75/旅ゆけば、三日間

 宿での朝を迎える。
 寝巻きという名のシャツを取り替え、フランチェスカの制服に身を包むと、今日も頑張るかと気を引き締めて部屋を出る。
 荷物は着替えと携帯電話等が入ったバッグが一つ。
 もちろん、と言うべきなのか、思春の着替えも入っている。
 これを片手にボランティアをしているわけだが……まあその、野党紛いのことが起こったこともあって、天……元の世界の思い出の品でもあるこれを盗まれたら、多分しばらく立ち直れない。
 なわけだから、邪魔になろうがどうしようが肩に引っ掛けて行動をしているわけだ。
 民を信じなさいって言われればそれまでなわけだが……盗むわけじゃないにしろ、子供とかが面白がって持っていってしまっても困る。
 ……なので、

「女将さん。この荷物、預かってもらってていいかな」

 女将さんに預かってもらうことにした。
 その女将さんの対応といえば、二つ返事……でもなかったが、「ああ構わないよ」とにっこりと笑い、預かってくれた。
 そうなるとあとは早いもので、早速宿から出た俺と思春はボランティアを再開。
 困ったことがないかを訊いて回り、あれば手伝い、無ければ探しを繰り返し、適度に休憩を挟んでは麒麟らの様子を見に行った。
 空を仰げば眩しいくらいの太陽。
 そんな空の下、人々は賑わいを絶やすことなく動いていた。

「…………うんっ、よしっ」

 そんな賑わいに負けないようにと気合いを入れて、またボランティア。
 ……とはいうが、仕事は仕事だと割り切っている人が中々に多く、困っている人というのもこれで案外見つからない。
 書簡に書かれた……リストと言っていいのかは疑問だが、連ねられている名前や場所は既に回ってしまったし、それほど難しい問題でもなかったので解決してしまっている。
 やる気だけが空回りする状況下で、さて俺は何をするべきなのかと考え…………

「………」

 ふと、店先のごま団子が目に入る。
 ……い、いや、駄目だぞ? 愛紗に怒られたからこそ、こうして外泊(?)までして仕事しているのに、その先でサボリとかはまずい。
 何よりもし華琳にバレでもすれば、“他国にまで行ってサボリ癖を見せつけにいったの? さっさと帰ってきなさいと言ったのに、随分と余裕なのね”とか言われて……まずい、それはまずい。
 言葉だけで済めばまだいいが、華琳のことだから絶対に罰が待っている。
 そう、俺は奉仕……蜀の国に情報を提供するために来たわけで、けっしてサボリに来てるわけじゃないんだ。…………ないけど、でも、団子の立ち食いくらい…………。

「い、いやいやっ、緩んでる弛んでるっ!」

 頬をパンパァンッと叩き、喝を入れる。
 じいちゃんのもと、と言うよりは天から離れて結構経っている。確実に自分の中の様々が緩み始めていることを実感しつつ、強く叩きすぎた頬に涙を滲ませながら歩いた。
 鍛錬の日は明日だし、明日は体を動かすよりも座禅でも組んで精神修行でも………ハテ。周りがソッとしてくれなさそうだと思ったのは、蜀の生活にも完全に慣れてしまったってことで、笑って済ませていいんだろうか。

「……思春? えぇっと、なんだかんだで書簡分の仕事が終わっちゃって、他に困っている人も居ないみたいなんだけど……これって戻るべきなのかな」
「当然だろう」

 当然だった。
 それはそうだ、昨日は夜遅くまで散々と騒いで、今朝も早くから手伝い。
 見上げれば既に太陽は真上で、先ほど見上げた空よりもほんの少しだけ太陽の位置が変わっていた……気がする。
 ならばとお世話になった人達に声をかけて、また何かあったらと言い残して出発の準備。
 預けておいたバッグを手に、麒麟に跨っての移動が始まった。
 別の町か邑へ行く手も考えたが、下手に突っ込んだ行動をして迷惑になるのもいけない。
 いくらボランティアっていっても、俺が手伝う中に誰かの仕事が混ざっていては、その人のその日の内の給料を奪うことになりかねない。
 あくまでどうしても困っている人を助ける方向。
 手伝うにしても、必要な労働分以上を奪ってはいけないこと。
 いろいろあるが、やさしさの押し売りだけじゃあ褒められた結果は得られない。
 そういった意味では、この時代のボランティアは難しいものだった。

(……べつに、褒められたくてやってるわけじゃないんだけどな)

 上手くいかないものってのはどうしてもあるなぁと苦笑する。
 そうして、麒麟のペースで道を行く。
 長い長い道のりを、時折に空を見上げながらゆっくりと。
 今日は何事も無ければいいなぁと、そんなささやかな願いを胸に抱きながら。
 ……抱いた途端に、“抱いてしまった時点で”何かが起こるんだろうなぁという直感が、どうしても働いてしまう自分が憎かった。


───……。


 道中、一人の男と出会った。
 彼は商人であるらしく、久しぶりに我が家へと帰る途中なのだという。
 家が、先ほどまで自分たちが居た場所だというので、お世話になったことを話したり、困ったことはないだろうかと訊ねてみたりをした。
 奥様方の井戸端会議のようなノリで、穏やかに笑いながら。
 ……いつの間にか商人の間には俺の名前が通ってしまっているらしく、名乗ったら「おぉあんたが!」と驚かれた。
 慌てて“あんたが”って部分を訂正しようとする商人さんに、そのままでいいからと返して話の続きをする。
 当然、馬から下りてだ。
 見下ろすのってあまり好きじゃないし、どうせなら同じ目線で話し合いたいから。

 そうして話してみると、町から町へ、邑から邑へと移動しているだけあって、いろいろな場所のことを知っている。
 あの町はあれが困っていた、そこの街の一角ではああいうことがあって、その邑で子供が産まれた、など。話し始めると尽きることを知らないってくらいに教えてもらった。
 話だけ聞くと楽しそうとも思えるソレは、事実楽しいらしく……それが叶ったのも、この世が平穏になってくれたお陰だと、眩しいくらいの笑顔で言ってくれた。
 そんな、どこかの街……邑でもいい、歩き回れば無邪気な子供がしているであろう笑顔を、大人がしてくれていることがとても嬉しかった。

「………」

 まだそう遠くないからという理由もあって、商人を送り届け、再出発。
 あれだけの広い場所で追い剥ぎや山賊も無いものだけど、気になってしまっては仕方ない。
 初めてこの世界に降りた時、乱世とはいえ広い荒野で襲われた自分だ。不安にもなる。
 もう平和になったから絶対に安全だ、なんて言えない事態が昨日起こってしまったばかりだし……戦の中で辛いを思いをした人だけじゃなく、太守の所為で辛い思いをした人だって山ほど居ることを、改めて思い知らされた。

「こうしてボランティアを地道にやってて、いい世の中になってくれるのかな」

 やらなきゃいけないことは、まだまだたくさんある。
 天……日本で例えてみれば、ボランティアなんて時間の無駄だって大多数の人が言うだろう。
 救われる人は確かに居るが……正直、この世界ほど必要とはされていない。
 じゃあ必要だからずっと続けるのかと言われれば……続けるんだろうな。
 笑顔が見たいし、もっと民や兵と近づきたい。
 こうして“民”って呼ぶんじゃなく、呉の人達みたいに気安く“親父、お袋”って呼べるくらいに親しくなりたい。
 そのためには自分から歩み出て手を伸ばす必要があって、強制じゃないのなら掴んでくれるまで待つしかない。
 だからしつこく食い下がらず、一歩一歩をゆっくりと歩いている……つもり。

「たった一人が何をどうこうしたことで、そう易々と変わるほどにやさしくはない。そんなことは貴様でも……いや、貴様だからこそ解っているだろう」
「……ん」

 つもりはつもりでしかないわけで。
 自分がどれだけ、どう進めているかなんてのは、誰かが四六時中見ていない限りは解るはずもない。
 自分だけならいいけど、自分の行動が誰かのためにもなり、誰かの重荷にもなり得るって事実は案外怖い。
 けれどもそういった、一方じゃなく反対側の……正道で例えるなら邪道も知りながら、どちらか一方だけでは得られないものも受け取ってこそ覚悟になる。
 以前話した悪と正義の話のように、悪から学べることもあるのだから、一方のみ受け取っていては偏りが生じてしまう。
 悪を悪としてしか見れなくなるって言えばいいのか。
 えぇと、悪だから悪として裁くんじゃなく、そこにもきちんと理由があることを知ってみようとするのが大事……というか。

「一人で考えててもこんがらがるなぁ……思春、道も長いし少し話しながら行かないか?」
「………」

 はぁ、と溜め息が漏れた。
 次いで、「話をする程度のことで、いちいち否応を問うな、鬱陶しい」との厳しいお言葉が……。
 いや、だって……急に話し掛けたりすると睨むの、もう目に見えてるし……。
 ……こほんと咳払いを一つ、話をする。
 ボランティアのこと、これからの自分達のこと、蜀でやり残していることはないだろうかとか、魏に戻ってからの身の振り方とか、それこそいろいろ。

「……そうだよな。魏に戻ったらどうなるんだろう」

 “どうなるんだろう”とは、思春のことだ。
 今でこそ一緒の部屋、一緒の寝台で寝ていたりするわけだが……魏に戻ってもそれを続けるのか? それを華琳が許すだろうか。
 “貴方は私のものであることを、まだ自覚し足りないようね”とか、“それとも長旅の所為で忘れたのかしら? いい度胸ね、さっさと帰ってこいという言葉も満足に果たせなかったというのに”とか、痛いところを突かれまくって……あ、なんか胃が痛くなってきた。

「どうなるかは魏王───曹操様、が決めることだ。庶人らしく街で暮らせと言うのか、別の部屋を用意するのか、これまでと変わらず貴様とともに居させるのか」

 思春も俺の言葉の意味を正確に受け取ったようで、あっさりと返事を返してくれる。
 そうだよな……結局は俺も華琳の所有物扱いで、一応、あくまで一応思春はその所有物に仕えているってことになっているわけで。
 ……というか、一緒の寝台でず〜っと寝てたってこと自体が、あらぬ誤解を生みそうだ。
 何もしていないって言ったところで、果たして信じてくれるのかどうか───




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 ようやく魏入りを果たし、許昌へと戻った俺は、思春とともに玉座の間に通された。
 そこでは相変わらずの威厳に、怪しげな微笑を混ぜた表情を浮かべる華琳が待っていて、幾段かある段差の頂点に存在する玉座に座り、足を組み、左手を頬杖代わりにして俺達を見下ろしていた。

「長旅ご苦労だったわね。学ぶことはあったのかしら?」
「ああ。呉でも、蜀でも、随分と学ばされたよ」
「そう。……ああところで……雪蓮から聞かされてはいるけれど、一刀? 貴方───道中、思春に手を出したりしていないでしょうね」
「へ? ああそれはもちろん───」
「もちろん!? 手を出したのか貴様っ!」
「春蘭!? “もちろん”だと手を出す理解ってなに!?」
「ふん、自分の胸に……いいえ? 自分のその汚らしい股間に訊いてみなさいよ、この汚物」
「人の股間が意思を持っているみたいな言い方するなよ!」

 説明云々より先に、あっという間に誤解が広まった。
 なんとか話をして理解を仰ごうとするのだが、慌てれば慌てるほど誤解が広まっていくのはどうしてだろうなぁ。
 だからと冷静になってみれば、「開き直ったわねこの変態!」って桂花に言われる始末。
 ええいどうしてくれようか、この軍師。

「と、とにかく! 手なんて出してないっ! 思春、思春からもなにかっ───」
「発言を許可された覚えはない」
「そうだけど、許可したって喋らなそうだって思うのって俺だけ!?」
「ならばわざわざ声をかけるな鬱陶しい」

 否定してくれない上にひどいこと言われた。
 ならばと孤独な説得を続けるも、次第に追い詰められていき……

「思春。今宵、私の閨へと来なさい。一刀によって散ったその身体、この私自らが慰めてあげるわ」
「!? い、いえっ、私はっ───お、おいっ……貴様っ……! 黙っていないでなんとかしろっ……! このままではっ……!」
「……イインダ……ドウセ僕ノ言ウコトナンテ誰モ信ジテクレナインダ……」
「呆けている場合かっ! 鬱陶しいと言ったことならば、その、あ、謝らなくもない! だから───!」

 思春が真っ赤な顔で俺の肩をがっくがっくと揺する。
 そんな声が俺に届かないままに、謁見めいたものは終わりを告げ───その夜。
 静かな夜に、一人の女性の叫び声が轟いた……───




-_-/一刀

 …………。

「……強く生きていこうな、思春」
「? 脈絡も無く何を言っている」

 うん。
 とりあえず、何を言っても聞いてもらえなさそうな気がしてきた。
 雪蓮が、華琳に“一刀は呉で、誰にも手を出さなかった”〜とか言っていてくれれば、まだ話は変わるんだろうけど。
 けどそれで華琳が納得するかは別なんだよな。
 どちらかで言えば、本人の言葉と証明を以って事実とする、みたいなところがあるし。
 こっちの場合、言葉と事実を以って証明ってことになるのか?
 何がどうあれ、苦労はしそうだ。

(そんなドタバタすら楽しみにしてる自分が、何を言ってるんだか)

 この世界に戻ってきた事実は変わらない。
 そこには大事な人が居て、再び辿り着きたかった暮らしが在る。
 どれだけの苦労を積み重ねようと、その苦労さえもが楽しみなら、今は笑っていよう。
 いつか終わるものだとしても、この世界に骨を埋めることになったとしてもだ。


───……。


 成都に辿り着く頃には当然のように昼も過ぎていた。
 こういうものは重なるものなのか、途中途中で誰かと出会ったりトラブルに巻き込まれたりで、ハッと気づけば見上げるまでもなく空は赤かった。
 ……川を見つけたついでに、勝手に麒麟に水浴びとかさせちゃったけど……大丈夫だろうか。

「おお御遣いさん、今お帰りで?」
「ん、ちょっと離れた町まで行ってきて、丁度帰ってきたところ」

 城へ戻る途中、声をかけられて振り向き、返す。
 馬にはもう乗っておらず、手綱を引いて一緒に歩いているところだ。
 同じ目線で話すことに慣れてくると、どうもこう……なんて言えばいいのか。
 馬に乗って、見下ろしながら話すのが苦手になってくる。
 けれど、歩くたびに誰かしらに話し掛けられて、思うよりも進めないでいた。

「…………」

 なんだか思春から、無言のプレッシャーをかけられている気がしないでもない。
 さっさと進めってことなんだろうか。
 そんな視線を受けても挨拶はしっかり。
 気になる話題が出れば奥様方のようにあらまあウフフと……いや、嘘だぞ?
 なんだかんだで結構走らせてしまったし、麒麟を早く休ませてやりたい。
 話もそこそこにして区切りをつけて、一言謝ると先を急いだ。
 麒麟たちを馬屋へ送り、城へ戻り、桃香への報告を終える頃には日も落ち、夜が訪れる。
 往復出来る距離とはいえ、移動を続けると疲れもするわけで───たまたま風呂の日だったらしいので、「ご苦労さまでした、お風呂でもどうぞ〜♪」と、宿の女将さんみたいな仕草と、冗談混じりの笑顔で言う桃香の言葉に甘え、風呂に入ることにする。
 ……思春と一緒に入れられそうになったが、そこはなんとか説得して許してもらった。
 ああ、許してもらったとも。

「は……あ、ぁあ〜〜〜……♪」

 熱い湯船に浸かる。
 すると、足の先から肩までが痺れるような感覚に襲われ、思わずヘンな声が出る。
 自分のそんな声に苦笑をもらしながらも、ぐぅっと身体を伸ばし、長い長い息を吐いた。

「いつでも好きな時にシャワーとか浴びられるのって、すごい贅沢だよなぁ」

 どれほど汗臭くなっても、この世界では我慢しなければならない。
 水浴びにだって限度があるしなぁ。
 などと湯船のありがたさを感じながら、空を仰いでみる。
 いろいろとどたばたしていて、最近じゃあこんなにゆったりと星を見れなかった。
 星を見るのが好きかーと問われれば、それはまあ人並み程度だろう。好きでもなければ嫌いでもない……大体はそうだ。
 ただ、一人でのんびりと見上げる星は、これで案外風情があるというか。
 振り回されない時間っていうのは大事だなぁ、とか思ったりするわけだ。

「風呂はいいなぁ……風呂は男と女が分けられる大切な場所だ」

 ……いや、そうでもないか。
 魏のお祭り好きの誰かさんは、町人の騎馬戦に紛れ込んで大人気なくも暴れ回った挙句、俺と凪を巻き込んで風呂に……い、いやいや思い出すな思い出すなっ!
 なんて思った時にはもはや遅く、自己主張を始めてしまう一部分に泣きたくなった。

「…………」

 なんとなく不安になって、辺りを見渡す……が、当然のことながら誰も居ない。
 こんな状況で混浴だけは勘弁だ……いろいろ抑えが効かなくなりそうだ。

「落ち着け落ち着け、煩悩退散煩悩退散……!」

 湯船の中で結跏趺坐(けっかふざ)を組み、深呼吸。
 大丈夫、大丈夫……何事もなく蜀での務めを果たすんだ。
 今日が終わればあと二日。
 それまで我慢して…………あれ?

(……我慢して、どうするんだっけ?)

 魏に帰って発散する? いや、なんか違う。
 みんなは欲望の捌け口じゃないし、そんな感情任せなことは絶対にしたくない。
 というか…………あ、あー……。

「なんか……いつでも受身だったんだなぁ、俺って」

 改めて実感。
 自分から迫ったことってあったっけ?
 大体が何かしらが起こって、触れて、そして……まあその、そんな感じで。

「はぁ。状況に流されやすいのか、なんでも受け容れすぎたのか」

 顔をばっしゃばっしゃと洗い、溜め息。
 足は結跏趺坐なままに、自分に呆れながらも深呼吸を続ける。
 呉でも蜀でも抵抗しておいて、魏に戻ったら節操も無く欲望に飲み込まれる自分を想像してみて、やっぱり情けなくなり……抵抗する自分を想像してみるが、それでも誘われたなら、抗えられそうもない自分が容易く想像出来てしまうあたり、つくづく自分は押しに弱いのだと実感した。

「身体の鍛錬より、心の鍛錬の方を優先させるべきだったかなぁ」

 こんな時、華琳が隣に居たら怒ってくれるだろうか。
 情けないことだと、己を律することの出来る自分で在れと、言ってくれるだろうか。
 ……その前に溜め息をつかれるか、鼻で笑われそうだ。
 目を閉じて、顎を少し上げて、口元は笑ったままで、

  “我慢? 貴方にそれが出来るなんて、初めて聞いたわ”

 って感じに。
 はい……仰る通りです。

「……明日は鍛錬だ。今日はもうゆっくり休もう」

 考えごとをしていると、なかなか時間が経つのは早いもので……少し頭がボゥっとしてきている自分に気づく。というか結跏趺坐のままだった。
 せっかく湯船に浸かってるんだから、のびのびとしないともったいない。
 幸いにして、自分への情けなさからかどうなのか、主張を続けていた部分は治まってくれていた。
 今のうちにとばかりに湯船から出て、洗うところを洗ってからさっさと出てしまう。

(また余計なことを考え出す前に、寝てしまえばいいんだ)

 パパッと着替えを終えればあとは早い。
 寄り道せずに宛がわれている自室へと向かい───…………部屋の前にある人影を見て、いっそ叫びたくなった。
 いや、人影だけならよかったんだ。
 その影が二つあり、かつ何かを大事そうに抱えているとかじゃあなかったら……俺はきっと、心から彼女らを迎えられただろうに。

(神様……)

 そういえば結局、うやむやになったってだけで、艶本の話は流れたわけじゃないことを思い出した。
 思い出したら……静かに、視界が滲んだ気がした。
 困ることっていうのは重なってしまうから困ることなんだって、昔誰かが言っていた。
 今ここにある状況もきっと、そんな困ることの一つなんだって胸を張って言える。

「………」

 無視をするわけにも、別の部屋を借りるわけにもいかず、結局は部屋の前……朱里と雛里が待っている場所へと向かった。足音に気づいて、扉からこちらへと視線を向ける朱里と雛里は、持っているものが持っているものだからだろう、ひどく挙動不審で、「はわぁっ!?」「あわぁわわっ……!?」と見事に小さな悲鳴を上げた。
 そんな姿を見ると、これから我が身に降りかかるであろう我慢の時も、なんだか気楽なものと思えてしまう……いや、気はしっかり持とうな、一刀。

「ヤ、ヤー……ドウシタンダイ、コンナ夜ニ」

 自分でも解るくらい、明らかにおかしな声が口から漏れた。
 うん、解ってる……緊張とか動揺とか、いろんなものが混ざってしまっていて、考えていること、喋ろうとしていることが上手く言葉になってくれないのだ。
 なんとか持ち直そうと努力すればするほど、朱里が持っている本に嫌でも視線が向いてしまい、恥ずかしいやら悲しいやらでいっそ逃げ出したくなる、と……ただいまはそんな状況なわけでして。
 そんな状況の中で“どうしたんだい”なんて質問を投げ掛けた俺だったが、恥ずかしがりながらもバッと突き出される艶本に、衝撃という名のカウンターを食らった。

 それは。
 学校に使う教材であることを密かに期待していた俺の心が、ゴシャーンと大きな音を立てて崩れ去った、記念すべき瞬間だったとさ……───。




76/がんばりましょう、男の子

 ……何処かで虫が鳴いていた。
 そんな音が薄暗い部屋の中に聞こえるほど、部屋の中は静かだった。
 部屋の中には四人。
 俺、朱里、雛里、そして問答無用で巻き込まれることになった思春が居た。
 事情を話された思春さんは現在、部屋の隅で額に手を当て、項垂れながら「はぁあ……」と長い長い溜め息を吐いている。
 ……ごめん、俺も是非そうしたい。
 これが我が身に起こっていることじゃないのなら、絶対にそうしていた。

「し、ししゅ───」
「私はいいっ!」

 せめて一緒にと語りかけようと……した途端に断られてしまった。
 いや待て? 俺は今何を……? 艶本……キッパリ言えばエロ本を見ることになって、女性に“一緒にエロ本見ようぜ〜”って誘っ……た……?

「《ズシャアア……!》いっそ……いっそ殺してくれ…………」
「はわっ!? どどどうしたんですかっ!?」

 寝台に腰掛けていた体勢から、床に崩れ落ちるようにして自己嫌悪した。
 こう、両膝両手を地面につけて、がっくりと。
 いろいろと動揺している自覚があるからって、人を……よりにもよって女性に艶本見ようと誘うのってどうだろう。
 罪悪感とかそんなものじゃない、例えようの無い奇妙な感覚に襲われた。
 恥ずかしさとかそういうのでもなく、名前をつけて呼ぶなら……この感情をなんと例えよう、と頭の中が混乱するくらいの謎の感情。
 そんなものに襲われても、状況は変わってはくれないわけで。
 朱里と雛里に助け起こされるみたいな形で、寝台に座り直すことになった。
 …………何故か、俺が中心で、両脇に朱里と雛里って形で。

「……おや?」

 口にしてみて唖然とする。
 座り直すと同時に、当然のようにハイと艶本が渡された。
 交互に左右を見ると、興奮して“さあ!”って感じで俺を見上げる朱里さんと、のちに待っているであろう興奮に、怯えながらも期待してるような表情の雛里さん。
 そして……真ん中に座り、艶本を手にすることで、逃げ道を失ってしまった俺。

(……………)

 もはや何も言うまい。
 うっすらと笑みを浮かべ、天井を仰いだのち、俺は───無心になった“つもり”で、艶本を開くのだった───……


───……。


 救いってものは何処にありますか?
 そう、頭の中の俺が俺に質問してきた。
 艶本を見始めてはや十数分。
 俺自身が導き出した答え……それは、艶本の中にこそあった。

「………」

 内容は、ほぼが文字であった。
 図解のようなものも確かにあるのだが、写真ではないのでまだ平気だ。
 そりゃそうだと思いながら、この世界の技術発展度に感謝をする。
 絵も歴史書なんかで見るようなものだから、逆に歴史の授業をしているような錯覚を覚えて、興奮のようなものは沸き出してこない。
 ……じゃあ何故救い云々を、俺の頭が訊ねてきたのかといえば。

「わ、はわっ……はわわわ……っ!!」
「あわ、あわわわ……!!」

 両脇の二人がわざわざ文字を朗読して、その上で興奮したまま、自分が思っていることを口にしているからだ。
 男の人のアレがああで、これがそうであんなことまでーって、朱里さん、お願いだから横でそんなこと言わないで。
 雛里さん、小声でも最初から最後まで朗読しないで。静かだから嫌でも耳に届くんだ。
 しかも二人とも腕にしがみついてきているもんだから、逃げることも出来ない。
 ああもう、喉が渇く。口に溜まった唾液を飲む音が静かな夜に響いて、二人に聞こえるんじゃないかって不安になる。
 どうしてこういう時の音って聞かれたくないんだろうか。
 いや、理由なんかはどうでもいい、誰か助けてくれ。

「お、おおおお男の人のあれが、じょじょじょ、じょせっ、じょせいの……!」
「しゅ、朱里ちゃん……! おおきっ……声、大きいよっ……!」
「はわぁっ!?」

 ……正直、本だけなら大丈夫だった。断言出来る。
 そこに二人の解説が付かなければ、きっと俺は今日を平和に乗り切ることが出来たんだ。
 ただこんなことになって、両腕に女の子の感触を感じつつ、朗読なんかされれば……それは、ああなってしまうのは当然なわけでして……。
 ああなってしまったものを本で隠して、落ち着くまでを待っているわけだが、感触と言葉を聴覚等が感じるたび、散々我慢してきたそれは言うことを聞いてくれないやんちゃさんになっていまして……。
 まだまだ頁があることを喜ぶべきなのか、早く終わってもらえないことを嘆くべきなのか。真っ赤になっているであろう自分の顔を思いながら、二人の読む速度に合わせて頁をめくっていった。

「あ、あー……朱里、雛里ぃ……? ど、どうして文字を読んだりするのかなぁ……?」
「へぅ……? あの、一刀さんが、そうしたほうが頭の運動にいいと……」
「……? ……………………ア」

 雛里の戸惑い混じりの言葉に、気が遠くなるのを感じた。
 しかし鍛錬によって鍛えられてきた身も精神も、そう簡単に気絶することを許してはくれない。ありがとう鍛錬。俺、これからも強く生きていくから、今だけ思いきり泣いていいですか?

(俺の馬鹿っ……俺のっ……俺っ……馬鹿ぁああああああああっ!!!)

 頭の中で思いきり絶叫しながら、口では「ハハハソッカァー」なんて言葉を放つ。
 そして、聴覚と目で知ることで、頭の中に艶本の内容が嫌でもドカドカ入ってきて、無駄に脳内の記憶領域を潰していっていた。
 これ……どんな名前の拷問なんでしょう。

「あ、あのっ、一刀しゃ《ガリッ!》〜〜〜〜っ!!」
「うわ噛んだ!? だっ……大丈夫か……?」

 やたら興奮した顔で、勢いのままに何かを口にしようとした朱里……だったのだが、盛大に噛んだらしい。口を押さえて俯き震えている。
 そんな朱里を、いつかのように落ち着かせる。
 呉に居た時から変わってないなぁなんて思いながら、傷はついていない舌を見て一息。
 と、なにやら異様な視線を感じて、朱里とは反対の右隣……雛里へと振り向いたのだが。俺に向けられていたわけじゃない彼女の視線を追ってみて、固まった。
 介抱……舌を噛んだ子を心配することを介抱と呼んでいいのかは別として、介抱しようとした拍子に本がずれてしまっていたらしく。
 彼女の視線は、現在進行形で主張をしている一部分へってギャアアアアアア!!?

「いやちがっ! これはちがっ……!」

 赤かった顔がさらに赤くなった。
 雛里も、多分俺も。
 朱里は気づかなかったようで、顔をあげた時にはもう本で隠していた。
 ……じゃなくて! 逃げていい場面だったんじゃないか今のは!
 こんな状況でどうしてまた、“読み続ける”なんて選択をしてますか俺!

「……あ、あの……今日はこのへんにしないか? ほら、あんまり遅いと明日に響くし」
『………………《じぃいい〜〜〜〜……》』
「うぐっ……」

 一度手にした本は、最後まで読みきらないと気が済まない性質なのか、二人はじぃっとこちらを見たまま動かなくなってしまった。
 というか雛里? ああいうもの見たあとだっていうのに、どうしてしがみついたまま?

(神様……)

 俺、この夜だけで何回空を仰いだっけ……。見えるのは天井だけだけどさ。
 いや、もう気にしないことにしよう。
 耐えるんだ俺。
 耐えた後には、睡眠と鍛錬が待っている。
 精神修行なんかじゃあだめだ、思いっきり身体を動かさないと、なにか大変なものが切れてしまう気がする。

「ムカシムカシアルトコロニ、オジイサントオバアサンガ……」
「一刀さん!? 本とは別のこと喋ってますよ!?」
「はっ!? い、いやなんでもない大丈夫大丈夫!」

 落ち着こうな、本当に。
 そう、勉強だこれは。頭の鍛錬だ。
 普段は読んだりしないものを読んで、脳の働きを活性化させるのさ。
 だってほら、これはかの有名な諸葛孔明と鳳士元のオススメの本なんだ。
 これを見て勉強しろってお告げなんだよこれ。……そう思っておこう。
 嫌がってばかりじゃあ、得られるものまで失うんだ。
 真面目に、勉強をしよう……!!


───……。


 ……夜。自室で。男一人と女二人が。密着しながら。艶本を読む。
 頭の中で区切って考えてみると、どうすればこんな状況が完成するのかが解らない。
 けれども現実は今ここにあって、そのページも今、終わりを迎えようとしていた。

『…………はっ……ぁあああ〜〜〜〜……』

 やがて静かに閉じられる本。
 三人同時に吐いた溜め息は、とてもとても濃いものだった。
 そして遅い時間だろうに、ちっとも眠たげでなく立ち上がる二人と、立ち上がれない僕。
 二人が“?”と疑問符を浮かべたような顔で見てくるけど、立ち上がれない理由が男にはあるのです。
 ……雛里は途中で気づいたのか、余計に頬を赤らめてもじもじし出す始末で……それを見てしまった俺は、余計に自分が情けなくなるのを感じた。情けないっていうか、恥ずかしいんだが。

「じゃ、じゃあ、もう夜も遅いし───」

 お開きに、と言いかけたところで、コンコンと響くノックの音。
 思わず「うひゃあいっ!?」なんて妙な声をあげてしまい、ノックした相手こそが驚いていた。って、この声……桃香?

「!」

 と、相手が誰かを知るや否や、朱里が俺の手から艶本を取ってキョロキョロと……ってあのそれがないと僕のアレがっ! じゃなくてこらこらっ!? そんな本を人の寝台の下にだなっ! ていうかそれは見つかるだろ! いっそのこと俺のバッグに……ダメだ絶対駄目!!

「ちょ、朱里っ……! そこはいろいろとまずいんだって……! 隠すならもっと……!」
「はわっ!? ま、まずいんですかっ……!? では───はわっ!?」
「へ? ───はわっ!?」

 必死だったってだけです。
 “艶本=男が疑われる”って印象が強かったためか、座りっぱなしだった自分は立ち上がり、まあその……朱里から本を奪った時点でいろいろとアレだったわけで。
 朱里がその部分に気づくとともに、視線を追った俺も叫んでいた。

「はわっ、はわわ、は、はわっ……はわわぁあーーーーっ!!?」
「うわっ! うわわっ! ……って慌ててる場合じゃなくてっ!」

 “コレ”は生理現象でまだ片付けられるが、物体……書物はまずい!
 とにかくこれを隠して……! 隠すってどこに!? どこっ……どっ───!

「お兄さん? 朱里ちゃんの声が聞こえたけど、やっぱりここに……あれ?」

 息が詰まるような緊張の中、桃香が扉を軽く開けて声を放つ。
 その間にとにかく適当な場所へ艶本を突っ込み、次にとった行動は───!

「…………あの。お兄さん? どうして正座してるの?」

 ───正座だった。
 理由は……察してほしい。

「い、いや、いろいろと反省したい気分だったん───だ………反省しよ……ほんと……」

 ぽろりと出た言葉が、本当の目的になった瞬間だった。

「それで……えっと、桃香? どうしたんだ、こんな遅くに」
「え? あ、うん。届けられた書簡のことで、解らないことがあって。頑張って頑張って一人で考えてみたんだけど、やっぱり解らなくて。こんな遅くに迷惑かもしれないって思ったんだけど」

 言いながら、どうしてか俺の視線の先に……つまり目の前にちょこんと正座する桃香。
 視線を合わせて話そうと思っての行動なのか、反省したい気分だったのかは解らないけど、ただ今女性を目の前にするってこと自体が目に毒なんですけど……うう。

「あ……もしかして私達を探していましたか?」
「う、うんー……ごめんね朱里ちゃん、雛里ちゃん。でもどうしても眠る前に片付けたくて」

 しかし俺の目の前……といっても距離はそれなりに離れているが、対面して座ったわりには、視線はチラチラと朱里や雛里に揺れていることに朱里が気づいた。
 探して回ったんだろうけど居なくて、ここに辿り着いたのか。
 そういえば“やっぱりここに”とか言ってたし。

「というより……無茶するとまた睡眠不足になるぞ? この前もそれで饅頭を逃したんじゃないか」
「うぐっ。そ、そうなんだけど、ほら、明日はお兄さんとやる最後の鍛錬だから、集中してやりたかったし……」
「あ……そっか」

 最後───最後になるのか。
 言われてみれば、明日を過ぎれば次で終わり。
 俺は魏に帰って、そうそう何度も会えなくなるんだ。

「……そうだよな。残ったものがあると、それこそ集中出来なくなる。……よしっ、それじゃあ書簡、片付けちゃうか」
「ふえっ? あ、や、いぃいいい、いいよっ、これは私の仕事だもんっ!」
「朱里と雛里は巻き込めて、俺は巻き込めない?」
「《ぐさっ!》ふぐっ! …………お兄さんの、いじわるぅ……」

 痛いところを突かれたって顔で、線にした瞳からたぱーと涙を流す。
 そんな桃香の頭をひと撫で、気が抜けたのか静まってくれた聞かん坊に若干の感謝を飛ばしつつ、立ち上がる。
 桃香は頬を軽く膨らませて、自分の処理能力への不満や俺の首の突っ込みたがり様へ、ぷりぷりと呟きをこぼしていた。
 “これでもうちょっと要領が良ければなぁ”と思ってしまうあたり、俺も誰を基準に人を見ているのかと笑ってしまう。
 比べて、何が変わるわけでもないのになぁ。

「朱里と雛里はどうする? 労働時間外になりそうだけど」
「はい、もちろん一緒に」
「あわっ? あ、わ、私も……」
「そっか。じゃあ……」

 蜀での生活も僅か。
 帰るまでに自分が出来ることをやっていこう。
 提供出来る情報があれば、提供出来るだけ。

(……ほら、あんまりちらちら見てると感づかれるから)
(はわっ!?)
(あわわっ……)

 艶本が気になって、チラチラと視線を動かしていた二人の背中を押す。
 気になるのは……うん、ものすご〜くよく解る。
 でも見つかって困るのは俺だけになりそうだから、その……あんまりあからさまにチラチラ見ないでくれな……?

「?」

 ぼそぼそと話す俺達に首を傾げる桃香に乾いた笑いを三人で提供しながら、さあさあと背中を押して部屋から出た。
 思春も立ち上がってくれたが、そんな思春に三人一緒にお願いする。
 どうか、あの本が人様に見つからないように死守してほしいと。
 モノがモノなために盛大に溜め息を吐かれたけど、どうか解ってほしい。
 あれが見つかってしまうだけで、いろいろと危険だということを。

(俺のじゃないのになぁ……とほほ)

 朱里や雛里と同じくらい必死にお願いする自分に気づき、頭を抱えたくなった。
 男って……悲しいなぁ……。




77/明けて翌朝、二日間

 朝。
 待ち遠しい日、来て欲しくない日が当然のように訪れるように、今日って日も普通に訪れた。
 夜遅くまでの竹簡、書類整理をこなした割りに、目も頭もすっきりとしている。
 桃香がギブアップして朱里や雛里を探すだけあって、その量は結構なものだったのだが……三人寄れば文殊の知恵。こうしたらどうか、ああしたらいいんじゃないか、そんな意見を出し合い、悩み合ったら案外すんなりと終わった。
 主に頑張っていたのは朱里と雛里ってことになるけど。
 俺と桃香は頼りっぱなしに近く、逆に申し訳ない結果になってしまった。

「学ぶことはまだまだあるなぁ……」

 寝巻きから胴着に着替えて、頬を二回ほどぴしゃんぴしゃんと叩いた。
 うん、眠気は本当に残ってない。
 本も……書簡整理が終わってから、二人が回収してくれたし問題無しっ。
 ……本を守ってくれてた思春には、なんだか微妙な目で睨まれたけどね……うん……。

「んっ」

 気を引き締めることで気を取り直して、バッグを片手に部屋を出て厨房へ。
 朝から気合いを入れた所為か順番が逆になったが、先に朝餉をとってから胴着に着替えればよかったと後悔。
 やる気が空回りすることって、気をつけてても結構あるなぁ。

「ん……っと」

 食事と水分補給が済むと、中庭に出て木刀を構える。
 って、だから逸るな逸るなっ、まずは準備運動からだ。

「緊張してるのかな……ううむ」

 抜き取った竹刀袋に入った木刀をバッグの傍らに置き、準備運動を開始する。
 広い中庭に、胴着を着た男が一人……日本ではそう珍しくもないんだろうけど、場所が大陸ってだけで随分とまあ……。
 いやいや考えない考えない。

「よしっ」

 準備運動を終えると、改めて木刀を取り出し、中庭の中心まで歩いて構える。
 桃香が来るまで、少し集中しよう。

「集中、集中……」

 千里の道も一歩から。
 千里を歩くにはまず一歩。でも一歩じゃ一里すら越えられない。
 積み重ねは重ねるだけ人を強くするが、重ねたつもりなのに、見えないそれが崩れていたら……果たして人は千里に届くのだろうか。
 ふと、そんなことを考えた。
 集中した途端だっていうのに、なにを小難しいことを考えているのかと呆れる。
 それでも一度考えると、集中とは名ばかりの自問自答が始まった。

「………」

 幼い頃、三途の川の存在を知る。
 親不幸な子供が、そこで石を積むって話を聞いたから。
 けれども積んでみれば鬼に崩され、また積み直さなきゃいけなくなる。
 親不幸な子供はずっとそうやって、いつまでもいつまでも泣きながら石を積む。
 そこに救いなんてないのでしょうかと祖父に問うた。
 祖父は、救われないのなら、親不幸が理由で落ちたのなら、せめてその親不幸を貫けばいいと返した。
 とことん、子供に対しても容赦のない祖父だと思った。
 親を泣かせた子供が、石を積む程度で許されるはずもない。
 理由があったにしろ、それは確かな親不幸だった。
 ならばせめて、その“理由”というものが自分にとっての譲れぬものであったのだと証明する。
 石を崩す鬼にも、河原の先で裁く閻魔にも、その親不幸を裁く権利などないのだと。

  理由を以って死した孺子が石積み如きで泣くな。
  泣く暇があるのなら、石を崩す鬼と戦い、己が持つ“理由”を貫いてみせい。

 本当に、無茶苦茶だ。
 でも、そんな言葉に笑った自分が確かに居た。

「子供相手に“鬼に勝て”〜なんて、普通言わないよなぁ」

 宅の祖父様は少しおかしい。
 冗談なのか本気なのか……それでも、泣いて積み続けるだけならって、別の考え方を受け取れたのも事実だった。
 子供だから、相手が鬼だからを理由にしない考え方。
 楯突いたところで何があるのかと言われれば、きっと殴られて終わるだけ。
 最悪、審判も無しに地獄に落とされるのかもしれない。
 けど……ほら。もしそうなるのなら、結局は相手が決めるしかないのだ。
 言われるままに石を積んで、言われるままに裁かれて、言われるままに飛ばされる。
 言われるままが嫌なら行動するしかない。じゃあそこで取れる行動っていうのは?

「……そこで“鬼に攻撃する”って考えるあの人が、普通じゃないと思うのは俺だけか?」

 まあ……せっかく積んだ石を崩してしまうヤツが相手なら、それはそれで攻撃の意思も増えるってものだ。わざとじゃないならまだしも、積み上がりそうになると故意に崩すなら、弁慶くらい殴ってやって然るべきだ。
 泣き所押さえて痛がる鬼っていうのも見てみたい。

「そっか。もし天に帰れずに、親不幸のままに死ぬことがあったら……」

 そうしてみるのもいいのかもしれない。
 そんな風に思って、気づけば笑っていた。
 武器は石がいいだろうか。きっと木刀は持っていけない。
 相手は金棒でも持ってそうだけど……そういえば賽の河原でも氣は使えるんだろうか。
 いろんな考えが頭に浮かんでは、そういえば死んだあとのことばっかり考えてる自分に気づいた。気づいたら、もっと笑っていた。

「死んだあとのことは、死んでから考えようか」

 死んだあと、生前の記憶を持っていける保障なんてない。
 だから石を積む行動しか取れないのかもしれない。
 だとしたら、なんのために石を積むのかも解らないなんて、なんの罰になるんだろう。
 最後にそんなことを考えて…………考えるのをやめた。


───……。


 ドタタタタタタッ!!

「うぉおおおおおおおおおっ!!」
「にゃーーーーーーーーーっ!!」

 鍛錬を始めてからしばらく。
 頭の後ろで腕を手を組みながら、にっこにこ笑顔でやってきた鈴々とともに、城壁の上を駆け回っていた。
 桃香も既に来ていて、中庭で思春や愛紗に型を習っている。

「もうっ……ちょっと……っ……! 今日こそは勝つっ!!」
「まけないっ……のだっ……!! 今日も鈴々が───!!」

 もはや鍛錬ではなく競い合いだ。
 長く走れるようにとか、一呼吸でどれだけ走れるかとか、そんなものをそっちのけで手足を動かしている。
 ややあって、最初に走り出した場所までを走り切ると、その勢いのままに城壁の角までを走り、ゆっくりと速度を落とす。

「よっしゃ勝ったぁあーーーーっ!!」
「う、ううー……! 負けたのだぁ〜〜〜……!」

 どっちが子供だっていうくらい燥いで、腕を天へと突き上げての歓喜。
 蜀に来てからのほぼを一緒に走っていた鈴々に、とうとう勝てた。
 その喜びは凄まじいもので、それこそ子供のように身体全体で喜びを表現。
 ハタと気づけば“よっしゃあ”なんて言葉を使っていた自分が居た。

「だったら次は戦って勝つのだ!」
「よぅし望むところだ鈴々! 今日こそは───!!」

 調子に乗るのと勢いに乗るとは違うって誰かが言っていた。
 でも、だからって勢いまでを殺すのはもったいないって思うからこそ、調子に乗る形でもいいからそのままGO。

「うりゃりゃりゃりゃーーーーっ!! 今度はもうくすぐられないのだーーーーっ!!」
「いつまでもくすぐってばかりだと思うなよっ! 今日こそは実力でっ……じつ、じっ……キャーーーーッ!!?」

 結果は……まあ、聞かないでほしいけど。
 そうして騒ぐように鍛錬をしていると、自然に人も増えるものなのか、ぽつぽつと見物人は集まっていた。
 それは本当に見るだけの人だったり、楽しそうだからって混ざる人だったり、いろいろなわけで……仕事は大丈夫なのかと聞いてみれば、返ってくるのは“大丈夫”の一言ばかり。
 ちょっとやったらすぐ戻るからさーとは翠の言葉だが、軽い気持ちで始めた槍の演舞に猪々子が対抗。そこからは競い合いを始め、“すぐ戻るから”は“いつか戻る”にクラスチェンジした。
 そんな様子を、紫苑に弓を教わりながら見ていた俺はたまらずツッコミを入れるが、「ここで仕事を理由に戻ったら負けたみたいじゃないか!」と返される始末で……。
 ……えっと、翠? 一応、この場に蜀王が居ること、解ってて言ってるんだよな?

「次はあたしが勝つ!」
「っへへー、悪いけど、次に勝つのもあたいだねっ!」

 戦いは続く。
 チラリと桃香を見てみるけど、模擬刀を振るうのに必死で全然気づいてなかったりした。
 代わりに桔梗が立ち上がり……うん、翠の耳を引っ張って、通路の先へと消えた。

「んー……んっ!」

 ビッ……ヒュドッ!
 誰かの様子ばかり見ていられないと、弓を引いて矢を放つも、やっぱり外す俺。
 何が悪いのかをもう一度考えてみるが、どうにも上手くいかないことばかりだった。
 ゆったりと教えてくれる紫苑に感謝感謝だ。
 それに報いるためにもと気合いを入れるのだが、「気を張りすぎてはだめよ」とやんわりと怒られる。
 ……本当に、上手くいかないものである。

「おっ兄っさまーーーっ♪ たんぽぽ、一度お兄様と戦ってみたいんだけど、いいかなー」
「っと。紫苑?」
「ええ、どうぞ。これ以上やると指が痛んでしまいますから」
「? うわっ」

 言われて見てみれば、弓懸(ゆが)けを外した指は真っ赤になっていた。
 気づかないもんだ……そんなに集中してたんだろうか。
 その割には周りにばっかり視線が飛んでた気がする……って、なるほど。つまり周りに集中が飛んでたってことか。

「よし、やるかっ」
「おー!」

 何故か物凄くやる気で槍を握る蒲公英を促し、将ばかりが集う中庭の空いている場所に立つ。どうしてこんなにやる気なのかなーと思い見ていると、ニシシと笑いながら焔耶を見て、妙な言い合いを始める。
 あー、つまり、なんだ。
 以前なんとか焔耶に勝てた俺に勝てればーとか、そんなところ……なのか?
 焔耶は焔耶で「北郷一刀! そんなやつさっさと倒してしまえぇっ!」とか叫んでる。
 いや、さっさと倒せるほどの力があれば別だけどな?

(そんな簡単に言ってくれるなよ……)

 けど構える。
 それを横目に見た蒲公英も構えて、「いつでもい〜よ〜♪」と上機嫌に言った。
 いつでもか───よしっ!

「せいぃっ!」

 だったら最初っから全力!
 戦術の基本は、相手が油断しているうちに全力を出して勝つこと。
 様子見ももちろん大事だけど、それは様子見をして勝てるほどの洞察力とかを養ってからの問題だ。

「え? わっ、速っ!?」

 地面を蹴って真っ直ぐに突き、払い、戻しを小刻みに。
 蒲公英はそれらを槍で捌くが、戸惑いに食われた緊張を戻すには、もう少し時間が必要のようだった。
 そこへ一気に追撃を仕掛け───ビッ!!

「ふわっ───……あ、あー……まいり、ましたぁ……」

 腹部への突きに見せかけた顔面への突きの寸止めで、決着はついた。

「お兄様ったらずるいー、意識はぜ〜ったいにお腹に向かってたのにさー」
「こうでもしないと勝てないって思ったんだよ。大体フェイント……というか誘いで相手の隙を突くのは常套手段じゃないか」
「じゃ、もう一回やろ? 今度はたんぽぽが勝つから」
「……軽いなぁ」

 ゲームに負けた子供のように“もう一回”を要求するたんぽぽに、思わず苦笑が漏れた。
 それでもあっさり頷いてしまうあたり、俺も人がいいのか馬鹿なのか。
 ……馬鹿なんだろうね。
 今度は自分に苦笑してからの再開。
 油断無しのぶつかり合いをして、自分が出せる全力を放ってゆく。
 その悉くが弾かれたり逸らされたりして、しかしこちらも避けて弾いてを繰り返す。

「うわわっ、男の人でここまで強いって、確かに初めてかもっ」
「隙ありっ!」
「って、うひゃあっ!?《ガインッ!》〜……危なかったぁ〜……! ……ちょっとお兄様ぁっ!? 人が喋ってる時に攻撃とか、ずるいよぉ!」
「喋るほうが悪いっ!」

 俺のその言葉に、視界の隅で、焔耶がうんうんともっともらしく頷いていた。
 そんな中でも連撃を絶やさず放ち、とうとう───ギィンッ! 

「あ」
「もらったぁ! えいやぁーーーっ!」

 手にした木刀を空へと弾かれた。
 瞬間、槍が戻され、俺がそうしたように俺の眼前へと槍が向かい───!

「…………」
「…………」

 ───双方ともに息を飲み、硬直した。

「……ねぇお兄様? もしかして負けず嫌い?」
「……実は、割と」

 氣を纏わせた左手で槍を逸らし、その上で踏み込み、突き出した右の突きが……蒲公英の喉の前で止まっている。言われて当然だなぁとは思うものの、そう簡単に諦めたくないって理由で体が勝手に動いていた。
 まあ、負けず嫌いじゃなければ、鈴々を擽ってでも勝ちにいこうなんてしないよなぁ。
 そう思いながら、緊張を緩ませて蒲公英の頭を撫でた。内心、成功してよかったって思いでいっぱいであり、背中は冷や汗でじっとりとしていた。
 そんな状態のままに落ちていた木刀を拾い上げると、

「えーっと、どうしよっか」
「もう一回!」

 訊ねてみて、失敗だったかなぁと溜め息を吐いた。
 ……三度目は、ムキになった蒲公英の勢いに押される形で敗北。
 「どーだー!」って焔耶に向けて胸を張る彼女に、焔耶は「二度負けたくせに威張るな」ときっぱり返し、そこで始まる喧嘩劇……って、おーい焔耶ー……? お前確か、今日休みじゃなかったよなー……?

「焔耶って確か、今日は警邏があるって桃香に聞いたような……」
「ふむ。恋に代わってもらったと言っていた筈ですが?」
「…………星? いつの間に隣に?」
「はっはっは、それはもちろん、北郷殿が蒲公英と焔耶に目を奪われている時にです。世が世ならば一突きで絶命しておりましたな。精進なされよ」
「……ん、りょーかい。忠告ついでに一度手合わせ願いたいんだけど、いいかな」
「ほほう……?」

 どうせ最後ならばと持ちかけてみると、星の目がゴシャーンと光った……気がした。
 改めて見てみればそんなことはなく、どこか楽しげな目が俺を見ていた。

「殿方に手合わせを乞われるなどどれほどぶりか。無鉄砲なだけの輩ならば、怒気であろうと殺気であろうと放ち、目の前から失せてもらうところだが……ふむ、よろしい。では手合わせ願おう」

 どこから出したのか、赤い槍をヒョンと回転させ、手で掴むや斜に構える。
 普段から斜に構えているような人だが、今この時の意味はまるで違った。
 殺気でも怒気でもない、かといって酷く冷静なわけでもない、なにかを発している。
 それに対して深呼吸とともに構え、放たれているのが何かを軽く考えてみる───が、解った時にはもう始まっていた。

「参る!」
「応ッ!」

 木刀と槍が激突する。
 双方ともに地を蹴り、己が全体重を乗せた一撃を放った故の激突。
 しかし鍔迫り合いめいたものが行われることはなく、即座に互いが互いを弾き、体勢が整うよりも先に振るい、弾き、また振るう。
 木刀だけではなく氣を込めた手までを使い、木刀で逸らしていては間に合わない圧倒的手数をとにかく捌く。
 一歩間違えば腕が串刺しだ、まったく笑えない。笑えないが……それだけ、挑戦するからには負けたくないって気持ちが強いのだ。
 言い訳をして負けた悔しさを誤魔化すよりも、最初から全力───勝つ気で行って、どうしても勝てなかった時こそ悔しさを噛み締めよう。

「しぃっ!」
「ふっ、甘い甘いっ」

 しかし、どういう目をしているのか。
 まだ手合わせを始めて少しだというのに、こちらの攻撃が見切られてしまったかのように当たらなくなってしまった。
 攻撃をしても容易く躱され、しかし最小限の動きで避けているために反撃が早い。
 俺もすぐに木刀を戻して攻撃を弾くが……相手にはまだまだ余裕が見えた。

「っ……すぅ……はぁああ……!」
「む───《チキッ……》」

 ならばと一度距離を取って、呼吸を整えてから再び疾駆。
 氣を込める場所を幾度も変え、攻撃の度に弧を描く速度を変化、相手の反応を混乱させていく。

「これはっ……」

 あくまで攻撃は速く、星の速度に追いつけるくらい。
 だがその上で速度を速めたり鈍らせたりを繰り返し、混乱させる。
 遅すぎればその間隙を縫って終わらされるだけだ。
 だから、追える速度以下は絶対に出せない───んだけど、それでも速度ごとに合わせて反撃してきてる目の前の人は、いったい何者ですか!? ……趙子龍さんですね。

「つぇええええぃやあぁああっ!!!」
「中々に面白い動きをなさる! だがこの趙子龍の目は誤魔化されませんぞ!」

 ヒュッ───と息を止め、今出せる最高速度での連突を放つ───が、そのどれもが、震脚にも似た重心移動と同時に放たれる連突によって弾かれる。
 足って根を地面に下ろした今ならと間合いを詰めにかかるが、そうした時には既に地面を蹴られ、攻撃範囲の外に逃げられていた。

「おお、危ない危ない。まったく油断も隙もあったものではない」
「はっ……ふぅ……よく言うよ、息も切らさないで」
「いやいや、ここまで私相手に粘る殿方も珍しい。が───」
「……それでは勝てない?」
「ほう、解っておいでか」

 本当に、よく言う。
 自分が言うより早く理解してくれて嬉しいって顔をしておいて、解っておいでかもなにもない。
 とはいえこのままただ負けるのは嫌だし……全力を出す以上は無茶でも苦茶でも勝ちたいって思うのが、往生際の悪い男ってもんだ。

「誘いには無理矢理合わせてくるし、かといって真正面からぶつかってもだめ。だったら」
「ふむ。だったら?」
「無理矢理にでも出し抜いて勝つ!《ダンッ!》」
「やれやれ。力量の差が解らぬ目でもありますまいに。それとも、そうと解っていても向かうのが殿方というもの、ですかな?」

 地面を蹴り弾き、間合いを詰めるや攻撃に移る……んだが、やはり躱され続ける。
 というか星は避けながらでも喋る余裕があるようで、口に笑みを浮かべて……って! どういう身体能力だよっ! 鈴々も相当デタラメだったけど、星も異常だ!

「はっはっは、息が乱れてきておりますなぁ。そんなことではいつまで経っても───」
「じゃあ問題。俺の最初の呼吸は、どんな間隔だったでしょう? ───セイッ!!」
「───お《ヂッ!》っ……お、おおっ……! い、今のはなかなかっ……!」
「それでも避けるのか!?」

 何度も呼吸と氣のリズムを変えて、ようやく引っ掛けた罠もあっさりと見破られ……というか引っかかった上で避けられた。……どうなってるんだろうか、この大陸の武将たちは。

「ええいくそっ! こうなればヤケだぁあああっ!!」
「かすり傷とはいえ、この趙子龍に当てるとは……見事! ではここからは本気で参る!」
「うぇええええ本気じゃなかったの!? えっ、いやっ、ちょ───待ぁあああっ!!?」

 悲鳴にも似た叫びを上げながら、しかし今更立ち止まれるかと激突。
 技術もへったくれもなく力任せに振るった木刀はしかし、斜に構えられた槍にあっさりと流され、返す槍の石突が俺の腹部目掛けて真っ直ぐに突き出される!
 ……が、そう来ると予想した時には俺はもう木刀を手放して、奥の手を用意していた。
 僅かな距離しかないのに一歩前に踏み込み、むしろ当たりに行くつもりで前進。
 木刀が地面に落ちるより早く、氣を込めた左手を伸ばして石突を受け止め、同時にそこから走る衝撃を氣で吸収。氣の道ではなく身体の表面を走らせるイメージで右手に集わせ───いつか焔耶にもやったような化勁の応用を以って、今こそ攻撃に転じる!!

「! くっ───!」

 直感だろうか。
 くらってはまずいと思ったのか槍を引こうとし、しかしそれを俺に掴まれていることを確認するや、落ちる寸前だった木刀を蹴り上げ、突き出そうとしていた右腕の肩にぶつけてきて───って何処まで達人だあんた!!
 なんて思った時には遅く、一瞬の勢いの緩みを突いて、星は槍を捨ててまでして距離を取ってしまった……んだけど、その手には俺の肩にぶつかり、上手い具合に跳ね返った木刀。
 俺の手には星の槍があって、えぇと……って痛い痛い!

「ふっ!《ダンッ》」

 とりあえず吸収した衝撃を、震脚と一緒に地面に流し、一息。
 得物は変わってしまったものの、やっぱり降参は悔しいので構えてみる……が、結構重い。普通に重い。普通にっていうか……重い。
 これをあんな細腕で……やっぱり凄すぎないか、大陸に住む女性たち。

「……北郷殿。これは、あの状態で見事避けてみせた私の勝ちでしょう」
「……いいや。ここは攻撃を受け止めて反撃に出た俺の勝ちだ」
「………」
「………」

 顔合わせの時からなんとなく感じてはいた。
 が、今なら断言出来るだろう。
 星も俺に劣らず、負けず嫌いであると。

「今のはどう見たところで私の勝利以外は有り得ぬでしょう!!」
「どっちもどっちだったじゃないか! 武器を手放して攻撃に転じるのがどれだけ───」
「なにを強情な! 私とて武器を手放し相手の得物を手にし、なお対峙したでしょう!」
「だからどっちもどっちだって言ってるんだろ!? “本気で参る”って言った星を引かせてみせたんだから、それくらい───!」
「あれはほんの冗談にござる!」
「ちょっ、それは大人げないだろ星! だったら今すぐここで白黒つけるか!?」
「望むところ! 私が槍のみに長けているわけではないことを、その身を以って知っていただこう!!」
「だったらこっちだって、木刀ばかりじゃないことを見せてやる!」
「参る!」
「応ッ!」

 そして始まるボコスカ劇場。
 慣れない武器を使っての攻防はなんとももの悲しいもので、しかしそれでも勝敗が決まるまではと無駄に振り回し、重さや扱い方に慣れてくると───

「うぅぉおおおおおおっ!!」
「はぁああああああっ!!」

 二人して気合いを込めての攻防が、再び繰り広げられていた。

「ていうか星! 星っ! 木刀っ! 木刀に氣を込めて! じゃないと砕ける!」
「ふふっ……そうして私が疲労するのを狙うわけですな?」
「違いますよ!? いや本当に!!」

 困るって! それはいろいろと大変な代物で───ええいどうにでもなれ!
 覚悟完了、と同時に、ヒョイと……本当に無造作に星へと槍をパスする。
 星は急な出来事に目を真ん丸くして、思わず槍を手に取ろうと体勢を変えた───ところに、額へのデコピンを一閃。

「《ぺちんっ!》あうっ! ……あ、え……?」
「……っへへー、はい、一本」
「なっ……卑怯な! 北郷殿っ、こんなっ……戦乱の世をともに生きた獲物を投げ渡され、手に取らない者がおりましょうか!」
「氣を纏わせない木刀を振るって、心底楽しげにしてた人の言葉かそれが! それだって俺の、俺が天に居た証みたいなものなんだって!」
「むうっ……!」
「とにかく、勝負は勝負ってことで、今回は───って、星? なんで槍構え直してるの? ……え? どうして俺に木刀握らせて……」
「? なにを仰る。勝負というものは三本勝負と、昔から決まっておりましょう」
「なっ───ど、何処まで大人げないんだあんたはっ!」
「ふははは、なんとでも仰られませい。もはやこの趙子龍、油断のかけらも見せませぬ」

 ……言葉通り、さっきのだだ漏れの気迫とは違って、引き締まった気迫を持っている。
 殺気でもない怒りでもない、純粋な気迫が目の前に存在する。
 だけどマイペースだ。相手に惑わされるな。

「参る!」
「応ッ!」

 本日三度目のやり取りと同時に、無駄な思考を捨てての戦いが始まった。


───……。


 ……で、現在に至る。

「また始まったのだ〜……」
「お兄さんと星ちゃん、仲いいよね〜」

 あれから何回目の勝負をしただろうか。
 もう数えるのも馬鹿らしいくらいへとへとになって、それでも負けたくないから戦い続ける。
 二人ともが負けず嫌いだと、終わるものも終わらなかった。

「はっ……はぁ、はぁあ……! ……な、なぁ、星……? 俺達……何を競ってたんだっけ……」
「ふっ、ふぅ……はぁ……───む……何、と問われますと、なんとも……」

 負けた数では俺のほうが確かに上なんだが、星がこれでかなり強情で、“自分が負けた数も挽回できずして何が将!”とか言って、結局戦いになって、星の凡ミスで俺が勝ちを拾って……の連続だ。
 なんだかんだで挽回されてしまい、挽回されていない勝利数といったらたった一つ程度。
 やっぱりと言っていいのか、過去の英傑は強い。
 普通に戦ったら絶対に勝てないもん。悔しいけど、断言出来る。

「さあ、北郷殿……! 最後を……次の勝負を……!」
「いや……ごめん、もうだめ……立ってるのもっ……《どさっ》……辛い」
「むうっ……では、次の機会に……《どさっ》」

 互いに、尻餅をついてから倒れた。
 型を気にせず思い切りやると、本当に疲れる。
 この動作のあとにはこの動作へ戻る、なんてものがないから、武器なんてほぼ振り回しっぱなしだ。そりゃ疲れる。

「お疲れ様、星ちゃん、お兄さん」
「あ、あー……桃香かぁ〜……うん、お疲れ……っへ、へはっ……はぁ、はぁあ〜〜……」
「ふふ、だらしがないですなぁ北郷殿。これしきの疲労で情けない声をげっほごほっ!」
「………」
「………」
「い、いやっ、今のは少々唾液が喉に……」

 どっちみち情けなかった。
 それを自覚したのか星も顔を赤くして、倒れたままに向きを変え、俺から見て自分の顔が見えない方へと、さらにそっぽを向いてしまった。
 そんな星の傍らを歩き、俺のもとへとやってくる影ひとつ。桔梗だった。

「……桔梗? どうかし───」
「うむ。せっかくなのでわしも手合わせ願おうとな」
「え゙っ……」

 俺の中の時間がびしりと音を立てて凍った。……気がした。

「これが、御遣い殿が蜀で行う最後の鍛錬なのだろう? ならば撃の一つは合わせておいたほうが、次に(まみ)える時が楽しみになるというもの」
「あ、あの、今俺、とっても疲れて……」
「乱れた世の戦場の敵は、そんな世迷言には耳など貸さぬものぞ」
「ここ中庭でしかも平和なんですけど!?」

 抗議も空しく立ち上がらせられ、戦いが始まった。
 ……疲労しながらもなんとか立ち回り……当然の如く、ノされた。

「だっはっ……は、はぁっ……はああっ……!」
「おうおう、疲れているのに随分と威勢のいいことよ。次に会う時には、より腕を磨いていることを、精々期待するとしよう」
「あ、あのねぇええ……!! 疲れてるって解ってて……───アノ。翠サン? ど、どどどどーして、待ちくたびれたみたいに近くに立って……?」
「ん? だって次はあたしの番だろ?」
「エ?」

 い、いつから? いつからそんなことに!?

「桃香!? 止めっ───」
「えへへぇ、確か呉でも呉将のみんなと戦ったんだよね、お兄さんは。だったら蜀のみんなとも頑張れるよねー? 思い出作り思い出作り〜♪」
「…………わあ」

 首謀者が国の王でした。
 逃げ道はなかったのだ……なんてことだ。というかだなっ、呉のあれは帰る時にやったんじゃなくて、なんというかこう成り行きで───! こんな風に明らかに疲れている人を、続けて狙うようなものじゃあなかった筈!
 そもそも違う! これ、俺が知ってる思い出作りと違う! 違うぞ!?
 思い出作りって、いつから脱出不可能の“将複数VS俺”ってものになったんだ!?

「ほら、いつまでも座ってないで立てって」
「いやっ……ほんとっ……勘弁してほしいんだけど……!?」

 言いつつ起き上がる自分に、さすがに呆れる。
 思い出作りって言葉に体が動かされてる……? ちょっと待ってくれ、いくらなんでもこれ以上は身体が保たないんだが……!?

「〜〜〜〜っ……だぁああっ! どうにでもなれぇええええっ!!」

 気力を振り絞って構える!
 そうだ! どれだけ疲労しようが、明日のために戦った人達に習い、こんなことで弱音を吐き続けたりはしない!
 強く在れ北郷一刀!
 雪蓮の時のように腕を折られたりしたくなければ、全力で抗って全力で───勝つ!

「せぇえええやああああっ!!」

 氣だってまだ出せる!
 なんだ、まだまだ頑張れるじゃないか!
 頑張れるなら───その言葉の通り、頑張るだけ───だ、だけっ……だっ───


  …………ぎゃあああああああああああああ…………!!



───……。


 ……。

「……はあ。あんたら馬鹿でしょ」
『《ぐさっ!》はうっ!』

 鍛錬が、いつの間にか地獄の強化訓練みたいなものになってから数十分。
 俺は脱力しきったナマケモノのようにぐったりと倒れ込み、ただし呼吸だけは荒く、行動を停止していた。
 じいちゃん……俺……やったよ……? やり切ることが出来たんだ……。
 なんて、目を白黒させながら思う中、騒ぎを聞きつけた詠と月がやってきて、武官に喝を飛ばして落ち着かせてくれた。

「あ、あのー、詠ちゃん? 今日は学校だったんじゃ……」
「何言ってんのよ、もう昼でしょ? 休み時間になったからこうして休みに来たんじゃない。そうしたら武官のほぼ全員で一人をぼっこぼこにしてるんだもん、さすがに呆れたわ」
「はうっ、で、でもこれは思い出作りで〜……」
「思い出より先に、御遣いの干物が作れそうなくらいボロボロだけど?」

 桃香と話していた詠が、チラリと俺を見下ろす。
 うん、自分で言うのもなんだけど、あのまま放置されてたら干物くらいにはなってたかも。
 月が介抱してくれてるけど、こればっかりは呼吸で正さないと落ち着いてはくれない。
 氣がもうすっからかんだ、今日はもうこれ以上の鍛錬は望めそうにない。
 予定通りに精神修行でもしようか……? じゃなくて、まず休もう、それがいい。

「うう、う、うー……」

 情けないが、月に肩を貸してもらってなんとか立ち上がり、大きな木の傍までを歩いて腰を下ろす。
 木に思いきり体重を任せて吐く息は、なんとも気持ちのいいものだった。

「大丈夫ですか……?」
「はぁ、はっ……は、はは……まあ、なんとか……」

 勝負自体はそりゃあ大変なものだった。
 けど、得るものもあった。
 それぞれがどういった立ち回り方をするのか、こんな場合はどう動けばいいのかを学ばせてもらった。その代償がこんな状態っていうのも、なんというか割りに合うのか合わないのか。
 合うってことにしておこう。じゃないと報われない。

「すぅ…………はぁあああ…………すぅうう……はぁあ…………」

 ゆっくりと呼吸を整える。
 汗は依然として出たままだが、せめて呼吸だけでも。
 しばらく呼吸だけに専念していると、ソレも大分落ち着きを取り戻し、ようやくゆったりとした呼吸が出来る。
 ……身体は乳酸だらけで動いてくれないけどね。

「おいおいなんだよアニキー、だらしないなー」
「笑いながら大剣振り回して、人のことを追い掛け回してた人の言葉がそれか」

 ケタケタ笑いながら寄ってくる猪々子にとりあえずのツッコミ。
 弱っている人をいたぶる趣味でもあるのか、この人達は。

「っと、昼ってことはそろそろ体育の授業があるんだよな。あたしも戻らないと」

 などと思いつつ、槍の管理を蒲公英に託し、歩いて行こうとする翠に声をかける。

「……よーするに時間までの暇潰しだったわけね……」
「そ、そう言うなよ、あたしだってまだ子供相手とかは緊張するんだから。朝は走らせてればいいだけだけど、授業としてやる体育は気を使うんだぞ?」

 そんな合間を縫ってまで、槍の匠を見せてくれてありがとう。ありがたくて腹に風穴が空くところだった。
 頭の中に浮かんだ皮肉もそこそこに、手を開いたり握ったりを繰り返す。
 あー……握力が戻らない。これじゃあ木刀は握れない……どころか確実に筋肉痛到来だ。
 なるほど、確かにこれは思い出作りにはなったみたいだ。
 筋肉が痛みを感じるたびに思い出しそうだし……。

「うう……ごめんねお兄さん、もう少ししか時間がないから、思い出作りがしたくて」
「いや、いいよ。こっちも忘れられない思い出に出来そうだ。それより今日はもう動けそうにないんだけど、桃香はどうする? 氣の鍛錬でもしてるか?」
「あ、うん。愛紗ちゃんが付き合ってくれるみたいだから、頑張ってみるよっ」
「そっか。俺はもう氣もすっからかんだから、休ませてもらうよ」
「うん。……本当にごめんね、お兄さん《わしゃわしゃ》わぷっ!? お、お兄さんっ?」

 申し訳なさそうにしている桃香の頭を、無理矢理持ち上げた左手で撫でる。
 それだけで完全に力尽きたが、言いたい言葉だけは届けよう。

「気にしないでいいから、頑張ってきなさい。なんだかんだで楽しかったし、思い出作りとして残すなら“ごめんなさい”よりも───」
「あ……う、うんっ、ありがとう、お兄さんっ」
「…………うん」

 にっこり笑顔で返されて、俺も思わず笑った。
 いやぁ……人間、疲れきってても笑うことは出来るんだなぁ。
 小さな発見に息を吐きながら、パタパタと愛紗のもとへ駆け寄る桃香を見送った。
 ……さて、少し休もう。
 他の将たちも予定があるのか、散り散りに行動を開始している。
 疲れに任せて眠るのもいいだろうか……だめだな、疲れきってはいるけど、眠気に変わるのはもう少しあとだ。

「………」
「あ」

 目が合った。
 槍を二本抱えた元気はつらつ少女と。
 すると彼女はにっこり笑顔でパタパタと駆けてきて、槍を地面に置くと……熊のぬいぐるみの如く足を投げ出してもたれている俺の脚の間に座り込み、背中を預けてきた。

「……蒲公英さん? これは……」
「ほら、喋るだけの力が残ってるなら、前に約束した歌を歌ってもらおうかな〜って」

 鬼ですかアナタは。

「いや、いいけど……別の方向でダメ。胴着、汗でびしゃびしゃだからさ、もたれかかってきたら汗がつくぞ」
「別にいいよ? たんぽぽも汗びっしょりだし。ほら、汗を吸ってぺとぺとな服が、肌に密着して……」
「そーいうことは言わなくていいからっ」

 自分の身体の一部だっていうのに、動かすことさえ難儀する腕を無理矢理動かし、べりゃあと蒲公英を引き剥がす。
 そうしてから汗でも拭いて、着替えてきなさいと伝える。
 俺もこのままじゃあ乾いて臭くなるだけだし、汗を拭いて着替えるとしよう。

「ふ、ぐっ……ぬぅおおお……!!」

 しかし立ち上がるだけでこの有様。
 がくがくと震える足に、何故か“ぬおお”とか口走る口。
 木を支えにしている手にも握力らしい握力は入らず、気を抜けば倒れてしまいそうだ。
 そんな俺をきょとんとした顔で見上げる蒲公英が、突如としてにんまりと微笑み……

「えへへぇ……お兄様ぁ〜? たんぽぽが着替え、手伝ってあげよっかぁ〜♪」
「あ、結構です」

 嫌な予感が走ったので即答。
 この笑みは真桜とか霞がしそうな笑みだ、受け取ると絶対に痛い目を見る。
 「えぇ〜? なんで〜?」と不満を口に出す蒲公英だが、だったら鏡でさっきの自分の顔を見て、自分だったら断らない自信があるかどうかを問うてみたい。
 と、溜め息を吐く俺の傍らに、いつからそこに居たのか、思春がバッグを置いてくれる。
 素直に「ありがとう」を返しながらバッグからタオルを取り出して、汗を拭いていく。

「へぇ〜〜……なんか二人って、息の合った夫婦みたいだよね。何も言わなくてもこうして荷物取ってくれたりとか」
「なばっ……!?《ぐぼんっ!》」

 あ。赤くなった。

「……冗談ではない。こんな男が私の……? 冗談ではない」

 しかしそれも一瞬。
 キリッと凛々しい顔付きに戻ると、キッパリとそう言った。

「二回、冗談ではないって言われたけど……」
「解ってないなぁお兄様は。照れ隠しだってば」
「いや、あの、ほんと勘弁してください。思春はそういうことでからかい続けると、しばらくは俺を睨むことをやめなくなって───ヒィッ!?」

 ギロリと睨まれた。ご一緒に濃厚な殺気もいかがですかってくらいに。
 俺……なんかヘンなこと言った……?
 誤魔化すように汗を拭いていくんだが……ハテ。蒲公英がじーっとこっちを見て……?

「……? どうかしたか?」
「あ、うん。あれだけ鍛錬とかしてるのに、あんまり変わらないんだなーって」

 言いながら、腕をもにもにと触ってくる。

「俺としては、蒲公英たちの方が驚きだよ。こんなに細い腕なのに、あんなにブンブン武器を振るってさ」

 どんな筋肉をしているんだか。
 もしかしてこの大陸にはそういった謎があるものなのか?
 そこで鍛錬をしているからこそ、俺もゴリモリマッチョになったりしないとか。
 …………それはないよな。
 でも確かに、オヤジや蒲公英に言われてみて思う。
 呉や蜀を回る傍ら、三日ごとの鍛錬を続けてるのに、目に見えて筋肉が発達したって感じはしない。なんとなく変わったかな〜って思うのは、あくまでじいちゃんのもとで修行した分が活かされた気がする程度で……うーん……。

(そういえば、じいちゃんと鍛錬をしていた一年……鏡でまじまじと自分の体を見るなんてこと、しなかったもんな)

 それで自分の成長に驚いたんだろうか。
 けどまあ、重いものも持てるようにもなってるし、内側の筋肉ばっかりが鍛えられてるいい証拠だろう。べつにゴリモリマッチョになりたいわけじゃないもんなぁ。

「さてと。汗も拭いたし、一度着替えてくるよ。弓の練習したいところだけど、握力が戻らない」
「じゃあたんぽぽも行くー!」
「着替えについてきてどーすんだっ! 川とかにも寄るからいいって、自分の時間を大切にしてくれっ」

 けだるい身体を動かして、スタスタというよりはズシーンズシーンと歩いていく。
 これだけ身体が重いのもどれくらいぶりだろう……まるで人に乗っかられているような重さだ……!

「って、何故背中に抱き付いていますか蒲公英さん」
「え〜? だって今日お休みで退屈なんだもん。終わったら終わったで、みぃんなさっさとどっか行っちゃうしさー?」
「……まあ、確かに」

 あれだけ騒がしかったのもどこへやら、見渡してみれば随分と広くなった中庭があった。
 つい先ほどまでは将で溢れかえっていたくらいなのに。

「でもだめ。男の着替えなんて、見ててもつまらないだろ?」
「……にしし〜♪ いろいろと勉強になるかも〜」
「是非ここで待っててくれ」
「ぶー、お兄様ったらひどい〜!」

 そんなことを言いながらも顔は笑っているあたり、ただからかっているだけなんだろう。
 心身ともに疲れきっているために出る、深い深い溜め息を残して、もうともかく自室へ向かうことにした。


───……。


 さて、そんなわけで着替えを手に川へ行き、改めて汗を拭って着替えたわけだが。
 戻ってきた俺を待っていたのは、俺が座ってた木の幹に背を預ける、らんらん笑顔な桃香と蒲公英だった。

「…………どしたの、二人とも」
「あ、うん。愛紗ちゃんがじゅぎょーの時間になったから学校に行っちゃって、氣の鍛錬が途中で終わっちゃったの」
「そこですかさずこのたんぽぽちゃんが、ここで待ってればお兄様の歌が聴けるよー! って」

 エイオー!と突き上げられた手とともに、王様を巻き込む少女が居た。
 いや、歌うよ? 歌うけどさ……。

「前の時は私は仲間はずれだったもんね〜。えへへ、どんな歌を歌ってくれるのか、楽しみだよ〜」

 ……桃香? その後執務室で、嗄れた喉に鞭打って歌ったの、忘れた……?

「はぁ……じゃあ、どんな歌からいこうか」
「元気が出る歌がいいなっ♪」
「激しい歌!」
「どうしていっつもいっつも統一性がないのさ、きみたち……」

 仕方も無しに歌う。
 桃香と蒲公英が並んで座っていたので、その隣に座ろうとした……んだが、どうしてか間に座らされてから歌う。
 どうしてこんなことになったんだろうかと考えつつ、それでも楽しんでいる自分にどこか安心しながら。
 しばらく歌っていると、警邏の仕事がひと段落ついたのか、それとも焔耶と交代したのか、恋がとことこと歩いていくのを発見。
 傍らには陳宮も歩いていて、俺を見るなり恋を呼びとめ、とたとたと走ってきた。

「また懲りもせず、女を侍らせているですね」
「開口一番がそれですか、友達のキミ」

 憎まれ口を叩きながらも、陳宮はどこかくすぐったそうだ。むしろ嬉しそうだ。
 友達って言葉に反応しているのか、顔がどんどん緩んでいっている。

「今日はどうしたんだ? 焔耶が警邏を交代してくれって頼んだらしいじゃないか」
「もう終わったですよ。街の平和は恋殿とねねがきちんと守ってきたのですっ」

 思わず“どーん”とか擬音が出そうな胸の張りようだった。
 “あんた引っ付いてただけでしょ”とか言いそうな蒲公英の口を咄嗟に塞いだのは……多分、いい仕事だったと思う。

「……お兄様ってば、たんぽぽのことなんでも解るんだね」
「いろいろな人と関わってると、自然とね……」

 こう、危険回避スキルばっかりがどんどん上がっていくのだ。
 そりゃあ、いい加減に予想がついたりもする。

「で、つまり途中から焔耶が交代するって言ってきたと」
「うぐっ……そ、そうですよっ、悪いですかー!」
「悪くないから、わざわざ威嚇しないでくれ……」

 両腕を振り上げて、ムガーと叫ぶ陳宮をなだめつつ……さて。
 何も言わずとも木の幹に腰掛けた恋に釣られるように、陳宮もさっさと座ったわけだが……これ、つまり歌えってことだよな? ああいや、恋や陳宮がどうのじゃなく、さっきから俺をじーっと見てきている蒲公英の視線がって意味で。

「そういえば詠や月は?」
「少しもしないうちに学校に戻ったよ? 休み時間ってもうちょっと長くなんないかしらーとか言いながら」
「うわぁ……解るなぁ」

 学生ならばきっと誰もが思い、教師も多分思うこと。
 さすがにそう上手くはいかないもんだけどね。
 さて……「それよりも」と言って制服を引っ張る蒲公英に促されるまま、再び歌を歌う。
 懐かしの歌から流行の歌までを一通り。
 しかしながら、やっぱり英語的な歌詞には首を傾げられ、一から説明しなければいけないことに。こういう時ばっかり、日本人なら日本語で歌えって思いたくなるのは、俺が我が儘だからだろうか。
 いっそのこと学校の授業に英語を追加してくれようかとも思ったが、そもそも俺自身がそう英語に強いわけでもなく……口にする前から却下の方向で幕を閉じた。
 それでも歌っていると、何かの用事か麗羽が通路を進むのを発見。
 歌声に気づくやズンズンとこちらへ歩み寄ってきて、また無茶なリクエストが続くわけだが……後から慌てて追ってくる斗詩や猪々子を見ると、気の毒になってくるわけで……断れないよなぁ、いろいろと。

「〜♪」

 その少しあと、一人、また一人と人は増え、いつかのように木の周りには人だかりが出来ていた。将だかりか? この場合。
 簡単な歌を教えて皆で歌うのもこれはこれで面白く、いつしかそれは、俺だけが歌うリサイタルじゃなく……音楽の授業(のようなもの)に発展していた。
 桃香はそんな、“みんなでやる何かに”混ざれるのが嬉しいのか、終始笑顔で。
 他のみんなも、軽く歌詞を間違えながらも歌い、笑顔をこぼしていた。
 むしろ間違った時のほうが笑顔がこぼれるものだから、そんなくすぐったさが楽しかった。

  ……やがて、空に朱と黒が訪れる。

 いつしかみんな集まっての大合唱になっていたそれが終わりを迎え、静かになった中庭を見渡し、それぞれが思い思いに解散する。
 この楽しい時間とも明日でさよならだ。
 そんなことを思ってみると、やっぱり悲しいと感じる。
 待ち望んだ魏への帰路だというのに、どうしてこんなにも寂しく思うのか。
 それはやっぱり……大切なものが増えたから、なんだろうな。

(二度と来られなくなるわけじゃないんだ。元気出そう)

 “遣り残したことがあった”なんてことにならないように、頑張ろう。
 みんなの背中を見ながらそう思い、やがて俺も───くいっ。

「っと、なに……って」
「………」

 歩き出そうとしたら、服を掴まれた。
 振り向いてみれば、そこには視線をうろうろと彷徨わせる……陳宮が。

「どうかしたか? ……もしかしてまだ歌い足りないとか」
「そ、そんなんじゃないのですっ! ───って、静かにするです!」
「……いや、どう聞いてもどう見ても、叫んでるのは陳宮だけだけど」

 いいから、と引っ張られ、木の後ろ側へ。
 そんなところに引きこまれ、何をするのかと思えば………………なにもない。
 陳宮はしきりに視線を彷徨わせ、しかし俺と目が合うとバッと音が鳴るほどの速度で視線を外し、俯く。
 ……何事? ハッ! もしや!?

「陳宮……ごめんな、いっぱい待たせたよな」
「うぐっ……べ、べつに待ってなどいないのです。これはねねから言わなければならないことで、おまえの都合などどうでもいいのですっ」
「いや、それでも長く歌い続けてたら、辛くもなるよな」
「だ、だから待ってなどいないし辛くもなかったのですっ。……今日、恋殿と警邏をしながら話し合い、ねねは確信したのです。そ、そのですね、やはり友達だというのに、ま、まま、まっ、真名を許さないのは───」
「我慢は身体に毒だから、早く行ってきたほうがいいぞ?」
「───……待つです。何を言ってるですかおまえは」
「え? トイ……じゃなかった、厠に行きたかったんじゃ《どぼぉっ!》オフェエゥ!?」

 それはそれは見事な、ちんきゅーきっくでした。

「ばっ……ばばばば馬鹿ですかおまえはーーーっ!! ねねねっ、ね、ねねはただおまえに真名を許そうとしただけなのですーーーっ!!」
「えぇええええーーーーっ!!? いやだって、あんな、辺りを気にして視線を彷徨わせたりしてっ……!」
「大体なぜ、かかかっかか厠に行くのにおまえの許可がいるですか! 少しはねねのように頭を働かせてから口を動かすです!!」
「やっ……それはそうだけどっ! ぐあぁああ……!!」

 自分が口走った愚かさに顔面が灼熱する。
 いや、解ってる。
 ここ最近、むしろ昨日の夜にあんなものを見たために、いろいろおかしいんだ。
 ぐああっ……穴があったら入りたいっ……!!

「何を頭を振ってうごめいているですか」
「っ……恥ずかしいんだって! 〜〜〜ごめんっ! 変なこと口走って!」
「今に始まったことではないのです」
「《ぐさり》…………」

 否定したいのに否定できない自分が居た。
 ごめんなさい、種馬で。

「それより……え? いいのか? 前はあんなに渋ってたのに」
「だから、恋殿と警邏をしている時に話し合ったのですっ! その……お、おまえは友達です。恋殿に危害を加えるわけでも、ねねを苛め……こほんっ、ねねを馬鹿にしたりもしないのです。だから……だ、だから───そうっ、真名を呼ぶくらいの人格は認めてやるのですっ!」
「………」

 えーと。真名を許すって……つまり心を許してくれるってことだよな?
 真名が大切なものだっていうのは痛いほど知ってる。
 槍向けられたり青龍偃月刀を向けられたりしたもんなぁ。
 それを許してくれるってことは、より一層の友達として認められたってことで……いいんだよな?

「じゃあ……音々音」
「ふぐっ!《ボッ!》……ね、ねねでいいのです」
「そうか? じゃあ、ねね」
「〜〜〜……」
「?」

 何故か帽子を少しずり下げ、俯いて顔を隠してしまった。

「……おまえは他のやつとはどこか違うのです。他のやつらときたら、やれちんちくりんだのお子様だの、何かに付けて言葉の端でねねを馬鹿にするのです。でも……」
「いいじゃないか。言葉が自分に当てはまる内は、それに反発するように頑張れるし」
「え……?」
「言いたい人には言わせておくのが一番だ。案外、その中にも学べるものがあるかもしれないし、そう思えば案外どうってことないもんだよ」
「…………ねねはそこまで強くないのです」
「じゃあ強くなろう。方法がそれしかないなら、強くなって見返すんだ。もちろん、自分が潰れないように適度な方向で」
「なんですかそれは……」

 呆れた返事が返ってきた……けど、俯かせていた顔も上を向いたから、俺はそんな顔に笑みを送った。笑って、手を握って、そのままの笑顔で歩き出す。

「夕餉はなんだろうなぁ」
「そんなこと、ねねは知らないのです」
「そこで知らないって言ったら終わっちゃうじゃないか。ほら、日々の積み重ねがモノを言うんだから、頭を動かしてみよう」
「む、むー……麻婆豆腐です!」《どーーーん!》
「一品だけ?」
「む? むむむ……餃子と焼売もつくのですっ! ただしメンマ抜きです!」
「あれはあれで美味いと思うけどなぁ」
「何度も食べればさすがに飽きがくるものです、そんなことも解らないですか」

 他愛ない会話をして、色を変えていく空の下を歩く。
 通路まではほんの少しの距離。
 それでも手を繋ぎ歩いていく。
 見下ろす視線と見上げる視線が合わさっても、ただ頬が緩んで笑顔になるだけで、目が逸らされることはなかった。

「明日も晴れるといいなぁ。最後の日なんだから、思い切り頑張りたい」
「……恐らくおまえの仕事などないのです」
「え? なんで?」
「ここがそーいうところだからなのです」

 そういうところ? ……ハテ。
 軽く考えてみたが、ピンとくるものが何一つとしてなかった。
 明日仕事が無い……? いや、今日休ませてもらったわけだし、何かしないと申し訳ないような…………って、働き者になったもんだよなぁ俺も。

「まあいいや、今日はとにかくゆっくり休みたい」
「夜、おまえの部屋に遊びに行ってやるです。ありがたく思うがいいのです」
「休みたいって言ってるんだけど…………はぁ、いいや、こうなったらとことん付き合ってやる」

 友達って関係を再確認したからか、陳宮……じゃなかった、ねねの中から“遠慮”ってものが無くなった気がする。上機嫌な笑みを浮かべ、八重歯を見せながら腕を振るって歩いている。当然、繋いだ俺の手も大きく振るわれるが、それが嫌だとはちっとも思わなかった。

(真名を許すだけの人格か……はは)

 それはそれで気安いからいいんだが、限度だけは守ってほしい……って思っても無駄なんだろうな。だったら受け止められるだけ受け止めるだけだ。

「よしっ、じゃあいっぱい食べて夜に備えるかっ」
「ふふふ、ねねの計画に穴などないのです!」

 二人して笑いながら歩いた。
 歌いすぎで少々喉がやられていたが、気にせずに笑いながら。
 そうして夜を迎え、自称穴無し計画軍師のちんきゅーさまを待つに至り……少しののち、満腹になった彼女が眠気に勝てずにオチたことを知る。
 結局、わざわざ教えに来てくれた恋と遊ぶことになり、こうして残り二日の夜も過ぎ、朝がやってきた。
 ……そのさわやかな目覚めの朝は、遊ぶことが出来なかった友人のちんきゅーきっくから始まりました。




 毎度お待たせしております、40話をお届けします。  一ヶ月に三話出来れば〜とか言っておいて、結局これですか……。  あと三日で一話出来れば苦労はしませんが……時間がたっぷり欲しいです。  届くメールにも、もう少し更新速度を……というものが多く、もう謝るしかありません。  ネタメモの中では、今回訪れた場所でいろいろある予定だったんですが、それは魏のお話に回します。  それから、誤字報告ありがとうございます。  知人から、掲示板に書かれた誤字をまとめたメールが届くたび、感謝しております。  主にカイトさん。というかほぼカイトさん、ありがとうございます。名前間違っていたらごめんなさい。  とある回の効果音、擬音についてですが、凍傷は擬音の感覚がおかしいのかもしれませんが、一応ブンブカで合ってます。  感想等は相変わらず全部書き終えてからからの楽しみとして、見ないでおいてます。  では執筆作業に戻ります。  本当に、毎度遅くてごめんなさいです。  追記>誤字多数発見、修正しました Next Top Back