84/子猫の扱い方

 借りてきた猫は臆病である。
 稀に図々しくも走り回り布団の上で粗相をするものも居るが、大体は震えていたりする。

「〜〜〜……」
「………」

 この場合は恐らく後者。
 震え、睨むどころか“苛めるのか? 孫策のように苛めるのかの……?”といった感じで見つめてきている。
 ……なんだ、この沸き上がる保護欲は。
 どんな脅し方をすれば、ここまで怯えられるのか。

「よしっ」
「《びびくぅっ!》ひうっ!?」
「あ」

 まずは自己紹介でもと口にした、小さな掛け声にすら盛大に怯え、ぎゅむと布団を握る袁術さん。なんか違う気がしてきた。小動物でももっと自信持ってる気がする。

「え、えー……まずは自己紹介からな? 俺は北郷一刀。姓が北郷で、名が一刀」
「〜〜〜……」

 怯えてらっしゃる。
 目には涙が滲み、今にもこぼれそうだったりして……え? 俺、自己紹介で泣かれるなんて初めてなんだが……?
 まずい、泣かれるのはまずいだろ。

「あーえっと、生憎と字も真名もなくてさ。これが俺の名前なんだ。たまに誤解されるけど、教えたくないから字を言わないとかそういうんじゃないんだ」

 わたわたと身振り手振りで伝えるんだが、その動作にすらびくりと肩を振るわせて───だぁあーーーっ!! 雪蓮! 怯えさせすぎだ! いろいろと指図されてて恨みがあったのは解るけど、ここまで人に怯えてるようじゃ、ストレスでどうにかなっちゃうだろ!
 考えろ、怯えさせず、かつ平穏に寝台を使用する方法を!

1:俺が机で寝る

2:俺が床で寝る

3:問答無用で布団に引きずり込んで寝る

4:動物的降伏ポーズで警戒を解きつつ、訴えかけてみる

5:ここは余の部屋ぞ! 無視して普通に寝るに決まっておろう!

 結論:3、4、5は却下したい。特に5。

 ……マテ。
 それだと俺が布団で眠れない。
 怯えさせずに平穏に寝台を使用する方法だってば。

1:なんとか説得して一緒に寝る

2:なんとか説得して床で寝てもらう

3:問答無用で気絶させて一緒に寝る

4:魏国魂に則り、力で捻じ伏せて寝台を得る

5:ここは余の部屋ぞ! 余の部屋を我が物顔で利用する者め! 失せるがよい!

 結論:3、4、5は絶対にない。特に5。

 ……普通に考えような。
 もう1でいいだろ。
 でもこの様子じゃあ説得も届くかどうか……。じゃあ……?

1:遠くからじっくりと警戒心を解く。主に食べ物で釣って

2:むしろ近づいて危険は無いことを教える

3:七乃に任されたんだと語りかけてみる

4:全裸になり、傷つける武器が無いことを教える

5:ここは余の部屋ぞ! 余の(略)

 結論:……だめだこれ。

 何が好きなのかは、そりゃあ七乃が自慢気に話していたから知っている。
 が、それで釣るだけじゃあどうにも弱い。
 蜂蜜だけ舐めて警戒は解かない可能性が高すぎる。だからといって無遠慮に近づいてしまえば、雪蓮が部屋を荒らしてしまったのと同じ結果になるに違いない。
 七乃に任されたと正直に話しても、任されたからそうするって接し方じゃあ心は開いてくれない気がするんだ。全裸は当然却下として、5は落ち着こう。

(だったら……あ)

 そうだ、鍛錬。
 いつか明命に氣の応用のことを聞いていた時に、やってみたことがあった。
 それは、氣で相手を包み込むイメージ。
 それを以って、自分には敵意がないことを教えられないだろうか。

(丁度自分の氣を何かに模す練習をやってたところだし、いいかもしれない)

 そうと決まればと、集中を開始する。
 たしか……部屋全体を自分であるようにイメージして……。

(相手を囲う建物。部屋。日々の象徴……)

 当然としてそこにあるもののように、“無”ではなく“有”として……相手を包み込む。

「《びくっ!》ふゎうっ!? な、なんなのじゃ!? なん……ふ、ふくっ……えぐ───ななのぉ……七乃! 七乃ーーーっ!!」

 ……やってみたら、謎の感覚にとうとう泣き出してしまった。
 あ、あれー……? 上手くいくと思ったんだけどな……じゃない、それよりも泣き止ませないと───と近づいた途端、

「ひうっ!? ななななにをする気じゃ!? 近づくでなぃいいっ!! 妾はっ、妾はお主に何もしてないであろーーーっ!!?」

 物凄い怯えられ様に、体が自然と立ち止まった。

(…………うん、無理)

 天井を仰ぎながら、笑顔でそう思った。
 警戒レベルが異常だ。
 雪蓮に華琳、他のみんなも、面白がって苛めたりしたのだろうか……。

「……解った、近づかない。ただ、俺はさ、袁術。キミにひどいことをする気はないよ。それだけは───」
「どうせそれも嘘なのであろ……? 皆でよってたかって妾で遊んでおるだけなのじゃ」
「あー……皆が何をしたのかは知らないけどさ。約束する。誓ってもいい。ひどいことはしないし、そんなふうに怯える必要がないよう、出来るだけ守ってやる」
「…………どうせ嘘なのじゃ。そうしてお主が何を得すると言うのじゃ」

 ああもう……物凄く疑り深くなってるじゃないか……。
 でも、そうだな。得、得ねぇ……。

「得か。袁術と仲良くなれるじゃないか。理由なんて、それだけでいいんじゃないか?」
「…………つまりお主は妾に仕えたいと申しておるのかの?」
「断じて違います」
「やはり嘘だったではないかーーーっ! いつもいつもそうなのじゃ! そうやって妾の心を弄んで! 影では笑っておるのであろ!?」
「あぁもう違う違う! まずは落ち着きなさいっ!」
「《びくぅっ!》ひうぅうっ!? ゆゆゆ許してたも! 許してたもーーーっ!!」
「………」

 前略、華琳さん、雪蓮さん。
 あんたらいったいどれだけこの子のことを苛めたのさ……。
 ちょっと強めに言って近づいただけで、頭庇うようにして屈み込んじゃったぞ……?

「…………《カリ……》」

 眉を顰めて頬をひと掻き。
 氣では依然袁術を包み込んだまま、怯えているうちに寝台の傍までを歩く。
 丁度、袁術とは寝台を挟んで向かい合うかたちになった。

「……袁術。いきなり……あぁ、その。語調を強めたりして悪かった……って、おかしな言葉になったような……まあいいや。でもな、袁術。本当に、俺はお前にひどいことをするためにここに居るんじゃないんだ。ここは俺の部屋で、でも袁術はここを自分の部屋にして過ごしてるって聞いた」
「〜〜……そ、そうか、つまり妾を追い出しに来たのじゃな……?」
「追い出さない」
「い、苛めると申すのか……?」
「苛めない」
「ならば……ならばぁあ……!」

 返される言葉の一つ一つに、やさしくやさしく答えていく。
 叫ぶことはせず、ゆっくりとでいいから、彼女に安堵が戻るように。
 なにせこの国、この城でずっと過ごしてきたんだ……魏国の王と将、そして呉王の性格を考えるに、苛められていないとは考えにくい。
 質問の内容から言って、追い出されもしたし苛められもしたんだろうけど……それも終わりにしてやらないと。というか、もうそれをする理由もない……と思いたい。

「では、お主はいったい何が目的で妾に構うというのじゃ……?」
「だから、さっきも言ったじゃないか。袁術と仲良くなれる。それだけが目的だ。寝台だって使えばいい。部屋にだっていつでも来るといい。だからな、袁術」

 恐る恐る、頭を守っていた手をどかし、俯かせていた顔を上げて俺を見る袁術。
 そんな彼女へと寝台越しに手を差し伸べ、きちんと口に出して届ける。

「俺と、友達になろう?」

 思い出深い場所、かつてのままで置いておかれただろう部屋を荒らされた辛さっていうのはある。行方不明になっていた人がようやく帰れて、変わらない部屋に安堵することだってあるだろう。
 そういったものを荒らされ、まるで───遠くから帰郷してみれば、自分の部屋が乱雑な物置にされたような心境を味わっても、怒るよりも差し伸べたい手がある。

「ともだち……? 妾に仕えたいわけではなくてか……?」
「そ。立場とかそういうのを気にしないで、手を繋いで仲良くしよう」
「立場……? ……お、お主は……」
「うん?」
「……城に紛れ込んだ町人ではないのかや……?」

 ドゴォッ!

「ひうぅっ!?」

 盛大にズッコケた───拍子に寝台の角に頭をぶつけ、地味に悶絶。
 その蠢く物体(俺)を見て、手を伸ばすどころか怯え始める少女が。
 頭の中に本末転倒の四文字が浮かんだ瞬間である。

「あ、〜〜〜───すぅ……はぁ……うん」

 あのなぁ……と思わず力を込めて言いそうになるのを、深呼吸で落ち着かせる。
 怯える子に怒りを持ったらいけないだろ。穏やかに、穏やかに。
 氣で包んでいるっていうのにそれを怒りの色に変えてしまえば、また泣かせてしまう。

「……えっとな? 俺は、この魏国で警備隊の隊長をやってて、天の御遣いとか言われてるんだ。以前、三国が集まった宴の時に華雄と戦ったんだけど……覚えてないか?」
「……? …………、……覚えておらぬの……」
(《がくっ》……だと思った)

 戸惑いの顔で言う袁術に、さすがにがっくりくる。
 遭遇して早々に“なんじゃお主は”だったもんなぁ……そりゃ、覚えてないよ。

「ただ……そうじゃ、“かずと”のことならば知っておるぞ……? 孫策が、“かずと”には恩があるから、そやつが三国に降れと言ったからには、もう妾が悪さをしない限りは脅しもせぬと……」
「………」

 そりゃあまあ、賊まがいのことを普通にやるような子供が相手なら、脅したくもなるだろうけど。ちょっとやりすぎじゃないか? 雪蓮さん。

「お、お主がその……一刀、かや……?」
「ああ、一応。じゃあもう一度だ。名前は北郷一刀。この魏で警備隊の隊長をやってる。字や真名って風習がない、天から来た」

 はい、と促してみる。
 すると、目をぱちくりとさせたあとに───あ、と口が動き、

「袁術……妾は袁術、字は公路じゃ。か、河南を……〜〜……なんでも、ないのじゃ……」
「……そっか。よろしくな、袁術」

 ようやく名乗ってくれたことを喜びながらも、役職の話をしたことを少し後悔した。
 同じく現在の自分の立場を語ろうとした袁術が、顔を俯かせてしまったのだ。
 でも、それはちょっと違う。だから後悔は少しだけで、改めて手を差し伸べた。

「……? この手はなんなのじゃ……?」
「言ったろ? 立場なんて気にしないで、手を繋いで仲良くしようって。俺は袁術がどんな立場に立ってたって気にしないし、仲良くしたいって思ってるよ」
「……ぅ……」
「怖がってばかりじゃ笑えなくなるよ。俯いてたら前は見えない。だから、そんな怖さなんて隣の誰かに分けちまえ。分けて、笑ってみれば、俯く理由なんて無くなるからさ」
「…………〜〜……う、嘘であろ! 嘘なのじゃ! 孫策の知り合いが妾に甘い筈がないのじゃ!」

 しかし差し伸べた手は拒絶とともに叩かれ、次の瞬間には袁術は怯えた顔になる。
 俺が寝台を回り込み彼女へと近づいたからだ。

「ひっ……す、すまぬのじゃっ……許してたもっ……! 叩くつもりはっ……ひくっ……七乃、七乃ぉお……!!」

 それだけで彼女は壁と寝台の間で縮こまり、泣き出してしまった。
 ……怯えすぎだろうって安易に思ったこと、取り消そう。
 桃香にも言ったじゃないか、“自分一人が魏国に招かれて、魏の将全員に囲まれる自分を想像してみてくれ”って。この子がここでずっと感じていたのは、そういったものだ。
 しかも七乃がああで袁術がこんな性格では、七乃に頼りきりだったのは言うまでもない。そんな頼る相手もおらず、恐怖の対象らしい雪蓮までもが遊びに来るとなれば、ここまで怯える理由も解る。
 ───でも。こうして手を叩かれ、近くに寄ったからって、叩き返す気も苛める気も最初からありはしない。

  ただ傍らに静かに屈み、いつか自分がそうされたように、その頭をやさしく抱いた。

 震える体に触れた瞬間に暴れられ、振り回された手で頬などを殴られても動じることはしないままに、涙に濡れる顔を胸に抱き、やさしくやさしく頭を撫でる。
 氣で包み込んだまま、己自身でも包み込みながら。

「……大丈夫、怒ってないよ。許すし、袁術が泣くことなんてない」

 それでも暴れる。
 自分だけだと閉じこもっていた殻に入ってきた者を追い出さんとして。
 それでも撫でる。
 だったらその殻の中にだろうと手を伸ばして繋いでやると……半ば意地になった子供のように。
 袁術が落ち着くまでずっとそうやって、敵意を混ぜない氣で包み込み、撫で続けた。





85/落ち着きの無い二人

 ……朝が来た。
 大して疲れが癒えない体で伸びをして、そのまま寝台の上の袁術を見やる。
 結局、落ち着いてはくれないままに泣き疲れて寝てしまった少女。
 その傍へと体をほぐしながら歩み寄り、頭をやさしく撫でる。

「いちち……! い、椅子で寝ると、やっぱり関節によくないな……!」

 ミキベキと乾いた音が鳴る。
 寝てしまった袁術に寝台を提供して、自分も……とは思ったものの、目を覚ました時に余計に警戒されても困るってことで、机と椅子で寝ることになったんだが……体によくない。

「体操でもしてほぐしたいけど……はぁ」

 さすがにようやく寝てくれた子の傍で体操をするわけにもいかず、まずはといつも通りに部屋を出て、厨房へ。
 乾いた喉を乾かすために水を貰い───ここどこ?

「………」

 …………おや?

「うわしまった! 蜀に居るつもりで歩いてた!」

 厨房とはまるで逆の場所に立っていることにたった今気がついた。
 どうやら頭が上手く動いていないらしい……なにせ寝不足。

「厨房はこっちだったな、はは、ははは……」

 蜀での暮らしが長く、しかもどこへ何歩歩けばいいのかも体に叩き込んだほどだ。
 知らずに蜀での動きをしていた自分が少し恥ずかしい。

(だ、誰にも見られてないよな?)

 視線をあちらこちらへ動かすと丁度中庭が見えた。
 そこには静かに鈴音を振る思春が居て……俺を見て、溜め息を吐いていた。
 あ……ウン、見られてたね、絶対。
 さらに言えばどうしてそうなったのかも見透かされている気がする。

「おはよー、思春」

 誤魔化すように言ってから、恥ずかしさのあまりに走り出した。
 通路を駆け、厨房に滑り込み、水を貰って喉を潤して。それから恥ずかしかろうが軋んだ体をどうにかしたくて、結局は中庭に戻って朝の体操。
 思春は……気を利かせてくれたのか、居なくなっていた。

「……考えてみれば、慣れたもんだよなぁ」

 思春が隣に居るのが当然みたいになっていた。
 部屋に戻ればいつも通りに思春と寝る、みたいになっていたくらいだ。
 それが今回は寝台を袁術に提供し、机に突っ伏して寝るってことになって……うーん、本当になんとかしてやらないとな。

「んっ、んっ……ん〜〜〜〜〜っ……!」

 体操を終え、最後のしめに大きく伸びをした。
 体がグゴゴゴゴと伸びる感覚とともに、残っていた眠気が多少解消される。

「……よしっ、じゃあ今日も頑張りますかっ」

 久しぶりの魏での仕事に胸が躍る……! やる気に漲る今の俺なら眠気にだって負けやしないっ! 帰ってこれた……帰ってきた! 今から俺は、国のために生き国のために死に、だがしかしせめてその場に居る時だけはその国のために尽力する修羅と化そう!
 あ、でもちゃんと華琳に復帰すること言っておかないとな。
 昨日はなんだかんだで騒ぐだけ騒いで解散になっちゃったし。

「警備隊のみんなにも謝らないとなぁ。これからはまた一緒にって言っておきながら、結局は呉、蜀って回ることになったんだ」

 我ながら要領が悪い。……我だから要領が悪いのか?
 あっはっはっは、まだ頭がちゃんと覚醒してないみたいだ。うまく回転しない。
 でも大丈夫! 努力と根性と腹筋でなんとかする!

(ただいま……ただいま魏の国よ!)

 荒ぶる魏国への愛を胸に駆け出した。
 恐らく華琳は俺なんかより早く起きて、俺なんかより難しいことを平然とこなしている。
 朝っぱらに乗り込んであーだこーだ言うのは迷惑かもしれないが、報告は大事だ。
 判断を仰ぎに行くわけじゃないから、大丈夫……だよな?


───……。


 そして、華琳の自室へ。
 相変わらずの整った部屋に通されると、嫌でもビッと伸びる背筋が少々くすぐったい。
 そんな中を進み、左手で頬杖を、右手に書類をと、見るだけだとつまらなそうにしている彼女に声をかけた。
 そう、かけたんだ。今日から仕事に復帰するよと。
 そうしたら……

「仕事? 無いわよ」

 ちらりと視線を向け、小さく一言。
 その一言は確かに小さな一言だったが、俺にとってはとても大きな一言であり、俺の思考回路を混乱させた。

「……エ? し、仕事がないって……」
「当たり前でしょう? 一刀、貴方自分がどれだけ魏を離れていたのか解っているの?」
「───あ」

 しまった、冷静になれば解りそうなことだった。

「あ、あー……そうだった。俺、魏でどういうことが起こったかとか知らないし……」
「そういうことよ。まずはそれらを頭に叩き込んでから出直しなさい。纏めなければならないものも随分残っているから、ついでにそれも片付けて頂戴」
「うえぇっ!? だ、誰かが代わりにやっといてくれたりとかはっ……!」
「迅速に解決する必要があるものだけは処理してあるわよ。だから、そういったものも自分の目で確かめて、きちんと処理しなさいと言っているの。……貴方が残した“めも”には様々なことが書いてあったわよ。これが天の知識かと感心するものも随分と。お陰で随分と助けられたけれど……書き方が悪いわね。残したものすらきちんと整理されていない。肝心の“どうしてこうなるのか”というものが詳しく書かれていなかったの」
「うっ……そうだったか? 一応、渡す前に確認したんだが……」
「お陰で私しか正確に受け取れなかったのよ。片手間に桂花や稟や風に見せたところで、“どうしてこのような考えに向かうのか”を私に訊きに来る始末。特定の者しか受け取れないようなものを残されても困るのだけど?」
「………」

 それでも華琳には理解できたようだ。
 少し、ほんの少しだけ胸がキュンとした瞬間だった。

「それは、ごめん。でも華琳には解ったんだろ?」
「……一刀の考えそうなことくらい想像がつくわよ」
「そっか」

 顔がニヤけていくのを止められない。
 そんな俺を見た華琳が睨んできたところで、なんとかニヤける顔を引き締めて頷く。
 対する華琳は書類を纏めると竹簡を手にし、カラカラと広げていく。

「じゃあ今日は書類整理に励むな。忙しいところ、悪かった」
「構わないわ。それよりも一刀」
「ん?」

 出て行こうと踵を返したところで呼び止められる。
 何事かと軽く身構えてしまうのは、正した姿勢の先に居る女性をよく知るが故だろうか。

「……どうしてわざわざ身構えるのかしら?」

 こんな小さな動作でさえ見破るお前だからだが。とは言わない。
 まあまあと軽く濁して先を促してみれば、訊ねられたのは袁術のこと。

「あー……大変だった……じゃないな、大変だ。怯えようが異常だよ」
「あらそう、一刀でも梃子摺るのね」
「軽く言ってくれるなよ……ストレスでどうにかなっちゃいそうだったぞ?」
「すと……?」
「精神的な疲労とか、そういうこと。心を許せる相手が居なくて、人が近づくだけで泣くほどだ」
「……そう。それで? どうにかなりそうなの?」
「ん……どうにかするよ。とりあえず今日は一日中、一緒に居てみるつもりだ」

 さすがにあのままだと、いつか精神がパンクする。
 今日一日で多少の警戒心を解いてくれればいいけど。

「そうだ。袁術って食事とかはどうしてたんだ? ストレスがひどいと食べ物が喉を通らないって聞くけど」
「近づくと怯えるものだから、一刀の部屋の机の上に置いていくのよ。一応食べるわ。好き嫌いが多くて困るけれど」

 言い終えると同時に溜め息をこぼし、カロカロと丸めた竹簡を脇に積むと、改めて俺を見る。

「心配ではあるんだな」
「城の中で餓死者なんて笑い話にもならないわ。妙な邪推はいいから、貴方はさっさと仕事をしなさい? それとも張り切るのは呉と蜀だけで、魏では精力だけに熱心な怠け者に戻るというの?」
「戻るとか言わないっ! 仕事はちゃんとするって! じゃなきゃ復帰報告なんてするもんかっ!」
「なら結構よ。せいぜい張り切りなさい、一刀」
「……りょーかい」

 結局のところ、どれくらいぶりに再会したって俺の扱いは変わらないんだなと理解した。
 まあそうだよな〜……華琳だもんなぁ。
 最後にちらりと、新たな竹簡に手を伸ばす華琳を……ってあれ? その竹簡、さっき見てなかったか?

(…………気の所為か)

 なんだかそわそわしている気もする。
 指摘したらしたで否定されそうだし……ここで黙っていても邪魔になるしな。
 よしっ、じゃあ必要な書簡を揃えて自室に戻るかっ!

「俺が纏める必要がある書簡って、ここにはないよな? 隊舎の方か」
「凪に管理してもらっているから、そのことに関しては凪に訊きなさい」
「そっか」

 華琳も把握してるんだろうけど……忙しいんだろうな。
 踵を返そうとした時に、カタンと丸められた竹簡が積まれた。
 そして華琳に背中を向けた時には、その背中に強烈な視線。
 振り向いてみると、竹簡を見る華琳。

(?)

 気の所為か? 気の所為だな。

「じゃ、頑張ってくる」

 言い残して部屋を出る。
 後ろ手に扉を閉めるまで、ずぅっと視線を感じていた気がするんだが……特に何も言われたりはしなかった。

「気にしすぎかなぁ……」

 久しぶりの我が家(?)に興奮しているのかもしれない。
 歩き出そうとするが、“このまま残って華琳と話をしていたい”なんて欲に飲まれそうになり……なんとかそれを押し込めて歩き出す。
 復帰初日からサボるなんて、さすがに隊長職の名が泣く。
 もう散々泣いているとかいうツッコミは勘弁だ。



-_-/華琳

 カロ……カシャッ。

「…………」

 もう何度目になるか解らない竹簡を見下ろし、丸めて積んだ。
 喉が渇いている。
 水が欲しいが、部屋から出る気にはなれなかった。

「……〜〜〜〜……ああ、もう……」

 顔が熱い。
 絶対に赤面している。
 何故? この曹孟徳が、一人の男を前にしただけでこんな無様な……。
 大体一刀も一刀だ。こんな朝早くから訊ねてきたかと思えば仕事の話で、こちらを気にかけもしない。言いたいこと訊きたいことを終えればさっさと出ていってしまった。
 私も私だ。出て行こうとするたびに呼び止めようとして、呼び止めたところで何を話すつもりだったのか。

「…………証は立てられたわ。それでいいじゃないのよ……」

 一刀は私のものだ。
 血を証に立て、それを吸った絶を私が所有している。
 けれど足りない。
 何が足りない?
 そんなものは決まっている。
 所有物なのに一番近くにソレが無い。
 けれどそこで“待って”の一言でも出してみなさい、私は一刀の仕事の邪魔をすることになる。
 私は雪蓮と桃香になんと言った?
 非道な王ならば討てと。私事を優先し、民を守る仕事を後に回す王は、王として然であるか? あるわけがない。

「戻ってきたらきたで、落ち着かないわね。どこまで人の在り方を乱せば気が済むの、あの男は」

 八つ当たりなのはよく解っている。
 けれどこうして私だけがもやもやしているのは不公平だ。
 大体なんなのよあの態度は。
 もっと一刀の方からせまって来れば、私ももっといい気分で……。

「……仕事が足らないわ」

 既に新規に出されたものなど処理しきってしまった。
 足らない、足らないのよ……! もっと意識を一刀から逸らせる何かが必要だわ……!

「早く仕事を片付けなさい一刀……! そうしたら……!」

 そうしたら。
 この行き場の無い気持ちのぶつけどころが、ようやく出来るのだから。

「……はぁ……することが無くなったわ。まったく、何を望んでこんなに……」

 来る案件来る案件、最善を最速で選び、決定を下す。
 空いた時間は当然のように別の仕事を片付け、いつでも手を空けることが出来るようにと準備をしてきた。それがどういった準備なのかといえば……口にするだけ無駄なことだ。

「蜀に乗り込めば、呆れるほどに仕事があるのでしょうけど……」

 笑顔の蜀王の姿を思い浮かべ、口角を持ち上げた。
 立てていた頬杖を、竹簡をいじっていた手と一緒に持ち上げ、少し伸びをする。

「退屈は敵ね。少し歩きましょう」

 顔の熱が引いたのを確認してから、誰にともなく呟き歩く。
 部屋を出てからはほぼ一直線に厨房へ入り、茶器を手にして。
 向かった先は…………あの男が居なかった間もほぼ毎日訪れていた部屋だった。
 どうせまた散らかされているのだろうから、美羽を追い出してからは掃除だ。
 一刀が既に書簡を持って戻っていたなら、茶を注げと命令でもしよう。
 不味かったら当然、美味くなるまで淹れさせる。

(……所有物の部屋を掃除する王なんて、誰にも見せられないわね)

 そういえば、雪蓮に見つかってしまった時は大笑いされた。
 あれは屈辱以外のなにものでもなかったが……今はそんなことはどうでもいい。
 まずはノックをして、中の反応を伺う。
 反応は……無しだ。寝ていたりするのかしら。
 しかし鍵はかかっていないようなので、遠慮も無しに中へと入った。




-_-/一刀

 ……意思の弱い自分をどうかお許しください。
 そんな誰に向かって言ったわけでもない懺悔が、心の中で轟いた。
 あとはノック。反応を伺い、返事が無いことを確認すると少しだけ中を覗いてみる。

「華琳〜……?」

 もしかしたら寝ているのかもと思ったが、朝なのにまた寝ることもないよな。
 予想通りに、覗いた部屋の中は(もぬけ)の殻。
 せっかくだから華琳と一緒にと思ったんだけどな……何処行ったんだろ。

「……ふむぅ」

 袁術と一日一緒に居てみると言っておきながら、書簡を持ってここに立つ自分が空しくなる。誰も居ないとなれば余計だ。

「ここでこうしていても仕方ない。部屋に戻るか」

 いかんいかん、華琳もどこかの視察に出たのかもしれないんだし、気を引き締めよう。

「ていうか……袁術のことほったらかしでわくわく気分でここまで来たりして……。自分ばっかり華琳のこと思ってるみたいで恥ずかしいな……」

 うん、よし、仕事を頑張ろう。
 っとそうだ、袁術。あれだけ泣いてたんだから、起きたら喉が渇いてる筈だ。
 厨房に行って茶器……は渋いか。“袁術は蜂蜜が好き”って話を昨日思い出したばっかりだが、昨日の今日でいきなり蜂蜜で気を引くのか? いやいや、喉を潤してやるだけだって。でも潤すだけなら水でもいいしな。

「水でいいか」

 いざ厨房へ。
 急ぐでもなく通路を歩いて、景色を懐かしみながら進む。

(はぁ〜……魏だ……。当然のことだけど、魏だなぁ……)

 帰ってこれたんだなぁ本当に。

「…………はっ! たはは……景色を見てる筈が、華琳ばっか探してる」

 本当に、まるで恋する乙女だ。
 落ち着こうな、仕事だ仕事。

「ふ〜んふんふんふんふ〜〜〜〜……ん?」

 再び魏を歩ける喜びを鼻歌に託していたら、模擬戦(?)をする霞と華雄を発見。
 中庭でガンゴシャガンゴシャと得物を振るい、ぶつけあっていた。
 そういえば霞が模擬戦してるところってあんまり見なかったよな。
 ……ちょっとくらい寄り道してもいいかな?



-_-/華琳

 …………来ないわね。

「何処で何をしているのかしら、あの男は……」

 一刀の部屋の椅子に座り、茶器は机の上に乗せたまま、ただ冷える時を待っていた。
 せっかく熱いお湯を用意させてもこれでは意味がない。
 ……まあ、熱すぎてはお茶の風味も無駄になるのだけれど。

「丁度いいのは今なのよ……さっさと戻ってきなさいよ、もう……」

 いらいらする。
 もやもやする。
 これを解消させたくて歩いたのに、どうして私は歩いた先でもやもやしているのか。
 ちらりと視線を動かしてみれば、一刀の布団にくるまってくーすー寝ている美羽。
 あの子が荒らすようになってから、この部屋からは一刀の匂いが消えた。
 それに気づいた時は随分ときつく注意をしたのだけれど……懲りない者も居るものだ。
 注意をして追放したところで、悪戯をしに戻ってきたと言っていた雪蓮の言葉も、あながち嘘ではなかったようだ。

「はぁ……このままじゃ埒が空かないわ」

 椅子から立ち上がって部屋を出る。
 何処かでサボっているようなら耳を引っ張ってでも連れ戻す。
 もう待つのはうんざりだ。恋する乙女なんて冗談じゃない。
 私は欲しいものは必ず手に入れるのだ。それは既に所有物であるものだって変わらない。
 邪魔をしなければいいのよ、茶を一緒に飲むくらいで邪魔になる程度の集中力なら、それは一刀が悪いのだから。




-_-/一刀

 笑顔で手を振る霞に別れを告げ、すっかり堪能した模擬戦を思い返しながら歩く。
 いやぁー凄かったなぁ……急に勢いづいた霞もそうだし、それに対抗する華雄も。
 よくあんな攻撃を防いだり返したり出来るもんだ。
 俺なんか、避けたり氣で受け止めたりしなきゃ、まず無理だ。

「いいものも見れたし、仕事に集中出来そうだ〜♪」

 見ていた場所の所為で少し遠回りになったけど、どっちにしても部屋には着くんだし気にしない気にしない。
 そんなわけで辿り着いた自室の扉をゆっくりと開け、中の様子を見ながら入る。

「袁術〜? 起きてるか〜? ……あ、まだ寝てるな」

 誰も居ないのに口の前に人差し指を構え、し〜……と声を小さくする自分が居た。
 そんな些細なことにくっくと笑みをこぼしながら───はうあ! 水貰うの忘れた!

「仕方ないな、書簡置いたら厨房に……おおっ?」

 どういうことか机の上に茶器が!? しかもお湯付き!?
 私はあまりの出来事に大変驚きました。

「誰かが気を利かせてくれたのか? ……うわ、お湯も適温じゃないか」

 今淹れるのが丁度いい。
 丁度器も二つだし、お湯がぬるくなる前に淹れちゃうか。

「こういう時はじいちゃんに習ってよかったな〜って思うよな〜」

 俺じゃあ白蓮みたいに天の味(普通の味)は出せないけど、あくまでこっちの普通なら出せる。白蓮のそこらへんの腕はどうかしてる。いい意味で。

「袁術は……はは、気持ち良さそうに眠ってら」

 多少の口調崩れも気にしない気にしない。
 美味しいお茶を作るなら、作法よりも茶を楽しむ心ってね。
 そうこうしているうちに、器二つに注いだ茶の片方を飲む。

「……ん、いい出来」

 満足いく出来に笑いながら、まだ起きない袁術を再び見やる。
 寝ている時は怖がったりはしないのになぁ……ストレスが続くと魘されたりとかもあるらしいけど、そこまでひどくはないことにとりあえず安心した。

「うーん……でもいくら美味く淹れられても、袁術がお茶が苦手だったら意味ないよな」

 やっぱりここは水だろうか。
 ……だな。よし、ちょっと行ってもらってこよう。



-_-/華琳

 〜〜〜……まったく、うろちょろうろちょろと……!
 ついさっきまでそこで模擬戦を見ていた? 仕事はどうしたのよ仕事は!

「これで居なかったらどうしてくれようかしら……ふふ、ふふふ……」

 もやもやが頂点に達しようとする現在、霞の言葉を受けてそのまま一刀の部屋へと向かった。これで居なかったらさすがに我慢の限界だ。
 仕事はどうしたとかそんなことは後回しにして、とりあえず蹴りのひとつでも入れたい。

「一刀、仕事もせずに今まで何処に───!」

 だから、扉を乱暴に開けた先で声を大にして───……相手が居ないことを確認したわ。

「…………」

 なんだかどっと疲れが押し寄せてきた。
 いっそ机に突っ伏して寝てしまおうかと思うくらいの疲れが。
 けれど目を向けた机には書簡が乗っており、確かに戻ってきたらしい痕跡が、……?

「?」

 茶が淹れられていた。
 ご丁寧に、二人分。
 一つは多少飲んだ跡があり、片方は淹れたばかりといった様子だ。

「………」

 不思議なことに、たったそれだけで……もやもやが消え失せてしまった。
 手に取って飲んでみれば、ほんの少しだけ冷めてしまっているとはいえ、美味しいと解る味が喉を通っていった。

「………」

 意外だ、こんな特技があったなんて。
 淹れ直させることは……まあ、少々難しい。
 ただ、人が熱い状態で持ってきたものを冷ましてしまうのはいただけない。
 それについてはきっちりと仕置きが必要だ。

「《コクッ》……ふぅ……」

 椅子に座り、座る前に置いた器とは別の器を手に取り、傾けた。
 手に取ったのは量の少ない茶だったけれど、そんなことはどうでもいい。
 椅子に座ると丁度いい場所にあったんだもの、仕方が無いでしょう?

「……静かね」

 鳥の声に紛れ、時折に霞と華雄の声が聞こえる。
 それくらいだ。
 あくまで穏やかな空間で、自分はゆっくりと息を吐いた。
 こんなにも落ち着けるのはどれくらいぶりだろうか。
 なにかというとあの男の所為でもやもやさせられたというのに、あの男の茶一つでそれが落ち着く自分が少々情けない。
 
「…………」

 しかしここに来て疑問点。
 これは本当に一刀が淹れた茶なのかと……《バタム》

「ふんふんふふーん♪ って華琳!?」
「ひっ……!?」

 心の準備も無しに開けられた扉から、頭の中を占めていた男が現れた。
 瞬間的に顔に熱が溜まるのを感じる。

「なっ……な、ななななんだ、こっちに来てたのかっ? 自室に居ないからてっきり───じゃなくていやいやなんでもない! 仕事しようとしてたぞ!? あぁそのお茶さっき淹れてみたんだけどどうだ!? わはっ、わはははは!?」
「………」

 自室に居ないから? ……ということは───……

「すぅ……はぁ……、───……? 華琳? どうしたんだ、にやけたりして」
「!! な、なんでもないわよっ!!」
「おおうっ!? なんだか知らないけどごめんなさいっ!? って華琳華琳、しー……!」
「な、なによ……! ───?」

 一刀が私を探していたらしい事実に、不覚にも顔が笑んでいたらしい。
 指摘された恥ずかしさを誤魔化すために自然に出た叫び───それに対して、一刀が口に指を当てて静かにと促す。
 視線で促された先には暢気に寝ている美羽。

「《ひくり》……おめでたいわね。部屋を占領する者の安眠が大事?」
「? 別に、居て困らない人なら誰でも歓迎するぞ? 華琳も休める時間があるなら是非そうしてほしいし」
「是非?」
「へ? あ、いやー……───ああ、是非。白状すると、凪から書簡を受け取ってから、一度華琳の部屋に戻ってたんだ。華琳と一緒に仕事出来ないかなーとか考えて。袁術と一日中一緒に居てみるって言ったばっかりだったのにさ」
「…………そう」

 再び熱が顔に集中するのを感じた。
 なんだというのよ、まったく。
 つまり探し回ったのは一刀も同じで、その過程で模擬戦を見たりしていたということ?

「昨日はみんなに捕まってたからさ、華琳とはゆっくり話せなかったし。華琳さえ邪魔じゃあなければ、仕事をしながら話が出来ればなぁと」
「今なら時間はあるわ。そこらへんの問題はどうということもないけれど……問題は、一刀が仕事をしながら別のことに意識を向けられるかでしょう? 話に夢中になりすぎて、結局さぼることになるなんて許さないわよ」
「うぐっ……ぜ、善処します」

 言った途端に一刀の顔が赤くなり、俯く。
 ちらちらと机と私を交互に見て───、……っ!?
 ……赤くなった理由が解り、私も余裕を無くして顔を赤くした。
 ま、まあ……そんなこともあったわね。
 けど、せっかくだ。思い出したのなら心地のいい方を選びましょう。

「一刀、突っ立ってないで仕事を始めなさい」
「ああ、そりゃもちろん」

 手にしていた器を机の邪魔にならない程度の位置に置き、私が腰をあげた椅子へと座る。
 それを見計らい、私は一刀の膝の上へと腰を下ろした。

「……またですか、華琳さま」
「あら。季衣と風は良くて、私はダメなの?」
「……懐かしいやりとりだけど、いろいろ思い出した今やられると、その」
「我慢しなさい。呉でも蜀でも出来たのなら、ここでも出来る筈でしょう?」
「ぐっ……も、もちろんだ」

 声が強張る一刀の胸へ、背を預ける。
 ……心地良い座り心地と、心地良い香りに包まれる。
 苛立ちや心のもやもやの一切が消え、ただ一刀が言葉を口にするたびに、体を通して響く声さえ心地良い。

「………」
「………」
「………」
「………《べしっ!》いてっ!」

 髪に鼻を埋め、香りを嗅いできた一刀の頭を振り向きもせずに叩いた。

「あなた、その調子でよく我慢なんて出来たわね……」
「うう……これでも必死なんだぞ……?」

 泣き言をこぼしながらも竹簡を広げ、目を通す。
 必要なことがあれば筆と墨を走らせ、纏める。
 ……なるほど、呉や蜀で手伝いをしていただけはあって、多少は早くなっている。
 字の間違いもなく、纏め方も大分上手くなっている。
 蜀では桃香の手伝いもしていたというし、呉蜀に向かわせたのは正解だったのだろう。

「………」
「………」

 一度集中しだすと止まらないのか、いつしか一刀は書簡の相手に没頭していた。
 カロカロと広げられては閉じられる竹簡。バサリと広げられては必要なことを書き足され、墨が乾くのを待ってから閉じられる巻物。
 それらを眺めながら、静かな時を茶を口にしながら過ごす。
 いつか注意をした推敲(すいこう)、文の読み易さにも注意を置いているのか、綴られる文にも好感が持てた。

「………」
「………」

 そんなものが一定の速度を保ちつつ処理されていく様を眺めていた。
 安心出来る時間が心に暖かい。
 間違いを指摘するでもなく、背を預けられる者に背を預けっぱなしで脱力する時が来るなど、この男が消えた時は思いもしなかった。
 ……いや、それはいつでも同じことだったのかもしれない。
 覇者を目指した頃でも、覇者に至った頃でも、それは変わらなかったに違いない。

「………」
「………」

 軽く視線をずらし、熱心に書簡を纏める一刀の顔を見る。
 一旦熱中してしまえば、こちらのことなど気にも留めない。
 いつかのようにあれが反応するでもなく、一心不乱に…………ああ、なるほど。

「べつの何かに集中しないと、耐え切れない?」
「解ってるなら言わないでくれっ!」

 図星だったようだ。
 口に出してみれば急速に赤くなった顔が、私の目から逃げるように逸らされた。
 書簡を扱っていた手はピタリと止まり、数瞬、私へと向けられそうになったけれど……

「〜〜〜っ……我慢、我慢……! 空白の分を取り戻すんだ……!」

 驚いたことに止まった。
 再び書簡を手に、速度は乱れたものの、作業が再開される。
 へぇ、と思わず口にしながら、再び一刀の胸へと背を預けた。
 なんと無しに胸に耳を当ててみれば、早鐘を打つ鼓動。
 随分と動揺してくれたらしい。

(ふふっ……)

 そうしてまた、この男を軽くからかえることの出来る自分に笑みを浮かべ、脱力。
 眠れるようなら寝てしまおう。
 そのために時間を作っておいたのだから。




-_-/一刀

 カタカタカタカタカタ……!

(〜〜〜……我慢、我慢……! 我慢だ我慢……!)

 懐かしい香り、心地良い重さに、暖かな感触。
 それらが俺の自制心をじわじわと包み込み、溶かしていくのを感じた。
 待ち望んだ少女の暖かさがこの胸の中にあり、しかし仕事があるのにそんなことをするわけにもいかず、いやそもそも空白を埋めるために俺はっ……あうあーーーっ!!
 ……ハッ!? なんか今、心が明命みたいな声をあげた!
 落ち着こう俺! ここで折れたらまずい!

「〜〜っ……」

 いっそ華琳に降りてもらおうか。

  否である。この感触を離したくなどないわ。

 触れられもしない感触なんてものよりも仕事が大事だろ?

  何を言う! 触れられぬのならこの心地良い重みを堪能してこそ雄!!

 そうは言うけどこれじゃあ生殺しだろ! 耐え切る前にいろいろと破裂するわ!

  耐えよ。耐え切ることに貴様が試されるべき“雄”があるのだ!

「………」

 頭の中で天使と悪魔が喧嘩をしていた。
 もうどっちが天使なのか悪魔なのか解ったもんじゃないが。
 葛藤のさなかに、やたらと静かになった華琳を覗いてみれば、静かな寝息を立ててらっしゃった。
 ……いつかみたいに寝たフリじゃないよな?

「……ちょ───いやだめだだめだ……!」

 ちょっと触るくらいなら、とか普通に考えそうになった!
 そんなことをすれば止まれなくなる!
 自重せい! 自重せい北郷一刀! それは自殺行為ぞ!

「ごっ……呉でも蜀でも我慢は利いたのにっ……魏に戻っただけでどうしてこう……!」

 それだけ愛しいから、だろうか。
 それは確かに自信が持てる。

(集中しろ、集中……! 仕事に没頭するんだ……!)

 煩悩め! 死ねぇえーーーーーーーーっ!!


───……。


 …………カロッ……。

「………」

 ……墨が乾くのを待って、丸めた竹簡が山に積まれたところで……終わった。
 必要以上に集中した所為か、思ったよりも全然早く。
 膝の上では未だに華琳が寝ていて、寝台の袁術と同様に、穏やかな寝息を立てていた。

(じいちゃん…………俺、やりきることが出来たよ……)

 煩悩に打ち勝った自分を褒めてやりたい。
 自分を上手く扱うには、自分で自分にご褒美を設けるといいって、誰かが言ってた。
 じゃあ今の俺に必要なご褒美ってなんだろう。

「───はっ!?」

 再び見た華琳から目を逸らし、首を振る。
 さすがにそれはない、絶対にない。
 熟睡している人を襲うとか、ないだろ!

「普通でいいんだってば……ほら、朱里や雛里にやったみたいに」

 大きく深呼吸をして、心を落ち着かせた。
 それからゆっくりと手を動かし……椅子に深く座ることで、より深く胸に背を預ける華琳の頭をやさしく撫でる。
 そうだ、普通でいい。
 我慢したからって、欲するのが体の結びつきとかそういうことばっかり考えてるから、我慢が利かなくなるんだ。
 落ち着いていこう。ゆっくり、ゆっくり。

「……ほらみろ、やろうと思えば出来るじゃないか」

 煩悩が、ただ慈しむ心へと向かう。
 愛したいのも確かだが、守りたいと思う心も確か。
 聞かん棒になり始めていた息子も治まりを見せ、心に平穏が訪れた。
 深く座ったままに手を伸ばして茶を取ると、口に含んで喉に通す。
 静かな部屋に、やけに大きく聞こえる嚥下。
 華琳が軽く身動ぎをしたが、起き出すことはなかった。

「………」

 終わったなら隊舎に行って、まだまだ積み重なっている書簡を持ってきて、確認しなければいけないんだが……眠り姫様を前にする王子様ってやつは、こんな気分なんだろうか。
 ───一歩も動きたくない。
 ただ傍に居て、ずっと守っていたいと思ってしまう。
 自然と目が細り、顔が穏やかに笑み……髪を撫でる手も、壊れ物を扱うよりも余程にやさしくなる。
 しばらくそうしてから、顔を引き締めて充填完了。

「仕事は仕事っ」

 欲望に打ち勝てる己でありなさい。
 難しいことだが、出来ないことじゃないのなら必ず出来る。

「よ……っと」

 自分の上の華琳をゆっくりと持ち上げ、椅子から自分の体を逃がし、華琳を座らせる。
 穏やかな寝息は続いていたが……心無し、顔が赤い気がする。もしかして起きてるか?
 じゃあ……一応。

「終わった分、片付けてくるから。ゆっくり休んでてくれ」

 放った言葉に返事はない。
 そんな些細に苦笑をこぼしながら書簡を持ち上げ、部屋を出た。
 どうしてかスキップしそうになるほどに浮かれている自分を、小さく笑いながら。




-_-/華琳

 ……一刀が出ていってから、撫でられた頭に触れた。
 まるで子供扱いだ。
 だというのに、嫌な気がまるでしない。
 口付けをされるより、その口で愛を語られるより、余程に安心を覚えてしまった。
 包まれている、と……感じてしまった。

「…………」

 顔に集まった熱は、まだ消えない。
 丁度いいことに、机の上に水があったので飲んでみる。
 ……少しは落ち着いた、気がする。

「……まさかこれを見越して水を……なんて、有り得ないわね」

 ちらりと、未だに眠っている美羽を見る。
 大方、あの子用にと持ってきたものなのだろう。そして、それはたった今、空になった。
 ……冷めたお湯で代用が利くかしら。

「ふぅ……」

 息を吐いて、椅子に深く座る。
 眠気は……少しも残っていない。
 どれほど安心して眠っていたのか、自分でも不思議なくらいに深い眠りだった。
 遊びに来るたびに、一刀が一刀がと言っていた雪蓮も雪蓮だけれど、私も相当だ。
 たった一人に背を預けるだけで、ここまで安心を得られるなんて。

「………」

 冷めてしまったお湯で茶を淹れてみる。
 口に含んでみて、苦さばかりが口に残り、少々不快になった。
 それでも構わず飲み干すと、器を机に置いて立ち上がる。
 冷めたお湯の余りを水が入っていた器に入れて、茶器を手に歩く。
 いつまでもこの場に置いていたんじゃあ邪魔になる。
 どうせ今度は先ほどよりも多くの書簡を抱え込んでくるに違いないのだから。




-_-/一刀

 チャッ……

「……、……あれ?」

 静かに扉を開き、自室を覗いてみると……華琳は居なかった。
 やっぱり起きていたんだろうか。
 勝手に出る溜め息を吐けるだけ吐いて、扉を開けるために床に置いておいた書簡を掻き集め、持ち上げる。何往復するのも面倒だからって、一気に持ってきすぎた。
 華琳が見たら計画性が足らないとか言うんだろうなぁ。

「よっ……ほっ……」

 足で扉を開け、机までの距離を歩くと、その上にがしゃりごしゃりと書簡を置く。
 よくもまあこれほど溜めたもんだ。勝手に居なくなった俺が悪いんだけどね。

「袁術は……まだ寝てるか。よく寝るなぁ」

 寝る子は育つ。いいことだ。
 さてと、俺もさっさと続きをやってしまおう。
 穏やかな気持ちになれたからか、普通にやる気が充実している。
 今の俺ならどんな無理難題でも解決出来る……そんな気がするのです。

「うみゅぅ……ななのぉ……? なにをがしゃがしゃ騒いでおる……うるさいのじゃ……」
「ゲッ!?」

 いや……前言を撤回します、しますから眠っていてください。
 いいっ! 寝台から降りなくていいからっ! そのまま布団にくるまって寝てて!
 一緒に居てみるよとは言ったけど、せっかく仕事にやる気が向いてたのに───!

「ひうっ!? だ、誰じゃお主は!」
「しかも忘れられてるーーーっ!!?」

 俺達の戦いは、始まったばかりだった。
 結局この日はこの瞬間から、俺のことを思い出してもらうことから始まり、残りの時間のほぼを説得に使った。書類整理を片手間にするなんて、趣旨が変わってしまったと言う他無い状態が続いたんだから仕方ない。
 思い出してくれたからかどうなのか、一応、あくまで一応俺には危険が無いということだけは解ってくれたのか、近づいても泣き出したりはしなくなったんだが……。

「これは妾の寝台じゃ! 早々に出ていけ、このし、し……しー……? しれものめー!」

 夜。寝台で寝ようとしたら蹴られた。
 元気が出てなによりだが、多少の怯え様と一緒に遠慮も投げ捨ててしまったらしい。
 そのくせ布団にくるまっておきながら、眠気が無いとくる。
 仕方ないので……自分の部屋なのに許可を得てから寝台の端に座り、寝転がる彼女に童話を話して聞かせた。
 話していくうちに警戒心を解いたのか、少しずつ質問を投げてくるようになる。
 それに穏やかに返すことが続き、質問が無くなる頃には……袁術はようやく寝ていた。

「…………」

 そして、重たい目で窓をみれば、綺麗な朝日。

「………」

 神様……俺、頑張ったよ……?
 頑張っていろいろ我慢したよ……?
 その結果がこれって…………華琳も結局、あれから来なかったし……。

「……いいや、もう……。机で寝よう……」

 ふらふらと歩き……座り、突っ伏して、寝た。
 机の上に積んだ書簡の全てを確認し終わるまでは、恐らく警備隊の仕事には復帰できないだろう。だから今は寝かせて欲しい。じゃないと本気で体を壊しそうだ。主に関節を。
 ああ……布団が恋しいなぁ……。




ネタ曝しです  *動物的降伏ポーズで警戒を解きつつ、訴えかけてみる  ジョジョの奇妙な冒険第四部より、川尻しのぶさん。  タマさんの警戒を解こうとして失敗し、結果的にタマを死なせてしまった。  45話をお届けします。  眠いです。寝不足です。  いえね……軽い擦れ違いものを書いてみたかった頃が……僕にもあったんです。  で、書いてみたわけですが……場面転換が多くて好きになれそうもないです。  こういうのを書くなら、三人称の方がやりやすいでしょうね。 Next Top Back