───/───

 ───広い部屋。
 一色しかないそこに、一色しかない服を着て立っていた。
 風もないそこで、見上げても見下ろしても同じ色しかないそこで、一定の間隔、一定の音だけが、コーン……コーンと鳴り続けている。
 一歩を踏み出してみて、見下ろした自分に影が無いことを知った。
 不安になって、多少長い自分の髪を掴み、目の前に引っ張ってみると、この部屋と同じ色になっていることに気づく。
 一色しかないというのはどうしてこんなに不安になるのか。
 色がある……一色はある筈なのに色が無い世界に、自分の小さな悲鳴が響いた。
 それは確かに悲鳴であったはずなのに、同じ間隔で鳴り続けるコーンという音なんかに掻き消され、響きも半端に無くなってしまった。

「………」

 口の中も同じ色なんだろうか。
 血は? 肉は?
 答えが知りたくて腕を掻き毟った。
 情報が無いというのがこんなにも心細いものだということを、知ることが出来るはずなのに知ろうともしないまま、掻き毟った。
 なのに痛みも感じない。
 血も出ないで、ただぐにぐにと色も無く動かされる皮膚が、そこにあった。

「………」

 なんでもいいから色が欲しかった。
 音色までもがたった一つのこの世界で、情報を求めて歩く。
 すると、広くはあったけど届かないわけではない世界が、自分が歩くたびに広がった。
 けれど色は増えないまま、辿り着けない“部屋の果て”は、どんどんと広くなる。
 いつしか怖くて走り出していた。
 気づいたことがある。
 自分が吐く呼吸は一定の間隔でしか出せなくて、血流も、酸素の流れも、それ以上には上がってくれない。
 ならばずっと同じ間隔で走っていられるのかと思った。
 それは確かにその通りで、歩く速さ、走る速さは決められていた。それ以上もそれ以下も許されない世界だった。

「………」

 走ると決めると、走る時のリズムが提供される。
 急に速度が切り替わる事実にふらつき、しかしそのふらつきにさえも速度があった。
 一色しかない世界で倒れた俺は、決められたリズムでしか行動が出来ないことを悲しんだ。

「………」

 そういえばと、かつて悲鳴を上げた声帯を思い、声をだしてみる。
 それまでもが一定であり、早口なんてものが出来ないことにも気づく。
 起き上がることも、歩き出すことも、全てが一色の世界をまた広げていく。
 何処かに自分以外の色があることを求めた。そんな日々がずっとずっと続いた。

「………」

 世界を広げる自分は、自分の性別も解らない。
 ただ、“俺”とか思ったからには男なんだろうと勝手に思った。
 広げる世界に意味があるのかと思いながら、歩いて歩いて……それ以外に自分が出来ることがないことに、恐ろしいくらいの時間をかけてようやく気づく。
 気づいた頃には自分が何処で目覚めたのかも解らず、果てが見えないくせに同じ色しかない世界……いや。部屋の中で、一色の涙を流した。
 同じ色だから、こぼれたことにさえ気づけない。
 ただ一定の間隔で頬を伝うそれは、きっと涙なのだと思うことにした。

「………」

 ある時。
 それでも部屋を広げることだけは出来る存在は、たった一つの違う色に気づく。
 考える自分。行動する自分。咄嗟に思うことの速度。
 それだけが、他の一定とは違っていた。
 つまり脳。
 自分の脳だけは、きっと色が違うのだと思った。
 違う色が見たくて、存在は手が届く地面に頭を叩きつけようとした。
 すると、その地面までもが存在から距離を取り、存在はただ落ちるだけの存在と化した。
 落下速度も一定であることを初めて知る。

「………」

 どれくらい落ちたのだろう。
 自分が歩く一定よりもよほどに速いソレは、きっと部屋をどんどんと広げている筈だ。
 最初は、部屋を広げれば音の間隔も色も広がると思った。
 そんなことは、当然なかった。
 ただ落ちるだけの瞬間が始まった頃から、段々と考えることが辛くなり。
 そっと、考えるのを止めた時───部屋は一瞬にして狭まり、存在は潰れて死んだ。
 残されたのは一色。
 二色あったそれに気づかないまま潰れ、部屋はとうとう一色になった。

「……ああ、なんだ」

 存在は初めて知る。
 結局のところ、血も肉も、骨も脳も一色でしかなかったけれど。
 髪を、手を、服を、足を、自分を認識する“輪郭”って色だけは、一色以外にあったことを。
 気づけたところでもう遅い。
 全ては閉ざされ、やがて点となった部屋には一色だけが残された。

───……。

 ふと気づくとまた一色の世界に居た。
 死んだ筈の自分は存在していて、落下もしていない。
 屈み、触れてみた地面は相変わらず自分の影すら映さず、ざらざらともつるつるともしていない、気持ちの悪い感触だけを我が身に伝える。
 果てすら見えない、天井さえ見えない一色の世界に立って、もう一度歩き始めてみる。
 と、歩く速度は自分の意思のまま、走る速度も全てのリズムも、自分の思い通りになっていた。さっきまでの世界とここは違うのだろうかと考え、そのまま歩いていく。
 しばらくすると自分以外の色を見つけ、走り寄った。
 いや、厳密に言えばその者の色が違うのではなく、自分の色が変わっていたのだ。

「───? ……」

 話し掛けてみると、ソレは笑った……気がした。
 人であることは確かな筈なんだが、どこか危うい気配を感じた。
 今度は「ここはなんなんだろう」と訊ねてみると、ソレは答えなんてずっと昔に知り尽くしているといった風情で返す。ただ一言、「始まりの世界だ」と。
 ここは自分の世界であり、自分はここで、永遠に始まりを繰り返すのだと。
 ならば俺はどうしてこんな世界に紛れ込んだのだと訊ねると、お前が立っている世界も、この世界もなんら変わらないものだからだと返してきた。

「…………」

 “ソレ”が手を振るう。
 すると景色に色が成され、何もなかった地面に土が現れ、草が生えた。
 空を見上げれば青があり、周囲を見渡せば呆れるほどに広い世界がそこにあった。
 草原、山、空を飛ぶなにか。
 けど、それだけの彩りが成されてもまだ、目の前のソレは一色のままだった。

「………」

 「キミはなんなんだ」と訊ねた。
 するとソレは、「自分は色を持てない道化だ」と、笑って言った。
 ───人生ってものは絵画に似ている。
 一人一人が自分とは違う別の色を持っていて、それらと関わった分だけ、誰かの人生に彩りを与えられる。
 けれど“ソレ”は、「自分は誰にも色を残してやれない道化なのだ」と笑って言った。
 そして、ソレに促されるままに辺りをもう一度見渡せば、いつからそこに居たのか、大陸で出会ってきた村人や町人、兵や将や王から、出会った覚えの無い人らが立っていた。
 それに気づくと同時に、自分が自分であることも完全に思い出し───皆が皆、色を持って俺を見る中で……やっぱりソレだけは色が無いまま、皆に少しも認識されないままに立っていた。
 やがてソレは、苦笑にも似た溜め息を吐いたのちに静かに俺に近づいて、俺の頬を一発だけ殴っていった。

「……あ」

 殴られた瞬間、“ああ、これは夢なのか”と酷く冷静に納得して、ゆっくりと意識が浮上していく。
 何を思ってソレが自分を殴ったのかも解らないまま───けれど、ただなんとなく……何か大事なものを託された気がして、何かに対して泣いてやりたくなった。
 ただそれだけの───なんの変哲も無い、起きた瞬間に忘れてしまうような夢を見た。




78/訪れた朝に

 ちぃいいいんきゅうううう……───

「…………ん、んあ……?」

 きぃいいーーーーーーっく!!

「《どぼぉっ!!》ぶはぁあっほあぁっ!!?」

 下半身と上半身が勝手に跳ねるほどの衝撃で目が醒めた。
 その瞬間に目に映ったものは、腹に突き刺さるちんきゅーきっく。
 ばたりと上半身と下半身が寝台に下りる頃には、陳……じゃなかった、ねねにマウントポジションを取られていて、俺は腹を押さえることさえ出来ない状態にあった。
 ……いや、それ以上に動けない理由があった。
 身体をミシミシと蝕む筋肉痛。
 これが自分を布団に縫い付けるようにして、動きを封じていた。

「げっほごほっ……! ね、ねね……!? いきなりなにをっ……!」
「それはこちらの言葉です! 遊ぶ約束はどうなったのですかーーーっ!!」
「へ? あ、遊ぶっ……? ───って、それはねねが眠りこけたから流れたんだろ!?」

 朝っぱらからの言い合いが始まる。
 思春は既に起きていたのか、どたんばたんと暴れる俺達を見下ろし、無表情なままに溜め息を吐いていた。
 ……暴れるたびに顔をしかめるのは、俺だけだったが。

「とーにーかーくっ! 朝っぱらから暴れない!!」
「《ぶぎゅっ!》むぎゅっ!?」

 暴れるねねを取っ捕まえて寝台に寝かせると、その上から掛け布団を被せる。ミシリと身体が痛んだが、それでもお構い無しに。
 当然バタバタと暴れ出すが、しばらくすると───あれ? 大人しくなった。どれだけ経っても暴れてると思ったんだけどな。
 ハテ、とめくってみると、眠たげにしているちんきゅーさん。
 ……まあ、解る。暖かい布団って眠くなるよなぁ。
 大人しい今が好機と、ちゃっちゃと着替えを済ませると、瞼が閉ざされそうな少女に一応声をかけてみる。

「……寝ていくか?」
「はっ!? ななななにを言うのです! この恋殿のお傍で常に成長を続けるねねをこんな暖かくていい匂いのする誘惑程度で縛れると思ったら大間違いなのですーーーっ!」

 おお、一息で随分と───って、思った直後に咳き込んだ。
 叫びながら起き上がったその小さな背中を、筋肉痛で震える手で撫でてやると、はふぅ……と安心したような吐息が漏れた。なんかもう、それだけで手のかかる妹みたいに見えてくるから不思議だ。
 そんな姿が微笑ましくなって、そのまま頭を撫でてみた。

「………」
「………《なでなで》」
「……一応言っておくけど、子供扱いはしてないからな?」
「ふん、わざわざ言わなくても解っているのです《なでなで》」

 不貞腐れているような顔をしつつ、そっぽを向く……んだが、撫で続ける手を払い除けたりする気は無いらしいです。
 しかしながらあんまり撫で続けるのもなんだろうしと、最後にぽんぽんと手を弾ませてから離す。
 ぐうっと伸びをすることで訪れる爽快感……ではなく、筋肉が突っ張るような悲鳴が朝の気だるさをブチノメしてくれて、眠気が物凄い勢いで退散した。
 そんな痛みに息を軽く荒げながら、今日のこれからの行動を考えるんだが───朝といったら、まずは水だよな。

「よし、行くか」
「仕方ないから一緒に行ってやるのです」
「仕方ない割りに顔がニヤケっぱなしだぞ〜」
「なっ!? ななななんですとーーーっ!? そそっ、そんなことないのです! 目が腐ったですかおまえーーーっ!!」
「腐ったとまで言うか!?」

 ギャースカと騒ぎながらも、寝台から降りようとするねねに手を貸し、すとんと降りてからは思春も混ぜた三人で歩き出す。
 昨夜一緒に遊んでた恋も、少ししたら戻ったし……お陰で今朝から誤解でのトラブルが起こったりは無さそうでなりより……とか思ったらいけないな。油断は禁物だ。むしろちんきゅーきっくで起こされたし。

(ん。今日も頑張ろう)

 自然とそうなる笑顔のままに部屋を出た。
 厨房へと向かう足は、まるで日課をこなすかのように自然に動く。
 だいたい何歩あたりで厨房に着くのかも予想がつくあたり、蜀での暮らしも長かったなぁと感慨深く思った。
 自然に出る笑顔とともに、筋肉痛も自然に体外へと出て行ってくれればよかったのになんて、しょうもない願いを抱きつつ。


───……。


 水を喉に通し、食事を終えてからは桃香が待つ執務室へ。
 そこで今日の分の仕事を分けてもらおうとして───

「はーい、本日におけるお兄さんのお仕事は、一切存在しませーん」

 仕事に集中している桃香に代わり、手伝いをしている七乃に桃香の声真似までされて、きっぱり言われた。
 ……エ? 仕事、無い? ナゼ?
 や、そういえば昨日、ねねも言ってたけど……え? ほんとに無いのか?

「え、えと、七乃? それはほんとにほんとで? ほら、以前サボっちゃった成都のボラン……じゃなかった、奉仕活動は───」
「はい♪《ピンッ》別の誰かにやってもらいました」

 にこやかにピンと立てられた人差し指が、くるくると回っていた。
 じゃなくて。

「じゃあ今日届いた案件とかはっ……」
「わざわざ手伝ってもらうほどの量じゃあなかったりしちゃいますねー」
「やっ、でも七乃は手伝ってるじゃん!」
「ですからあくまで私が手伝う程度にはあるってことですね。諦めちゃってください」
「…………」

 諦めるって……仕事ってそういうものなのか?
 むしろ桃香が眉間にシワ寄せて案件整理する様は、なんというか怖いんだが……ほんとに“程度”ってくらいなのか?
 
「……そっちの桃香さんは、随分と張り切って仕事してらっしゃるけど」
「あー……♪ 一刀さんは他国の王様の仕事への姿勢にいちゃもんつけるんですかー?」
「へっ!? いやっ、そういうつもりじゃないけど……」
「はい、でしたら何も言わずに回れ右しちゃってくださいねー。仕事がありますから、今はまだ構ってあげられませんのでー」
「………」

 だめだ話にならない、七乃はやる気だ。(仕事を)
 これ以上は邪魔になるだけだと判断して、執務室をあとに───……?

「……あれ? じゃあ今日は俺、仕事しなくていいってことか?」
「…………」

 踵を返して出て行こうとして、顔だけでもう一度七乃へと振り返って訊ねてみる。
 と、七乃がとことことにこやかな顔で近づいてきて、ピンと立てた人差し指で俺の脇腹をドスッと突いてきて───

「《ズキィーーーン!》ふぐぉおおっ!? おっ……お、ぉおおお……!!」

 急なくすぐったさやら痛みやらで身体を折った途端、ビキリと軋む我が肉体。
 筋肉が悲鳴を上げ、口からは勝手に奇妙な悲鳴が漏れた。

「そんな状態で仕事をされてもきっぱり迷惑です《テコーン♪》」

 眩しい笑顔で迷惑がられた。
 ここまでされると、さすがに何も言えなくなってしまうわけでして……。

「わ、解った、今日はゆっくり休ませてもらうよ……」
「一刻もしない内に、どこかで元気に騒いでいそうですけどねー」
「……うん、なんだろう。俺もなんかそんな気がしてならないよ」

 ゆっくりストレッチでもしながら休みたいのが本音だ。
 けれど周りがほうっておいてくれなさそうだと思うのは、俺だけ? ……俺だけってことにしておこう、なにせ蜀王から直々にお休みをもらえたんだから。
 言ったのは七乃だけどってセルフツッコミも、この際は流してしまおう。
 うん、よし。

「じゃあ、のんびり休ませてもらうな。あ、でももし困ったことがあったら───」
「はいっ、どなたか別の人を呼びますねー♪」
「笑顔で普通にひどいなおい……」

 とはいえ、言っていても始まらないか。
 とほーと溜め息とまではいかない息を吐いて、それじゃあと執務室を出る。
 そこで待っていた思春とねねと合流、事情を話すと、“それ見たことか”って顔でねねが胸を張った。
 しかしこうなると、これからどうしたものかと考えてしまうわけで───うーむ。

「…………あれ?」

 普通に流すところだったけど、ちょっと待て。

「ねね、お前……仕事は?」
「む? …………はっ!」

 訊ねてみれば、ビシィと固まる少女が居た。
 そしてあわあわと辺りを見渡したのちに、急に走り出して───……視界から消えた。

「………」
「………」

 特に何も言われずに置いてけぼりをくらった心境な俺と思春は、これからどうするのかを小さく考え始めるしかなかったのでした。
 執務室の前で二人、顔を見合わせての溜め息。
 ここでずっと立っているわけにもいかないので歩き出すが、いったい何処へ向かっているのか。ただ歩いているだけって自分でも解っていながら、急にすることが無くなると手持ち無沙汰な主婦のように、ふらふらと目的もなく歩いた。

───……。

 結局することもなく、突っ張る筋肉を伸ばすために中庭でストレッチを開始。
 制服の上を脱いで、ぐぐ〜〜〜っと身体を伸ばして固定。
 伸ばす個所を変えながらのそれを何度か繰り返し、全てが終わると寝転がりながら空を見た。最近では珍しくもない、雲ひとつない青がそこにある。
 空を真正面に捉える仰向けって格好のままに、見上げる形で逆さな地面に目を向けると、太い木の枝にもたれかかるように眠る恋を発見。
 たった今気づいたが、その木の下には何匹もの動物たち。
 犬猫がカリコリと木の幹を引っ掻いて、ニャーニャークンクンと鳴いていた。
 いや……気づこうよ、俺。

「よっ……と」

 寝転がらせていた身体を起こす。
 立ち上がる過程で、血(のようなもの)がズズーと身体の下に下りていくような感覚を味わいながら、伸びをしたあとに犬猫が集まる木の下へ。

「………おおう」

 見上げてみると、木にもたれて寝ているというよりは、引っかかって寝ているって方がしっくりくることに気づく。気づいたからなんだーって状況だが、苦しくないのか、あれ。

「ああいうのって、どっちかっていうと鈴々とかがしてそうな寝方だけどなぁ。……おーい、恋〜?」

 枝に正中線を預け、四肢をだらんと垂らした状態の恋。
 もちろん顔は枝から逸らされてはいるんだが、どう見ても寝苦しそうな寝方である。
 しびれを切らした猫の一匹が、ザカカカッと木を登り始めるが、それを「はいはい無茶しない」と注意しながら引っぺがす。
 そうやって一匹を胸に抱くに至り、犬猫たちがようやく俺の存在に気づくと、木に登れない寂しさからか俺の身体を登り始め……ってギャアアアアーーーーッ!!?

「いだだだだだだーーーっだだだだ!? 爪っ! 牙っ! 噛むな立てるなそもそも登るなぁああっ!」

 上を脱ぎ、シャツだけの身体に爪やら牙やらがザクシュドシュドシュと突き立てられる。
 もちろんよじ登るために立てているんであって、悪意があるわけじゃないと解っているだけに性質が悪い。
 振り落とすわけにもいかず、少しもしないうちに犬猫タワーが完成した。生暖かい。

「やあ、僕はキャッツアンドドッグス。動物たちに愛と勇気だけを教えに来た悪の使者さ」
「……何を言っているんだお前は」

 真顔な思春さんが思い切り引いていた。
 うん……こんな状況じゃなければ出来ないことを、一つでもいいからしたかっただけなんだ……うん……。じゃないと痛みが報われない気がしたんだよ……うん……。なのにどうしてこんなに心が痛いんだろうね……うん……。
 気を取り直そう。こうしていても始まらない。

「おーい、恋? 恋ー?」

 犬猫にしがみつかれながら、大木を見上げて声をかける。
 あんな体勢でも一応熟睡出来ているのか、身動(みじろ)ぎはするものの、その目が開かれることはない。
 胸骨とか圧迫されて、呼吸しづらいと思うんだが……たくましいなぁ。

「どうしようか」
「そもそもお前がどうするんだ」

 真顔な思春さんが、犬猫タワーな俺を見て言った。
 いや、俺もどうにかはしたいんだけどさ。

「えと……ほらー? お前らー? お兄さんちょっと今用事が出来たから、降りてくれると助かるんだけどなー」
『………』

 猫が一匹、なーうと鳴いた。
 ……返事は…………それだけだった。

「俺……生まれ変わったら、動物の言葉が解る世界の住人になるんだ……」
「逃避をするな」

 まったくですね。
 よし、とりあえず恋が降りてくれば、こいつらもそっちへ移動する筈だ。多分だけど。
 今はとにかく恋を起こして、と───。

「恋ー? 恋? れーんー? 朝だぞー? 恋ー、恋ってばー!」
「ん、ん………………うるさい」
「《ぞくぅっ!》ヒィッ!?」

 殺気が! 殺気が放たれた!
 思わずヒィって叫んで、しかも犬猫たちがババッと退避してっ……!

「………」
「………」

 ……やがて、また寝息が聞こえ始める。
 その下に、引っ掻き傷やら動物の体毛まみれになった、ボロボロな俺を残して。

「……俺……泣いていいかな……」

 俯いたら零れそうだったものを、見上げることでこらえてみた……ら、あっさり端から零れた。上を向いたほうが零れる気がするよ、涙って。
 涙が零れないようにするにはどうしたらいいのかって? 拭ってしまえばいいのさ。男は涙を零さない。悪ガキはなんでも自分の腕で拭うのさ。鼻水だって鼻血だって、涙だって傷口だって。
 ……もう、悪ガキで通せるような歳じゃなくなっちゃったけど。

「よし。することもないし、休みがてらに動物たちと遊ぶか。ほらー、おいでおいでー」

 恋は眠るのに忙しいらしいので、仕方も無しにその場から離れ、東屋近くの斜面に腰掛けてから動物達を呼んでみる。
 すると、言葉が解ったのか仕草で解ったのか、ぴうと素っ飛んでくる犬猫たち───に、再び圧し掛かられ、ばたりと倒れた。

(……あー……暖かい……。このまま寝ちゃおうかしら)

 よく伸ばした身体に、動物たちの暖かさがやさしい。
 すぅ、と息を吸えば犬猫の香り。
 額に乗っかった子猫の暖かさにくすぐったさを感じながら、ゆっくりと目を閉じて……───

「……思春はどうする?」

 勝手に寝てしまえば、一人残される思春に声をかける。
 声をかけながらパチリと開いた目には、“今さら訊くのか”って顔で溜め息を吐く思春。
 見る度に睨んでいるか溜め息を吐いてるな、って感想は、間違っても言わないほうがいいだろう。

「今日は私にも用事がある。桃香様……に、一定の刻が来たら来るようにと言われている」
「そうなのか? あ、じゃあ俺も───」
「貴様は連れてくるなと、念を押された上でだ」
「わあ」

 これはいわゆるあれか? 自慢するだけしといてお前には触らせないとか言う、ス○ちゃま的な……? 仕事はあるけど、“お前にやらせる仕事なんて無いから”とか、そんな……?
 え……? お、俺、なにかした? ああうん、サボりましたね。
 
「………」

 特に言い残すこともなく、音も無く歩いていく思春を犬猫まみれで見送った。
 起き上がって見送ろうにも、犬猫の重さにも耐えられない筋肉痛な俺が居る。
 昨日は無茶しすぎたから……はぁ。

「なぁ? せめて制服の上だけでも取りに行きたいんだけど……」
『……なぅー……』
「………」

 “眠ろうとしてるんだから邪魔するな”的な鳴き声が返ってきた。
 もはや黙って寝る以外の選択肢が無いことを思い知り、とほほと声を漏らしながら目を閉じた。せめて、夢の先では飛び回れるほど元気でありますようになんて、意味のない願いを込めながら。


───……。


 ふと目を覚ますと、体の熱さにハッとする。
 何事かと視線を下ろせば、ころりと子猫が転がって、目の前で「にー」と鳴いた。
 ……そこでようやく、自分が“動物が生える苗床”状態になっていることを思い出す。
 キノコ原木じゃなく、動物原木……こうまで動物に乗っかられているのを見ると、言い得て妙だった。

「んぐっ……ん、んー……」

 頭が重い。
 額に乗っていた子猫は器用に胸に転がったが、重さの原因は寝すぎにあった。
 頭の中がどろどろになった錯覚を感じながら、犬猫たちに謝りながらゆっくりと体を起こす。犬猫たちはくつろぎの時間を邪魔されたことに「なーうなーう」と声をあげるが、これはさすがに勘弁してほしく思う。

「筋肉の疲労が頭に来たみたいな重さだな……あーふらふらする」

 口に出して言ってみても、何が変わるわけでもない。
 何歩か歩いてみて、少し楽になってから通路の欄干に引っ掛けた制服の上着を手に、着───ようとして、体が動物の体毛だらけなことを思い出す。
 軽く叩き落としてみるが、これがまた案外落ちない。
 脱いで振るったほうが取れるだろうかと思い、拾った上着を欄干に掛けてシャツを脱ぐ。
 バッサバッサと振るってみるが、こんなことで落ちてくれれば苦労はしない。
 しかもシャツを振るうって行動だけでも腕がギシリと震え、痛みとなって行動速度を鈍くする。つまり痛い。

「……これは、しばらく走ったりとかは無理そうだ……はぁあ……」

 とほーと溜め息を吐きながら、叩いて落ちる程度の体毛は落としておく。
 それから上着も着て、当ても無くふらふらと…………───あ。

「………」
「………」

 木の上からこちらを見下ろす視線に気づいた。
 いったいいつから起きていたのか、ぼ〜っとした目が俺を見ていた。

「や、恋。目、醒めたか?」
「……、…………、……──────?」

 ゆらゆらと頭を揺らし、左右をゆっくりと確認、最後にこちらへと視線を戻し、眠たげな目のままにこてりと首を傾げた。
 これで先ほど、思わず悲鳴をもらすような殺気を放った人と同一人物だっていうんだから、いろいろとおかしい。
 そんなことを思いながら、小首を傾げたままな恋の下までを歩くと、再びオゾゾゾゾと集まる犬猫たち。
 そのほぼが、意識のある恋を見上げて確認すると、木をガリガリと登って行って───

「だから落ち着きなさい」

 木登りの先頭を何よりも先んじた猫のうなじ(?)をひょいとつまみ、胸に抱く。
 それを見た犬猫たちは、懲りることも飽きることもせずに俺の身体を掛け登り…………再び、犬猫タワーが完成した。
 もう、好きにして……。

「恋ー? 退屈してるなら一緒に暇潰ししないかー?」
「……?」

 そんな俺のままに声を掛けると、恋はやはり小首を傾げる。
 何をするのかと訊ねられれば、正直なにもないと胸を張れるのが現状。
 街に行って人通りの騒がしさに身を委ねるのもありだが、これといってやりたいことがあるわけでもない。
 というか、あれ? 魏で仕事をサボった時、主に何をしてたっけ? いざ時間がぽっかり空くと、何をしていいのか迷ってしまって……あ、あれぇ?

「………《ひゅとっ》」

 恋が無言で地面に降りる。
 そして改めて犬猫タワーな俺を見ると、やっぱり改めて小首を傾げた。

「ん……恋? 誘っておいてなんだけど、この犬と猫たち、そっとどかしてくれると助かるんだけど……」
「…………《ふるふるふる》」

 首振られた!? このままで居ろと!?

「……みんな、降りる」

 …………。
 たった一言で解決した。
 犬猫たちは揃ってトトトトトッと地面に降りると、俺を見上げて「なーお」と鳴いた……いや、鳴いただけじゃなく、足に自分の匂いをつけるが如く、ゴスゴススリスリと頭を擦り付けてきている。
 犬達もズボンを軽く噛んで、くいくいと引っ張ってきて……お、おいー? あんまり噛むと、大事な一張羅が……ってこらこらこらっ! 多方向から人のズボンをだなっ……!

「えと、恋? これ、どうすればっ……」

 これって好かれてるのか? それともみんなしていい匂いがする(らしい)俺を己がものにしようと? 嬉しいやらくすぐったいやら、あぁああ払ったばっかりなのに毛が! そして唾液が! いたたたた肉! 肉噛んでる! 爪立てるな爪! 「なーう」じゃなくて!
 いろいろな痛みやくすぐったさに耐えながら恋を見るんだが、恋もこんなことは初めてなのか、少しだけ戸惑いを見せながら首を傾げていた。
 ああえっと、やっぱり特殊なのかな、こういうのって───っていたたたた! 人のズボンで爪を研ぐんじゃあありませんっ! っておいいいいいっ!! 犬!? 犬さん!? 人の足にしがみついて腰をっ……いやぁああああああやめてぇえええええっ!!

「こら、やめる」

 ……少しだけ怒気を孕んだ声に、犬猫がババッと下がった。
 恋の言うことには忠実なんだな……匂いが好かれてるだけの俺とは大違いらしい。

「……? 一刀、どうかした?」
「いや……うん……またいろいろ、考えを改めようかと……」

 俺……今からでも魔法使いを目指していいかな……。
 いや、いろいろ手遅れだから、考えたって仕方が無いのは解ってはいるんだが。
 種馬かぁ……種犬じゃないだけ、まだ節操はあるんだろうか。
 でも馬って、飼い主の都合でその、なんだ、相手を決めさせられて、必要な時にだけ……あれ……? なんかもう何をどう改めていいのか解らなくなってきた……。
 必要な時にだけ、優秀な遺伝子を残すために種を提供する馬……それが種馬だったっけ?
 この場合、優秀な遺伝子を持つ存在っていうのが華琳たちなわけで……えぇと……つまりその、子孫を残すには相手が必要なわけでして…………あー、確信が持てる……今絶対に顔真っ赤だ。

(出過ぎだぞ! 自重せい!)
(も、孟徳さん!)

 ……落ち着こう。
 深呼吸をして、頭から気持ちの悪い重さを取り除く。
 そうするだけで取れるのなら苦労はしないのだが、案外あっさりと頭の重さは消えてくれた。

「恋、少し話でもしようか」
「…………?《こくこく……?》」

 まだ寝惚けているんだろうか、少しふらついている頭が縦に振られた。
 そんな彼女とともに歩き、東屋の椅子へと座った……んだが、俺が一人で座る中で、立ったままの恋がくいくいと服を引っ張る。

「っと、どうした?」
「………」

 質問には答えず、ただ引っ張る恋。
 筋肉痛の俺には逆らう力はなく、蹴躓きそうになりながらも引かれるままに歩くと、恋は東屋の傍の斜面に座りこんだ。
 …………えと、なんだ? 硬い椅子よりも、草むらに座る方がいいってことか?

「…………《カリッ……》」

 頬をひと掻き、座ったまま俺を見上げる彼女の横に、とすんと腰を下ろした。
 途端に集まってくる犬猫達の頭を撫でたりしながら───ふと、些細だけど暖かなことに気づいた。
 ああ、なんだ。ようするに彼女は、犬猫たちが寝転がりやすい場所を選んだんだ。

「………」
「……《なでなで》……?」

 そんなささやかな優しさがくすぐったいやら嬉しいやらで、自然と恋の頭を撫でていた。
 べつに俺がやさしくされたわけでもないのに。
 恋自身も撫でられる理由が浮かばなかったのか、気持ち良さそうにしながらも首を傾げていた。

「話、しようか」
「……する」

 始まるのは他愛無い話。
 「いつかのご飯が美味しかった」「ねねに真名を許してもらった」「みんな、一刀が好き」「それは解らないけど、恋だって好かれている」───話す話題はすぐに尽きてしまうかもと思っていたのにも関わらず、これで案外話題には困らなかった。
 話題のほぼが食べ物と動物で占められているのは、周りが動物たちに囲まれている所為……ってことにしておこう。実際逃げ道を塞ぐかのごとく、犬猫喧嘩することなくびっしり密集していらっしゃる。
 ……好かれているっていうのはあくまで動物の話で、将のみんなってわけではないのであしからず。

「出遅れた……」
「? 出遅れ?」

 他愛無い話をする中、ふと昨日のことが話題にあがるや、恋がぽつりと呟いた。
 出遅れの意味を考えてみるが、恋が居た頃にしたことといえば歌を歌ったこと。
 それ以外で言えば……って、まさか?

「一刀、昨日はみんなと戦ったって聞いた」
「あ、あー……あれは……なぁ?」

 たった今浮上した予想が、見事に的を射た。
 予想通りと唱えるには遅すぎて、つい口ごもる。
 下手な返事をしたらこんな身体のまま、かの飛将軍様と手合わせすることになりかねない。とてもとても貴重な経験だろうが、経験を積む前に大空へとはばたけそうだ。さすがにそれは勘弁させていただきたい。

「警邏、代わらなければよかった……」
「いや、でもそれは恋がきちんと仕事をしたって証拠だろ? 大事なことだよ、それは」
「……、………」

 「胸を張るべきだ」って続け、頭を撫でるんだが……何故かおろおろと視線を彷徨わせる恋さん。
 ………………まあ、なんとなく予想はついてたんだけどさ。

「もしかして、食べ物に釣られて警邏を代わった……とか?」
「…………《しゅん》」
「あああいやっ、怒ってるんじゃなくてなっ!?」

 天下無双の飛将軍をヘコませた衝撃は、胸の痛みとなって返ってきた。
 その落ち込み様は凄まじく、膝を抱えてしゅんとしてしまう恋を前にした俺は、裏返った声もそのままに宥めるのだが……───

「……じゃあ、戦ってくれる……?」
「………」

 断れば、涙が滲んでしまいそうなくらいの寂しげな瞳を前に、俺は……ここ一週間の間に何度仰いだのかも忘れてしまった空をもう一度仰ぎ見て、唱えた。
 神様……俺は本当に馬鹿なんでしょうか……。




-_-/桃香

 カロカロカロ……かしゃんっ。

「はい確かに。本日のお勤め、終了ですね」
「やった終わったよーーーっ!」

 竹簡を巻き、積み重ねられたそれらにさらに積み重なる音を耳に、両腕を振り上げて叫んだ。
 睡眠時間を削ってまで頑張った甲斐もあって、お昼が来る前に終えることが出来た事実に、むしろ胸だって張っちゃう。
 今日はお兄さんとゆっくり過ごせる最後の日。
 だからお兄さんには休んでもらって、今日一日の間、いっぱいお話ようって考えていたのだ。お兄さんが、魏に帰る日取りを決めてからずっと。

「それじゃあもう行ってもいいかな、いいかなっ」

 案件整理を手伝ってくれた七乃ちゃんは、至急片付けなければいけない分の書簡の見直しをしてくれている。
 えと、袁術ちゃ───美羽ちゃんの傍でいろいろとやっていた七乃ちゃんだけど、時々怖いくらいに的確な提案をしてくれる。
 お陰で整理も楽になったけど、乱世の頃、もっともっと力を活かしていたなら〜……とかどうしても思ってしまう。美羽ちゃんは雪蓮さんがやっつけたって聞いたけど、その時に反撃らしい反撃はされなかったのかなぁ。

「はいどうぞー? 私はもう少しだけ、確認をしてますからー」

 癖なのか、握った手から人差し指だけを立てて、にっこりと笑う。
 そんな七乃ちゃんにありがとうを残して、いざ執務室を出てお兄さんの部屋へ!

「どんなことしよっかなー♪ 昨日みたいに歌を歌ってもらう? それとも街を一緒に歩いたり〜……えへへー♪」

 お兄さんは、魏のみんなから聞いた噂ほど、暇じゃあなかった。
 どんなことにでも首を突っ込んじゃうし、揉め事に巻きこまれやすいのか、気づけば何かしらの騒ぎの中心に居る。
 でも危うい感じじゃなくて、一緒に居ると楽っていう、不思議な人。
 自分の知らないものをたくさん知っていて、教えてくれる時の目はとってもやさしい。
 頭を撫でる癖があるみたいだけど、お兄さんに撫でられるのは嫌いじゃあなかった。
 一国の王になった時点で、みぃんなどこか線を引いちゃっている中で、お兄さんは誰にだってやさしかった。
 王になった自分にも甘えられる人が居ることが、安心でもありくすぐったい。

「〜〜♪」

 通路を駆けそうになるのをなんとか抑えて、少し体が弾むのを感じながらもゆっくりと歩く。わくわくする心は嫌じゃないから、長く長く感じていたい。
 昨日の鍛錬の疲れが少しだけ残っていて、走ると痛いのも事実なんだけど……歩きたいのもまた事実だから、ゆっくりと歩く。
 鼻歌が、昨日お兄さんが歌っていた歌の一部分であることに気づくと、そんなことさえ笑みの種になるんだからくすぐったい。

「私、変わっていけてるのかなぁ」

 落ち込むだけだった自分にさよならをしたかった。
 王だなんだって言っても、私は華琳さんや雪蓮さんみたいに戦えない。
 的確な指示を素早く出せるわけでもなければ、戦の中で戦略を立てられるわけでもない。

  みんなは“私が私だから”集まってくれたんだって言うけど。
  役に立てないのって、結構つらくて、苦しいんだよ……?

 戦があるたびにそんなことを思っていた。

  私の笑顔を見れば頑張れるって言ってくれた人が居た。

 だから笑顔で居ようって思った。

  そんな笑顔を否定して、私が目指したかった天下を折った人が居た。

 だから弱い自分に泣いたことがあった。

「………」

 どれだけ強い人でも、一度も涙を流さずに強くなる人は居ない。
 それは本当の涙じゃなくてもいい。
 心の中で泣いて、表面では決して泣かない生き方もきっとある。
 その人はきっとそうやって生きてきて、私と雪蓮さんの目指したものに勝った。
 でも、と思う。
 ただ力だけを……本当に力だけを求め、振るうような人だったなら、華琳さんは何処にも辿り着けなかったんじゃないかなって。
 私が今、少しずつ自分を変えていけているように、華琳さんにも少しずつ、自分では気づかないくらいの速度で自分を変えてくれた人が居て、それがきっと……───

「天の御遣いかぁ……」

 お兄さんは謙遜しそうな気がするけど、あの華琳さんの生き方とか考え方を変えていくなんて、きっと他の誰にも出来ないよね。
 ……元からそういう考え方を持っていたのなら、別かもしれない。しれないけど、いつかの舌戦の時に言った言葉を、今の華琳さんは二度と言わないと思う。

  “私に従えば、もう殴られることはないと教え込む”

 そんな考え方をずっと変わらず持っている人が、下したばかりの相手に元の国を託すなんてことをする筈がないんだから。

「どんなふうに華琳さんを説得したのかな。一緒にいて、すこ〜しずつかなぁ」

 どちらにしろ凄い。
 華琳さんが自分で考えを改めた……とも考えられるけど、華琳さんって前言の撤回とか嫌いそうだし、自分が“こうだ”−って思ったら引き下がらないもん。
 うん、絶対にお兄さんが華琳さんを変えたに違いない。

「♪」

 なにせ自分も変わっていけている自覚があるのだから、凄いことなのだ。
 いっそのことずぅっと蜀に居て、ずぅっと前を歩いて引っ張ってほしいって思う。
 蜀に来てくれないかなーとか、でもでもお兄さんには華琳さんが居るしなーとか、いろんな考えがごっちゃごちゃになる。
 そこでハッとしてみれば、お兄さんのことしか考えていない自分を自覚して、嫌な気分どころかやっぱりくすぐったい気持ちのまま、通路を歩いた。

「お兄さんを蜀にかぁ……愛紗ちゃんや焔耶ちゃんに認められる男の人なんて滅多に居ないし、私もどうせ一緒に歩くならお兄さんみたいな……ううん、お兄さんが───…………わわわっ」

 考えが行き過ぎるのを止めるけど、もう遅い。
 耳の内側がチリチリ鳴るのを止めることは出来なくて、きっと自分は真っ赤になっているのだと自覚する。

「………」

 その上で、お兄さんは華琳さんのものだから、私は別の誰かと……と考えてみる。
 ……たまらなく悲しくて、嫌な気分になった。
 よく解らない誰かと一緒になることを前提にして歩きたくなんかない。
 いいな、華琳さんは。天下も、お兄さんも手に入れられて。

「……お兄さんを三国の父にすること、本当に決定したら…………一緒に歩けるのかな」

 ぽつりと呟いた言葉が、冷たくなり始めていた心に暖かさをくれた。
 支柱になりたいと言ったお兄さんの言葉……それを受け取った上で、そんなこれからをずっと一緒に歩きたい。
 一緒に居て暖かくて、一緒に居て楽しくて、一緒に居て頼もしくて……そんな男の人、初めてなんだ。だから…………だから……───

「…………そっかぁ……そっか、そっかぁ……」

 なんのことはない。
 私はやっぱり、お兄さんのことが───

「………」

 通路を抜けて、中庭が見える場所まで辿り着く。
 その欄干に手をついて、空を見上げながら深呼吸をした。

「お兄さん……」

 お兄さんの部屋に行こうと思っていたけど、このままじゃあきっとだめだ。
 顔、きっと真っ赤だ。
 胸が苦しいし、呼吸もおかしい。
 少し風に当たりながら休もう。
 そうすれば笑顔でお兄さんに会いに行ける。
 だからと、通路を逸れて東屋へと歩を進めた。
 変わらず、空を眺めながら。

「………」

 鳥が飛ぶ空を見て、思い出したのはお兄さんの歌。
 空を飛ぶ鳥のように、自由に生きる。
 自由って、どういうもののことを言うんだろう。
 王じゃなければ出来ないことがあって、でも王だと軽々しくできないことがある。
 私が悩んでいるのはつまりそういったもののことで……。

  ひゅおっ───

 風を切って影が飛ぶ。
 空を飛ぶ鳥を追うように、視界の隅から飛んだそれは、……あれ? 鳥……にしてはなんだか大きいような───ってお兄さぁああーーーん!!?

「え!? わ、え、えぇっ!?」

 振り向けば、どうしてかこっちに飛んできているお兄さん。
 視界の端に映ったものを正面から見据えて、どうすればいいのかを必死に考えて───

「《どぐしゃあっ!!》ふぴうっ!?」

 ……潰れた。
 なんとか受け止めようとしたんだけど、さすがに飛んできた男の人を受け止めるだけの力は、まだまだ養われてなかったみたいだ。

「ひたっ……ひたたたたっ……!!」

 身をよじる痛さのあまり、声調が高くなる。
 痛いって言ったつもりが「ひたたっ……」とおかしくなって、倒れた自分を起こそうとするけど───ぐったりと動かないお兄さんに圧し掛かられてて……んっ、んんん〜〜〜っ……だ、だめっ……重いぃい……!!

「お兄さんっ……おっ、重いぃい……って、わひゃあっ!?」

 お兄さんの下から自分の体を逃がそうとする中、ふと見たお兄さんの顔。
 表情というものがなく、眠っているわけでもなく、ただただ完全に力を失った冷たさがそこに……ひえぇええっ!? ししし死んでるっ!? 死んっ……あ、ああっ……大丈夫だ、息してるよ……!
 ただ……うーん、完全に気を失っているみたいで、呼吸以外の行動全てが止まっちゃったみたいにぐったりさんだ。
 ぐいと押し退けるように抜け出すと、お兄さんの体がごろりと転がる。
 仰向けになったお兄さんは完全に脱力していて、多分ちょっと見ただけでも“これは気絶してる”って解る。

「お兄さん? お兄さ〜ん……?」

 試しに頬をつついてみるけど、反応は全然なかった。

「?」

 そういえばどうして飛んできたんだろ。
 はたと気づいて、辺りを見渡す。……と、飛んできた方向の先から、大きな戟を手にじりじりと近づいてくる恋ちゃんが……!!
 え? え、ええ!? なんなのかなこの状況! おぉおおおお兄さんは恋ちゃんと戦ってて!? 恋ちゃんはお兄さんを吹き飛ばして!? 動かなくなったからととととととどめをぉおおっ!?

「だ、だめだめだめっ! だめだよ恋ちゃんっ! お兄さんが何をしちゃったのか知らないけど、それは───」
「……一刀、大丈夫?」
「───…………あれ?」

 引け腰ながらも、倒れたお兄さんの前に立って通せんぼをした私は、その格好のまま首を傾げた。
 大丈……あれ? とどめは? じゃなくて…………えっと。かんち……がい?

「〜〜〜〜〜〜っ……!」

 また、顔が熱くなるのを感じた。
 口からは自分でもよく解らない言葉が出て、なんか言い訳みたいなことを言ってる。
 対する恋ちゃんは首を傾げるだけで、「そういえばどうして戦ったりなんか」とか訊いてみるんだけど、恋ちゃんが答える前に別の話を口にしたりして、全然全く落ち着きがなかった。自分で言うのもなんだとは思うけど。

───……。

 少し経って、ようやく恥ずかしさを飲み込んだ頃には、私と恋ちゃんは東屋の傍の斜面で、お兄さんを挟んだ両隣に座り込んでいた。
 「東屋の椅子に座らない?」って提案してみたけど、そういえばお兄さんが居る。まさか円卓に寝かせるわけにもいかないし、そういう意味では芝生の上のほうが丁度いい。

「えと、つまり昨日お兄さんと戦えなかったから……?」
「《こくり》……戦った」

 ぐったりしているお兄さんに、“お疲れ様”って本気で言いたくなっちゃった。
 言っても届かないだろうけど。
 鈴々ちゃんの時もそうだったけど、お兄さんはよく飛ぶよね。
 男の人にしては軽いのかな。……や、それにしては重かったよ、うん。
 飛んできたからってだけかもだけど。

「お兄さん、強かった?」
「……構えるだけで、息が乱れてた」
「…………お兄さぁん……」

 ひどい筋肉痛だったに違いない。
 それでも武器を手にして立ったっていうことは……?

(ああ……)

 解る、解るよお兄さん……! 恋ちゃんにねだられると、断れないよね……!

「でも、不思議」
「不思議?」
「《こくり》……攻撃したら、……ん……受け止められた」
「………」

 ……?

「えっと。それは、痛い思いをしたくなければ受け止めるんじゃないかな」
「《ふるふる……》ん……手で」
「え───」

 それは痛そうだ。ううん、絶対に痛い。逆に痛いよ。
 どういうことなんだろう、手で受け止めるなんて。
 って……あれ? そういえば昨日、星ちゃんと戦ってる時も、槍の後ろのほうの、え〜となんていったっけ……い、いー……石突き、だったっけ? を、手で受け止めて……あれかな?

「斬ったらだめだって思ったから、棒の部分で殴った。そうしたら返されて……びっくりした」
「返されたって……?」
「これで恋、攻撃された。受け止めたら……地面、滑った」

 ひょいと持ち上げられるのは、お兄さんがいつも使ってる木剣(ぼっけん)。
 筋肉痛なのに、恋ちゃんを押し退けるくらいの反撃を……? お兄さん、無茶するなぁ。
 って……あれ? じゃあもしかして……?

「えとー……嫌な予感がするんだけど、もしかして……?」
「《こくこく》恋、男の人に押し退けられたの初めてだった。だから本気でいった」
「………」

 少し興奮した様子の恋ちゃん。目が爛々と輝いていて、こくこく頷くたびにすんすんと小さく鳴る可愛いお鼻が、その度合いを教えてくれた気がする。
 ……お兄さんが空を飛んだ理由は、そんな調子であっさりと明かされた。
 きっと、待てーとか言う暇も無かったんだろうなー。
 言ってたとしたら、私が欄干に手をついた頃あたりで聞こえてたと思うもん。
 それは気絶しちゃうよねー……ご苦労様です、お兄さん……。

(………)

 呼吸だけはしているお兄さんの髪に触れてみる。
 どんな戦い方をしたのか、汗に濡れている。
 えと、どんな戦い方もなにも、恋ちゃんと戦うってことがどれだけ大変なのかは解るつもりだから、冷や汗も結構混ざっているんだろう。

「いつ起きるかなぁ……」

 でも、少し都合が悪い。
 せっかく早めに仕事を終わらせられたのに、これじゃあ報われない……なんて思っているくせに、隣に座るだけでホッとしている自分が少し悲しい。
 単純なのかなぁ、私。

「………」
「……?」

 私がじぃっとお兄さんを見ていると、恋ちゃんも不思議がってお兄さんを見る。
 触ってみてもなんの反応も返らない人っていうのも珍しくて、なんとなく悪戯心が揺らされた。ふにふにと頬をつついてみたり、唇をなぞってみたり。
 恋ちゃんもそれに習うように、小首を傾げながらもムニィーと頬を引っ張ったり、閉ざされている目をパチリと無理矢理開いてみたり……って恋ちゃん恋ちゃんっ! それは怖いよっ! 白目だよっ!

「はぁ……いいや、私も寝ちゃおう」
「……《こくこく》……恋も」

 腰を下ろすだけだった体を寝かせる。
 お兄さんを挟んだ隣に居る恋ちゃんも、そうしてぱたんと寝転がった。

「………」
「………」

 ゆるやかな風が吹く。
 そういえば愛紗ちゃんが、鈴々ちゃんはよく木の上とかで寝ちゃってるって言ってたけど……寒かったりしないのかな。

(……でも、お日様気持ちいい〜……)

 少し眩しいけど、眠るには心地の良い風と太陽だった。
 そんな心地よさも手伝って、少し悪いことを考えた私は……動かないお兄さんの腕を動かして、それを枕にしてみた。
 ……うん。なんだか、“うん”って感じ。
 恋ちゃんもそれに習ってか、ごそごそと反対側で動いて……多分、同じように腕を枕にした。

「はぅー……」

 息を吐けば、心地よい空気が体を満たしていく。
 そんな暖かさに包まれながら、抵抗する理由もなく眠気を受け取り、意識を手放した。




ネタ曝しです  *だめだ話にならない、七乃はやる気だ  女神転生シリーズより、会話の中の一言。  “だめだ話にならない! ○○○はやる気だ!”とか。  悪魔に声をかけて、会話に失敗したあとにもう一度話し掛けてみる。  やんちゃな小僧口調の悪魔がよくおっしゃる言葉。だったはず。  *何を言っているんだお前は……  某PRIDEネタではないけど、一応。読み返してみて、アレ? と思ったので。  某PRIDE男祭りネタは、“おまえは何を言っているんだ”、です。  *魔法使い  30歳までアレだったら魔法使いになれる。  そんな噂を、お子様な時に聞いた気がしないでもないです。  今では私がおじいさん。孫は要らないからヴェルタースオリジナルが欲しいです。 Next Top Back