くも痒くもねぇ! 自分が楽して幸せになろうとして、他国の野郎に手ぇ出して! こんなことが終わらねぇから戦が起こるんだってことも知ろうともしねぇで、ただ奪うだけのてめぇらの仲間なんぞに誰がなるかよっ!」
「───っ……てめぇっ! なにも知らねぇくせにっ───!!」

 男たちがオヤジに向けるための拳を構える。
 それが振るわれる前に、俺は地面を蹴っていた。

「!? お、おいっ、あれっ!」
「あぁ!? っ───な、なんだてめぇは!」

 なんだ、だって?
 そんなもの、あんた達には関係が───!


    時間を稼げ


 ───ア。
 ……いっそ、勢いのままに殴ってくれようかと動いていた体。
 それを理性で無理矢理止めて、せめてオヤジだけはと縛られたままの親父の前へと割り込んだ。

(っ……落ち着けっ……! すぐに暴力を振るうためにつけた力じゃないだろ……!?)

 愛紗に自分の在り方を話した時のことを思い出し、歯を食いしばって自分を止める。
 怒りに任せて行動するな、絶対に後悔する。
 俺は……俺はただ、思春を信じて時間を稼げばいい……!

「へっ……? か、かずっ……? お前、なんでこんなところに……」
「声が聞こえたっ……だから、来た……それだけ……!」

 なんの罪もないオヤジを殴ろうとしたこいつらを、震える手を押さえながら見やる。
 戸惑いながらもこちらを睨んだまま、けれど俺が一人だと知るや途端にニヤニヤとした顔になるそいつらを。
 息が荒れる。
 自分が思うよりも緊張している。
 それは何故? 相手が許せないから? それとも……力を振るうのが怖いから?

「……この人から奪ったもの、全部返してあげてくれ」

 今はいい。
 けれどやることはやる。言いたいことは言う。

「あぁ……? お説教でも始めようってのか?」
「説教……? そんなつもり、ないよ……。ただ、返してあげてくれって頼んでる」
「……いきなり現れて“返してあげてくれ”たぁどういうつもりだ、にーちゃんよぉ」
「そんな震えて、俺達を前にビビってんだろ、あぁ?」

 震える。
 ああ、震えている。
 今はいいって言ったって、理由も無く震えたままでいられるほど、自分には胆力ってものがない。でも、今必要なのは強敵に立ち向かう胆力じゃなく、力を振るう恐怖への胆力だった。
 出来れば振るいたくなんかない。
 やっと平和に辿り着けた先で、鍛えたからって振るわなきゃいけない道理なんて無い。
 だから言葉を紡ぐ。
 どうか言葉だけで終わってくれと願いながら。

「頼むから……これ以上奪わないでくれ……。笑顔で居られている人から、笑顔を奪わないでくれよ……! どうしてそうなんだ、いつも、いつも……! 自分が楽したいから、他人から物を奪って……! そんなことが続くから争いが始まって、死ぬ必要がない人まで死んで……!」
「へっ、随分な言い草だけどよぉ。おめぇだって思ったことくらいあるだろうが。楽して暮らしたい、圧力に負けずに生きていたいってよぉ。俺ゃあよぉ、山賊どもを見て思ったのさ。奪うあいつらが幸せで、奪われた自分がどうしてこんなに不幸なのかってなぁ。力が無いから悪いのか? じゃあ力があれば、奪うことも正当化出来るのか? ……違う、違うねぇ」

 リーダー格らしい男性が農具を手に一歩出る。
 剣なんてものは用意出来なかったのだろう、右手で持ったそれを左手で弾ませ、ニヤニヤした顔を鋭く変え、睨んでくる。

「黄巾や山賊だって農夫や楽したいやつらの集まりだった。俺達はその集まりにこそ奪われた。相手も元は農夫だったのにだ。なんだそりゃって思ったよ。おかしいだろ? ついこの間まで汗水流して働いてたやつが、人を殺してモノを奪うんだぞ? 頑張っても頑張っても奪われて、家族まで殺されたやつなんざ、呆然としたまま骨になるまで蹲ってやがった」

 語調が荒くなる。
 農具を俺の目の前に突きつけて、怒りに満ちた体で支えているためか、その切っ先が震えている。

「何が悪い? そんなもの、そんな国にしちまった上が悪かったのさ! 俺達が死ぬ思いをしてる中、上はどうしていた!? 保身ばっか考えて、俺達がどうなろうが知ったことじゃねぇって態度だったじゃねぇか! 駆けつけてくれても数で押さえられて敵いやしねぇ! 農夫に負けて死んじまう兵を見て、俺は絶望したね! 倒れた兵は兵とも呼べねぇ幼いガキだったよ! どういうことか解るか!?」

 震える手が農具を握り締め、農具がカチャカチャと音を立てる。
 怒声が続くっていうのに、その音はやけに耳に届いた。

「お偉いさんは自分の身を大人の兵で固めて、邑のことなんざ気にも留めてなかったのさ! 兵に志願したばっかりの息子が目の前で殺された! それを見ていた妻の悲鳴を聞いた! その妻も俺の目の前で……! 俺だけが生き残って、こんなのはあんまりだと城に行ったところで話も聞いて貰えず追い返された! だから決めたのさ……! いくら平和になっても君主が代わっても構わねぇ……! いつか俺達も奪う者になってやるってなぁ!」
「なんでっ……!! 奪う誰かに息子も妻も殺されたのにか!?」
「ああそうだ! 奪う者の気持ちってのがどんなものかも知らずに生きていけるか! 殺したやつは……笑ってたんだぞ!? 俺は息子と妻の亡骸を抱きながら泣いてたってのに……あいつらは笑ってやがったんだ!! てめぇが強いわけでもねぇ……武器があったから殺せた、数が多かったから殺せたってだけの野郎が……!」
「………」
「ははっ……けどどうだ……!? やってみたところで乾いた笑いしか出てこねぇ……! なんだよこりゃあ! 俺達が長い時間をかけてようやく得られたものが、こんなに簡単に手に入るだって!? そんなに簡単にものを手に入れられるってのに、どうしてあいつらはそれ以上のものを俺から奪った! どうして生きるために志願しなけりゃならなかった息子が、奪った糧を持ったあいつらに殺されなけりゃあならなかった! 俺はっ……俺はこんな世界! たとえ国が変わろうが人が変わろうが認めねぇ!!」

 だから、と。
 男性は農具を振り上げ、俺へと───!

「見える!《ひょいっ》」
「へっ!?」

 ───振り下ろされた農具(大きな熊手)をひらりと避けた。
 そうしてから縛られたままのオヤジを抱き上げると、緊張を保ったまま距離を取る。

「なっ……てめぇ、逃げる気か!」
「理由は聞いた。だからこそ、殴られるわけにはいかない。オヤジも直接被害は受けてないみたいだし、奪ったものさえ返してくれれば軽い刑で済む筈だ」

 報告しないって方法もあるけど、それは多分無理だ。
 だからせめて、下される罰がやさしいものになるように、攻撃は意地でも受けない。
 呉の時も避け続ければよかったんだろうけど、考え事とかいろいろしてたしなぁ。
 それに……あの時は受け止めていなきゃあ、今のオヤジとの関係もなかっただろう。
 そんなオヤジも、農具を持って囲んで脅して連れ込んだのかどうなのか、傷ひとつついてはいなかった。
 なおさら攻撃を食らうわけにはいかないよな。

「あぁ!? おまっ……この期に及んで俺達に投降しろってか!」
「奪う者の気持ち……もう解ったんだろ……? それが知りたくて行動したなら、“理由”はもう無くなってる筈だろ? それとも……誰かを殺さなきゃ治まらないのか?」
「っ……い、いや……」
「俺達は……そんな、殺しまでは……」

 リーダー格以外の大人達が、一歩また一歩と下がる。
 けれどリーダー格の男だけは前に出て、再び俺に向けて農具を構えた。

「そうだとしても、おめぇに止められる理由がねぇんだよ、俺には。まだガキのくせして偉そうに説教か? どこの誰だか知らねぇけどな……大人の意地ってもんに首突っ込んでんじゃあねぇ!!」

 けれどその農具を捨て、拳で殴りかかってくる。
 ……それを見て、なんとなく。
 先ほど、向けていた農具が震えていたのは怒りの所為などではなく───“命”に刃物を向けることへの恐怖がそうさせていたんじゃあ、と……。
 いや、あるいは……その向ける刃が、自分の息子を殺した刃物とダブってしまったのか。
 どちらにせよくらうわけにはいかない。
 紙一重なんて巧みなことはせず、一目散に逃げ出した。

「お、おいおい一刀っ!? 逃げるのかっ!? そんなことしなくても、その剣で脅かせばよぉ!」
「ごめんオヤジ! これ剣じゃなくて木刀! 木の棒なんだ! だから無理! というか頼まれてもああいう人に対して脅しとかはしたくないっ!!」
「んなぁっ!? じゃあなんでそんなもん腰に下げてんだおめぇは!」
「あはっ、あはははっ! なななななんでだろうなぁっ!?」

 まったくだ、下げている意味がない。
 なんて引きつった笑いを零しながら、追ってくる男性から逃げ回る。
 で、いつまで時間稼げばいいんだ思春!
 走り回るのはもう慣れてるけど、相手の人数がっ……あぁあああ男性があんまりに追うもんだから、他の人達まで妙な使命感燃やして走り出してきたし!

「おぉおお、おいおいっ……どうすんだ囲まれちまったぞ……!?」
「…………怪我さえしてなければバレない……ってことは、ないよなぁ」
「おめぇは……どこまでお人よしなんだよ……」
「何処までって、俺のほうこそ知りたいよ」

 お人好しのレベルなんてのが自分で見れたら世話無い。
 絶対に驚くか笑うか呆れるかに決まっている。
 そんなことよりも、この囲まれた状態からどう逃げるかが問題で……でもダメだ、絶対に無傷で乗り切るんだ。家族を思って泣く人を、理由があったからって重罪人になんかしたくない。
 だからせめて無傷で……“未遂に終われた”ってところまで、なんとか……!
 う、奪ったものもすぐ返して、双方ともに無傷だから未遂ってことに出来ないかなぁ!

「……ごめん、ちょっと無茶してでも押し通るから」
「……怪我だけはすんじゃねぇぞ」

 小さくオヤジと話し合う。
 その途端、リーダー格の男性の合図とともに人垣が一気に迫り来る。
 とりあえずは人の体を取り押さえようとする人は無視して、凶器になるものを振るう人にだけ注意を払い、その脇を一気に抜ける───が、伸ばされた手が服を掴み、一瞬体勢を崩してしまい……そのまま強引に走ればよかったんだが、ここに来て寝不足による不安定さが揺れ、力を込めようとした足がふらつき───そこへ、クワが落ちる。

(あ)

 やばい……なんて言っている暇もなかった。
 ソレは体勢を崩した俺の顔面へと振り下ろされ、一瞬見えた振るった人の顔も、“え?”って感じに呆然としていた。脇を潜ろうとした俺を、棒の部分で叩くつもりだったんだろう。
 それが、ただ引っ張られることでズレてしまっただけ。
 ただそれだけの……非常に運の無い出来事だった。

  ザゴンッ!!

 鈍い音がする。
 思わず閉じたままの目を開きもせず、痛い箇所があるかを確認するが……あれ?

(痛く……ない?)

 パチリと目を開く。
 すると、棒を持っていない男が呆然と突っ立っていた。
 ……いや、持ってはいるんだが、握る部分より先が消失している。

「……時間を稼げとは言ったが、抵抗するなとは言っていないぞ」
「へ? あ……思春!?」

 思春だった。
 鈴音を構えた状態で俺を庇うように立ち、戸惑う男達を……その殺気と眼光だけで下がらせた。
 すると、その場に落ちているクワの先を発見。
 どうやら鈴音の餌食になったらしい……すごい切れ味だ。

「さて貴様ら。大人しく投降するなら良し。しないのなら……」

 とか思っている中、もう一度殺気が放たれる。
 一緒に居て、まあまあ慣れているつもりだった俺でも、やっぱり思わず“ヒィ”と叫びたくなるほどの殺気。
 そんなものを向けられて、対立していられる筈もなく……男たちは一人、また一人と、その場にへたりこんでいった。
 ……けれど、一人だけ。
 足を震わせるがらもこちらを睨む存在があった……さっきのリーダー格の男性だ。

「……一つ、訊かせてくれ」
「…………言ってみろ」
「あんたの目から見て、この国は、大陸はどう見える? そんな格好しちゃいるが、睨み一つでこの有様……庶人なんかじゃないんだろ?」
「………」

 男性は、震える足に勝てずにへたり込む。
 けれどその目でこちらを睨むことはやめず、答えを待っていた。

「……国がどう見えるか。そんなもの、人の答えに満足するべきことではないだろう。自分の目で見たもの聞いたものが全てであり、それを間違わずに受け取れたものこそが貴様の答えだ。私の言葉に満足し、頷ける程度の覚悟でこんなことをしたのなら、それこそそこいらの山賊以下の覚悟だろう」
「っ……な、なんだと……!?」
「───私にとってのこの大陸、そして国。それは既に変わったものだ。戦に溢れたあの頃とは違う。奪わなければ奪われる乱世は終わった。それは、将だけではなく貴様ら庶人も気を張らねば実現出来なかった結果だ」
「……あ? お、俺達……が?」

 殺気を引っ込め、鈴音も仕舞うと、今度は殺気は込めずにキッと眼光だけで男性を怯ませ、言葉を続けた。

「山賊や黄巾党が元はどんな存在であったのか。それを知るのは将よりも庶人が多かった筈だ。そして、どれだけ王や将が敵国に攻め入ろうと勝ち取ろうと、民が平和と地道を望まぬ限りは野党や山賊どもは減ることを知らなかった。……王や将がどれだけ気を張ろうと、届かぬ理想は存在する」
「な、なにを言って……!? 俺の質問はっ───」
「故に。貴様らがその理想の果ての現在を蹴るような行為をすることに、我慢がならん」
「そっ……そんなもん俺の勝手で───《ぞくぅっ!》ひぃいっ!?」

 ア、アノー、思春サン!? 殺気が! せっかく抑えた殺気がまた……!!

「貴様らこそが知るがいい。この平和の世は貴様らだけのものではない。戦い、死した者。飢え、死した者。恐怖を前に立ち上がり、歩んだ者。それら全ての願いの果てに今が在る。大切なものを亡くした者が、何も自分達だけだと思うな。貴様らのそれは、それでも歩いていこうとしている者達への侮辱だ」
『っ……!!』

 その言葉を最後に、殺気が治まる。今度こそ。
 俺も、オヤジもかちんこちんに固まった状態だ……まあその、つまりは怖かった。

「………………おれ、たちは…………な、なぁ……俺達はどうなる……っ?」

 そんな恐怖をぶつけられてもまだ、男性は声を放った。
 それを聞いた思春は、まるで俺に質問され続けた時のように呆れ混ざりの溜め息を吐き、

「何度でも始めてみればいい。幸いなことにこの国の主は民に甘い。もう一度前を向く勇気があるのなら、人に訊かずに自分の頭と行動で答えを出せ」
「へ……? お、俺達を捕らえたりは───」
「生憎と私は庶人だ。突き出すことは出来るが、捕らえる権利は無い」

 ……で、どうしてそこで俺を睨むのかな、思春さん。

「しょ、庶人!? あんたがか!? 冗談だろ……!?」
「大人しく投降するかどうかは好きにしろ。ただし、抵抗するとなるとこの男が黙っていない」
「えぇっ!?」

 思春!? もしかしてさりげなく俺に投げた!?
 そりゃ一応、あくまで一応ってことでは思春は俺の下に就いてるってことになってるけどさぁ!

「この男って……逃げ回ってばっかりだったこの男が……? なんだってんだ」
「天の御遣いだ」

 …………。
 空気が凍った音を聞いた。
 あばれん坊将軍あたりだったら、この瞬間に悪者あたりが“う、上様っ!”と叫んでいることだろう。もちろん相手が俺でそんなことが起こるはずもなく。

「天の御遣いって……げぇっ!? あ、あの魏の種馬とか云われてるっ!?」
「《ぐさっ》……」
「な、なんだって!? 魏の将のほぼを骨抜きにした、あの見境無しの!?」
「《ぐさぐさっ》……!」
「そういえば聞いたことがある! 今は各国を回って将という将を食らう旅に出ているとか……!!」
「《ゾブシャア!!》…………ゲフッ!」

 言葉の棘が刺さりすぎた。
 血を吐くような悲しみを前に、オヤジを下ろしてがっくりと項垂れる俺が居た。

「い、いや……今は各国の手伝いをしてるだけであって、将を食らうとか、そんなことは全然……!」
「骨抜きにしているのは事実だろう」
「思春さん!? お、俺がいつそんなことを!?」

 言われた言葉に返してみるが、あっさりと「自分の胸に聞いてみろ」と返されてしまう。
 ……俺、なにかした……? ただ友達増やしただけじゃあなかったっけ……?

「……? 各国の手伝い……? 魏王の伴侶みたいなもんの御遣いが、なんだってそんなことを……」

 と、項垂れている俺へと疑問が投げ掛けられる。
 ……落ち込んでいても始まらない。
 気力を振り絞って立ち上がると、真っ直ぐに男性の目を見て話す。
 自分がやりたいと思っていること。
 そのために出来ることを探していること。
 自身を鍛えていること、いろいろだ。

「鍛えて、って……逃げてばっかだったじゃねぇか」
「力があるからって力で解決したら、力で返されるだけだって……この目で知ったから」
「あ……、……〜〜〜っ……!」

 きっとこの人も知っていたことだ。
 けれど、最初に力を見せたのは奪った相手であって、返すことが出来ずに泣いたのがこの人だった。言葉にしてみればたったそれだけの過去。だからこそ今更になって力を手に入れたつもりで、立ち上がり、奪ってみて……後悔を味わった。
 “このままじゃいられない”って鍛え始めた自分だから、“あの時にもっと自分が強ければ”って気持ちは解るんだ。
 解るんだけど……きっと、力があったとしても奪う自分にはならなかった。
 そう信じたい。
 ───男性は苛立つように地面を殴ると、がっくりと項垂れた。

「お前はその目で……戦を見てきたんだよな……?」
「……ああ。華琳……曹操の傍で、ずっと」
「…………お前、家族は」
「天に居る。でも……多分、もう二度と戻れない」
「心細くなかったのかよ……そんな状況で、戦を見るなんて」
「天は天、ここはここだって……そう割り切らなきゃ、とても耐えられないものを何度も見た。強くならなきゃいけなかったんだ。誰かの死や奮闘のお陰で、自分がまだ五体満足で居られること、笑っていられることを自覚できるくらいに。でも、だからってやられたらやり返すをずっと続けていたら、きっと誰も救われないから……」

 いつかは誰かが折れなきゃいけなかった。誰かが預けなきゃいけなかった。
 あの人ならばと信頼されたからこそ、信頼している人達をこれ以上傷つけないために、受け容れなきゃいけないものだってきっとあった。
 
「……そうかよ。だから“奪わないでくれ”だったんか」
「はは……実際、怖かったのも確かだから、逃げた事実は変わらないんだけどさ」

 苦笑。
 そんな情けなさがおかしかったのか、男性もくすぐったさに我慢出来なくなったかのように笑い出した。
 頭をガリッと掻いて、小さく涙を滲ませながら。
 そんな中で思春が男性を見やり、「住んでいた場所が襲われていた時の太守の名は?」と訊く。それは───いや、思春も多分解っていて訊いているんだろう。
 男性は笑い声を潜め、俯いたままにもう一度頭を掻くと、

「……劉璋だ」

 それだけを口にした。
 それは、桃香が蜀の王になる前の太守の名前。
 噂だけ聞いても、ひどい太守だったと理解出来る人だった。
 自分の国のひどさに気づかず、いや……気づいていたとしても、自分たちだけが豪奢な暮らしを出来ればいいと、税を搾り取るだけ搾り取り、守ろうともしない。
 そんなひどい太守が、確かに蜀には居たらしいのだ。

「ひどいもんだったよ……あんなのが太守なら、まだ適当な町人が太守をやったほうがましだって思えるくらいだ。自分が治める場所の民の話も聞かねぇ、自分や貴族以外はどうなってもいいみてぇに助けもしねぇで、それでいて税だけは搾り取って……」
「……太守が桃香に変わってからは、どうだった?」
「変わったさ。税も軽くなって、邑や街のやつらに笑顔が戻った。俺達ゃあ純粋に喜んださ。これでようやく、って。でも……でもなぁ……」

 それでも戻らねぇものはあって、どうしてもっと早くに……ってどうしても思っちまう。そう続けて、彼は顔を片手で覆うと嗚咽を漏らした。


───……。


 ……。

「はぁ……」

 結局。
 男性たちは成都に連行することになって、当然といえば当然だが、別の街へ行く予定は無しになった。馬に跨って待っていた朱里と雛里に事情を話して、そういうことならと戻ることになる。
 湧き出る暗い気持ちに溜め息が漏れ、それを聞いたのか、思春が静かに睨んでくる。
 ……いや、ここは普通に見るなりしてくれ、思春。

「いや、さ。将が各地に走っても、どれだけ復興をしようとしても、辛い思いを持ったままの人はまだまだ居るんだなぁってさ」
「当然だ。それら全てが楽に治まるなら、民も兵も将も王も苦労などしない」
「ん……解ってた筈なんだけどさ」

 世の中いろいろある。
 そのいろいろっていうのが予測出来ないことばかりだから、本当に困る。
 ……予測出来ているからって、何が出来るかと言われれば、出来ることの方が少ない。
 だから余計に困る。
 力を付けたって、出来ないことの方がやっぱり多いんだ、暗い気持ちにもなる。

「しかし……一刀よぉ、おめぇは変わらねぇなぁ」
「へ? あ、そ、そうかな」

 もう一度溜め息が出そうになった時、重たげに荷物を背負ったオヤジが笑う。

「おめぇ、なんつったか……鍛錬とかしてたんじゃあなかったのか? その割りにゃあ大して変わってねぇと思うんだが……」
「え、いや、これでも結構筋肉ついてきてると思うんだけど……か、変わってないか?」
「顔つきはちぃとばかし変わったか? ま、なんにせよ、元気そうでなによりだよ」

 で、その笑いのままに背中をバシバシと叩いてきて、より一層笑った。
 ……相変わらずだ、この人も。
 そんなことに小さく安心を覚え、俺も苦笑して、それから笑った。

「………」

 そうして笑う俺達を見て、連行される男たちが面白くなさそうな息を漏らす。

「……おめぇ……北郷一刀っていったか? どうしてそう笑ってられんだ」
「っと……どうして、って」

 話し掛けてきたのはリーダー格の男性。
 つまらなそうに、けれどその目は真っ直ぐに俺の目を見て。

「ぶすっとしているよりさ、笑ってる方が楽しいから。そんな簡単な理由だと思う」
「……お、思うって、お前……」
「はは、自分のことながら、きちんと解ってないんだ。けど、どうせなら笑いたいって思う気持ちは嘘じゃない」
「ああそーだろうよ。じゃなけりゃあ、数人がかりで殴られて、腹まで刺されたってのに相手のことを親父だだの言えるもんか」
「オヤジぃ……それ、殴った本人が言う言葉じゃないだろ……」

 殴られた。腹を刺された。
 そんなことも、笑い話に出来る今がある。
 人がいいって言えばそれまでの話で、普通だったら逆上して殴り返したり刺し返したりもするんだろう。
 それをしないのは、やっぱり……戦場で戦っていた俺達だけじゃなく、民だって苦しんでいたことを知っているから。
 まあそもそも、それをするだけの度胸なんか俺にはないと思う。
 人を刺す感触なんて、出来れば一生知りたくない。
 きっと、誰だってそう思っている。

「殴って、刺して……そんなことになったってのに、笑えるってか。……なんだそりゃ」
「ほんと、なんだろなぁ」

 呆れる男性に対して、というか……自分自身に呆れる。
 それがきっかけになったのかどうか、仲間だった男達からもいろいろと質問を投げ掛けられる。主に、“俺達はどうなるのか”、“殴ったやつらはどうして助かったのか”、“刺したやつはどうなったのか”、などなど。
 俺とオヤジはそれに対して顔を見合わせてから笑った。
 それから言う。
 なんだかんだで俺が罪を被ることで、許されることになったこと。
 けれど、もちろん俺だけじゃなく、暴力を振るった親父たちも国のためにと立ち上がってくれたこと。
 そうしてより良い平穏をと願ったからこそ、今のこんな笑い合える関係があること。
 それらを話してみせたら、男たちは一様にぽかんと口を開けていた。
 ……歩きながらだから、中々に器用だって思ったのは内緒だ。

「……あんたが言ってた息子ってのは、こいつのことか」
「ああ、自慢の馬鹿義息子だ。殴られても刺されても、誰かを許して“親父”なんて呼びやがる。馬鹿以外のなんだってんだってくらいの馬鹿よ」
「───…………ハ、は、ははっ、うわっはっはっはっは! そりゃあ違いねぇ!! 馬鹿以外のなにものでもねぇやなぁ、がっはっはっはっは!!」
「いや、そこ笑うところじゃないだろ……しゅ、朱里も雛里もそんな、笑ってないで!」

 笑顔は伝染するって、昔誰かが言った。
 実際にこうして笑顔が伝染り、みんな笑ってはいるんだが……そのタネが自分の馬鹿さ加減ってところにいろいろとツッコミを入れたい。
 けどまあ……いいか。事実だし、暗い顔で居るよりは。

「はーあ……俺達にもそうして、笑えるような処罰が待ってりゃいいがなぁ」
「まあ、被害らしい被害は無いから、そう難しい話にはならないとは思うけど。そういえば思春、俺が時間稼ぎしてる間、何やってたんだ?」

 そういえばと思い出し、訊いてみる。
 と、思春は朱里が乗る馬の手綱を引きながら、こちらをチラリと見て……

「敵の数を調べていた。奥にも分かれ道があっただろう。数を知るのは基本だ」
「……なるほど」

 無鉄砲に突っ込んで、数で囲まれたらおしまいだもんなぁ。
 実際、簡単に掴まれて死にかけたし。
 睡眠不足は美容と健康、そして生命にも深く関わることを改めて知った。
 気を付けよう、本当に。

「………」

 自分の在り方に溜め息を吐きつつ、ちらりと見ればいつの間にかの笑顔。
 さっきまで殺伐としていた空気はどこへやら、人のことをネタにげらげらと笑う男達。
 いいんだけどさ、人の笑顔、好きだし。
 どんな処罰が下されるかなんて考えるより、笑える時は笑っておくべきだ。
 もう一度溜め息を一つ、雛里が乗っている麒麟の手綱を引いて歩く俺は、せっかくの休みがこんなことになってしまったことを小さく謝罪した。
 対する雛里は、わたわたとしながらも「気にしていませんから」と言ってくれて、とりあえずは安堵した。


───……。


 で……成都。

「完遂は阻止したにせよ、奪われかけ、縛られたことも事実です。桃香さま、どのようにいたしましょう」

 城まで案内された男性数人は、玉座の間の床に座らされ……ることはなく、案内された時点で桃香が普通に立ってたために玉座は空。
 同じ目線で話すことになった男たちは戸惑いのままに処罰を待ち……愛紗の言葉に軽く息を飲んだ。

「………」

 しかし桃香は処罰云々よりも先に、一緒に居たオヤジの前に立ち、「ごめんなさい」と頭を下げた。
 これには流石に、その場に居た全員が息を飲むどころか声を出すほど驚き、下げられたオヤジは完全に硬直、男性たちは自分の行動の重さに震えだしてしまう始末で───

「かっ……かかかっ、かおっ……お、お顔を上げてくだせぇ玄徳さま! そんなっ、俺、ああいやあっし……いやいやわわわ私めはべつになにもっ……!」

 そして、王が頭を下げるなんてことを目の前でされたオヤジは、もはや何を言っているのか自分でも解らないほどに動揺……って、それはそうだ。
 でも……そうしなきゃいけないだけの理由が、そこには確かにある。
 息を飲みはしたが、集まった将が何も言わないところにも理由がある。

「お、おぉおい一刀っ!? 俺ゃっ、俺ゃどうすりゃっ……!」

 慌てるオヤジが、俺に言葉を投げてくるが、俺は思春とともに男性やオヤジから少し離れた後方に立つだけで、何も返しはしない。
 そこへ、愛紗が前に出て、オヤジへ質問をする。

「もう一度確認をする。呉からの商人よ。お主は山道を歩く中、この男達に捕らえられ、洞穴へと引きずり込まれた。そうだな?」
「へ、へぇ……」
「が、荷物を奪われ、縛られたところへ一刀殿が現れ、双方無傷で決着をつけた」
「そっ……その通り、でさ……」

 愛紗、俺だけじゃなくて思春も……って聞こえないか。

「お主らも今回が初犯であり、他に盗みなどを働いたことはなかった。そうだな?」
「へ、へい!」
「それはもちろんっ……!」
「───だが。他国の者から物を奪おうとすることが、どれほどの罪になるかも考えないで行おうとした。それも事実だな?」
「は……───」
「そっ、それは……」

 男たちが、もう一度息を飲む。

「乱れた世は平定し、ようやく皆も落ち着いてきたという時に……お主らはそれを乱すようなことをした。過去にどれほどの辛い思いがあろうとも、今ここにある平和は個人だけのものではない。それを乱すようなことをした自覚が、お主らにはあるか?」
「〜〜〜っ……」

 空気が凍る。
 もう、男性たちには後悔と罪悪感しかないのだろう。
 震え、頭を抱える者も出るほどだった。

「過去に対する怒りがあったとしても、それは自分たちだけが持っているわけではない。あの時ああであればと思う者など、お主らだけではない……死んでいった兵や家族を思う者ならばいくらでも居る。それでも平和になるならばと手に手を取った現在を───」
「すっ……すいやせん! すいやせんっ! あ、あっしらはそんなつもりじゃあ……!!」
「───〜〜〜っ…………“そんなつもりはなかっただと”、と……怒鳴り返してやりたいところだが……」

 ちらりと、愛紗が俺と桃香を見た。
 そんな中で桃香もようやく顔を上げて、俺と愛紗の顔を交互に見たのち───

「ねぇ朱里ちゃん。どっちにも怪我が無くて、どっちにも平和を乱したくないって気持ちがあるなら……今回のこと、本人同士の問題に出来ないのかな」
「はわっ!? と、桃香さま、それは───」
「そう仰るだろうとは思っていましたが……桃香さま、自覚云々の問題ではありません。皆が血を流し命を落としながら、ようやく手に入れたこの平穏。いくら過去になにがあろうが、崩していい道理には繋がりません」
「でもっ! ……でも、もしお互いが許せるなら、誰も傷つかなくて済むんだよ……? せっかく戦が終わったのに、また誰かが傷つかなきゃいけないなんて……」
「……それだけのことをしたのです。当然の報いでしょう」

 桃香の懇願に、愛紗が返す。
 対する桃香は自分の服をキュッと握り締めると、肩を震わせながら深呼吸をした。
 そして、ついに、その震えた口から処罰が───

「だいじょぶなのだ。どんな罰もお兄ちゃんが背負うのだ」
「ブフォオッ!!?」
「へあっ!?」

 ───伝えられる前に、頭の後ろで腕を組んだ鈴々が、にっこり笑顔でそう仰った。
 あまりに突然のことで吹き出し、桃香もそんな言葉に驚いて鈴々へと振り向いていた。

「え、いや……な、なんで!? なんでそうなるんだ!?」

 もちろん戸惑う俺も、鈴々へと疑問を投げていた。
 そ、そりゃあもしそれで事も無しになるんだったらとは思うぞ!?
 これ以上誰も傷つかないんだったらって! でもなんか違うだろそれ!

「ふむ。確かに呉での刺傷の件に比べれば、未遂で崩れる均衡というのもおかしなもの。加えて今回は無傷で済んでいるのであれば、呉で北郷殿が呉将相手に苦労なさった甲斐もないかもしれんなぁ」
「星!? そりゃそうだけど、俺が言いたいのはどうしてそこで俺が罪を被ることになるのかってことで……!」
「おや。それで平和が保たれるのならと、むしろ進んで頷くと思ったのですが。なるほどなるほど、これで中々自分のことも考えておるようですな」
「なんか敬語が定着してる!? じゃなくて、いや、そうなんだけど、あ、あああ……!」
「あ、そっかぁ! いずれお兄さんが大陸の支柱になるんだから───」
「桃香さん!? なんか早速いろいろ押し付けようとしてません!?」

 ちょ、ちょっと待って、待ってくれ……!?
 や、そりゃあ出来ればいろんな人と心を許し合って、手を取り合っての平和を歩きたいとは思ったぞ……? でもなんでもかんでも俺が背負うのは───あ、あぁあああもう!!

「……桃香ぁ……。呉に使いか手紙、出せそう……? 一応、雪蓮にも“こういうことがあったから”って報せを出さないと、示しがつかないから……」
「あ、う、うんっ、それは大丈夫だけど───」
「あ、いえ、そのことなんですけど……」
「? 朱里ちゃん?」

 がっくりと項垂れて、諦めモードで桃香に話し掛けると、どうしてかそこで朱里から待ったがかけられる。

「実は呉王……孫策さんは最近、頻繁に魏に出かけているようでして……報せを送ったとしても会えるかどうか……」
「…………ウワー、凄い嫌な予感」

 魏に帰りたいのに、帰りたくなくなってきちゃった。
 雪蓮……もしかして本当に魏将全員に許可を得に行ってる?
 それっぽいことは聞いてはいたけど、まさか本当に……?

「じゃあこの場合は……」
「周瑜さんに相談を仰ぎましょう。もちろん孫策さんに報せることを前提として、ですけど」
「うん、それでいいよ。それじゃあお兄さん……とってもごめんなさいだけど……」
「あ……なんかもう確定なんだ……」

 申し訳なさそうな、だけど頼りきった目を向けられた。
 頼られて嫌な気はしないけど、もっと別のことで頼られたかったような……。

「ただし。……罪は罪だから、それなりのことをしてもらう」
「お、おう! なんでも言ってくれ! じゃなきゃ先に逝っちまったやつらにも家族にも顔向けできねぇ!」
「そっか。じゃあ───もうこんなことはやめて、国のためにみんなのために、頑張ってほしい。過去を振り返るななんて言わないから、せっかく生きてるんだから……楽しく生きていこう」
「へ?」
「え……そ、そんなことでいいのか!? もっとないのかよ、殴るだの、あるだろ!?」
「はは……もう最初に言っちゃったからさ。だから、俺から言えることはそれだけだよ」

 “役に立たないなら立つように教えればいいさ。人って成長できる生き物だろ?
  解らなければ教えればいい。覚えられないなら覚えるまで教えてやればいい。
  今役に立たないものの未来を捨てるよりも、役に立つように育ってもらって、同じ未来を目指せばいい。俺は、この三国の絆をそうやって繋いでいきたいって思うよ”

 ……今思うと、随分と偉そうなことを言ったもんだなと呆れる。
 それでも嘘は言ったつもりはないから、それでいいんだと思う。
 この場合、役に立たないとかじゃなく、一緒に復興出来る人をわざわざ削ることはないって意味になるわけだけど……うん。

「けどさ……この場合、俺が被る罪ってなんなんだ? どちらも怪我してないし、当のオヤジは固まっちゃってて……オヤジ?」
「だ、だだ大事なかったんですから、ああああっしはべつに気にしてやせんっ! へい!」
「……気にしてないって言ってるんだけど」
「もちろん、一刀殿に罪を被せるつもりはありません。これは確かに蜀の民が起こした過ち。というより……元より一刀殿は止めに入り、無傷で治めてくれたのですから。だというのに罪を被せたら、それこそ魏に失礼というもの」

 ……そ、そう、だよな? なんか当たり前みたいに俺が罪を被ることになってたから、流れで受け容れそうになってたけど……そう、だよな?
 でも、無関係だってばっさり言われるのもなんだか辛い気分で……はぁ。
 支柱の一歩、歩こうか。なぁ、北郷一刀……。と、一歩を踏み出そうとしたところで、思春にガッと肩を掴まれる。

「ししゅ───」
「玄徳さま。無礼を承知で発言させていただきます」
「え……思春さん? って、うわわわわっ、そんなっ、立って立って!」

 肩を掴んだまま後ろに引き下がらせ、自らが一歩前に出て。
 桃香の目を真っ直ぐに見て、跪き、了承を得てから言を続ける。
 当然桃香も慌てて“立って”と言うが、思春はそのままの状態で続けた。

「何もしていない蜀の王、ならびに将たちが罪を被る必要はありません。いくら平和だからこそと言おうと、許してばかりでは民の心も緩むというもの」
「え……う、うん……」
「私は、この者らこそを書状とともに呉に向かわせ、王に決定を委ねるべきだと思います」
「え……この人達を? えと、朱里ちゃんと雛里ちゃんはどう思う?」

 桃香が朱里と雛里へ目を向ける。
 二人は少し間を取ってから顔を見合わせたのちに頷き、

「はい、それでよろしいかと。ただ、今すぐに向かわせても呉の皆さんも困ると思うので、やはり先に書状か使者を送るなりすることになりますけど……」
「? い、いいのかな、任せちゃったりして」
「あの……一刀さんの時もそうだったそうですし……それに、この件に関しては周瑜さんもきっと頷いてくれると思います」
「冥琳さんが? へー……」

 よくは解っていない様子だけど、とりあえずこくこくと頷く桃香が居た。
 えっと……なんだ? なんとなくの予想なら立てられるけど、ちょっと解らない。
 蜀の人間が呉に行くことで得られるもの……? 以前の雪蓮の言葉から考えると、処刑したりなんかはしないだろうけど……。
 みんなが笑顔でいられる平和を望んだ雪蓮だ、そういう方向にことを運んでくれると勝手に信じてるけど、じゃあその方向にある利益っていったら? ……あ、もしかして……?

「じゃあ……うん、うん。解ったよ」

 考え事をしているうちに、桃香も話を纏めたのか、こちらへ向き直ってこほんと咳払いをひとつ。
 キリッとした顔……じゃなく、少しだけ穏やかな顔で、口を開いた。

「それじゃあ……処罰を言い渡します」
「へ、へいっ!」
「か、覚悟の上ですっ!」
「……皆さんには少し待ってから、呉国建業へ発ってもらいます」
「呉に……ですかい?」
「はい。そこで、呉の皆さんのために奉仕してください。期間は相手側に決めてもらい、復興の手伝いと、各国との交流を深めてもらいます」
『……へぇっ!?』

 ……やっぱり。
 そう思った瞬間には、言い渡される言葉を待っていた男たちは全員で素っ頓狂な声をあげていた。

「こ、こここ交流って……玄徳さま!?」
「ふむ、なるほど。ようやく手にした平穏の均衡をこやつらが崩そうとしたのなら、再び交流を深め、絆を取り戻すもこやつらの仕事と」
「はい。“交流を深めましょう”と人材を送るのなら、処刑する理由も無くなると思いますので……むしろ呉にとっても蜀にとっても、民同士の絆を深めるいい機会になると思います」

 戸惑う男達をよそに、星と朱里はうんうんと頷き合っていた。
 ……でもさすがに、“命令されたら受け容れなきゃいけない”なんて、俺の時みたいな決定はないみたいだ。

(……………)

 ……い、いや別に、ちょっと羨ましいとか思ってないぞ?
 と、ふるふると首を横に振っていると、桃香が男たちに申し訳なさそうな顔で言う。

「呉に使者を出しますから、戻ってくるまでは今まで通りの暮らしをしててくださいね。あ、もちろん拘束なんてことはしませんから」
「玄徳さま……」

 桃香にとっては、必要なこととはいえ“処罰”を下すのは心苦しいものなんだろう。
 出来ればお咎め無しでいきたいのは、あの時の俺と同じだ。
 そんな桃香を横目に見つつも、こほんと咳払いをした愛紗が口を開く。

「一応釘は刺しておくが、逃げようなどとは思わんことだ」

 ただし、本気の目はしていない。
 これ以上、自らの罪を重くしないでくれとの純粋な願いだろう。
 ……まあ、まともに受け取ったりすれば当然、

「もー愛紗ちゃん? そんな、釘なんか刺さなくたって大丈夫だよぅ」

 って言葉が出るわけだが……うん、とりあえず桃香、将に愛されているようでなによりだよ。

「桃香さまは甘すぎるのです。確かにそのやさしさに惹かれた者が大半でしょうが───」
「それには愛紗ちゃんも含まれてるんだよねー?」
「なっ……う、うぐ……!」 
「はっはっは、愛紗よ。そう簡単に言い包められては、軽く釘を刺した甲斐も無いな」
「せ、星!」

 ……で、こうなってしまうとしばらくは騒ぎ合いが終わらないわけで───自然体と呼べばいいのか、ボロが出まくっていると言えばいいのか、蜀側にしてみれば身内の恥といえばいいのか……いや、恥はないか。
 とにかくこれはもうオヤジや男性たちには、見せっぱなしでいられるものじゃないだろう。溜め息一つ、朱里と雛里に目配せをすると、二人が桃香を促してようやく終了。
 オヤジは“仕事を頑張ってください”と桃香から激励を受け、男達は準備を整えるようにと言われ、解散。
 そんな中、俺と思春はというと───

「……どうしようか。成都以外でやるつもりだったから、成都でやらなきゃいけない案件分は、預かってないんだけど……」
「………」

 これからの行動に思い悩んでいた。
 今から出て、渡された案件分をこなすとしたら、今日中に帰れるかどうか。
 昨日こなせなかった分の仕事もあるから、やろうと思えば成都でも……いや、これも仕事仕事っ!

「出ようか。馬を長く借りることになるけど、きちんと話して。仕事はきちんとやらなきゃいけないって、説教されたばっかりだもんな」
「貴様が行くならそれについていくまでだ」
「………」

 その発言に喜ぶべきなのか、貴様って呼び方にまだ落ち込むべきなのか、俺にはまだまだ判断出来そうにないよ……。

 ……この後。
 一日馬を借りる約束と、帰りは翌日になるかもしれないが、それでも行くことを桃香と翠に許可してもらい、成都を発った。
 朱里と雛里に、“せっかくの休みなのにこんなことになってしまって”と改めて謝ろうともしたんだが、呉への書状の案や使者のこと、その他の様々な段取りを通すための仕事が出来てしまったために、顔さえ見れない状況に。
 仕方ないよなと思いつつも、やっぱり残念なものは残念なわけで。
 本日何度目かの溜め息を小さく吐きながら、行ける場所までを馬で駆け続け、街に着くなりボランティアを開始した。
 もちろん最初は敬遠されてはいたが、なんとなく卑怯かなぁと思いつつも桃香の紹介状を見せると頷いてくれて、そこからは……もう本当に休む暇無しのボランティア地獄。
 渡された書簡に書いてあった場所以外でも乞われ、助けを求めたくても求めづらい、躊躇してしまう人はどの時代にも居るんだということを、改めて知った。

「桃香の紹介状を見た途端にこれって……みんな、遠慮無くすの早すぎないか?」
「それだけ困っているということだろう」
「……細かな雑用ばっかりだけどね。まさか初対面の人に、店の手伝いをやらせるとは思わなかった」

 ……それ以上に、桃香がどれだけ民に愛されているのかを知ったけど。
 そんなことに小さく驚きつつも頬を緩ませ……店の手伝い、子守り、荷物運びや子供の遊び相手、本当にいろいろなものをやった。
 その遠慮のなさは、夜になる頃には笑いながら背中をバシバシ叩かれるほどにまで昇華していて、紹介された宿では……休みに来た筈なのに手伝いに回され、さすがに目を回した。
 ……そのお陰か、一応宿代は免除ってことになったんだけど……それに喜ぶ気力もない俺は、宿の女将さんに案内されるままに訪れた部屋で、長い長い溜め息を吐いていた。

「いや……だめ……もうだめ……さすがに疲れた……」
「はいお疲れ様。ありがとうねぇ、お陰で助かったよ。噂の御遣い様がこんなに働き者だったなんて……噂は全部信じちゃいけないもんだねぇ」
「……耳が痛いです」
「あぁでも、それならあっちの噂もあてにならないのかねぇ」
「あっち?」

 女将さんは会った時からの変わらない、やさしい笑顔で俺と思春を交互に見ると、小さく笑って───って、まさか。

「ふふっ、まあいいさね。やさしくしてあげるんだよ? 文句の一つも言わずに黙って男の後ろを歩く女なんて、あたしにしてみれば珍しいものだからねぇ」
「い、いや女将さん? 俺と思春はそんな関係じゃ───その、確かに黙って手伝ってくれたりしてるけど、それってただあまり喋らないからで……や、やっ!? もももちろん感謝してもしきれないわけでして、いつも一緒に居てくれてありがとうですよ!? ハイ!!」

 ほ、ほらっ! 今も背後からジリジリと肌寒い殺気めいたものが! これってお淑やかとかそっちの方じゃあ有り得ないでしょ!?

「ふふふふふっ……女心が解ってないねぇ。まぁ、これ以上はお節介になるかねぇ」

 そう言って、女将さんは笑顔のままに戻っていった。
 ……そして残される、少し気まずい空気の中の俺と思春。

「………」
「………」
「ね……寝よう、か」
「あ、ああ、そうしよう」

 目を伏せ、少しだけ頬を赤らめた思春が言葉を返す。
 いつも通りに行動して、いつも通りに一つの寝台に寝転がる。
 それだけなのに妙に意識してしまって、しばらく眠れない夜が続いた。
 だからだろう。
 一緒の寝台で寝る事に、いつの間にか随分と慣れてたんだなぁって実感した。
 そして、一緒に居ることが当たり前になっていたことにも。
 そうだよな……見方はどうあれ、特に文句も言わずにいろいろなことを手伝ってくれていた。それが当たり前になるより早く、もっともっと言いたいありがとうがあった筈なのに、本当にいつの間にか“言わなくても解る”みたいな空気が出来ていた。

「……思春」
「《ビクゥッ!》な、なんだっ」
「? あ、いや……その。…………いつもありがとう。当たり前になりすぎてて、改まったお礼なんて言えてなかったから」
「───……どうということはない」

 返事はそれだけ。
 でも、気まずい雰囲気のようなものはたったそれだけの会話で消えてくれて、妙に意識することもなく……俺と思春は翌朝を迎えた。
 寝る前に話し掛けた時、どうしてあんなにどもってたのかなぁとか思いながら。




ネタ曝しです。  *う、上様っ!  あばれん棒将軍より。  「○○○、余の顔を忘れたか」  「あぁん……? ハッ!? う、上様っ!!」  この流れが結構好きでした。  お待たせしました、39話です。  今回の話を書く前に、劉璋についてを調べました。  真恋姫では税高くなんたらかんたらーと悪い部分が浮き出ていますが、なんというか……調べてみると、そこまで悪いヤツじゃないんじゃないかなぁと思ってしまう。  それだけ三国志の時代では、優柔不断が悪であったということでしょう。  解らなくもないんですが、少し可哀相です。  さて、今回は国を良くするのならば、民も立たなくてはというお話……なんですが、どうにも軽い印象がございます。呉での事件が刺傷事件だった所為でしょうか……うーん。  残すところ三日間。  この後に起こることはやっぱりごたごたばかりなわけですが、陳宮の真名や、流していそうで流れていない艶本問題も残っていたりでいろいろアレです。  補足ですが今回、男たちが黄巾がどうとか仰ってますが、真恋姫では蜀側の方には黄巾の猛威はあまり届いていなかった。なのに何故知っている? という部分では、噂として聞いていたということにしてくれると嬉しいです。  賊めいた存在といえば黄巾がまず頭に浮かんで、山賊だけで例えるのは説得力に欠けるかなぁと書いてしまった結果です。  では今回もこんなところで。また次回に。 Next Top Back